徒然なか話

誰も聞いてくれないおやじのしょうもない話

動画の字幕を付ける

2021-11-11 20:54:48 | Web
 10年~5年前に熊本城本丸御殿などでビデオ撮影した動画に歌詞などの字幕を付けて残しておこうと昨年から作業を進めています。何人かの方にご協力をお願いしていますが、中でも藤本流三味線師範の藤本喜代則さんには当時唄われた曲の歌詞を10曲ほど思い出して書き起こしていただきました。心から感謝申し上げます。
 今日、チェックしていたら1曲だけ入力作業が未了であることに気づきました。それが下の「銚子大漁節(替唄 人吉バージョン)」です。いつの日か、再び同じようなイベントが開かれる時の参考になれば幸いです。


藤本喜代則さん手書きの歌詞


山頭火・味取観音紅葉まつり

2021-11-10 18:14:46 | イベント
 毎年秋恒例の「山頭火・味取観音紅葉まつり」のお知らせです。
 今年も昨年に続き、新型コロナ感染防止のため、規模を縮小して行われます。

 【日 時】 11月28日(日)午前10時 ~
 【場 所】 味取観音瑞泉寺境内(熊本市北区植木町味取1)
 【内 容】 俳句表彰、三十三観音巡礼、写真コンテストなど(変更の可能性あり)
       ※三十三観音巡礼は午後1時より

 お問合わせは、植木町味取観音瑞泉寺内「うえき・山頭火の会事務局」(電話096-272-2582)まで。




歌舞伎狂言を題材に

2021-11-09 19:54:09 | 音楽芸能
 東海風流チャンネル(水野詩都子・﨑秀五郎)さんの新曲「すし屋のお里(愛知県民謡)」がアップされた。今回はまず水野さんが原曲をアカペラで、次に秀五郎さんが三味線のシンプルな手付けをし、そして最後に、プロの邦楽家たちにより、歌舞伎狂言を題材に新しい歌詞を付け加えて編曲された唄が演奏された。民謡が洗練され進化していく過程をみるようでとても興味深かった。
 ちなみに題材になった歌舞伎狂言は
 ・義経千本桜
 ・浮世柄比翼稲妻(通称「白井権八」)
 ・桂川連理柵(通称「お半長右衛門」)



 端唄や小唄には歌舞伎狂言や浄瑠璃を題材にしたものが多いが、下の2曲もそんな類の一つ。

▼お伊勢参り
 ・「桂川連理柵」(通称「お半長右衛門」)
 ・「天衣粉上野初花」(通称「三千歳直次郎」)
 ・「青砥稿花紅彩画」(通称「白浪五人男」)など(他にもあり)が題材になっている。



▼キンニョムニョ
  江戸後期から明治初期あたりに熊本の花柳界で唄われていた端唄で、お国柄、細川家や加藤清正
  にまつわる歌舞伎狂言を題材にしている。
 ・「肥後の駒下駄」
 ・「蔦模様血染御書」(通称「血達磨大川」)
 ・「清正誠忠録」(通称「加藤清正毒饅頭」)


坪井界隈

2021-11-08 20:41:21 | 熊本
 今日は久しぶりに坪井界隈を散策した。途中、坪井繁栄会の「お茶の間交流センター」に立ち寄り、このセンター主である岡崎さんに、最近の地域振興活動や「坪井・山頭火の会」の今後の予定などをお聞きしてひと時を過ごした。


熊本時代の夏目漱石が参禅したことで知られる見性禅寺。最近、山門や外塀が改修されて見違えるほど綺麗になった。本堂で時々行われるイベントに参加したことがある。

立田口大神宮の赤鳥居(立町通り:豊後街道沿い)は昔から町のシンボル。参勤の御行列が通るときは、跳ね上げ式の簀戸口が設けられ、家来たちが警備に当った。かつては大津からこの辺りまでの約20キロにわたって杉並木が続いていたという。


僕の父がまだ小学1年生だった大正7年頃に移り住んだ家があった「坪井東町の馬追込小路」。旧藩時代、豊後街道の勢屯(せいだまり)」があり、供揃えの時、暴れる馬を落ち着かせるために追い込んだ狭い路地をこう呼んだと伝えられる。この路地の一角に現在、「お茶の間交流センター」がある。

熊本地震後、被災した建物が解体され駐車場になったところが点在する。西側が開けて金峰山が見えるようになった坪井横町の一角。昔の人はこういう風に金峰山を望んでいたのかとささやかな感動。

坪井西堀端の小泉八雲旧居跡。現在はA生命の社員寮が建っており、この石碑の目の前にあった八雲ゆかりの地蔵堂も数年前に撤去された。

熊本の遊びどころ

2021-11-06 21:22:27 | 歴史
 フォローさせていただいている「水前寺古文書の会」さんのブログの中に「明治42年頃の熊本の遊びどころ」という記事がある。その「料理屋 附 待合」の部には、当時の人気店が23店舗ほど紹介されている。
 その中に「一休」という料理屋があった。その説明を見て驚いた。
 
 ▼一休  京町2丁目132番地 電話158番 女将 森しげ子
 開業日猶浅しと雖も、眺望の絶佳なると、土地の閑静なると、包丁の美なるとを以て次第に盛名を博せり。地は京町の高台に在るを以て望界甚だ広く、居ながらにして遠くはあその噴火より近くは竜田の翠色坪井の万甕を眸裏に収め、眺望の佳なる此の楼に及ぶものなし。女将は西券でならした芸娼お繁といふ女宰相なり。得意料理は木の芽田楽。

とあった。実はわが家の旧番地は「京町2丁目131番地」。つまりお隣さんというわけだ。
 わが家のある新坂沿いには、5、6軒の家が並んでいたが、その東端にYさんというこの一帯の地主さんの家があった。その家は僕が幼かった戦後間もない頃にはもうやっていなかったが、戦前まで「八景園」という茶店をやっていたことは聞いていた。上熊本駅と熊本市内の間を往来する行商人などを相手にうどんなどを出していたらしい。その店の前身が料理屋「一休」だという話は聞いたことがない。しかし、上の説明に符合する場所はここしかない。本当にそうなのか調べてみたいと思う。
 ちなみに、紹介された店の筆頭に掲げられているのは、かの有名な「一日亭」である。

   ▼明治42年当時熊本で流行っていた「おても時雨(自転車節)」

10年前の今ごろ何を…

2021-11-05 17:45:34 | 音楽芸能
 10年前の今ごろといえば、毎週末、熊本城本丸御殿で行われていた「秋夜の宴」を見るため足繁く本丸御殿へ上っていたことを思い出す。今思えば夢のようなひと時だった。その夢はずっと続いてほしいと願っていた。しかし、その5年後、熊本地震によって夢はあえなくついえた。平成22年から平成27年の6年間、本丸御殿で繰り広げられた「春の宴」や「秋夜の宴」などの思い出は生涯忘れることはない。でき得れば、何年後になるかわからないが、再び本丸御殿で華やかな宴が開かれ、後世の人々が平成時代と同じように楽しむことができる日が来ることを願っている。


夕暮れの熊本城天守閣を見ながら左側の本丸御殿へ


「秋夜の宴」が行われていた本丸御殿大広間


2011年10月29日の「秋夜の宴」から「俚奏楽 島めぐり」


2011年11月25日の「秋夜の宴」から「潮来三曲集」

ナゾの石垣?

2021-11-04 22:40:13 | 歴史
 数日前から、旧櫨方(現加藤神社)と棒庵坂の間の空堀で木の伐採工事が行われている。国重文のエリアなので、重機を入れるにあたっては堀一面にシートを敷いたり砂を撒いたりとエライ気の使いようである。木の伐採や除草は加藤神社北側の崩落した石垣を修復するための準備だと思われる。
 この石垣の下半分が先月26日にこのブログで取り上げた「はばき石垣」だと思うのだが、実はずっと前から棒庵坂を上り下りする度に不思議に思っていた。それは石垣の大半が土で覆われ木々が茂っていたのである。土の下には石垣が埋まっているのだろうか、それとも斜面の一部を石垣で補強しただけなのだろうか。今日、思い切って工事関係者に聞いてみた。すると、専門家の先生もわからないのだという。木が伐採され除草された斜面は木の根がむき出しとなったが、何しろ国重文なので掘って調べるわけにもいかず、内部の構造はナゾなのだそうだ。






水前寺成趣園350年祭

2021-11-03 19:13:44 | イベント
 今年は「水前寺成趣園」が三代熊本藩主・細川綱利公の命により、寛文11年(1671)に作られてから350年に当たる。これを記念し、今月は様々なイベントが予定されている。
 「成趣園(じょうじゅえん)」の名は、四~五世紀の中国の詩人・陶淵明の詩「帰去来辞」の中の一節「園日渉以成趣」(園は日に渉りて以て趣を成し)からとられた。

 「水前寺」は初代熊本藩主・細川忠利公が寛永13年(1636)に「国府の御茶屋」として設けられたのが始まりといわれる。しかし実は、「水前寺」という名前は既に平安時代からあった。奈良時代、肥後の名国司と謳われた初代国司・道君首名(みちのきみのおびとな)が亡くなった後、肥後の人々はその遺徳を偲んで、道君首名の住居の跡にお寺を建て、「水前寺」と名付けた。しかし、この寺は平安時代末期に焼失し、今では玄宅寺の南側に礎石を残すのみである。

(画像クリックで拡大します。)




復旧進む熊本城の今日

2021-11-02 20:40:53 | 熊本
 熊本地震で被災したまま放置されていた戌亥櫓の解体工事がやっと始まるのにともない、二の丸広場と加藤神社との間の西出丸通路が変更された。これにより、熊本地震以来、見られなかった真西側からの宇土櫓の近景を見ることができるようになった。さっそく今日、現地確認に行ったが、熊本地震の2週間前、2016年3月31日に西出丸へ行っているので、実に5年7ヶ月ぶりに見る風景である。

 一方、行幸坂の備前堀側に安全対策を施した新しい歩道が完成し、下りのみ通行できるようになった。行幸坂は桜の名所でもあり、熊本地震後も桜の時季のみ一部開放されることはあったが、備前堀側は崩壊の恐れがあったため近づけなかった。これでまた来年の春は花見の客でにぎわうことだろう。


このアングルで宇土櫓の近景を見ることができたのは熊本地震前月以来。


備前堀側に新しい歩道ができた行幸坂

卒都婆小町の面(おもて)

2021-11-01 19:08:44 | 伝統芸能
 昨夜は選挙速報は無視して、Eテレの「古典芸能への招待」を見る。二十六世観世宗家・観世清和さんによる五番能のなかから「卒都婆小町」が放送された。テレビで「卒都婆小町」を見るのは2年ほど前、喜多流の友枝昭世さんの舞台を見て以来だ。
 話の筋はわかっていたが、今回は小町の面に妙に惹かれるものがあった。そういえば漱石の「草枕」の茶屋の段で、主人公の画工が茶屋の老婆の顔に「高砂」の嫗の面影を見るという場面があったななどと思いながら、それにしても小町の面にどこかで見たことがあるような気がしながら見終わった。
 能が終わった後、観世清和さんと東大名誉教授の松岡心平さん、それに司会の中川緑アナの三人によるトークがあったが、いきなり「面」の話が出た。この「面」は室町時代の能面師・福来石王兵衛正友(ふくらいいしおうびょうえまさとも)の作「姥(うば)」だという。松岡さんは「老婆でありながら唇には微かに紅をさし、かつて絶世の美女と謳われた小野小町の残り香をそこはかとなく漂わせている」との感想。演じた観世清和さんは「力のある面は役者の手数はあまりいらない」とも。
 そんな話を聞きながら、僕はハッと思い出した。僕の祖母が唯一、頭があがらなかったA先生の奥様の顔である。小町の面と同じように眉間のしわが特徴だった。しかし決して険しい表情ではない。祖母の愚痴などを眉間にしわを寄せて傾聴された。A先生の奥様に話をすると祖母はスッキリしたような顔をした。そんなことを思い出しながら何だか温かい気持になった。