徒然なか話

誰も聞いてくれないおやじのしょうもない話

喜多流 狩野家のこと。

2015-09-09 21:35:35 | 美術
 熊日新聞の連載コラム「わたしを語る」は、現在、喜多流能楽師の狩野秀鵬さんの「生死[しょうじ]の境を歩む」が続いている。
 肥後熊本藩初代藩主・細川忠利公の時、金春流と喜多流を御流儀として抱え、以来連綿として受け継がれてきた肥後喜多流の流れを汲むのが狩野秀鵬さんを頭とする狩野家。狩野家はもともと細川家に代々仕える絵師の家系だったのだが、秀鵬さんの父勇雄さんが突如、能楽師に転身。後に続いた秀鵬さんが能楽師としての狩野家二代目である。現在、東京を拠点に活躍する長男了一さんとともに熊本喜多流を支えている。
 先日、藤崎八旛宮例大祭の御能組について、狩野秀鵬さんのホームページへ問い合わせたところ、奥様の師華様からご丁寧なメールのお返事をいただくとともに、番組表やご自身が描かれた日本画の絵はがきなどをわざわざ郵送していただいた。その中の1枚が下の画像なのだが、実は、このやりとりをするまで師華様が日本画家であることを全然存じ上げなかった。お恥ずかしいかぎりである。
 ご長男の了一さんとわが母との関わりについては2014年8月13日の「熊本能三昧と狩野了一さん」をご覧いただきたい。
  
※秀鵬の秀は、正しくは「王」へんに「秀」


聖徳太子(元服前14才) 狩野師華 筆