徒然なか話

誰も聞いてくれないおやじのしょうもない話

山頭火 熊本の足跡を辿る

2015-09-29 17:15:51 | 文芸
 10月11日は種田山頭火の没後75年にあたる。
 山頭火の自由詩のファンでもなく、山頭火本人に特に興味を持ったわけでもない僕が、山頭火との妙な縁が始まったのは、40年近くも前、彼の生まれ故郷防府に転勤した頃からである。よく通る道の傍に彼の生家跡があったり、子どもを連れて海水浴に行く道の傍には種田家がやっていた酒造場の跡があったりしたことが始まりだった。それから僕は転勤を繰り返し、20年後に熊本に戻った時、再び行く先々で山頭火の名前を目にすることになった。実はそれまで山頭火が熊本に住んでいたことを知らなかった。なぜかよく通る道に、分骨墓のある安国禅寺や、出家得度した報恩禅寺があった。そして、舞踊団ザ・わらべを通じてお知り合いとなった民謡三味線の本條秀美さんを初めてお訪ねした時、そこがなんと山頭火が堂守を務めた味取観音堂のある瑞泉寺であることを知った。その時、これはいよいよ何かの縁に違いないと思うようになった。彼の自由詩や紀行文を読むようになったのはそれからのことである。

 
▼下通りの「雅楽多」跡
 大正5年(1916)4月、妻子を連れて熊本へやって来た山頭火は、翌月、下通りと三年坂通りが交差する一角(ダイエー熊本下通店が閉鎖し、現在、総合テナントビルの建設が進められているところ)で古書店「雅楽多書房」を開いた。しかし、経営はうまくいかず、間もなく額縁店「雅楽多」として再出発。経営は妻サキノに任せっきりで酒におぼれるようになる。




▼熊本市公会堂前電停跡
 大正8年(1919)10月、妻子を熊本に残したまま単身上京。妻サキノとは翌年11月離婚。大正12年(1923)関東大震災に遭い熊本の元妻のもとへ逃げ帰る。翌年12月、熊本市内で泥酔し、熊本市公会堂前の電停近くで市電を止める事件を起こす。(写真は事件のあった旧軌道敷付近)




▼出家得度した報恩禅寺
 電車事件の時、助けられた知人の紹介で、報恩禅寺(坪井)の住職・望月義庵に預けられ寺男となる。翌年、得度し「耕畝」と改名、味取観音堂の堂守となる。




▼堂守を務めた味取観音・瑞泉寺
 しかし、寂しさゆえか堂守も1年余りしか続かず、44才となった大正15年(1926)の4月、行乞の旅に出る。これが漂泊の俳人の始まりだった。 




▼安国禅寺の種田家の墓
 昭和14年(1939)松山市で「一草庵」を結ぶ。翌年10月、この庵で生涯を閉じた。(享年58)。遺骨は妻サキノさんによって分骨され、熊本市西区横手町の安国禅寺の種田家の墓にも埋葬されている。