徒然なか話

誰も聞いてくれないおやじのしょうもない話

肥後の能楽と役者寺

2015-01-08 17:23:47 | 音楽芸能
 昨日、久しぶりに本妙寺に登り、お参りを済ませた帰り道、参道沿いの塔頭の中の妙心院に立ち寄った。「役者寺」と呼ばれる能楽ゆかりのお寺である。去年来た時は母を連れていたので中には入らなかったが、今回は一人なのでゆっくり見て回りお参りをさせてもらった。門脇の標柱にはこう記されている。

「当院は、慶長年間に加藤清正公に伴われて来熊した太閤旧家臣で金春流武家能役者中村靭負(五百石)、嫡子同伊織(細川忠利より千石)、分家同作左衛門(二百石)及び江戸時代初期から共に活躍した友枝家、小早川家の菩提寺である。」

 つまり、加藤清正の肥後入国が熊本の能楽の歴史の始まりのようだ。
 ちょうど院内に入ろうとした時、庭で犬の散歩をさせている若い僧侶と思しき方(ご住職か?)の姿が見えたので、来意を伝え、お墓の位置を教えていただいた。

左が明治時代のシテ方喜多流能楽師・友枝三郎の墓。右が和泉流狂言方・小早川家累代の墓。
 

 加藤家改易後も、細川家によって能楽が奨励され、熊本は金沢とともに全国で能楽が盛んな藩となった。明治維新によって大名というパトロンを失った日本の能楽は衰亡の危機に瀕したが、熊本から桜間伴馬、友枝三郎という二人の能楽師が上京して活躍し、日本の能楽界を再興させる原動力となった。そういう意味でも熊本の能楽は全国的に誇れる歴史を有している。
 能楽研究家の羽田昶(武蔵野大学教授)はその著書「能の地域的分布」の中で次のように述べている。

 明治の三名人といえば宝生九郎知栄、初世梅若実と桜間伴馬(のち左陣)である。このうち九郎と実は江戸の役者だが、伴馬は細川藩お抱えの熊本根生いの役者である。1879(明治 12)年に上京して以来、充実した気迫と鮮烈な型で他を圧倒し、技の切れにおいては九郎や実をも凌ぐと評された。その芸統から桜間弓川、桜間道雄、本田秀男、桜間金太郎と、その後、東京の金春流を代表する名手が輩出された。喜多流の友枝家も同じく細川藩お抱えの名家である。伴馬と同世代の役者は友枝三郎、その息子が友枝為城で、父子とも上京しているが主として維新後も熊本で活動した。為城の子、友枝喜久夫からは東京住まいであり、現在は喜久夫の子、友枝昭世が抜群の実力と人気を博している。三役では、一噌流笛方の島田巳久馬、金春流太鼓方の増見林太郎のちの金春惣右衛門、和泉流狂言方の小早川精太郎も熊本出身であり、小早川の流れは幸流小鼓の幸宣佳、その子、幸正悟にも及んでいる。
※写真は桜間伴馬