津々堂さんのブログ「津々堂のたわごと日録」では、「立政公御参勤 道中日記をたどる」を連載されている。毎回、楽しみに読ませてもらっているが、これは肥後熊本藩の第10代藩主細川斉護(ほそかわなりもり)公が、まだ支藩の宇土藩主で、細川立政(ほそかわたつまさ)と名のっていた文政六年(1823)の参勤の道中日記である。中でも御座船が瀬戸内海沿岸のいろんな港に寄港しながら進むところに注目している。
なぜ僕がその点に注目するかというと、一昨年来調べている、藩主の御座船の無事の出航・帰航を願って唄われたという「御舟歌」のことと大いに関係があるとにらんでいるからだ。鶴崎や川尻に歌詞は残っているものの、メロディは失われてしまったといわれているが、僕はそうではなくて、ほとんど同じか、多少のアレンジを加えたメロディが他府県の港に残っているのではないかという仮説を立てている。その可能性のある一つが兵庫県赤穂市の坂越(さこし)港である。古代より天然の良港として知られた坂越港は立政公の御座船も寄港している。注目すべきはこの坂越の大避神社の例祭「坂越の船祭り」では、古より歌い継がれた「御船歌」が今日も唄われているのである。しかも、この「御船歌」の由来については、江戸時代、度々寄港した肥後細川家との関係を指摘する説もあるらしい。赤穂浪士を手厚くもてなした肥後細川家と坂越の人々との関係は良好だったであろうし、エピソードとしてこんな話も伝わっている。坂越の名物に「くされずし」というのがある。ご飯とツナシ(コノシロ)に日本酒を使って自然発酵させたものらしいが、細川藩の御座船が停泊した時、ご馳走として「くされずし」でもてなしたという。藩主以下の面々が喜んで食べたかどうかはさだかではない。滋賀県にいる時、「ふなずし」で往生した僕はお気の毒様としか言いようがない。それはともかく、坂越港の二日前に寄港した下津井港の「下津井節」や「牛深ハイヤ節」などの例を引くまでもなく、舟運によって文化が伝播していた時代、しかも肥後細川藩と坂越の良好な関係を考えれば、文化の交流があったと考えても何らおかしくないのである。
なぜ僕がその点に注目するかというと、一昨年来調べている、藩主の御座船の無事の出航・帰航を願って唄われたという「御舟歌」のことと大いに関係があるとにらんでいるからだ。鶴崎や川尻に歌詞は残っているものの、メロディは失われてしまったといわれているが、僕はそうではなくて、ほとんど同じか、多少のアレンジを加えたメロディが他府県の港に残っているのではないかという仮説を立てている。その可能性のある一つが兵庫県赤穂市の坂越(さこし)港である。古代より天然の良港として知られた坂越港は立政公の御座船も寄港している。注目すべきはこの坂越の大避神社の例祭「坂越の船祭り」では、古より歌い継がれた「御船歌」が今日も唄われているのである。しかも、この「御船歌」の由来については、江戸時代、度々寄港した肥後細川家との関係を指摘する説もあるらしい。赤穂浪士を手厚くもてなした肥後細川家と坂越の人々との関係は良好だったであろうし、エピソードとしてこんな話も伝わっている。坂越の名物に「くされずし」というのがある。ご飯とツナシ(コノシロ)に日本酒を使って自然発酵させたものらしいが、細川藩の御座船が停泊した時、ご馳走として「くされずし」でもてなしたという。藩主以下の面々が喜んで食べたかどうかはさだかではない。滋賀県にいる時、「ふなずし」で往生した僕はお気の毒様としか言いようがない。それはともかく、坂越港の二日前に寄港した下津井港の「下津井節」や「牛深ハイヤ節」などの例を引くまでもなく、舟運によって文化が伝播していた時代、しかも肥後細川藩と坂越の良好な関係を考えれば、文化の交流があったと考えても何らおかしくないのである。