徒然なか話

誰も聞いてくれないおやじのしょうもない話

梅の花 ~ 若山牧水 ~ 海達公子

2011-02-12 19:05:15 | 文芸
梅のはな 枝にしらじら 咲きそむる つめたき春と なりにけるかな(若山牧水)

 昨夜の冷たい氷雨にも負けず、健気にもわが家の梅が数輪、花を咲かせていた。2、3日前の暖かさが嘘のようだ。愛らしい白い花びらに思わず「頑張れ!」と声をかけたくなる。



■若山牧水と海達公子
 海達公子(1916-1933)は「赤い鳥」への自由詩の投稿を通じて北原白秋の指導を受けたが、若山牧水の指導も受けている。大正十四年、新築した家の建築費や新雑誌創刊の資金の捻出に迫られた牧水は、妻・喜志子とともに揮毫行脚の旅に出る。福岡・長崎を回り、熊本・鹿児島に向かった夫妻は途中、人吉本線万田駅(現JR鹿児島本線荒尾駅)に降り立つ。「金の星」誌上で、幼年詩の選者であった牧水が、公子の尋常小二年生の時から彼女の詩を見はじめ、その素質を認め、特別の期待を寄せていた。作品の掲載についてもしばしば破格の待遇をしていたその公子を一度見たい、会って激励したいという意向があって万田駅に下車したのであった。
 牧水が公子の家を訪問した時、たまたま公子は留守をしていた。近くの厳島神社の山に松葉掻きに行っていた。しばらく待っていると、手拭いをかぶり、自分の丈より高い松葉掻きを手に、背中には籠を背負った公子が帰ってきた。顔はいくらか煤けていた。その公子の姿を一見し、牧水は驚いて、この子が想像していた公子だろうかと絶句した。才気走って、利発な子供を予想していた牧水にとって、現実に直視した公子の容貌はあまりにも異なっていた。牧水は優しく声をかけた。「今のその茫っとした性質を大切に大きくなってもなくさぬ様に」。時に牧水41歳、公子9歳であった。
 この3年後に牧水は世を去るが、高等女学校に入ってからの公子は、若山貴志子に短歌の指導を受けることになるのである。
※規工川佑輔著「評伝 海達公子」(熊日出版)より


公子を訪問した翌日、牧水夫妻は大牟田の一○亭で行なわれた歌人の集いに、海達父娘を招く。
最前列で牧水夫妻の間に挟まれて座っているのが海達公子