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徒然なか話

誰も聞いてくれないおやじのしょうもない話

余震のまにまに(6)

2016-04-26 19:31:50 | ファミリー
 間欠的な余震がとまらない。昨夜も何度も起こされた。わが家は熊本市中央区だが、熊本市西区に近く、最近、西区に余震が多くなったような気がするのが不気味だ。
 今回の熊本地震でつくづく思ったのは、われわれが「科学」とか「科学的」とかよんでいる事の不確かさと頼りなさである。考えてみれば、地球が生まれて46億年。一方、人類はせいぜい25万年。地球の歴史を1メートルの定規で表すと、人間の歴史はうしろの0.05ミリメートルに過ぎない。わずかその程度の経験で得た知識しか持ち得ていないのだ。大きな自然災害が起きるとすぐに「想定外」という言葉を発するが、それは当たり前の話で、地球や自然界のことをわかったつもりになっていることが土台間違っている。
 下の写真は3年前の4月25日、熊本城二の丸広場の風景である。こんなのどかな風景が一日も早く戻ることを願っている。僕が子供の頃、熊本城には、大天守も小天守も飯田丸も大手門も本丸御殿も無かった。時間はかかるかもしれないが、また再建すればいいじゃないか、そんな気がしてきた。



余震のまにまに(5)

2016-04-24 19:31:56 | ファミリー
 10日が過ぎた。余震は沈静化しつつあるのかと思いきや、昨晩から再び震度3が頻発している。立ち直る気力が萎えてしまう。
 生命を守ることが最優先であることはいうまでもないが、この非常事態が長引くことが明らかとなった今、僕には気になってしかたがないことがある。それは高校や中学などでスポーツに励んでいる生徒たちが、あたらシーズンを棒に振ってしまわないかということだ。例えば、陸上競技の熊本選手権は4月16日に行われる予定だったが、5月5日・6日に延期された。しかし、これも会場となる熊本県民総合運動公園陸上競技場が支援物資の集積場となっていて、はたして使える状態になるのかどうか不明だし、もう一つの水前寺競技場も半壊して使えない状態にあるという。おそらく他の競技も同じような状況にあるのではないかと思われ、1ヶ月後に迫った熊本県高校総体などの大きな大会もはたして開かれるのかどうか心配だ。
 生徒たちの中には、それぞれの種目で将来を嘱望された人材も多く含まれており、彼らの人生が大きく変わってしまうことにならなければよいがと祈るばかりである。

▼熊本県民総合運動公園陸上競技場での昨年の高校総体

余震のまにまに(4)

2016-04-22 12:00:46 | ファミリー
 昨夜は1週間ぶりに風呂に入ろうと、家内と二人で合志のユーパレス弁天へ。ところが、風呂の前には長蛇の列。特に女性浴場の方は、1時間以上も並んで待たなければ入れないという。僕も家内もすぐに心が折れて引き返した。しかし、よくよく考えてみると、避難所で暮らしている皆さんは毎日がこんなことの繰り返しなのだろう。あらためて避難所生活の大変さを思い知らされた。

 相変わらず余震は続いている。しばらく落ち着いているなと思っていると必ずドーンと来る。最近は地震速報も出ないことがよくある。体感は震度3ぐらいの衝撃は感じるのだが、速報が出る時と出ない時の違いは何なんだろう。それにしても、緊急地震速報と言うやつ。けたたましいアラームでビックリするが、役に立ったためしがない。鳴った時は既に治まっているか、なんの変化もないこともある。その信頼性は大いに疑問だ。
 ところで毎日見かける気象庁地震津波監視課長の会見だが、いつも言うことは「余震は減っているように見えるが、このまま収まるということではない。全体の活動は依然として活発な状態で、まだ1週間程度は激しい余震の可能性がある。」という説明。課長の感想というわけではないのだろうから、そう判断するデータがあるはずだ。時々はデータを示して説明してもらわないと、だんだん納得性が薄れてくる。

▼気が付けば目にも鮮やかな若葉の季節。穏やかな気持で若葉を愛でる日はいつ来るのだろう。

※写真は昨年4月22日のもの

余震のまにまに(3)

2016-04-20 09:11:34 | ファミリー
 熊本地震が発生してから6日が経過した。この間、わが家で寝たのは1日だけ。車の中で2泊、親戚宅に3泊。こんな生活はいつまで続けなければならないのだろう。94歳の母のことを考えると、満杯状態の避難所には行けないし、かと言って、崖の上のわが家は夜中の激震の恐怖が抜けない。しばらくは親族に頼るしかなさそうだ。
 インターネット上では虚実とりまぜていろんな情報が飛び交っているが、なんでもかんでも鵜呑みにしないようにしたい。

▼倒壊した東十八間櫓と北十八間櫓

余震のまにまに(2)

2016-04-18 17:08:34 | ファミリー
 余震が一向に収まる気配がない。テレビでは政府の非常災害対策本部会議だの、被災者生活支援チームだのと言っているが、どんな立派なことを机の上で決めても、要は被災者のところに迅速に物資なり、施策なりが届かなければ意味がない。
 懐中電灯の電池を買おうと歩いて近くのコンビニを回ってみた。しかし、水と食料品しか売ってなかったり、電池はほとんど売り切れていたり、早々と店を閉めていたりと、結局手に入らなかった。前震から本震、いやもう一段デカいのが来るかもしれないという学者先生もいたりして不安感は募るばかりだ。

▼倒壊した往生院の山門

余震のまにまに

2016-04-17 19:50:34 | ファミリー
 二晩を車中で明かしたが、昨夜は雨の予報もあり、94歳の母にとってこれ以上は無理と判断し、僕らもさすがに疲れたので、姉婿の親族が経営する保育園の一室に泊めてもらい食事まで提供してもらった。おかげで母もだいぶ元気を取り戻したようで、僕らも睡眠不足はだいぶ解消した。
 ただ、やはり水が出ないのはこんなに不便なものかということを実感した。いまだに余震は続いているが、明日には水道も復旧の見込みだというし、一日も早くふだんの生活に戻りたいものだ。
 今日の午後、車の給油に行ったが、スタンドは軒並み売切れで給油をあきらめ、帰ろうとしたが、今度は道路の大渋滞に巻き込まれた。どうやら、水、食料ほか生活用品を求める人々が売っている店を探し回っているようだ。今までの各地の大地震などで散々同じようなことが発生したはずなのだが、その経験は災害対策のなかに活かされないのだろうか。

▼残念にも崩落した京町のむくり屋根の家(F氏宅)の石垣。屋内には西南戦争時の弾痕が残る。

孫娘の卒業

2016-03-19 18:33:04 | ファミリー
 孫娘のみわが小学校を卒業した。
 僕には男の子しかいなかったので、12年前に孫娘が誕生したことがことのほか嬉しかった。彼女がこのブログに初めて登場したのは、今から11年前。もうやがて1歳の誕生日を迎える頃(下の写真)だった。正月休みにわが家へやって来ると、僕のパソコンデスクの周りでほふく前進したり、伝い立ちをして、置いてあるものを何でも手に取った。可愛くて仕方なかった。まわりから見れば「爺バカ」そのものだったにちがいない。
 子供の成長は本当に早いものだ。思えばこの12年があっという間だった。4月になれば中学生。彼女にとって楽しいことばかりではないだろう。いろいろ大変なこと、辛いこともあるに違いない。これからも、できる限りの応援を続けなければと思っている。

脊振おろし

2016-02-21 21:28:06 | ファミリー
 今日は、孫娘みわの誕生日祝いと弟てっぺいのサッカー試合を見に、家内と連れ立って久留米へ出かけた。昨年、母が具合が悪くなってからは遠出ができなくなったので、久留米へ出かけたのは随分久しぶりだ。多分、1年半ぶりくらいかと思う。みわや両親もてっぺいの応援に来て、脊振おろしの寒風の中、さかんにハッパをかけていた。家族が揃って元気な姿を見るのは嬉しいものだ。
 サッカーの試合が行われたのは、筑後川沿いの佐賀県みやき町北茂安体育館グラウンド。僕が鳥栖に勤務していた時分もこの辺りには来た覚えがない。
 北茂安町(現在はみやき町)というのは、筑後川の築堤を行なった佐賀の戦国武将・成富茂安にちなんだ地名。実は成富茂安は加藤清正とゆかりが深い。朝鮮の役、天草五人衆の戦、関ヶ原などで清正と一緒に戦った武将で、清正は茂安を高く評価し、厚遇で召し抱えたかったらしいが、茂安は主君鍋島公への忠義を守り、「たとえ肥後一国をもらっても応じかねる」と断ったという。筑後川沿いの道を帰りながら、ふとそんなエピソードを思い出した。


孫娘の誕生日そして卒業

2016-02-16 20:03:18 | ファミリー
 今月29日、わが孫娘みわは4年ぶりの誕生日(!)を迎える。12歳、小学生として最後の誕生日だ。そして4月からは中学生。小学校の6年間はあっという間に過ぎ去ろうとしている。初めて嬉しそうにランドセルを背負った日がついこの前のような気がする。
 母の具合もあって、しばらく孫たちが住む久留米へも足が遠のいた。今度の誕生日には小学校卒業祝いもかねて、久しぶりに夫婦で久留米に行ってみようと思っている。

 

七五三

2015-11-05 22:02:15 | ファミリー
 この前の日曜日、わが家の氏神である藤崎八旛宮へ朔日の参拝に行った。早くも七五三のお参りが始まっており、着飾った子どもたちと両親や祖父母さんたちで賑わっていた。思わず、わが家の子どもたちや孫たちの七五三もあっという間に過ぎ去ってしまったなぁという感慨が湧いてきた。本当に月日の経つのは早いものだ。孫のみわは小学6年生になり、てっぺいも8才になった。二人とも久留米の水天宮さんで七五三のお参りをした。40数年前には、長男が防府天満宮で3歳の七五三参りをしたり、東村山の八坂神社では息子3人が揃って七五三参りをした日のことなどを懐かしく想い出しながら、幸せそうな親子連れをしばらく眺めていた。


伝えたい 私の戦争

2015-08-22 23:11:08 | ファミリー
 戦後70年を経過し、戦争体験者の高齢化が進む中、失われつつある貴重な証言を残すべく、熊日新聞で「伝えたい 私の戦争」というコラムが連載されている。
 昨日と今日の2日にわたり、わが母方の親戚、通称ハルカさんの証言が掲載された。ハルカさんは母と同い年、小学校、高等女学校もともに過ごし、今では唯一無二となった親友である。二人が生まれ育った玉名市大浜町には、戦時中、陸軍が少年飛行兵の教育を行なった大浜飛行場があった。だから当然、米軍の爆撃目標となり、B29や艦載機による空襲を受け、多くの死傷者と物的破壊を被った。母の実家よりもハルカさんの実家の方が大浜飛行場に近かったため被った被害もより大きかった。ハルカさんの証言はこうして幸い記録として残ることになったが、こうした貴重な証言の多くがすでに失われたか、あるいは失われようとしているのだろう。
 右の写真は、母のアルバムに残る高瀬高等女学校時代の写真で、新聞に掲載されたものと同じである。左から二人目が母、三人目がハルカさん。

▼クリックして拡大できます



▼戦争中、米軍機が撮影した大浜飛行場

叔父と九州学院

2015-08-08 21:41:18 | ファミリー
 夏の高校野球熊本県代表の九州学院は、ベスト8に進出した5年前以来の出場。大会7日目に登場するが、今回はどんな戦いぶりを見せてくれるだろうか。
 正直なところ、自分の母校が甲子園に出場する時でもなければ、特に高校野球に興味があるわけでもない。ただ唯一の例外が九州学院。なぜなら35年前に他界した僕の叔父の母校で、叔父は九州学院野球部の大先輩でもある。叔父は昭和2年、野球の名門九州学院にあこがれ、特待生として入学した。在学中はキャッチャーとして活躍したらしく、卒業後は当時、優秀な若手を集めていた熊本のノンプロチーム「オール熊本」の一員として熊本市役所に就職した。その後、先輩に誘われて鳥栖鉄道管理局に移籍し、当時最強と言われた門司鉄道管理局の一員としても活躍したようである。
 僕が高校に入って水球を始め、インターハイや国体前の恒例だった東京合宿の際は必ず、板橋にあった叔父の家を訪ねた。叔父はそれがことのほか嬉しかったらしく、いろんな精神面のアドバイスをしてくれた。おそらく自分の青春時代を重ね合わせていたのだろう。 今回の5年振りの後輩たちの夏の大会出場を叔父はきっと喜んで見ているにちがいない。

鎮守と氏神

2015-07-10 13:51:53 | ファミリー
 夏祭りのシーズンがやってきた。祭りというと今日では、楽しいイベントを見たり参加したりするものという認識が一般的。本来は氏神様やご先祖様などに対する尊崇の念をもって「五穀豊穣」「商売繁盛」「無病息災」「天下泰平」などを願ったり、感謝したりする儀式のこと。つい忘れがちだ。
 ところでわが家の氏神様は藤崎八旛宮というのが祖母からの言い伝え。古より藤崎八旛宮は「肥後一国の総鎮守」とされていたからそうだったのか、あるいは地域的な理由があったのかどうもよくわからない。祖父方の家は黒髪村、祖母方の家は一番被分町といずれも現在の藤崎八旛宮に近いところにあった。しかし、藤崎八旛宮が現在の井川淵に遷座したのは明治10年の西南戦争後。それ以前から藤崎八旛宮を氏神としていたのかどうかはさだかではない。祖父は僕が生まれるずっと前に亡くなっているので、わが家は祖母の影響が色濃く残っている。祖母が生まれた明治16年にはすでに藤崎八旛宮は祖母の生家の目と鼻の先にあった。おそらく真相はそこら辺にあるのだろう。

♪コンチキチン ヽ ヽ  北岡神社・祇園祭 神幸行列(2014.8.3)

父の遺したもの

2015-05-19 20:39:40 | ファミリー
 今日は父の没後15年の日。あらためて父が書き残したものを読み返している。父は特に遺産とか何かを残したわけではないが、備忘録など数多くの文書を書き残した。これこそまさに僕にとって最大の父の遺産。わがファミリーの歴史がよくわかる。中でも、昭和60年(1985)から始めた「ファミリーニュース」は父の没後も受け継いで発行し続けている。今年でちょうど30年を迎えたが、なんとか今後も続け、子や孫の代へと繋いでいきたいものである。

※20数年前、熊本日日新聞で紹介された時の記事

母の誕生日

2015-02-17 00:08:10 | ファミリー
 昨日、母が満93歳の誕生日を迎え、ささやかなお祝いをした。一つの目標だった祖母の享年をクリアすることはできたが、このところ体調があまり芳しくない。かかりつけの病院へ連れて行くことが多くなり、本人もしきりに「自分はもう長くないからそのつもりで」と口にするようになった。友人知人も次々と鬼籍に入り、寂しさも募っているのだろう。家族としては後で後悔することのないよう、できるだけのケアをしていくつもりだ。暖かい季節になれば、また本人の気力も回復するかもしれない。