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徒然なか話

誰も聞いてくれないおやじのしょうもない話

餅つき

2014-12-27 19:27:57 | ファミリー
有明も三十日に近し餅の音(松尾芭蕉)

 毎年のことだが、今年も妹の家で正月の餅を一緒に搗いてもらう。餅つきと言っても今は餅つき機の時代。もう27日というのにちっとも年末の実感がなかったが、搗き上がって並べられた餅を見ると、なんとなく辺りも正月近しの風情に見えてくるから不思議だ。








紅葉見物

2014-11-19 19:38:50 | ファミリー
 今日は絶好の紅葉見物日和。午前中、母を病院へ連れて行った後、昼飯もそこそこに、再び紅葉見物に連れ出した。あまり遠くへは行けないので、行き慣れた「岩戸の里」を目指す。途中、峠の茶屋の手前で自転車で登るおじさんを追い越す。雲厳禅寺に着いてお参りをした後、周辺を見て回っていると、なんとさっきの自転車おじさんが到着。会釈をすると、「ここから熊本市内に帰る近道を教えて」と。どこから来たのかとたずねると「水前寺の近く」だという。よくまあここまで自転車、それもママチャリで来たものだと母と驚く。上松尾経由の道を教えると、お参りを済ませた自転車おじさんが丁寧に挨拶し、再び自転車にまたがって去って行った。
 帰りに熊本城内の旧細川刑部邸を訪れる。僕自身は5日前に細川刑部邸は訪れたばかりだが、さすがにこの5日間で色づきが全然違っていた。庭園を見て回った後、邸宅に上がったが、母は邸宅に上がるのは初めてだそうだ。出発してから帰り着くまで3時間に満たないほどのツーリングだったが、結構面白いことがあるものだ。
※岩戸の里は後日掲載










土手のお六

2014-11-08 20:18:06 | ファミリー
 昨夜のNHK-Eテレ「にっぽんの芸能」の中の「古典芸能玉手箱」では、歌舞伎に登場する「悪役」を取り上げていた。「公家荒」「実悪」「色悪」などいくつかの悪役のパターンの中に「悪婆」という女性の悪役があり、代表的なキャラクターとして「於染久松色読販(おそめひさまつうきなのよみうり)」などに登場する「土手のお六」が、この役を演じている坂東玉三郎さんの映像とともに紹介された。「土手のお六」というのは江戸中期、日本堤(吉原土手)で引き手茶屋を営んでいた実在の女性のことで、歌舞伎の中では、この土手で人を殺したり、女だてらに啖呵をきってゆすったりする毒婦だが、滅法人気のある悪役だそうである。ただ「悪婆」といってもけっして婆さんではなく、妖艶な中年女性のことらしく、今日的な表現だと、さしずめ「美魔女」とか「美熟女」というニュアンスのようだ。
 ところで、父が書き遺した回想録の中に、一人の町芸者が登場する。父がこの人に出会ったのは小学6年の頃というから、大正10年頃だと思われる。ある日、祖母と一緒に街を歩いていると、齢70前後と思しき老女に呼び止められる。怪訝な表情の祖母に「お人違いかもしれませんが、阿部さんのお嬢さんではありませんか」と。祖母もすぐには思い出せなかったらしいが、実はその老女は祖母がまだ娘時代、大江村の村長をやっていた曾祖父の家の酒宴によく呼んだ町芸者で、皆から「ドテ検」と呼ばれて人気があったという。父はまだ子供だったので、名前の由来などは知らなかったようだ。僕はなんて品のない名前なのだろうと思っていたが、昨晩「土手のお六」の話を聞いて、ひょっとしたら「土手のお六」を連想するような、妖艶できっぷのよい芸者だったので付けられた呼び名だったのかもしれないなと思うようになった。
※右の絵は歌川豊国作「土手のお六」


ファミリー・ヒストリー(叔父編)

2014-10-19 18:10:28 | ファミリー
 34年前に亡くなった僕の叔父は父のたった一人の兄弟で、90歳まで生きた父とは対照的に、まだ60代で他界した。叔父は東京の板橋に住んでいたが、亡くなった時、ちょうど僕は東京在勤中だったので葬儀には父とともに参列した。叔父は若い頃、野球の名選手として鳴らしたという話は父から聞いていたが、具体的にどんな選手だったか詳しく聞いたことはない。父も14年前に亡くなったので、叔父についての情報は途絶えた。数年前、急に叔父について調べてみたくなり、出身校の九州学院に問い合わせてみたが、何しろ昭和初期の頃であり、記録は残っていないとの回答だった。
 父が書き遺した備忘録によると、叔父は昭和2年に尋常小学校を卒業し、特待生として九州学院に入学。(野球の名門校として憧れていたらしい。)入学と同時に野球部に入り、キャッチャーとして頭角を表し、5年生の時の足立-柴田のバッテリーは県下随一と評価されていたという。当時、熊本には社会人野球の「オール熊本クラブ」があり、中学出の優秀プレーヤーを確保するため、地元の官庁や企業などへの就職を当局が斡旋していたらしい。叔父はこのルートに乗り、昭和7年、卒業と同時に熊本市役所に就職した。その後、社会人野球の国鉄鳥栖鉄道管理局にスカウトされ移籍した。移籍の詳しい経緯はわからない。
 最近、この叔父の情報について新しい展開があった。実はこのブログを見ていただいているMさんからメールをいただいた。その内容からMさんが九州学院のOBであることが判明。しかも、僕よりも随分年長でいらっしゃる。ひょっとして何か手掛かりがつかめるかも知れないと思い、事情を説明しておたずねしてみた。するとMさんから同窓生の方からの情報などをいろいろ送っていただいた。僕にとっては初めて知る事ばかりだ。ほとんどあきらめかけていた叔父の実像調査に新たな希望が湧いてきた。Mさんには感謝感謝である。

When I'm Sixty-Four

2014-10-15 23:01:08 | ファミリー
 今日は家内の6●回目の誕生日。夕食の時、家族でささやかなお祝いをした。あらためて、40年を超える連れ添っての人生を考えると感慨もひとしおだ。ふと、ビートルズの「When I'm Sixty-Four」のメロディが頭に浮かんだ。僕がまだ学生時代に好きだった歌だ。ざっくり言うと、若者が「僕が64になっても愛していてくれるかい」と恋人とともに老後の幸せを願う歌だ。学生時代は何の現実味もなく聴いていたが、今あらためてこの歌を聴きなおすと胸に迫るものがある。既に僕も家内も64を過ぎてしまったが、この歌に込められた若々しい感性をいつまでも失いたくないものだ。



わが家のルーツ!?

2014-07-22 18:32:26 | ファミリー


 わが家の家紋は右の図のような「右三つ巴」と呼ばれる紋である。墓石にもこの紋が刻まれている。ところが6年前、甥の結婚式で上京した際、東京在住の従弟が、実はもともとこの家紋を使っていたと、紙に印刷された左の図のような家紋を持ってきた。そんな家紋があることを聞くのも見るのも初めてだった。調べてみるとこれは「軍配唐団扇」と呼ばれる紋だった。
 僕の祖父が大正5年に死去した時、僕の父はまだ幼かったので、東京在住の父の従兄が家督を相続した。そんなわけでわが家には家系に関する資料が何も残っていない。この家紋が意味するものは何なのか。ずっと気になっていたが、昨年、ネットでやりとりをさせていただくようになった家紋研究家の西村昌巳さんに調べていただいた。西村さんのお話では「軍配扇は武蔵七党のうちの有道姓の児玉党の専用紋として知られているので、その流れが有力と思われる」とのご回答をいただいた。「武蔵七党」といえば、中世の日本で武蔵野を舞台に活躍した武士集団、それがなぜ九州の熊本へ? 実は「武蔵七党」の一つである児玉党を構成していた小代氏が宝治元年(1247)に肥後国玉名郡野原荘(現在の熊本県荒尾市周辺)の地頭職となり、文永8年(1271)には小代重泰が蒙古襲来に備える為に野原荘に下向したという。ひょっとしたらわが家の祖先はその時付き従って関東からやってきたのかもしれない。それを検証する史料が見つからないのでまだ推測の域を出ないが、気長に調べて行きたいと思う。

孫の誕生日と柳川の風情

2014-07-19 20:10:31 | ファミリー
 来週の金曜日が孫のてっぺいの7回目の誕生日ということで、今日は早めのお祝いに家内と久留米に出かける。7年経っても、彼が生まれてすぐ新生児黄疸の症状が出て、心配で病院に駆けつけたことを昨日のことのように思い出す。今年から小学1年生になったが、元気に通っているようだ。「学校は楽しい」と言う彼の言葉が何よりだ。
 久留米からの帰り、最近少し夏バテ気味の母のために、柳川へ回って鰻の老舗W屋から鰻の蒲焼を買って帰った。母が元気を回復してくれればいいが。
 久しぶりの柳川はやはり独特の風情がある。帰りに初めて有明海沿岸道路を通ったが、荒尾までが凄く近くなったような気がした。母が元気になったらまた連れて来たいものだ。


柳川市沖端の風景


有明海沿岸道路

かずちゃんの快挙!

2014-05-01 21:09:37 | ファミリー
 4月6日、NHKホール(東京都渋谷区)で行われた「2014全日本きもの装いコンテスト世界大会」で、従姪のかずちゃんが所属する必由館高校・和装文化部が学校対抗の部で見事1位の栄冠に輝いた。
 彼女たちの日頃の活動に密着したドキュメントが、5月2日(金)の熊本朝日放送「新発見伝くまもと」で放送された。




ひなまつり の 憂鬱

2014-03-03 16:38:26 | ファミリー
 今日はひなまつり。どうしても孫娘のことを考える。2、3日前に孫娘のみわは10歳の誕生日を迎えた。2、3日前というのは誕生日が2月29日なのでハッキリと言えないのだ。夏季オリンピックのある年にしか誕生日が巡って来ないのはちょっと可哀想な気もする。それにしてもみわがもう十代の仲間入りとは!。子供より孫の方が育つのが早い気がするのはやはり責任感の軽さゆえか。4月からは5年生。きっとあっという間に中学生になり、高校生になり、爺婆からはだんだん離れて行くのだろう。ちょっぴり寂しい春の夕暮なのである。



 
3歳のひなまつりの時のみわと今年10歳になったみわ


 折しも下通アーケード一帯では「城下町くまもと 肥後のひなまつり」が行われていて、ひな人形が多数展示され、行き交う人々の視線を集めていた。


祖母と歌舞伎

2014-02-23 17:40:13 | ファミリー
 僕は両親が共稼ぎだったので、幼い頃、日中はほとんど祖母のそばで過ごした。祖母はご近所から口うるさい“やかましモン”と言われていたらしいが、結構いろんな人が訪ねてきて会話にふけっていたのを憶えている。そんな会話の中で祖母の口から「モリタ カンヤ」という名前をよく聞いた。ものごころついてから、それは「守田勘彌」という役者の名前であることが分かった。守田勘彌といえば由緒ある歌舞伎の大名跡。14代目が昭和50年に亡くなった後、後を継ぐ人が出ていないが、いずれ養子の坂東玉三郎が襲名するかもしれない。
 それはさておき、若くして夫と死に別れ、貧しい生活の中、苦労して二人の子供を育て上げた祖母には歌舞伎を観ることなどできなかったはずだ。しかもテレビもまだない時代。守田勘彌について熱く語る祖母の情報源はいったい何だったのだろう。気になっていろいろ調べてみた。確証は得ていないが、一つだけ可能性があることがわかった。それは守田勘彌が新派女優の水谷八重子と結婚していた頃、一緒に新派の劇団を主宰していて全国各地を巡っていたらしいということだ。ひょっとしたら、そんな公演にでも行く機会があったのだろうか。そういえば、最近も守田勘彌の娘である二代目水谷八重子が出演する松竹新派の公演ポスターを街中で見たことがある。

オモシロ写真(1)

2014-02-10 20:20:07 | ファミリー
 孫たちの成長ぶりを記録した写真がたくさんあって未整理の状態だ。少しづつ整理して行こうと、無造作に挟み込んだアルバムを開けてみた。あんなことやこんなこと、いろんな想い出がよみがえって、ついつい見入ってしまう。
 中には「オモシロ写真」もいろいろ出て来た。今日、見た中での最高傑作はこの写真。今年5年生になる みわがまだ1歳の頃だろうか。眠さをこらえきれず、立ったままで眠っている。


てっぺい最後のお遊戯会

2014-02-09 20:33:54 | ファミリー
 今日はてっぺいの幼稚園恒例のお遊戯会。朝早くから家内と久留米市民会館へ。てっぺいの出番は3回。「POWER」という曲のダンスと合奏「白鳥の湖」そして演目の紹介だ。年長組ともなるとさすがにダンスはキレッキレ! 合奏での鍵盤ハーモニカやコーラスも余裕しゃくしゃくに見受けられた。帰りの車の中では「てっぺいは才能があるんじゃない!」などと相変わらずのじじ馬鹿談義。てっぺいにとっては最後のお遊戯会となったが、考えてみれば姉のみわの時から続けて6年間、見続けたこのお遊戯会を観るのも今回が最後。孫たちの幼児時代があっという間に過ぎ去ったようで、ちょっとセンチメンタルな気分になる。

そうだ 本妙寺 行こう。

2014-01-29 19:15:38 | ファミリー
 昨日、次男の手術が無事終わった。6時間にも及んだ手術を家族控室で待つ間、ふと神仏への祈願のことが頭に浮かんだ。正月の初詣は加藤神社と藤崎八旛宮それに水前寺・出水神社にお詣りし、家族の健康のことも祈願したばかりなのだが、ほかにも詣るべきところがなかったろうか、と考えた。そして思い付いたのが本妙寺。
 江戸時代、全国に広まった「清正信仰」の総本山が本妙寺。その第一番のご利益が「病気除け・病気平癒」である。嘉永3年(1850)には、かの吉田松陰も弟の病気平癒祈願のため参詣したという。
 さっそく今日、本妙寺へ行った。胸突雁木の下まで車で登り、胸突雁木を歩いて登った。浄池廟にお詣りを済ませると何か清々しい気持になった。ひと時、浄池廟前の広場から熊本市内の景色を眺めて過ごした。


浄池廟中門


浄池廟


清正公が眠る浄池廟は、遺言どおり熊本城本丸と同じ高さにある。

不思議な虹を見た!

2014-01-26 20:16:21 | ファミリー
 今日は入院中の次男を見舞いに久留米へ家内と行った。久留米市内で次男の妻や孫たちと落ち合い、昼食を済ませた後、入院先の久留米大学病院へ。明後日、手術を控えている次男は至って元気、みんなで1階のドトールコーヒーショップで午後のひと時を過ごした。病室の西病棟10階からの展望が素晴らしく、西側を眺めると篠山城やブリヂストン久留米工場などの向うを筑後川が流れ、さらにその遥か先には脊振山系が望めた。病院の真下にはかつて住んでいたブリヂストンのアパートが見え、感慨深いものがあった。
 久留米からの帰り道、国道3号線清水バイパスから打越の方に入り、熊本電鉄の打越踏切のところまで来た時、南側の空に不思議な虹を見た。何か良いことの予兆であれば嬉しいのだが。


懐かしい風景。左下には住んでいたアパートが見えた。


コーヒーショップで


不思議な虹を見た。左下に熊本城が見える。