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徒然なか話

誰も聞いてくれないおやじのしょうもない話

高砂や この浦舟に帆を上げて

2022-05-25 18:58:36 | 伝統芸能
 YouTubeに3年前にアップした動画「能 高砂」を見ていただいた方から次のようなコメントをいただいた。

 涙でました。亡き父が長男の結婚式の門出にと唄いました。年の離れた長兄でしたので私は小学4年、あれから40年程経ちますが耳に残った父の声が重なります。

 映像を見ていただくだけでもありがたいのにこんな感動的なコメントをいただくのは無上の喜びである。

 昔は自宅の座敷で結婚式を挙げることが多く、仲立ちさんあたりが「高砂や」の謡で祝う風景が普通に見られたものだが、最近は結婚式で「高砂や」がないことが多くなっているとも聞く。結婚式のやり方も徐々に変わって行くのだろうがちょっぴり寂しさも感じる。

 この映像は2019年9月に行われた藤崎八旛宮例大祭の段山御旅所での能奉納の一場面。「高砂」は代表的な脇能で、熊本ゆかりの能でもあり、昨年3月の「翁プロジェクト」熊本公演でも演じられたが、いつも半能なので、フルに観られる機会があればと願っている。


伝統芸能で新しい文化の創造へ

2022-05-22 23:02:21 | 伝統芸能
 今日の「民謡魂 ふるさとの唄」(NHK総合)は新潟県村上市から、新潟県の民謡を中心に様々な芸能が紹介された。なかでも印象深かったのは、昨年10月の放送におけるMCの城島茂と津軽三味線の上妻宏光らによる新潟県民謡「新保広大寺」スペシャルアレンジが地元でも反響があったということで、「新保広大寺全国大会」が行われている現地へ上妻が訪ねる。昨年の「民謡魂 」放送に、リモートで参加した「永島流新潟樽砧伝承会」のメンバーと初めて対面する。昨年放送を見た時、新潟の伝統芸能を受け継ぐコアな若者たちという印象だったが、江戸時代から続く新潟樽砧という伝統芸能を、新しい感覚で新潟文化として再興させていることが段々わかってくる。今日の放送を見た後、彼らの活躍ぶりをネットで確認した。
※樽砧(たるきぬた)とは、新潟市の中心部旧市街に伝わる木樽を用いた踊りなどの伴奏法。
 また、その伴奏を用いた花柳界の遊戯の一種。(Wikipediaより)

いがた総おどり
 毎秋行われている「にいがた総おどり」のなかの「下駄総踊り」

謡曲 田村(キリ)

2022-05-10 21:13:09 | 伝統芸能
 今月19日はわが父の二十三回忌にあたる。しかし、菩提寺のご住職と相談した結果、コロナも未だ油断できない状況にあることもあり、2年後に二十三回忌と二十七回忌を合わせた法事を行うことにした。

 毎年、父の祥月命日になると必ず、謡曲「田村」のことを思い出す。このブログでもう何度もネタにしたが、父がまだ四つか五つだった頃、立田山麓の泰勝寺跡に住んでおられた長岡家(現細川家立田別邸)に日参していた。お坊ちゃまの遊び相手だったが、お屋敷で謡曲のお稽古が行われる日は、幼い父も末席に侍らせられていたという。父は門前の小僧よろしく謡曲「田村」の「ひとたび放せば千の矢先・・・」という一節だけは終生忘れず、よく思い出話をしていたものだ。だから命日には供養のつもりで「田村」のキリの部分を聴くことにしている。年に数回、泰勝寺跡を訪れて四つ御廟のお参りをしているが、竹林がそよぐ音に混じってお屋敷から謡の声が聞こえてくるような気がする。


泰勝寺山門跡


泰勝寺・神殿跡




綾子舞と阿国歌舞伎

2022-04-09 20:58:18 | 伝統芸能
 先日の、柏崎銘菓「綾子舞ものがたり」の話に続いて、今日はその新潟県柏崎市の伝統芸能「綾子舞」と「阿国歌舞伎」の関係について深掘りしてみた。

 「綾子舞」の由来は諸説あるようだが、京から伝来したものであることは間違いないようだ。それでは「綾子舞」が「阿国歌舞伎」の面影を残しているといわれるのはなぜなのか。それは江戸・慶長期に描かれた歌舞伎図鑑(徳川美術館蔵)の初期の歌舞伎絵図が今日の「綾子舞」と酷似していることや「小原木踊」「常陸踊」など、「綾子舞」と「阿国歌舞伎」に共通する演目があることなどがその根拠となっているようだ。

     ▼歌舞伎図鑑(徳川美術館蔵)より



 共通演目のうち、例えば「小原木踊」については「コトバンク」に芸能史研究家の小笠原恭子さんによる次のような解説が記されている。

 中世末から近世初頭にかけて流行した踊歌(おどりうた)。中世小歌にもよまれている京都八瀬の大原女の姿をうたったもので、中世後期からの風流(ふりゆう)踊の盛行とともに諸国に広まった。歌舞伎踊を創始する以前の、出雲のお国も踊っている。〈沈(じん)や麝香(じやこう)は持たねども、におう(荷負う、匂う)てくるは焼(たき)もの〉などの歌詞を持つ。その断片は、江戸時代の歌謡の中にとり入れられて長く伝わった。



 また「綾子舞」と「阿国歌舞伎」の関係について推測できる次のような史料がある。それは戦国武将、薩摩の島津家久が天正3年(1575)に薩摩から京に上った時の旅日記「家久君上京日記」という文書。その中に、帰路、温泉津(ゆのつ:島根県大田市)で、不思議な踊りを演じる出雲衆と出会うくだりがある。そこにはこう書かれている。

一 廿五日打立行に肝付新介ニ行合候、加治木衆三十人ほと同行、さて西田の町を打過、湯津に着、
  其より小濱といへる宮の拜殿にやすらふところに、伊集院に居る大炊左衛門、酒うり持参、さて
  湯に入候へは、喜入殿の舟に乗たる衆、秋目船の衆、東郷の舟衆、しらハ衆、各すゝを持参り候、
  其より小濱のことくまかり出雲之衆、男女わらハへあつまりて能ともなし、神まひともわかぬ
  おひいれ、出雲哥とて舞うたひたる見物し、


 この赤字の部分に注目すると、「男女わらハへ=男女童」子供たちの集団であること。「能ともなし、神まひともわかぬおひいれ」能舞でもなく神舞(神楽舞のことか)でもない。この表現はまさに「綾子舞」の特徴を表している。「おひいれ=おびいれ?」について解説した文献は見当たらないが、「おもいいれ」のことを言っていると思われる。「出雲哥とて舞う」出雲の歌とは大社(出雲大社)の神楽歌のことか。この出雲衆は大社の勧進を行う一団とも考えられる。この出雲衆の中に幼いお国がいた可能性を指摘する研究者もいる。もし、いたとすると3歳くらいだが、今日でも日本舞踊の熟達者には2、3歳から始めた人は多く、ありえない話ではない。お国の出自は大社の巫女という説もここら辺から出てきたとも考えられる。そんなわらべの集団の踊りが後に「ややこ踊り」となり、「かぶき踊り」と発展して行ったことは十分考えられる。

   ▼参考:能舞と神楽舞(「家久君上京日記」ではこのどちらでもないという)



綾子舞ものがたり

2022-04-06 19:01:33 | 伝統芸能
 今朝、思いがけない宅急便が届いた。発送者は新潟県の柏崎観光協会とあった。そこでハッと思い出した。半月ほど前だったか、柏崎市の伝統芸能「綾子舞」についてネットで調べていて柏崎観光協会のサイトに入ったら、クイズに応募して当選したら柏崎銘菓が当たるというコーナーがあった。簡単なクイズだったので解答を送信した。それっきり忘れていたがまさか当選するとは。今までこの手の応募で当たったためしがない。これをきっかけに運が向いてくればいいのだが (^^♪

 その送られてきたお菓子が写真の「綾子舞ものがたり」である。
 10年ほど前、慶長15年(1610)春、加藤清正が阿国歌舞伎を招き、鹽屋町三丁目(現熊本市中央区新町2丁目)の武者溜りで歌舞伎を興行したことについて調べていく過程で「綾子舞」の存在を知り、YouTubeの映像を見たり、文献を調べたりしている。「綾子舞」は阿国歌舞伎の踊りの面影を色濃く残していて、芸能史の重要な資料として注目されているという。今回の出来事で現地で公演を見たいという気持がさらに強くなった。





   ▼綾子舞「常陸踊」

石橋(しゃっきょう)

2022-03-08 19:37:00 | 伝統芸能
 今週末、12日(土)は3年ぶりとなる熊本城薪能が行われる。

 開催日:令和4年3月12日(土)
 時 間:18:30~20:00
 会 場:熊本城二の丸広場特設舞台

 今回の見ものは観世流の半能「石橋」。
 寂昭法師が入唐して清涼山の石橋に行くと、童子が現れ、橋のいわれを語って消える。やがて、文殊菩薩に仕える獅子が現れて牡丹の花に狂い舞う。
 というお馴染みの演目だが、今回は半能なので後半の白獅子と赤獅子の豪快な舞が見られるだろう。注目は獅子を演じる二人がいずれも女性能楽師の菊本澄代さんと多久島法子さん。どんな舞台になるのか楽しみだ。




能の奥義「関寺小町」

2022-02-27 18:08:17 | 伝統芸能
 今夜の「古典芸能への招待」(Eテレ)は、能の最高の奥儀ともいわれ、「姨捨」「檜垣」とともに三老女の一つに数えられる「関寺小町」。近江の国関寺の僧が、寺の稚児を連れて、近くに住む老女を訪れる。老女が歌道をきわめていると聞いていたので、稚児たちの和歌の稽古に役だつだろうと考えての訪問であった。話が有名な古歌の由来に及んだとき、小野小町の作として知られている歌が話題になり、この老女こそ百歳を越えた小町その人だとわかる。
 シテである老後の小野小町を演じるのは金春流の重鎮・本田光洋。シテ方金春流としては10年ぶりの演能だそうである。今年80歳を迎える本田光洋は「明治の三名人」といわれた櫻間左陣の最後の弟子であった父秀男から厳しい稽古を受けたという熊本ゆかりの能楽師でもある。今年正月の北岡神社および藤崎八旛宮の松囃子にも参加した。3年前の8月に行われた出水神社薪能で「羽衣 替ノ型」でシテを務められた時、僕は初めて本田光洋師を舞台で拝見した。今夜の「関寺小町」は初見なので大いに楽しみだ。




2019.8.3 出水神社薪能 金春流 能「羽衣 替ノ型」(シテ:本田光洋)

阿国歌舞伎が江戸城で演じられた日

2022-02-20 21:24:52 | 伝統芸能
 慶長12年(1607)の今日2月20日、出雲の阿国が江戸城に招かれかぶき踊りを演じたと江戸時代初期の史書「当代記」に書かれています。かぶき踊りが芸能として正式に認知された日ということができると思います。しかし、その時の演目など具体的な内容はわかっていません。阿国歌舞伎は「ややこ踊り」「茶屋遊び」「念仏踊り」の三つが主要な演目だといわれていますが、一部の題名や詞章が伝えられているだけで、音楽や舞踊についてはほとんどわかっていません。
 
 そんな阿国歌舞伎のおもかげを残す芸能として注目されているのが、新潟県柏崎市に伝わる民俗芸能「綾子舞」です。土地に伝わる由来伝承によれば、京都から伝来したもののようです。

▼小原木踊(おはらぎおどり)
 その「綾子舞」の代表的な演目で「小原木踊」という曲目があります。これは中世小歌にもよまれている京都八瀬の大原女の姿をうたったものです。阿国歌舞伎は小歌と四拍子の演奏で進行し、まだ三味線は使われていなかったそうですので、この映像を見ますと何となく雰囲気がわかります。



▼歌舞伎踊り(七つになる子)
 これは、中世の狂言小謡「七つ子」を現代の長唄に作り変え、舞踊小曲としたものですが、「七つ子」は阿国歌舞伎でも使われたことが分かっています。

「七つに成る子が、いたいけな事云うた、殿がほしいと諷(うと)うた、さてもさても和御寮(わごりょ)は、誰人(たれびと)の子なれば、定家葛(ていかかずら)か離れがたやの、離れがたやの。」と謡います。


漱石と六段の調

2022-02-14 17:45:30 | 伝統芸能
  春雨の隣の琴は六段か(明治31年)

 これは夏目漱石が大江村(新屋敷)に住んでいた頃の作らしく、春雨そぼ降る中、近隣から筝曲の「六段の調」が聞こえてくる何とも春の風情を感じさせる句で、僕の大好きな一句だ。
 熊本での三番目の住まいとなった大江村の旧居があったのは、現在の熊本市中央区新屋敷1丁目、白川小学校の東側である。漱石がここに住んだのは明治30年9月から31年4月までのわずか8ヶ月に過ぎないが、30年暮れの小天旅行が「草枕」の題材となった。この旧居は現在、水前寺成趣園東隣に移築されている。
 漱石が大江村にいた時期と重なるかどうかは不明だが、この頃、わが祖母方の曽祖父が大江村の村長をやっていたらしい。


夏目漱石第三旧居(大江村旧居)


大江村に住んでいた頃の漱石夫妻


奏者は第23回くまもと全国邦楽コンクール最優秀賞に選ばれた大川義秋さん

能舞台のはなし。

2022-02-07 21:45:41 | 伝統芸能
 熊本の能楽関係者の悲願は公立の能楽堂建設だと聞く。おそらく福岡市の大濠公園能楽堂のような施設を想定されているのだと思う。神事能が盛んな歴史を有する熊本の常設能舞台はすべて神社の所有。しかも客席は野天。2018年の水前寺成趣園能楽殿での出水神社薪能では途中から豪雨に見舞われ、僕も散々な目に遭った。たしかに屋根付きの能楽堂があれば天候の心配もないしとも思う。
 能を観るようになって12年が過ぎた。これまで屋外、屋内問わず多くの能舞台を見てきた。昨年3月、水前寺成趣園能楽殿で行われた「翁プロジェクト」公演を見た。吹き渡る早春の風に木々の葉がそよぎ山桜の花びらが散る。遠くに鳥のさえずりも聞こえる中、朗々と謡い上げる声と小気味よい四拍子の響き。それらが混然一体となって初めて能という芸能は成立するのではないかと、能の原点ともいわれる「翁」を見ながらそう思った。たまには雨に見舞われることもあるかもしれないが、それも含めて能なのではないかという気がする。


水前寺成趣園能楽殿


かつて水前寺成趣園に存在した土壇の能舞台


土壇の能舞台で行われていた薪能

信長が舞った曲舞

2022-02-06 21:49:57 | 伝統芸能
 昨年1年間のYouTubeマイチャンネル動画再生回数が一番多かったのは「幸若舞 敦盛」(41,758回)という意外な結果になった。その要因はあらためて分析してみたいが、最近、織田信長が舞った「敦盛」についてのお問い合わせが散見される。以前、一度このブログで回答したことがあるが、再編集して掲載した。

 幸若舞とは室町時代前期、越前の桃井直詮(幼名幸若丸)によって始められたという曲舞(くせまい)の一種。いくつかの流派が生まれましたが、明治維新後、そのほとんどが途絶えました。唯一、筑後の大江村に伝わった「大頭流幸若舞」が辛うじて今日まで残っています。
 織田信長が舞った「敦盛」は越前幸若舞と思われますが、今日伝わる大頭流幸若舞と同じなのかどうかは不明です。信長が「敦盛」を舞ったことが文献に見えるのは信長の近習だった太田牛一が、信長没後20数年経ってから著した「信長公記」のみといえます。
 「信長公記」の首巻に二ヶ所記述が見えますが、それは概ね次のような内容です。

 尾張の天澤という天台宗の高僧が所用で関東へ下る途中、甲斐國で武田信玄に会った。信玄は、信長の人となりをたずねたが、その中で、信長の数寄(風流の嗜み)をたずねた。天澤は「舞と小歌を好まれる」と答えた。信玄が「幸若大夫を呼んでいるのか」とたずねると天澤は「清洲の町人友閑という者を呼んでおられる」さらに「信長公は敦盛の一番しか舞われない。人間五十年下天の内をくらぶれば夢幻の如くなり、と謡いながら舞っておられる」と答える。

 もう一ヶ所は、永禄3年(1560)5月19日早朝、信長は鷲津砦・丸根砦が囲まれたとの臣下の注進を聞くと、「敦盛」を舞い始めた。「人間五十年 下天の内をくらぶれば 夢幻の如くなり 一度生を得て滅せぬ者のあるべきか」と謡い舞った後、「法螺を吹け」「具足をもて」と命令。具足をすばやく身に着け、立ちながら食事をすると、兜を被って出陣された。この時付き随ったのは小姓衆五騎であった。

 信長と幸若舞に関する記述は上記のものしかないと思われます。映画やドラマにおいて、信長が「敦盛」を舞うシーンは能舞のように振付けられることが多いので能舞と思われている方も多いようです。なお、能の演目にも「敦盛」がありますが、「人間五十年 下天の内をくらぶれば・・・」という詞章はありません。


わげもんの時代

2022-01-30 19:41:55 | 伝統芸能
 NHK土曜ドラマ「わげもん~長崎通訳異聞~」の4回シリーズが終了したが、エンディングでキーマンの神頭が生き残っていることから続編があるのかもしれない。
 3年ほど前にこのブログに熊本民謡「ポンポコニャ」が生まれた時代について書いたことがあるが、「わげもん」がちょうど同じ時代背景の物語なので3年前の記事を再編集して掲載してみた。 


長崎港絵図

 郷土史家の鈴木喬先生(2010年没)の研究論文「熊本民謡ポンポコニャーと熊本名所地名考」の中には、熊本県御船町出身の醸造学の権威・住江金之(すみのえきんし)博士が「日本談義(1951年2月号)」に寄稿した「肥後古民謡」に関する小文が紹介されている。この文献は数年前、僕も県立図書館でその現物を読んでみたことがある。それには、住江博士が大叔母から聞いたという「ポンポコニャ」の歌詞が紹介されている。

〽長崎にオランダペレトン始まりて
 台場台場にゃ大きな石火矢ポンポコニャ
 オーサポンポコポンポコニャー

 ここに出てくる「ペレトン」は英語の「ペレット」つまり弾丸のことであり、「石火矢」とは「大砲」のこと。これらの言葉から、住江博士は、それは大叔母の生きた時代からみて、長崎周辺に外国船が出没することに危機を感じた幕府が嘉永2年(1849)に海防強化令を出したことに関連するものという住江説に鈴木先生も同意している。「ポンポコニャ」は、熊本名所めぐりのような歌詞の他にも、当時の国内情勢を反映した歌詞が、かつては唄われていたと考えられとても興味深い。


300年後にこの文化を残すために

2022-01-14 19:14:52 | 伝統芸能
 今日、テレビ熊本の情報生ワイド番組「かたらんね」では舞踊団「花童」を主宰する中村花誠さんと同舞踊団に密着した。花誠さんへのインタビューを通じ、同舞踊団や伝統芸能の現状と未来についてリポートした。
 現在はコロナ禍のため、かつて年間200回以上行なっていた公演がほとんどなくなるという逆境の中にある。しかし、そんな状況にもめげず、舞踊団は厳しいけいこを重ね、来るべきコロナ後に備えている。そんな中、昨年後半から再開した城彩苑わくわく座での定期公演に向け稽古に余念がない。
 花誠さんは言う。
「300年後までこの文化を残すには、一人でもそういう志を持った人がいないと難しい。私の志を受け継ぎ、様々な困難にも立ち向かい、多くの人々を巻き込んでいけるような人材が私のもとから巣立ってほしいと願っている。」

※わくわく座特別舞台 舞踊団花童&はつ喜「加藤清正~民衆との絆~」
 今月は明日15日(土)13:00より
 桜の馬場 城彩苑わくわく座






















能楽伝承 ~熊本の能文化~

2021-12-18 18:44:38 | 伝統芸能
 今日から熊本博物館で始まった「能楽伝承 ~熊本の能文化~」展を見に行った。
 これまでも細川家や松井家のコレクションを中心とした能に関する展覧会は何度か見たことがあるが、加藤清正の肥後入国後の熊本の能文化の歴史は今回が一番まとまっていて分かりやすかった。
 ただ、加藤清正以前に、菊池の松囃子以外にも肥後猿楽の歴史はあったはずであり、それがよくわからない(史料がないのだろう)ことや熊本の能楽の現状がどうなっているのか、歴史はどう受け継がれているのか、等についてももっと説明があってもいいような気がした。
 展示品では、古文書や書状などを見ると能に関わった人たちの人間臭さのようなものを感じられたことがよかった。展示品の中では出目右満(でめすけみつ)作の能面「十六」が敦盛の悲しげな表情を思わせて印象に残った。


今年の観能記

2021-12-07 18:40:17 | 伝統芸能
 毎年、年末にその年に見た能楽を総括することにしている。
 昨年は正月に藤崎八旛宮の松囃子を見た後にコロナ騒動が始まり、能楽公演は全滅。今年の年初もコロナ禍は続いており、あまり期待できないと思っていた。ただ、昨年中に、今年の3月、水前寺成趣園能楽殿において「翁プロジェクト」公演開催がアナウンスされていたので、「翁」が中止にならないことだけを願っていた。そして、感染防止対策を施して何とか「翁プロジェクト」公演が予定どおり開催された。僕にとって「翁」は最も見たかった演目だったが、これまでナマで見る機会はなかった。熊本で「翁」が公演されるのは数十年ぶりだそうだ。例年行われる8月の出水神社薪能、9月の藤崎八旛宮例大祭奉納能、10月の熊本城薪能はすべて中止されたが、今年は「翁」を見ることができただけでも十分満足できる年だった。
 さらに、5月には加藤神社150年式年奉納の新作狂言「熊本三獣士」を加藤神社で見ることができたし、10月には出水神社秋季大祭・能楽式奉納で能「猩々」を見ることもできた。11月の水前寺成趣園350年祭での能「船弁慶」こそ見逃したが、今年は年初の予想とは大きく異なり、充実の年だったと言える。


2021.3.9 水前寺成趣園能楽殿「翁プロジェクト熊本公演」 翁の舞


2021.3.9 水前寺成趣園能楽殿「翁プロジェクト熊本公演」 三番叟・鈴の段