徒然なか話

誰も聞いてくれないおやじのしょうもない話

マイブログ2012 ベスト10(パート3)

2012-12-23 11:30:02 | その他
今日は「パート3」として5月から11月の中から3本を選んだ。写真はいずれもクリックしてラージサイズへ。

友との別れ・・・(5月14日)
 同級生が行くのはつらい。四十九日の法要に参列しながら、高校時代の想い出が走馬灯のように頭の中を駆け巡った。彼は年齢は一つ上だった。だから同級生ではあるけれど、僕は兄貴のような気がして信頼していた。彼のやさしい笑顔が大好きだった。また彼はチームのキャプテンとして僕らを引っ張ってくれた。インターハイの優勝まであと一歩というところまで行きながら、彼を優勝チームのキャプテンにしてあげられなかったことを、チームの一員として今さらながら悔いた。


昭和38年(1963)の済々黌水球チーム


寺川綾&入江陵介&鈴木聡美 ~ 価値ある銅メダル三連発! ~(7月31日)
 今年の最大のスポーツイベントはロンドン・オリンピック。日本選手団はみんなよく頑張った。なかでも、水泳出身者としての贔屓目ではなく日本の水泳チームはよく頑張ったと思う。ピークを過ぎたエース北島の穴埋めをする選手が次々と現れた。金メダルこそ獲れなかったが、11個のメダル(銀3、銅8)を獲得した。僕は金メダルを2、3個獲ってあと入賞者なしよりもよっぽど価値があると思う。いつの大会もメダルを狙える選手が大勢いるような水泳ニッポンであり続けてほしい。


銅メダルを獲得した日本女子400メドレーチーム


山鹿温泉「さくら湯」の復活!(11月14日)
 かつて山鹿温泉のシンボルだった「さくら湯」が38年ぶりに再建された。と言っても昔の「さくら湯」に入ったことはない。40数年前、山鹿に初めて行った時には「さくら湯」は老朽化して廃れていた。そういえばその頃は「八千代座」も廃れていて、話題にもしなかった憶えがある。その頃の寂れた山鹿の街の風景を想い出すと、今日の復興ぶりには目を見張るものがある。あらためて市民の皆さんの復興への強い想いと地道な努力の積み重ねに敬意を表したい。


マイブログ2012 ベスト10(パート1)

2012-12-21 17:49:54 | その他
 今年も総括の時期がやって来た。例年どおり今年このブログに掲載した記事(昨日現在で366本)の中から、特に心に残っているものを10本選んでみたい。今日はまず1月から3月までの中から3本。

長岡家のおぼっちゃま(1月31日)
 この日、久しぶりに立田山の泰勝寺跡を訪れた。だいたい年に10回ほど訪れているが、この日初めて細川家の茶室・仰松軒の内部を間近で観ることができた。たまたま園内の清掃をやっていたおじさんが簀戸を開けてくれ、中で観ることを勧めてくれたおかげだ。本当にラッキーな一日だった。泰勝寺跡に来ると必ず、幼い頃の父の姿を想像する。その父が書き残した幼い頃の想い出をまとめてみた。

▼細川家の茶室・仰松軒(クリックすると大きなサイズを別ウィンドウに表示します)


平成の布袋先生逝く!(3月7日)
 母のかかりつけ医でもあり、玉名の同郷で同級の河野龍巳先生が3月3日に旅立たれた。享年90歳だった。患者からは“平成の布袋先生”と慕われていた。わが家は家族ぐるみで懇意にしていただいた。多芸多才だった先生が晩年、特に熱心に取り組まれたのが歌づくり。なかでも「西南の役」の激戦場となった「田原坂」を題材とした歌を作ることが念願だった。その念願かなってCDが完成した時の嬉しそうな顔が目に浮かぶ。



今日は一日 熊本さわぎ! ~城下町くまもと時代絵巻~(3月31日)
 熊本は前夜の大雨が嘘のように晴れ上がり、昨年、東日本大震災で中止された「城下町くまもと時代絵巻」が行なわれた。俳優の藤岡弘さん扮する加藤清正公に率いられた甲冑武者隊を始めとする時代行列や、メインステージの熊本城二の丸広場での様々な演目が華やかに繰り広げられた。桜の花も満開で熊本城周辺は終日、エンタテイメントパークの様相を呈した。

▼時代行列(クリックすると大きなサイズを別ウィンドウに表示します)

「八重の桜」で復活を!会津若松

2012-11-01 18:10:14 | その他
 高校1年生だった昭和36年(1961)、福島県の会津若松で行われた第16回国民体育大会夏季大会は僕にとって生涯忘れ得ぬ想い出となっている。社会人になってからもその想い出を辿るように何度か訪れた。3年前、その時の映像をインターネット上で偶然発見した時は嬉しかった。福島県の各自治体が開設した「ふくしま教育情報データベース」というサイトだった。何度も何度も繰り返し見ていた。ところがしばらくして、そのサイトが閉鎖された。がっかりしたが、またいつか復活するだろうと期待して待っていた。そしてつい先日、サイトが復活しているのに気付いた。最初に見つけた時と同じくらい嬉しかった。また折にふれてアクセスして昔の想い出に浸りたい。
 その福島県は、昨年3月の東日本大震災や東電福島第一原発事故によって甚大な被害を受け、いまだにその被害に苦しめられている。会津若松も一時は観光客が激減したそうだが、最近やっと復活の兆しが見えて来たそうだ。なんとか一日も早く市民生活がもとの状態に戻ることを願ってやまない。
 来年のNHK大河ドラマは会津若松が舞台となる「八重の桜」だ。これが起爆剤になって復旧のスピードアップが図られるのではと期待している。

ふくしま教育情報データベース

※写真をクリックすると映像にリンクします。

メーン会場の鶴ヶ城内会津若松市営プールにおける開会式

新潟県の柏崎にまつわるエトセトラ

2012-07-18 19:41:40 | その他
 このgooブログの編集ページには「あの年の今頃、何してた?」という企画があり、過年度の同じ時期にアップロードした記事の写真をサムネイルで表示してくれる。今朝見た時は5年前の2007年7月の写真が表示されていた。その中でどうしても思い出せない写真が1枚あった。気になったので2007年7月の記事を確認してみた。するとそれは下記のとおり、柏崎刈羽原発の事故についての記事で、写真は刈羽原発を上空から見た「Google Earth」の画像だった。記事を読みながら、最近話題の政府が行なっている「エネルギー政策に関する意見聴取会」のことを思い出した。そして日本は昨年、未曽有の大災害を経験しながら、5年前と何も変わっていないような気がした。
 それはさておき、柏崎は僕が高校3年のインタハイ前、水球の夏合宿をやった思い出の地。現在、柏崎には高校や大学のチームの他、社会人のチームまである「水球の町」として市をあげて振興を図っている。大いに期待する一方、わが熊本の水球事情を振り返ると寂しい思いが交錯した。

刈羽原発(2007.7.18)
 新潟県中越沖地震で柏崎刈羽原発は3号機の火災が発生したが、その後も次から次にその他の事故の発表が続き、耐震性の設計に問題があるのではないかと指摘されている。記者会見における東電側の対応もしどろもどろと言った感じで、地域住民に不安を与えているようだ。要するに設計上の想定を大幅に上回る地震が来たということなのだろうが、見通しが甘いのではないかとの記者からの質問に、東電の担当者も何か奥歯にモノが挟まったような感じだ。勝手に解釈すると、建設時に想定している地震の強さは「強くてもこのくらいでおさまってほしいなぁ」という希望的観測のレベルではないだろうか。それ以上の耐震強度を要求するとイニシャルコストがかかり過ぎて採算がとれない・・・おそらくそんなことなんじゃないかな。それが答弁の歯切れの悪さになっているのだろう。これからは人間の想像を絶するような自然災害が度々起こるような気がしてならない。そんな時、どんな建物や構造物も絶対安全ということはあり得ないと心しておかねばならないだろう。

僕の「近江山河抄」 -2-

2012-06-18 23:50:05 | その他
 サラリーマン時代、僕は約20年間で10市町村に移り住んだ。いわゆる“転勤族”と呼ばれるやつだ。だから一か所の滞在期間は平均すると2年ほどだった。各地それぞれいろんな想い出があるが、その中で滋賀県の彦根は、今になってみると惜しいことをしたという想いが一番強い。というのは琵琶湖の周辺は日本の文化の発祥地と言われるだけに、名所旧跡にはこと欠かないし、どこを眺めても風光明媚なところばかりだ。にもかかわらず、2年間の間にじっくり見たところがほとんどない。もちろん仕事でも県内各地を回ったし、何カ所かは家族と観光にも行った。しかし、滋賀を離れてみると、ここも見ていない、あそこも見落としたというところが山ほどある。
 僕が住んでいたのは彦根市内の高宮町という町だった。その昔、中山道の64番目の宿場町であり、「お多賀さん」として知られる多賀大社の門前町でもあった。町内にはそこかしこに往時を偲ばせる風情が残っていた。すぐ近くには芹川という清流が流れていて夏には小振りながら鮎が釣れた。冬の伊吹降ろしは凄まじく、べっちゃりとした重たい雪が横殴りに吹きつけた。仕事の面では今なお残る問題が僕を悩ませた。そんなこんなで決して良い想い出ばかりではないけれど、もう一度行ってみたい町の一つであることは間違いない。


こんまり流写真整理術! ~ ときめきますか?~

2012-05-23 14:41:43 | その他
 パソコンを使っていて最近の悩みのタネの一つは、デジカメで撮った写真がどんどん増えてしまうことだ。撮った写真はだいたいその日のうちにパソコンに移すのだが、いったんパソコンの中に収めてしまうと、印刷したりブログに使ったりするもの以外はそのままずっと眠ったままになってしまう。するとあっという間にフォルダの中は何百枚という写真の数になり、今度は前に撮った写真を探すのさえ大変なことになる。整理しようと思っても、せいぜいフォルダ分けするくらいで、削除するのはなかなか難しい。ついつい「いつか使うかも・・・」と思ってしまうからだ。そうこうしているうちに写真はどんどん増え続けるというわけだ。そこで最近話題の整理整頓コンサルタント近藤麻理恵さんが提唱する整理術をやってみた。簡単に言うと、その写真を捨てるか残すかを判断する際、自分の心に「この写真にときめきますか?」と問いかけてみるのだ。すると不思議、極めて判断しやすくなり、どんどん捨てられるようになった。どうもこの「ときめき」という言葉のマジックにかけられているようだ。

呉服屋さんのサイトで江戸の風俗を知る

2012-03-18 21:29:14 | その他
 古典芸能に興味を持つようになると和楽にとどまらず、衣装・風俗にも興味が出てくる。そこで日本人でありながら、着物について何にも知らないことを思い知る。せめて外国人に基本的な説明ができるくらいの知識を身に付けようとネットで検索を始めたものの、これがなかなか適当なサイトがない。あっちウロウロ、こっちウロウロしながらやっとたどり着いたのが、下に記した「着物あきない」というサイト。大阪の呉服屋さんが運営しているサイトで実によくまとまっている。特に歴史編などはたんなる読み物として読んでも面白い。着物にとどまらず、髪形や履物などについても記してあり、読み進むにつれ江戸時代の風俗がわかってくると同時に日本文化の素晴らしさに気付いていくのだ。

▼「着物あきない」
 http://kimono-akinai.com/
 
※右の絵は喜多川歌麿の「二美人洗い張り」

防府天満宮・裸坊祭とゴムクローラ

2012-02-22 19:21:02 | その他
 今日届いたブリヂストンの社内報「アロー」の事業所別のニュースの中に、山口県の防府工場のニュースとして「防府天満宮にゴムクローラを奉納」というニュースが載っていた。防府工場は1976年5月から1978年末の間、僕が勤務した工場。今回奉納したというゴムクローラというのは、本来、農機具の足回りに用いるものだが、これを防府天満宮が毎年11~12月頃に行う裸坊祭において御神幸に使われる御網代台車の車輪部分をカバーするのだという。こうしておけば御神幸の時に通る商店街のカラータイルを傷つけることがないというわけだ。思い起こせば1977年だったと思うが、ブリヂストンとして初めてこの祭りに参加した時の事務局をやったのは実は僕だ。参加者集めや用品の準備など結構大変だった。それに僕が防府の前に勤務していたのが熊本県玉名市にある熊本工場。しかも僕が転勤する数年前に熊本工場で作り始めたのがこのゴムクローラ。ゴムクローラ生産を立ち上げる時の製造現場の苦労もよく憶えている。今回奉納されたゴムクローラももちろん熊本工場製。二重の意味でとても懐かしいニュースだった。

孫の成長を実感! ~ おゆうぎ会 ~

2012-02-13 16:53:55 | その他
 昨日は、孫のてっぺいが通っている幼稚園毎年恒例の「おゆうぎ会」。てっぺいはプログラムの1番目から登場するとあって、家内と朝早くから久留米へ出かけた。この幼稚園の卒園生である姉のみわは、今もこの幼稚園で行われているバレエ教室でレッスンを受けており、教室のなかまと一緒にバレエを披露した。てっぺいは合唱&合奏と音楽劇「ジャックと豆の木」の二つに出演したが、いつでも一生懸命、オーバーなくらいのアクションが彼らしかった。みわは2年生ともなるとバレエの動きにもだいぶしなやかさが出てきて少女らしさを感じさせた。二人の成長をあらためて実感できた一日だった。

 

懐かしのマイカー!

2012-01-17 21:31:25 | その他
 先日マイカーの車検を受けた。現在のトヨタ・ラッシュに替えてからもう2回目の車検だった。ところでこのラッシュはいったい僕の何代目のマイカーなのだろう。初めてマイカーを買った、というより両親に買ってもらったのが昭和43年(1968)だから、44年経ったことになるが、だいたい5、6年乗ったとして7代目か8代目になるのだろう。途中の数代は記憶が薄れているが、この最初に乗った車だけは今でも鮮明に憶えている。赤いダットサン・ブルーバード1300ccの中古車だった。この車を最近、「愛@スパイダーさん」のブログ(http://alfa1225.blog73.fc2.com/)で見かけた。懐かしい想い出がよみがえった。最初に就いた仕事はトラックのセールスだったので、この車で僕のテリトリーである阿蘇や上益城を駆け回った。真夜中近い訪問先からの帰り、山道でエンストしてしまい、通りがかった人たちに助けていただいたことや、納車に行くと当時は必ず祝酒がふるまわれ、必ず飲酒運転になっていたこと。当時は飲酒運転については一般社会でも今日とは比べものにならないくらいルーズだった。また、山道など交通の不便なところでは、下校時などの中高生の女の子が手をあげて車を止め、平気で乗り込んできたものだ。今では考えられないことだ。

酒井恭次先生のこと

2012-01-03 23:52:48 | その他
 毎年正月になると、とても気になる年賀状が何枚かある。そのうちの1枚が酒井恭次先生の年賀状だ。酒井先生は僕がブリヂストン在職時、ずっとお世話になった方で、横浜工場の産業医を永年務めておられたお医者さんである。今年91歳になられる。先生からの年賀状を拝見すると「あゝまだご健在だったか!」とホッと胸をなでおろす。入社してすぐに新入社員研修を受けたのが横浜工場だったので、その時からお世話になり始め、もう42年が過ぎた。僕が横浜にいたのはその新入社員研修の半年間だけだったが、その後も仕事の上で先生との関係は続いた。最も濃密な関係だったのは僕が本社の労働安全衛生部門にいた時だった。その頃すでにブリヂストンにとどまらず、産業医学の面で幅広く活躍されていた酒井先生には、高齢化が進んでいた社員の健康管理施策を策定するにあたり、いろいろ教えを請うことが多かった。そして夜になると必ず横浜の街に連れて行っていただき、何軒も飲み歩いたものだ。僕が退職してからはほとんど年賀状のやりとりだけになったが、必ず近況が書き添えてあった。その書き添えられる言葉が、ここ数年、戦時中の話が多くなった。今年の年賀状にも「昭和17年10月、西部16部隊に入隊した・・・」と書き添えられていた。西部16部隊とはかつて熊本にあった日本帝国陸軍の部隊である。先生はおそらく、僕のことを考えてできるだけ共通の話題になるように、熊本にいた頃の話を書かれたのかもしれない。そんな心配りをされる姿を想像したら、年賀状だけでなくもっとまめにお便りをしなければ、と反省した一日だった。

初詣 2012

2012-01-02 16:09:00 | その他
 今日2日は毎年恒例、加藤神社への初詣へ孫たちと一緒に出かけた。ついこの前、初詣したような気がするが、もう1年経ったとは・・・。とにかく時の過ぎるのが早く感じられる。昨年は元日が雪、2日は快晴と極端な天候の変化があったが、今年は元日、2日ともハッキリしない曇り空。しかし今年も人出は多い。やっぱり昨年があんな年だったので、平穏無事を祈って参拝する人が多いのかもしれない。今年も破魔矢を買い、二の丸公園で記念撮影をしながら帰った。


マイブログ2011 ベスト10

2011-12-30 23:22:22 | その他
 今年は1月1日から昨日まで、このブログに369本の記事を書き込んだ。その中で特に印象深い記事10本を選んでみた。

京町測候所、109年の歴史終える!(2/1)
 子どもの頃から京町測候所として馴染んできた熊本地方気象台が、新しく出来た熊本地方合同庁舎に引っ越して行った。明治35年(1902)に始まった京町での歴史を終えた。移転に当って永年親しまれてきた桜の開花標本木を無情にも切り倒して行ったのはどうしても納得できない。

東北地方太平洋沖地震!(3/11)
 翌日に九州新幹線全線開業を控え、リレーつばめのラストランの写真を撮りに行った田原坂で大地震発生を知る。行きの車中なぜか、そろそろ大地震が、などと話をしながら行ったが、あまりの偶然に言葉もなかった。

なでしこジャパン! ~ 平成の東洋の魔女! ~(7/18)
 男子サッカーに比べ、極めて恵まれない環境の中で頑張ってきた日本女子サッカーが、男子に先んじて世界のタイトルを獲ってしまうという皮肉。あらためて日本女性の逞しさに敬意。サッカー界にとどまらず、日本全体に与えた勇気と希望ははかりしれない。

わが家にテレビが来た日 ~ アナログ放送終わる ~(7/24)
 テレビのアナログ放送58年余の歴史が幕を閉じた。わが家にテレビが来たのは昭和33年(1958)の春。皇太子殿下と美智子様のご成婚パレードの映像は今でも鮮明に憶えている。

消えた女子フットボーラーを悼む ~ なでしこフィーバーの陰で ~(8/6)
 かつて益城ルネサンス熊本FC女子サッカーチームの中心メンバーとして活躍していた佐藤恵利子さんが東日本大震災で亡くなっていた。熊本県民の一人としてあらためて彼女に御礼と哀悼の言葉を送りたい。

九州新幹線で鹿児島へ!(8/14)
 孫たちも一緒に初めて九州新幹線で鹿児島へ行った。鹿児島は何度も行っているが、その距離感の違いにはあらためて驚く。

野林祐実 久々の会心のレース!(9/17)
 熊本の陸上短距離のホープ、野林祐実選手に期待して春先から彼女のレースをほとんど見に行った。しかし、今シーズンはケガもあってなかなか実力を発揮できなかった。来シーズンこそと期待している。

坂崎先生が描いた熊本城(11/17)
 父母の教員仲間でもあった坂崎健二郎先生が3月に亡くなり、毎年末、先生が描かれた熊本城の水彩画をパソコンに取り込む楽しみがなくなった。本当に寂しい。

母の卒寿を祝い人吉旅行(11/19)
 母の卒寿祝いでわが兄弟姉妹4組の夫婦連れ立って人吉への一泊旅行をした。あいにくの雨天だったが、人吉市内観光と人吉旅館での宿泊、そして翌日の五木村、五家荘の紅葉見物は忘れられない想い出になった。

Traditional arts of Japan which young girls perform(12/6)
 今年も少女舞踊団ザ・わらべには楽しませてもらった。彼女たちの踊りを見ると心から癒される。お蔭で僕も日本の伝統芸能に結構詳しくなった。また、このブログを海外の人が見ていることがわかり、ザ・わらべの英語版紹介記事を初めて作った。

 

 

 

 

 

太平洋戦争開戦の朝

2011-12-07 23:17:22 | その他
 明日12月8日は太平洋戦争開戦の日。父の回顧録から、今からちょうど70年前、昭和16年(1941)のその日に想いを馳せてみたい。

▼太平洋戦争開戦の朝
 その日は意外と早く目が覚めた。それと言うのも、この日は朝八時から防空監視哨当番の日であった。いつになく早起きしたし、間もなく六時というので、珍しくラジオのスイッチを入れた。すると間髪を入れず「臨時ニュースを申し上げます、臨時ニュースを申し上げます」というアナウンサーの声。何事ならんと耳を傾けると、「大本営陸軍部発表、帝国陸海軍は本八日未明、西太平洋において米英軍と戦闘状態に入れり」というニュースであった。そしてその後は軍艦マーチが鳴り止まず・・・。これこそ正に青天の霹靂であった。ラジオの前にしばし呆然としていた私はハッと我にかえり、奇しくもこの開戦に当り、熊本市防空監視哨の一番立ちの任務につくことに異常な興奮と身の引締まる思いで一ぱいだった。朝食もそこそこに教練服に身を固め、監視所に急いだが、私が現地に着くと班員は既に集合を終えていた。正八時、いよいよ上番との交代である。この頃になると在熊の防空部隊が手に肩に高射機関銃や実弾の一ぱい入った弾薬箱を携え、続々と監視所のある屋上に詰めかけ、たちまち辺り一帯は緊迫した雰囲気に包まれた。防空監視哨というのは、昭和12年に防空法が公布され、各都市において空襲に備えて置かれた監視哨である。大方の町や村では青年学校の生徒をその要員としていた。熊本市には当時十数校の青年学校があったが、島崎校区には第七青年学校があり、陸軍歩兵伍長の資格を持つ私は島崎校の教練指導員も兼務していたので、島崎校が当番の日には班長として指揮をとったのである。監視所は紺屋町の元九電熊本支店の屋上にあった。任務は望楼に立つ見張員が敵の機影あるいは爆音を耳にした場合は、直ちにこれを班長に報告。班長はこれを確認し間違いなしと見れば電話で市の防空監視哨長に報告するのである。この報告が場合によっては警戒警報あるいは空襲警報、避難命令となって市民に伝えられるのである。監視哨はいわば市民の尊い生命財産を守る尖兵というわけだ。防空監視哨の創設以来、わが国が最初の空襲を受けたのは昭和13年5月、中国軍機が熊本県の球磨芦北地方に反戦ビラをまいたのが嚆矢である。これ以来太平洋戦争開戦まで空襲はなかった。こうして開戦第一日の任務についたのであるが敵機の来襲もなく、緊張とは裏腹に平穏な一日が過ぎ、気合抜けの感があった。
※写真は戦時中、父が勤務した三菱熊本航空機製作所で製造された爆撃機「飛龍」