見事な旅立ちだった。患者から“平成の布袋先生”と慕われた河野龍己先生が先日他界された。享年90歳だった。まるで予期していたかのように1年前、永年開業されていた河野医院を閉院された。母のかかりつけ医でもあり、玉名の同郷で、玉中と高瀬高女と学校は違えど同学年、共通の知人も多かった。そんなわけでわが家は家族ぐるみで懇意にしていただいた。
河野先生の曾祖父は幕末の肥後細川藩の藩士で漢学者、熊本近代教育の祖として知られる国友古照軒、そして祖父は明治時代のジャーナリストで、朝鮮閔妃殺害事件に関わったとされる国友重章。数年前、河野先生は韓国に渡り、遺族に土下座をして祖父の罪を謝罪した姿がセンセーショナルに報道された。直言居士であり信念の人だった。しかしいつもユーモアに富んでいた。古武士を思わせる風格があった。もし旧藩時代に生まれていたなら細川家の侍医になっていたかもしれない。閉院して暇になったからパソコンでいろんなことをやってみたいと言われた。その手始めに住所録作成のお手伝いをしたばかりだった。まるで父を亡くした時のような喪失感に襲われる。合掌。
河野先生の曾祖父は幕末の肥後細川藩の藩士で漢学者、熊本近代教育の祖として知られる国友古照軒、そして祖父は明治時代のジャーナリストで、朝鮮閔妃殺害事件に関わったとされる国友重章。数年前、河野先生は韓国に渡り、遺族に土下座をして祖父の罪を謝罪した姿がセンセーショナルに報道された。直言居士であり信念の人だった。しかしいつもユーモアに富んでいた。古武士を思わせる風格があった。もし旧藩時代に生まれていたなら細川家の侍医になっていたかもしれない。閉院して暇になったからパソコンでいろんなことをやってみたいと言われた。その手始めに住所録作成のお手伝いをしたばかりだった。まるで父を亡くした時のような喪失感に襲われる。合掌。
そんなご関係がおありでしたか!
河野先生が亡くなられて早いもので今年は七回忌ですね。
最晩年は書道の教室に私の母と一緒に車で送迎しておりました。
河野先生永年の念願でした自作の詩「田原の夢」を西村直子さんの歌でCD化できたことを大変喜んでおられた姿をよく思い出します。
一昨年、舞台「アイラブくまもと 漱石の四年三ヵ月」の熊本公演を拝見いたしました。また機会がございましたらぜひ熊本での舞台を拝見したいと願っています。