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徒然なか話

誰も聞いてくれないおやじのしょうもない話

柳川抒情

2025-05-15 22:49:17 | 日本文化
 フォローさせていただいているブログ「田園都市の風景から」さんの直近記事に、福岡県柳川市の「沖端水天宮・春の大祭」をリポートされていました。
 柳川にはもう数えきれないほど訪れていますが、この祭りはまだ見たことがありません。一度は見ておきたいと思っています。記事中の写真の転載をご承諾いただきましたので、そのうちの2枚を掲載してみました。


堀に浮かべた舫い船の上に乗せた舟舞台で演じられる様々な芸能。


邦楽演奏や地歌舞伎などが披露される。

 沖端水天宮のすぐ近くに生家がある北原白秋は、少年時代を過ごしたふるさとを描いた随筆「水郷柳河」の中でわが町を、廃市(廃れた町)と言い、街を掘り巡らした水路やたった一つ残った遊女屋懐月楼や古い白壁など、故郷の水郷の町の廃れゆく姿とそこで暮らす人々の哀感を、愛を込めた眼差しで描き出しています。しかし、今日では柳川は白秋の時代とは全く様相を異にする観光都市として賑わっています。


川下りを楽しむ観光客を乗せて進むどんこ舟

 かつての柳川の情景を描いた長唄舞踊を2曲ご紹介します。

   ▼水郷柳河の風情を唄った長唄舞踊「水の上」

   ▼北原白秋の詩集「思ひ出」の中の「柳河」「立秋」「水路」などをモチーフとして、
    白秋の詩の世界を長唄にした「水辺立秋」。


 わが家の辺りは江戸時代「柳川小路」と呼ばれていました。明治時代になってから柳川丁となり、終戦後の町名変更で京町本丁や京町2丁目へと変わりましたが、わが祖母はずっと柳川丁と言っていました。その経緯について熊本県大百科事典(昭和57年出版)には次のように書かれています。

「柳川小路(やながわこうじ)」
――熊本市京町本丁の東側と京町2丁目の旧称で、京町柳川というバス停にその名残をとどめている。「やながわしょうじ」とも言われる。慶長五年(1600)関ヶ原の戦で、城地を没収された柳川城主立花宗茂は、加藤清正に家臣たちの扶養を依頼した。清正は即座に200人にも上る柳川衆を快く引き受け京町に住まわせたので、以来この一帯を柳川小路と称した。元和六年(1620)宗茂は柳川城主に復帰し、柳川衆は全員帰参したが、地名はそのまま明治に至るまで柳川小路と呼ばれてきた。――
<鈴木 喬>

 そんなわけで筑後の柳川についても幼い頃から親しみを感じていました。柳川には今まで何度も訪れていますが、これからも度々訪れることでしょう。

 わが町に「柳川小路」の痕跡を探してみました。


江戸時代の絵図に残る「柳川小路」


東の柳川小路の風景(上の絵図の一番右(東)側の上半分


民家の壁に貼られた柳川丁の案内板

左から「瀬戸坂」の標柱には「東柳川の坂」という説明が見える。
瀬戸坂に沿ったNTTの電信柱には「東柳川支線」と書かれたプレートが貼られている。
熊本都市バス第1環状線のバス停には「京町柳川」の名称が残る。


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2 コメント(10/1 コメント投稿終了予定)

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おはようございます (九州より)
2025-05-16 09:03:42
私のブログのご紹介有難うございます。
長唄舞踊の歌詞に出てくる言葉は白秋の詩の世界です。
現役の頃、熊本には仕事で何度も行きましたが、柳川との縁は知りませんでした。
地名が残っているのですね。
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Re:九州より様 (FUSA)
2025-05-16 12:53:11
写真を使わせていただきありがとうございました。
白秋の生家は3回訪問しましたが、いつも白秋の詩の世界に想いを巡らして心豊かな時間を過ごしています。
私が生まれ育った町が柳川とゆかりがあったことは私にとって幸せなことだと思っています。
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