ボクの奥さん

ボクの奥さんは、甲斐よしひろさんの大ファン。そんな彼女との生活をお話したいと思います。

甲斐よしひろ BEAT HARDWORK(9/2)2

2022-09-08 21:15:00 | メディア
「パートナー」が終わると、夏休みの学童保育のアルバイトをなさった方からの投稿…
正規の支援員の方5人の内、3人の方がコロナ陽性となられ欠勤…(汗)
アルバイトの方も6人中、お2人が陽性、お子さん達も入れ替わり立ち替わり感染され

「あんなに神経使って気をつけてたのに…」という方が感染なさったことで
ご自身も感染するかも知れないという恐怖をお感じになり
また、欠員が出ても閉所にはならず、身体がもつのか?という不安を抱えられたものの
感染することはなかったそうですが「無症状だったってこともあり得ますね」…との内容に

「そうそうそう、ホントにね」と頷かれる甲斐さん
「えー、ねぇ?えー、熱が出たら、もうとにかく、37度5分以上とか、ナンか出たら
もう絶対それは検査した方がいいということですよね、ハイ
えー、ホント、お疲れ様です。大変でしょうが、ホントに頑張って欲しいと思いますね、ハイ」

…と、おっしゃってましたが、kainatsuさんも自宅待機を余儀なくされていらしたし
奥さんの職場からも、陽性者や濃厚接触者になられる方が続出しているみたいで(汗)
「私も無症状なだけで感染してんじゃないかなあ?」と申しておりました(苦笑)

そうそう!ボクも立て続けに2回、接触確認アプリ「COCOA」から
「陽性者との接触が確認されました」って通知が来たんだけど
1回目は、接触があったとされる日が、1週間前の日付になっていて

自覚症状がなければ、1週間様子をみるようにとの一文に
「えっ!?今さら言われても…」と戸惑いしかなく(苦笑)
2回目は、その日付すら書かれてなくて「これ、通知する意味ある?」とツッコミ(笑)
おかげさまで、感染の気配すらないまま今に至っております(笑)

それはさておき…「ナンか最近、あの…特にですね
最近、特に思うのは、あのイソジン…イソジンガーグルね
ホントに効果があるかどうかって話があったじゃないですか?僕ね、アレ、効果あると思うんですよ
でね、日に…僕も3回も4回も、何か事あるごとに使って
うがいするんですけど、効果はあると思います
だって、あの…のどのところで止めるか、ほっといて体の中に入って行くかっていう…

で、で、しかも、おまけに、ねぇ?どこでうつったか判らないって、罹った人間全員が言ってる訳だし
まあ、だから、のどのところで上手く殺せたら
えー、それはやっぱり絶対いい…いいもんね、やっぱりね
えー、まあ、今頃言うのもナンですけども、大阪府知事の吉村さんが言ってたこと、ねぇ?
必ずしも嘘じゃないなあという感じが、最近すごいしてますよ、ナンか…

えー、ナンかアレは、ナンかこう…気分的にもね、外出してきて、やって…
まあ、うがいして…手洗って、うがいして、やって、で、イソジン使ってっていう風にすると
ナンかこう…それなりに、ナンかこう…サウナが入るんですよ
『整いました』みたいな感じになるんで、えー、ナンか、ね?
やっぱり、やった方がいいんじゃないかなと思いますけどね、ハイ」と話されてましたが

「今さら」っていうか「イソジンさえ使っていれば感染しない」という
吉村府知事の発言が正しかった云々というより
うがい手洗いは、風邪やインフルエンザの予防に効果があるのと同じでしょう(笑)
コロナ禍になったばかりの頃に、松藤さんとお二人で、うがい手洗いが習慣になったから
風邪やインフルエンザに罹る人が減るんじゃないか?とおっしゃってましたよね?(笑)

まあ、奥さんは「イソジン」を使うと、自浄作用を促したり、自衛のために必要な菌も
一緒に洗い流されてしまうからと、フツーの水道水でうがいしてますけど…(笑)

続いては…「許すチカラ」の金子恵美さんの発言について
立憲民主党の蓮舫議員がツイッターで非難なさると
金子さんは「残念なことに、また蓮舫さんにカラまれました」とブログにお書きになるといった
このお二人の対決が話題になっているとの投稿

「どちらが正しいかはさておき『蓮舫氏にカラまれた』と聞いて
熊本料理の『カラシれんこん』ならぬ『カラミ蓮舫』だなあと思った」と投稿者の方(笑)
甲斐さんは「そばで…そばからカラんで行く人っていうのがいるんで
『カラミそば』っていうのも、まああるんですけど…」と返されたあと

「僕、あの…金子さん…金子恵美さんは『バイキング』で何度か…
あのー、何度か一緒になったことがあるんで
ああいう雰囲気なんですけど、意外にオーソドックスな発言をする人で、あの人…
えー、ねぇ?まあ、トリッキー蓮舫からするとですね
トリッキー蓮舫とは違うなという感じがしますね

あの…まともな発言するんで、逆に地味な雰囲気もあるんですけど
でも、あのルックスじゃないですか?金子さんは、ねぇ?
単に八つ当たりなんじゃないですかね?蓮舫さんはね、ハイ
あのー、今、あの…蓮舫さんは…これ、もうすごい色々言われてんですけど

こないだの選挙あったじゃないですか?選挙で党内がもう全然ダメだったんで
党内の人すべてに八つ当たりしてるっていう…今…ハイ、してるそうなんで
やっぱり、こう…八つ当たりなんじゃないですかね?

まあ、ある種の焼きもちもあるかも知んないですね
目の前の目障りな美しさは、すべて潰すと…そういうことですね、ハイハイ
残って行くのは私だけっていう、そういう…そういうことですね、きっと…」と分析?され
…って、その前に「金子えみ」さんじゃなくて「金子めぐみ」さんなんですけど…(苦笑)

「えー、まっ、あのー、僕、関係ないんで、もうラジオで何でも…
まあ、何言ってもいい訳じゃないですけど、ええ…
ナンか『そんな感じがしないでもないぞ』みたいな感じですかね、ハイ」と話されてましたが
以前にも「テレビじゃ言えないこともラジオなら言える」とおっしゃって
番組スタッフの方から「ラジオでもダメです」とツッコまれていらしたような気が…?(笑)

それはさておき…「えー、10月5日にリリースされるBOXセット、ね?
えー、KAIFIVEのナンバーを…じゃあ、お届けしましょう」と「幻惑されて」を流されたあと
甲斐さんが出演なさった「歌える!J-POP黄金のベストアルバム30M」についての投稿へ…

加藤和彦さんのライブ映像ということでオンエアーされた
「あの素晴らしい愛をもう一度」は「2歳の時の曲」だという投稿者の方は
放送禁止になった「イムジン河」の方が印象に残っておられるらしいんですが
甲斐さんは「『イムジン河』ね…(笑)」と、ナゼか笑いを含んだ声になられたかと思ったら

「これ、今初め…もう初めて…初めて喋りますけど…『イムジン河』のジャケ…
『イムジン河』放送禁止になった時に『イムジン河』のジャケットに大きく…
あの…シン…アナログ盤のシングル、ね?ジャケットに大きく『放送禁止』って
バッとマジックで大きく書かれたシングルを、僕は、実は持ってるんですよ

で、それ、ナンで持ってるかっていうと、東芝EMIの宣伝部の机の上に置いてあったものを
『えーっ!?』って、そうやって…ビックリして
そのまま黙って持ってきたんですよ、僕ね、ええ…
それと同じで、あと、ダウンタウン・ブギウギ・バンドのファーストアルバム…
ファーストアルバムを…『網走番外地』も放送禁止になったんで、えー、それも…

あのー、アルバムなんですけど、それも全面…こう…全面的に『放送禁止』って、ドーンって
もうとにかくね、昔は、あのー、ナンだ…変に持って行かれて、あのー、ナンてか?
ラジオで、あのー、かけられたりするとヤバいじゃないですか?
だから、でっかく書くんです、そうやって…
それも…全面的に『放送禁止』って書かれたファーストアルバムも僕はやはり持ってます
それも、EMIの宣伝の机の上から持って来ました、ハイ(笑)えー、で、今も僕それ持ってます

えー、イヤ、どうせねぇ、どうせ処分されるものなんですよ、アレ…
だから、もったいないじゃないですか?捨てられたら…
こんなアーティストが頑張って作ってるのに…っていうんで
えー、処分前にということで、僕は、えー、黙って頂戴してきております、ハイ」

…と話されてましたが、奥さんは、かつて「ブルーレター」の
「孕ませて」という歌詞が、放送コードに抵触するとかで、放送禁止とまでは行かないものの
放送自粛に舵を切る放送局が多かったことを思い出したらしい(苦笑)

ちなみに…「イムジン河」のコードを逆から繋げて作ったとされている「悲しくてやりきれない」は
加藤和彦さんが、パシフィック出版の会長室に缶詰めにされた際
「イムジン河」のメロディーを逆に辿っておられる内に
新たなメロディーを閃かれ、実質15分で完成した曲なんだとか…(笑)
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甲斐よしひろ BEAT HARDWORK(9/2)1

2022-09-07 14:50:00 | メディア
9月放送分もまた、収録日が変更になったみたいで
何か急なお仕事がおありだったのか?と思っていたら…
「えー、収録してる今日は、8月の26日ということで…」と甲斐さん

「10月の5日にですね『HOT MENU』という、ね?
えー、僕のソロワーク…えー、35周年ということで
『HOT MENU SOLO WORKS COMPLETE BOX』みたいな感じで
えー、10枚組プラス未発表1枚という感じでですね

まっ、ソロワークとKAIFIVEのアルバム全10作品…
えー、まっ、それをねぇ、ロンドンでデジタルリマスタリングやって
更に、まっ、未発表の音源を収録ということで…えー、それ、じゅう…12曲くらい入ってるのかな?
えー、しかも、まあ118ページの豪華ブックレット(付き)という感じなんですけど…

まっ、これ、あとで詳しく言いますけど、今日は、その…えー『HOT MENU』のBOXセット
その特集をお届けしようということで思ってます
まあ、とにかく、この番組がねぇ、いつも…こういうのはもう口火なんで
口火を切るという感じなんでですね、えー、もう…

デジタルリマスタリングもまだ…実は終わってなくて
ロンドンとのやり取りが続いております、ハイ」と、おっしゃっていて
その「やり取り」の関係で、甲斐さんのスタジオが収録に使えなかったのかなあと…?

ともあれ…「あのー、詳しく言うとですね、ちょっと面白いんですけど
えー、ロンドンとそのデジタルリマスタリングのやり取りすると
1曲いくら…1曲いくらなんですけど、それを…
『この曲とこの曲が、このポイントが気になるんで、こういう風にしてやってくんない?
…っていうようなことで、まっ、1回、向こうに返しますよね?そこまではタダなんだけど

そのあとまた(戻って)来て『イヤイヤ、違うし!』ってなったら
お金が発生すると、更に…っていう、ややこしいんで
まっ、ナンとか2回目で、えー、収めときたい…というのが、まっ、あるんですけど…

(前作のベストアルバム)『FLASH BACK』は、ディスク1、ディスク2(と2枚)あって
どっちも15~16曲ずつ入ってたんじゃないないかと思うんですけど
全部聴いて、全部突き返したと…さすがに怒って、向こうのジョン・デイヴィスってエンジニアが
『何が悪いんだ!?』っていう話になって…全部ですからね、ええ…

『イヤイヤ、あのね、ボトムは良いんだ』と…
だけど、上のキラキラ感、ね?キラキラ感が、こう…なくて
『もっとこう…高域のもっと更に上の方でキラッとするような部分の音域まで広げて
えー、マスタリングして欲しいんだよね』って言ったら

その通訳してるヤツが『キラキラ感』が判んなくて、ナンて言うか…
ずいぶん、こう…ナンか揉めたらしいんですけど
それね『フィッシュ』って言うんです(笑)」と笑っていらっしゃいましたが(笑)
かつてナッシュビルで、現地のミュージシャンたちとレコーディングなさった時は
「通訳を通す不毛さ」に耐えかねて、直接ギターを弾いて見せられたんですよね?(笑)

「これ…イヤ、これね、向こうに行って仕事してると判るんです
こっち側で『もっとクリアな音』って言うじゃないですか?
『クリア』って向こうに言うと『えっ!?クリアって、どういう意味?』(…と訊かれる)
使い方で違うんですよ『クリアな音』って…

『クリアな音にしてよ』『えっ!?それ、硬くしろってこと?それとも…どういうこと?』
…っていう風になるし、確かにそうなんだよね
もっと…だいたい『もっとエッジの効いた感じ』とか、色々、具体的に言っていかないと…
だから、日本語英語…日本で通じる英語っていうのは、意外と向こうでは通じないんで

そこは…えー『もっとこう…通りがいい感じにしてくれ』とか
えー『声がね、近くないんだよ』とか、そういう風に言った方が、まあ、いい
なかなか難しいことなんですけどね」とおっしゃってましたが

甲斐バンドのアルバム「GOLD」のディレクターを務められた大森さんも
専門用語の英和辞典を片手に、ボブ・クリアマウンテンに説明なさったものの
甲斐さんによれば…「あの温厚なボブが、珍しく険しい顔してた(笑)」そうで
「おたまじゃくしは万国共通」とはいえ、音のイメージまでは伝えてくれませんよねぇ(苦笑)

「まっ、そういうやり取りをしつつ、今月いっぱいで終わらせないと
まあ、ダメだという感じなんですよね、ハイ
ということで、えー、その中で、ある程度、完成をみたテイクだけを選んで
今日はお届けしたいと思っております」と告げられ、インターバルを挟んだあと

「まずは1曲目、これは『パートナー』というアルバム、ねぇ?
えー、チャゲが作詞したりとか、森雪之丞が作詞したりとか…えー、そうですね、もう…
後藤次利くんと2人で曲を書いてるとか、色々こう…ちゃんと相方を作りつつ
えー、やって行ったという…m.c.A・Tとかもあったりして…

その『パートナー』というアルバムの1曲目…えー、同名ですね
えー、甲斐よしひろ『パートナー』を聴いて下さい」と流されてましたが
甲斐さんは、アルバムの1曲目にキーとなる曲を配されるという「お約束」に当てはめて考えると
このタイトルチューン「パートナー」は、様々な方とコラボなさったという
アルバムの内容に則したタイトルでもあるし

また、アルバムのキャッチコピーに「挑発という名のパートナーシップ」と記されているのは
「今って、日本中が喪失感を抱えちゃっててさ
誰かを見つけて愛と信頼の中で互いを支え合って生きていく
っていうことが、すごく欠落してると思うのね
だからこそ必要なのは、パートナーシップ
その部分を切り取って歌にしたいって思ったんだ」という
甲斐さんの時代感覚を象徴しているんじゃないかと…?

もっとも、当時のインタビュー記事では…
「最初からコラボレーションアルバムを作ろうと思ってた訳じゃなくって
去年、期間限定の甲斐バンドの復活があったんで
(アルバム制作の)作業に入るのが2ヶ月以上延びちゃったんです

だから、その間に更に作り込んでいこうと思って
『パートナー』ってタイトルだから、特定の相手を見つけて
コラボレーションしていけば面白いだろうなって思って展開して行った感じですね」と明かされてます(笑)

ちなみに…一番最初にチャゲさんに依頼なさったのは
「最初に難しそうな相手にオファーするところから始めた方が
今回のコンセプトがどれくらい相手に通じるものなのかっていうのが判りやすいじゃないですか
それに『この人でなくっちゃ』っていうところまで掘り下げて
どういうものが欲しいのかを明確にして振ったんで…」と明かされ

「僕も漠然と人から振られて迷惑したことがあって
『何でもいいから書いて下さい』って言われるのが一番困るんだよね
だから、同じキーワードをコラボレートした人全員に振ったんですよ
『1つのハートより、2つのハートの方がいい』っていうのと
『お前といきたい、ひとりぼっちはイヤだ』っていうのがキーワードで

アルバムのタイトルは『パートナー』ですよ
それ以外の表現は自由ですっていう感じで…
その方が、逆にバラついたものが出来る可能性が高いからね
だから『その人のくすぐりになるんじゃないかな?その人がそそられるんじゃないかな?』
…っていうくらい、かなり掘り下げてから振ってるんですよ」

…と「ハート」と「破れたハートを売り物に」の歌詞から採られた?
…とおぼしきフレーズを挙げておられますが
これって、かつて某時計メーカーのCMソングを依頼された際に
広告代理店の担当者の方が、キャッチコピー案みたいなフレーズを幾つか用意なさっていて
その中から、甲斐さんが「これならやります」と
「HEROになる時、それは今」というフレーズをお選びになった「方式」と似ているような気が…?(笑)

それはともかく…「森雪之丞とかチャゲとかだったら、作詞を依頼している訳で
当然のように曲先だから、その曲がキーになるじゃない?
『この曲だったら、こういう形でそそられるだろうな』っていう感じでね

で、チャゲからOKが出て『BLUE』っていう歌詞が出来てきた時に
今度のアルバムは、非常に良い展開になるんじゃないかなっていう
予感めいたものはありましたね」…と話されていて
長年、ディレクター、プロデューサーとしても活動なさって来た方らしい戦略ですね?(笑)
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週刊現代(9/3.10号)5

2022-09-06 15:20:00 | メディア
この記事の最後…「氷川きよしも博多出身」という小見出しに続いては
「照和はやがてプロシンガーへの登竜門に位置づけられ
かぐや姫に入る前の伊勢正三も客として通ったという」と森さん

映画「照和」の中で、甲斐バンドの田中一郎さんが「照和でも勉強になるんだけど
ホールでのコンサートと両立できないとダメだと思っていた」とおっしゃっていたのは
照和のステージは不断の努力をする場、コンサートはその努力の成果を見せる場所であり
成功すれば自信がついて、その自信が照和のステージに跳ね返り
上手く行かなければ、より努力に励むようになるかららしく

また、地元メディアのアマチュア参加番組にも演奏の場を求めたことが
結果、音楽を演っている学生たちの間に照和の名前を浸透させることになり
ラジオに出演したバンドが、照和で演奏していることを告げると
そのバンドを目当てに見に来たり、自分たちも照和に出演したいとやって来たり
互いに連動して照和は全盛期を迎えることになったみたいです

以前に甲斐さんが話されていたように、照和の入っている建物の周りを行列が囲んでいた頃は
100組以上のバンドが、オーディション待ちをしていて
レギュラーと言えども、常に努力、練習をしなければ、その座をいつ奪われるか判らない状態(汗)
照和に出演しているかどうかで、そのバンドの信用度まで違っていたんだとか…(笑)

長渕剛さんも鹿児島県から出て来られ、照和に出演することを夢見ておられたそうで
「オーディションに合格した時は天にも昇る気持ちで
道行く人全員に『俺は照和に出られるんだぞ!』と叫んで回りたかった」らしい(笑)

それ程までに若者たちが照和に憧れたのは、音楽を演っている者にとって最高のステータスであり
音楽で身を立てたいと望む者にはプロへの近道に思えたことが大きかったんでしょうね?

同映画の中で、田中一郎さんと陣内孝則さんがコメントされていた通り
つい昨日まで間近に見ていた人がプロになる
同じステージに立っていたバンドがデビューする
…という事実を目の当たりになされば「プロ」が身近に感じられ
「次は自分が…」と夢を抱くことにリアリティが持てたというのも頷けます

「チューリップの再来」と呼ばれ、人気・実力共、プロになる日も近いと言われていた
ピエロに所属なさっていた松藤さんも「メンバー全員がプロになるつもりでした
井手さんが東芝EMIとしか契約したくなくて、他のレコード会社からの誘いを断ってた
そんな選り好みをするくらい、調子こいてたんですね(笑)」と話されてたし…(笑)

昭和53年には、13組ものバンドが博多からデビューし
その内、照和出身のミュージシャンは28組、延べ74人だったそうだけど
東京が遠かった頃の一地方都市、その街の小さなライブハウスから
わずか8年間にこれだけのプロを生み出したことについて

「当時の照和は、若者たちが生演奏で腕を鍛え
お互いに切磋琢磨できる場所だった」とおっしゃっていた岸川さんは
福岡が注目の的になっていた頃、連日のように東京のレコード会社や音楽関係者から
新しいミュージシャンや人気が出て来たバンドはいないかと電話で問い合わせられ
「青田刈りもいい加減にしろ!」とウンザリなさっていたそうです(苦笑)

それはともかく…「もっとも照和の全盛は10年と続かなかった
'78年の長渕剛が大物歌手デビューの最後だ
福岡のアマチュアミュージシャンたちは、ライブハウスからポピュラーソングコンテストに
プロへの軸足を移していく。代表的なのが第一経済大学のチャゲ&飛鳥だ
二人は照和にも客として通ったが、デビューの場として選んだのはヤマハのポプコンだった

'78年の福岡大会でグランプリに輝いたチャゲと最優秀歌唱賞の飛鳥の二人がバンドを結成し
'79年の全国大会のつま恋本選に『ひとり咲き』で出場し
すぐにデュオでレコードデビューを果たした
『彼らにしてみたら照和が廃れ、それ以外に手がなかったのでしょうね』
ポプコンの審査員でもあった藤井はそう言う」と記されてますが

1976~77年頃は、交通手段の発達や情報量の増加によって、東京との距離が近くなるにつれ
次第に福岡独自の文化が失われつつあった頃で
また、観客も好きな音楽を聴くために、身近なアマチュアがいるライブハウスに行くより
福岡でも見ることが出来るようになったプロのミュージシャンのライブに足を運ぶようになり
「照和」という名前の力にも翳りが見え始めていたものの

照和にいれば客は集まり、音楽関係者もたびたび訪れていたことが、当時の出演者たちを安心させ
甲斐さん達がいらした頃みたいに、他のホールでコンサートを開くこともなくなり
照和で歌うことが全てになってしまったようで
自然とかつての勢いは衰え、ボルテージは落ち
本日の出演者の名前より、照和出身のミュージシャンの名前に頼るようになっていった一方で

「歌の甲子園」と呼ばれたポプコンは「一夜明ければスター!」といったイメージが定着し
かつての照和のように、客の反応がミュージシャンを育てるという
「叩き上げ」のやり方は魅力的に見えなくなってしまったみたいです(汗)

更に…藤松武さんが照和のマネージャーになられる前から
オーナー側と現場責任者との間に意見の食い違いはあったようで
オーナーご自身は、藤松さんの「フォーク喫茶・照和」のアイデアについて
「それが若者たちのためになるなら」という立場で了承されたものの
採算を度外視したやり方に対し、経営に携わる幹部の方々は難色を示していたらしく

照和の全盛期には文句のつけようがなかったのが、ひとたび勢いが衰え始めると
地下に出入りする若者たちについて、あれこれオーナーの耳に吹き込むようになって
結果、地下をレストランにすることが決まり
若者が多く出入りすることが店の活性化に繋がるという藤松さんの進言は聞き入れられず…(汗)
藤松さんは「照和」を4階に移して存続させる手配をなさった後、退職されたそうですが
甲斐さんは「4階に移った照和は照和じゃない!」とバッサリ…(苦笑)

ともあれ…「それにしても、なぜ博多はこれほどミュージシャンを輩出できたのか
福岡西新商店街連合会会長の鳥巣勲に尋ねた
鳥巣はこう笑う。『一言でいえば、目立ちたがり屋が多いのでしょう
博多には5月のどんたくと7月の山笠という2大祭りがあり

特にどんたくでは天神やら博多駅前やら、西新やら商店街が
20ヵ所以上の特設ステージを設けて、歌手の卵がそこで歌う
テレビ局がそれを番組にし、レコード会社のスカウトも来る
松田聖子や氷川きよしもみなどんたくで歌っていました』」と記されてますが

同じ質問について、森山達也さんは、映画「照和」の中で…
(福岡の人は)祭りごとが好き、良い意味で目立ちたがり屋
(最新の東京の)情報が入らないし、入っても遅かったり
外国のアーティストが来日しても大阪、広島止まりで、福岡まで来なかったりするので
流行に関係なく好きな音楽を独自のスタイルでやるしかない
それが当たったんじゃないかと話されてました

門田さんは「バンドを組んで練習を重ねる、そしてバンドが目標とするのは
人前で歌うこと、ラジオに出ること、テレビに映ること…福岡ではその全てが叶えられた
こういう環境があったから、数多くのバンドが生まれ、育ち、プロとして羽ばたいて行った」と分析され

また、岸川さんは「物怖じしない開けっ広げな性格の人が多いし
『年長者は絶対』という風土で、礼儀作法が身についていることが
東京の関係者の方に可愛がられたのではないか
FENが流れていて、アメリカ先端の音楽がふんだんに聞けたことや
大学が数多くあって若者が大勢いたことで、音に馴染む機会や人が多い
東京に行っても福岡を懐かしみ、大切に思っている奴ばかりですよ(笑)」とおっしゃってます

そして記事の最後は…
「歴史的に見れば、福岡は明治維新の『負け組』であり、権力や権威を疑う習い性がある
商業都市の博多は、アジアの玄関口として栄えてきた
日本国内だけでなく、様々な人種が集い、人々は快くそれを受け入れてきた
同じ福岡県の北九州地方もまた多くの人種が共生し、著名人を生んだ
炭鉱と港湾で成長してきた工業都市の北九州には、やくざ映画のような風土が残っている」
…と結ばれていて、後編は、その辺りに触れた内容になるんじゃないかと…?
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週刊現代(9/3.10号)4

2022-09-05 15:24:00 | メディア
そして…「海援隊の上京物語」という小見出しのあとには
「照和から飛び出した井上陽水は、'70年にデビューした吉田拓郎と並び、爆発的なヒットを飾る
続いてチューリップが'72年2月、海援隊は10月に東京に上った
翌'73年には『心の旅』と『母に捧げるバラード』が大当たりした

海援隊の千葉が打ち明ける。『チューリップがデビューした時
照和の仲間から「財津さんは博多を裏切った」と声が上がり
武田さんもそれを恐れて(上京を)迷った部分がありました』」と書かれているんですが
その「博多を裏切った」発言の発信源は、当の武田さんだという説が有力らしい(笑)

財津さんに対する非難は、ライラックの姫野さんや、ハーズメンの安部俊幸さん
当時ロックバンドだった海援隊のドラマー・上田雅利さんをチューリップに引き抜かれ
3つのバンドが解散、あるいは再編成に追い込まれたことに集中していたみたいだし

プロデビューして、東京に拠点を移すことが
「博多を裏切った」ことになるという風に捉えられていた訳じゃなかったようで
…っていうか、プロになりたい方々にとっての東京は「憧れの地」だったんじゃないかと…?

もっとも、この財津さんのメンバー引き抜きを「自分勝手だ!」と責める声があったために
のちに、プロデビューが決まった甲斐さんが
甲斐バンドのメンバーを集められる際には、かなり慎重にならざるを得なかったらしく
例えば、妙安寺ファミリーバンドの久保さんに声をおかけになる前に
リーダーでいらした門田さんに話を通された…といったことがあったそうです

まあ、デビューなさってからは「俺が甲斐バンドを組んだせいで
博多のアマチュアバンドが3つ潰れた(笑)」という風にウソぶいていらっしゃいましたけど…(笑)

そうそう!武田さんは、アンドレ・カンドレとして芽が出ずに
福岡に戻って来られていた井上陽水さんが、照和で歌われた際にも
「博多を捨てて東京に行ったヤツだぞ!」と
周りの皆さんに、陽水さんをシカトするよう促されたことがおありだそうで(苦笑)
地元愛が強過ぎるあまり、故郷を出て上京なさった方々に
見捨てられたような寂しさを覚えておられたのかなあと…?

それはともかく…「『そんな時、吉田さんや泉谷しげるさんの所属していた
エレックレコードから声がかかったんです
拓郎さんのマネージャーの伊藤明夫さんが
拓郎さんの「イメージの詩」のレコードを武田さんにプレゼントし、交流が始まりました
伊藤さんは泉谷さんのマネージャーもしていて、たまたま福岡に来た時
「あなた達も東京に出て来ないか」と誘われたんです』」と千葉さん

「えっ!?」と思ったら「通説では、泉谷しげるが海援隊の上京を促したことになっているが
実際はマネージャーからの誘いだった」と記されていて
今までずっと泉谷さんにスカウトされたものと信じて来たことが、ガラガラと崩れ去りました(笑)
ちなみに…武田さんは、上京なさるにあたって
「博多を捨てるんじゃなくて、博多のことを世間に知らしめるために東京へ行くんだ!」
…と、一席ぶち上げられたんだとか…(笑)

ともあれ…「エレックレコードの伊藤は、拓郎や泉谷以外にも
『さなえちゃん』で有名なフォークデュオ『古井戸』のマネジメントまで兼務していた
業界で知る人ぞ知る、広島のスーパーマネージャーだ」…と、またもやビッグネームの登場にビックリ!
改めて、件の「集合写真」をマジマジと見つめてしまいました(笑)…って
どの方が伊藤さんなのかは判らないんですけど…(笑)

ちなみに…この「海援隊の上京物語」という小見出しがあるページには
「'93年に行われた『ドリームライブ』では
南こうせつ(左端)や筑紫哲也(右から2番目)らもステージに上がった」とのキャプションと共に
ドリームライブ終盤の「ビッグ4」のヒット曲メドレーを
参加者全員で歌われているシーンと思われる写真が掲載されていて

こうせつさんに寄り添っていらっしゃる陽水さん
そのお二人を、筑紫さんのお隣から見つめておられる武田さん
そして、その中央には、ステージ衣装をざっくりとしたセーターに着替えられた甲斐さんが
マイクを持った右手は、腿の辺りに下ろされたまま
大きく口を開けて、笑顔で歌っていらっしゃる姿が写ってます

この「ヒット曲メドレー」を現場で目撃していた奥さんは
チューリップの「心の旅」が始まった時に
「甲斐さんのマイクのボリューム上げて~!」と心の中で叫んでいたらしい(笑)
ちなみに、このメドレーで披露されたのは…
「思えば遠くへ来たもんだ」→「少年時代」→「バス通り」→「サボテンの花」→
「HERO」→「あんたが大将」→「心の旅」→「夢の中へ」…なんだけど

ナゼか、財津さんのステージの途中にも…
「いっそセレナーデ」→「安奈」→「贈る言葉」…というメドレーが挟まっていたそうで
「HERO」と「安奈」という甲斐バンドの代表曲が登場したので
「次は『裏切りの街角』かな?」と思っていた奥さん
まさかの「バス通り」に狂喜乱舞した(笑)みたいですが

福岡の皆さんにとっては、甲斐バンドのヒット曲である「裏切りの街角」よりも
甲斐さんがアマチュア時代から歌われていた「バス通り」の方が「代表曲」ですよね?
実際、このデビューシングルは、福岡県での売上げが一番高かったみたいだし…(笑)

それはさておき…「そして福岡の音楽プロデューサーの藤井は
海援隊の『母に捧げるバラード』の売り出しに奔走した
千葉は決して表舞台に立たない彼らの恩を忘れない

『みな、大学を休学して上京したから
「2年で芽が出なかったら福岡に帰ろう」と話していました
「母に捧げるバラード」が売れなかったら、大学に戻っていたでしょうね
武田さんは福岡教育大の4年生でしたけど
いつでも帰れるよう、お母さんが授業料を納めていたみたい
でも2年目で売れましたから、みな大学は除籍になりました』」と明かされてますが

チューリップにしても、海援隊にしても、この'73年のヒット曲は
「これが売れなかったら次はないぞ!」とレコード会社から引導を渡された
まさに崖っぷちからの起死回生の1曲だったみたいで
こうした局面を打破できるかどうかが、本当のプロになるための関門なのかなあと…?

「藤井たちが井上陽水と財津和夫、武田鉄矢という
ビッグ3を生み出し、福岡の音楽が一挙に花開いた」と森さん
「照和で彼らに続いたのが、甲斐バンドの甲斐よしひろだ
甲斐は照和の店長として出演希望者のオーディションをするようになる」
…と、ようやく「4人目の男」に触れられ(笑)

「藤井が冗談まじりに言う。『甲斐は照和でウェイター兼店長みたいなことをやっていたんです
それで、僕のやっていたテレビ西日本の
「レッツ・ゴー・フォーク」に出してくれ、というハガキをもらいました
ドームの打ち上げの時、それを見せてやると驚いていました
甲斐には博多の明治生命ホールのイベントの受付をやってもらったりしました』」

…というエピソードを披露なさってますが、このハガキの件といい
かつて、洋楽に詳しく、8分の曲をノーカットでおかけになっていたという
KBC九州朝日放送のぶっ飛びアナウンサー(笑)松井伸一さんに
「多分あの人なら…」と見込んで投稿なさって
「こじんまりした食器セット(笑)」を戴いたことといい
甲斐さんって、結構アクティブな視聴者でいらしたんだなあと…?(笑)

「『そういえば、まだ中学生だった藤井フミヤが下駄ばきでやって来たから
「中学生は帰りなさい」と追い返したこともありましたね』」と藤井さん
フミヤさんは、初めて照和へ行かれた時にも
「中学生は入れない」と門前払いされたんじゃなかったっけ?(笑)
こちらはこちらで、アクティブな中学生でいらっしゃったんですね(笑)
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週刊現代(9/3.10号)3

2022-09-04 15:30:00 | メディア
「『親不孝通り』のライブ喫茶」という小見出しの続きには…
「福岡の音楽プロデューサーのうち、RKB毎日放送の野見山は井上陽水を発掘し
九州朝日放送の岸川は財津和夫(と甲斐さん?(笑))に惚れ込んでレコードデビューさせる
一方、藤井は海援隊の武田鉄矢を見出だした

藤井が続ける。『武田は市内の須崎公園で毎週土曜日に野外コンサートをやっていた
ヴィレッジ・ヴォイスというフォークサークルの3代目会長をしていましてね
僕が公園まで見に行くと、近くにある競艇帰りの客が「都はるみを歌え」とヤジを飛ばしていました
そんな中でもヴィレッジ・ヴォイスは自費で、九州で初めてフォークのレコードを出した
僕がレコードの解説文を書きました』

のちに武田の結成した海援隊のメンバーに加わった千葉和臣に聞いた。
『私はギターが趣味で東福岡高校1年生の時
あとからチューリップに加わる姫野達也と同じクラスになり
ライラックというバンドを作っていました
彼のお姉さんからヴィレッジ・ヴォイスのことを聞いてライラックとして参加した
武田さんとはそれ以来です』」と記されてますが
そのライラックは「照和」オープン時の出演バンドの1つなんですよね?

ともあれ…「千葉が半世紀前の思い出を語る。
『公園の野外コンサートだから会場費が安い
それでヴィレッジ・ヴォイスでは100円コンサートというのをやっていました
途中から入場料100円だと税金がかかると、いい加減なことを誰かが言い出し
「99円にしよう」なんてやっていました』」と振り返っておられるんだけど

妙安寺ファミリーバンドの門田一郎さんが、リンドンのアマチュア最後のステージとして
照和の出演バンドや福岡大学のフォークソング愛好会の皆さんを集めて
「21人の晩餐会」というコンサートを開催なさったことを書かれた記事に

「(会場のキャパ数の倍ほど用意した)チケットを持って税務署に行く。入場税の支払いである
当時は100円以上は税金の対象になっていた
当然、売れ残ったチケットを持って行くと、その分の税金を返してくれる
納税済みのスタンプをチケットに押して貰ったあと、チケットを配布する」との記述がありますし
「いい加減なこと」ではなかったんじゃないかと…?(笑)

ただ、当時の武田さんは「アマチュアが金を取って演奏を聞かせるなどという
『照和』のやり方はおかしい!」と、かなり厳しく非難なさっていたのに
「ヴィレッジ・ヴォイスも入場料を取ってたの!?」と奥さん(笑)
照和は「フォーク喫茶」だから「ドリンク代」が入場料代わりだった訳ですが

「福岡に織り成す人間模様と背景」という記事には…
「『照和』という喫茶店、1,2階は普通の喫茶店だが
地下に20坪ほどのフロアがあり、これが人呼んで『フォーク喫茶』…(中略)
コーラやジュース1本で、平均2時間は座って聴いているのだ
要するに、喫茶店として営業しているというより
単に若者たちに地下室の空間を貸しているという感じ

『地下は全く儲かりません。経営者が学校経営者でもあるので
地域文化への貢献という意味もあって営業しています
ここからチューリップや海援隊が生まれ、またそれに続こうという若者がいっぱいいる
儲からなくても、やめられないでしょう』(藤松武支配人)」…と記されていて
どうやら「営利目的」ではなかったようですし

甲斐さんのトラウマになっているという(苦笑)
ジャムトーストと甘くないレモンスカッシュの「バン食(出演バンドに出される食事)」といい
1回のステージのギャラ(ソロ600円、バンド700円)といい
なかなか待遇改善が為されなかったのもムベなるかなと…(苦笑)
あっ!ちなみに…その後、武田さんが照和に出演されるようになったのは
「冬に野外でコンサートをやるのはツライ」からだったみたいです(笑)

それはさておき…「コンサートに出ている以上
他のバンドより目立ちたかったし、競争心はすごくありました
コーラスではチューリップに負けるけど、野外ステージでは俺たちの方が上だと…」と千葉さん

前述の「福岡に織り成す…」の記事にも…「福岡の若者をフォークの世界に近づけたのは
なんと言っても『チューリップ』の存在でしょう
ひとつ良いものが出ると、それに続こうという連鎖反応は、当然起こってくるし
また『チューリップ』にやれるものなら、俺たちだって、という気持ちもまた当然起こる
『海援隊』が東京へ出て成功したのは、そうした現象の一例ですよ」という
RKB毎日ラジオ制作部・竹内ひろ彦さんの言葉が掲載されていたり

甲斐さんも「博多の人間は、良いと思ったものを参考にはするけど
実際に表現する時は、あくまで自分のやり方で勝負するっていう人が多いよね」とおっしゃっていて
「ライバル意識」が、オリジナリティに、より磨きをかけるというか
ポジティブに作用する方が多いんだなあと…

ともあれ…「ライラックを解散し、千葉は海援隊に加わり
姫野はチューリップ入りした…って、順序が逆のような気が…?(笑)
そんなミュージシャンたちが集結したのが、ライブハウス照和だったのである
照和は喫茶店だったが、使っていなかった地下1階をライブハウスに改装し、'70年11月にオープンした
照和のある天神には、水城学園という大学の進学予備校があり、予備校生たちがライブに熱狂した
そのせいで西鉄天神駅から水城学園までの通りは『親不孝通り』と揶揄されるようになる

そして照和から、まず初めにチューリップがレコードデビューし、海援隊が続いた
実はビッグ3のうち井上陽水は照和のオープン1年前の'69年にデビューしている
再び海援隊の千葉が語る。『僕たちは毎日放送の野見山さんが
番組に出している陽水さんを知りました

最初は井上陽水ではなく、アンドレ・カンドレという変わった名前で
「カンドレ・マンドレ」という曲でデビューしました
でも全然売れず、福岡に戻ってきたんです』」と書かれてますが

長渕剛さんも、ポプコンで「ビクターレコード賞」を受賞され
「長渕剛(ながぶちごう)」名義で「雨の嵐山」という曲でデビューなさったものの
数ヶ月後には、また照和に戻って来られたそうで

当時、照和のマネージャーでいらした門田さんは
「貪欲に曲を作り、ステージの喋りも上手くなった剛のプロ志向が本物になった時
私は甲斐よしひろと同じものを感じた」と評されていて
やはり、最初にデビューなさった時と比べるとただ単にプロになるだけじゃなく、その後もずっと続けて行かなくてはならないことに対する
「覚悟」が違っていらしたんじゃないかと…?

ともあれ…「井上陽水は福岡市内の生まれではなく、筑豊地方の田川の歯科医の息子だった
歯科医を目指して大学入試に3度失敗し
RKB毎日放送の野見山のところにデモテープを持ち込んだのが、デビューのきっかけだ
テレビ西日本の藤井もまた、陽水のデビューに関わっている
こう話す。『野見山さんから「すごいのがいるから、ちょっと聞いてくれ」と
デモテープを渡されましてね、それで陽水を知りました』

野見山は照和がオープンしたあと、アンドレ・カンドレ改め
井上陽水としてポリドール・レコードから再デビューさせた。曲は『傘がない』や『心もよう』だ
藤井の回想。『野見山さんは、井上良介というプロデューサー見習いを使っていましてね
良介はもともと九大(九州大学)を卒業したミュージシャン志望で、音楽的にも優秀でした

岡林信康のマネージャーをしていた時期もある
福岡ドームの打ち上げ写真にもいますよ
その井上が野見山さんに命じられ、照和で陽水にギターを教えていました
そこにも立ち会いましたけど、陽水は座ったまま「都会では~」と歌っている
それじゃあ流行らない、身長が180センチ近くあるんだから
立って歌った方がいい、とアドバイスしました』」と明かされていて

「あの陽水さんにギターを教える!?」「それも照和で!?」と2度ビックリ!(笑)
ただ、陽水さんは、照和に出ておられた訳じゃなさそうなのに
「福岡出身のミュージシャン」イコール「照和」とのイメージが強いせいか?
ひとくくりにされていらっしゃることに違和感を覚えていたんですが

甲斐さんが、照和のウェイターをなさっていた頃に、陽水さんがフラッと照和にやって来られ
コーラ1杯しか出せないと言われていらしたにも関わらず
ギターの弦を張り替えられて、数曲を披露なさったと驚かれていたことについては
やっぱり、陽水さんにも「古巣」という感覚がおありだったのかな?と妙に腑に落ちました(笑)
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