もう、今さら感も甚だしくなってますけど(笑)
甲斐さんが、ビルボツアーのMCで「阿川対談」のことをたびたび取り上げられたそうだし
「最初の40分は、前回と同じ内容(笑)」だとしても(笑)やはりスルーは出来ない
…ということで「阿川佐和子のこの人に会いたい」をご紹介します(笑)
2度目の「阿川対談」は「実はつい先日お目にかかったんですよね
甲斐さんのラジオにお招きいただいて」という阿川さんの言葉からスタート
「仮病(笑)」で?放送をお休みされた松藤さんのピンチヒッターとして
「レギュラーのラジオ番組『セイ!ヤング21』に来てくださったんですよ
僕の誕生日だったから、4月ね。言っとくけど『ヤングおー!おー!』じゃないからね」と甲斐さん
「わおー、懐かしいねぇ」という阿川さんの反応に「同級生だから通じる話です(笑)」と返され
阿川さんが「甲斐さんにお目にかかると、いつもこうやって気安くお話しちゃうんだけど
実は超ビッグなミュージシャンだったってことを後で思い出して、反省してるんです」
…とおっしゃると「えっ!?本当に?だって昔、六本木の星条旗通りにあったバーで
何度か会った時も大変だったんだから…
お店の奥の暖炉が設えてあるあたりの席から鼻歌が聞こえてくる
誰だろうって目をやると、和田誠さんと平野レミさんたちと飲んでらっしゃったでしょう
『おっ、阿川さんだ』と思ってたら、あなたは僕を見つけるなり
『一緒に歌いましょう!』って鼻歌の合唱を強要したんですよ
(『ぜーんぜん覚えてない(笑)』と阿川さん)
『若いってすばらしい』とか『初恋によろしく』とか、昭和歌謡のオンパレードでしたよ
で、僕が歌い手だってことを完全に忘れてるんだよね
『イェーイ』とか『うまいじゃーん』とか言ってた。それも二、三度続けて巻き込まれて
その後、お会いしてもそっとうまくかわしてましたが」と明かされてますけど(笑)
「セイヤング」では「巻き込まれ」たことがあるとはおっしゃってませんでしたよね?(笑)
ただ、お若い頃の甲斐さんって、年上の方に可愛いがられていらした一方で
ナンか、いつも甲斐バンドの曲ではない曲を
「歌え!」と強要されておられたような気が…?(笑)
NHKの「ミスター太っ腹」ディレクターの方とか、伊集院静さんとか…(笑)
ともあれ…阿川さんが「あら、失礼しました
どうも本物の前で歌っちゃうクセがあるんですよね
森山良子さんとも一緒に歌おうとして『やめてくれる?』って怒られてる
それにしても甲斐さんって、スーパースターなのにこのフレンドリーさはなんだ!?」と話されると
甲斐さんは「同い年っていうのは大きいと思いますよ
同じ時代の同じ息吹を吸って生きてきたんだから、そりゃ感性は似てくるでしょう」と返され
阿川さんの「でも甲斐さんは十代ですでに博多のライブハウスではスターだったんでしょ?」
…という言葉に「いやいや。でも『照和』ってライブハウスで人を集めてた頃は
実はソロで活動してたんですよ。行列が建物の周りをぐるりと囲むくらいにはお客さんを集められてた
ギターを弾いてハーモニカを吹いて、いわゆる弾き語りのスタイルをひとりで貫いてたんだけど
ソロでデビューしないかってレコード会社からの誘いもありつつ
ソロでやるのは限界があるよなあって思ってました
(『自信がなかったんですか?』と阿川さん)
というよりも、ひとりでやるのってあんまり面白くなかったんですよ
ソロで活動してるくせに、自分の頭の中じゃずっとバンドサウンドが鳴り響いてた
僕が小学校三年生の時にビートルズがデビューしたんですが
リバプール・サウンドのブームの洗礼をばっちり浴びちゃったせいか
僕にとっての成功とは、ガンガンのバンドサウンドでヒットチャートを賑わすものっていう
ロールモデルが出来上がっちゃってたんです」とおっしゃって
ここから、お馴染みのご幼少期の話題に突入(笑)
「ザ・ローリング・ストーンズとか、キンクスとか大好きでした
まあ、楽器や楽譜がゴロゴロしてるような実家で生まれ育ったのもあるかも知れませんね
(『お父様が音楽好きでいらしたんですよね?』と阿川さん)
職人さんも沢山使ってて、本職の床屋で成功してましたけど
趣味人なもんだからエレクトリックマイクやアンプを自作したり
マンドリンを弾いてジャズコンボで演奏するのが好きな親父でした
三谷幸喜さんが『わが家の歴史』という脚本の中で
博多の街で一番のキャバレーのことを書かれてるんですが、親父はそこで演奏してたんですよ
(『じゃ、環境がすでに音楽で溢れてる!』)
そう、1950年代の終わり頃からそういう文化が身近にあったんです
まだ子供だから歓楽街のお店の中には入れないけど
路上にはショッキングピンクやグリーンのライトが店のドアからこぼれてる
そして時に聞こえてくる女性の嬌声ね。このガヤガヤした感じ、いいよなあって思ってました
(『私が子供の頃はそういう場所は怖かったけどなあ』と阿川さん)
商売人の子供に生まれたから、家に知らない人が出入りするのが当たり前
赤の他人が怖いって感覚はありませんでしたね
それに、たまに親父がスナックに連れて行ってたし(…『英才教育(笑)』)
炭鉱景気と朝鮮戦争の影響で博多の街がすごく景気が良かった頃でね
親父からマイクを渡されて、歌うように言われるんだけど
曲が終わると僕に向かっておひねりが飛んでくるような時代
僕はその頃、ひとりで紅白できるくらいレパートリーはあったし
親父も歌える子供が嬉しかったんでしょうね
四、五歳の頃、あちこち連れ回されましたよ
(『そのまま一直線に歌手の道を進んでいったんですか?』と阿川さん)
ところが、一年くらいでイヤになり、泣きを入れてやめさせてもらった
それ以来、人前で歌うのが苦手になっちゃった。スナックPTSDっていう感じ
(『歌うのをやめちゃったんですか?』)
学校なんかじゃ歌わないだけで、家の中じゃ何でも歌ってましたけど。石原裕次郎とか小林旭とか
映画も好きでアメリカン・ニューシネマの『明日に向かって撃て!』の『雨に濡れても』や
『真夜中のカーボーイ』の『うわさの男』もたまんなかったなあ
(『「卒業」とかね。サイモン&ガーファンクルも流行りましたよね』)
同級生はいいねえ(笑)どんどん思い出してきたぞ…(『懐メロ話で終わっちゃうぞ!』)
音楽好きは成長しても変わらず、ギターも弾くようになって
高校生になった頃、ようやくバンドを組むことになりました
それで当時、九州でただひとつだけだったというライブハウスの『照和』に出入りするようになった」
…と「駆け足」でプロフィール紹介が進んだトコで(笑)
阿川さんが「ここで読者の皆様に注釈。この『照和』というライブハウスは、本当に伝説的な場所で
九州出身の一流ミュージシャンはみんなここで鍛え上げられたんですよね」と説明なさって
甲斐さんが「僕、自分が出るようになるまで存在を知らなかったんですけどね」と返されると
「井上陽水さんとか、チューリップなんかも『照和』で歌ってたんでしょ?」と水を向けられ
「チューリップはこれからデビューするぞって直前の時期でした
同じ頃、海援隊も出てました。みんな知らないだろうけど
海援隊はもともとハードロックっぽいバンドだったの
ジャックスのカバーをやってたりして結構独創的な路線だったんですけど
デビューする直前の財津(和夫)さんがチューリップに海援隊のドラムを引き抜いちゃった
小さな街だから腕の立つミュージシャンなんて何人もいないから
海援隊はその後フォークに鞍替えをするという
(『ええ~!そんな経緯があったんですか』)
武田(鉄矢)さんのMCは長いって当時から有名でね
せっかくカッコいい尖った音楽やってるのにと思って、僕はそれを反面教師にして
自分のライブじゃMCはなるべく短くするようにしてる
(『アハハ、いい教訓になった』)…ヤバいな、喋り過ぎ(笑)」
…と、そのライブMCでも触れておられたという武田鉄矢さんディスリも登場してますが(笑)
当時、財津さんは「バンド潰し屋」と呼ばれ、かなり非難を浴びていらしたらしく
甲斐さんが、後の甲斐バンドのメンバーを集められる際には
財津さんのことも反面教師になさっていたみたいで
例えば、妙安寺ファミリーバンドの久保さんに声をおかけになる前には
リーダーの門田一郎さんに、その旨を伝えられ、もし久保さんが承諾して下さったら
妙安寺ファミリーバンドは解散することになるかも知れない…という話もされたんだとか…
もっとも、久保さんにはあっさり断られたそうですが…(苦笑)
ただ、甲斐バンドに「九州最後のスーパースター」というキャッチフレーズをお付けになった
西田四郎さんによれば…「(財津さんが)引き抜くというより
博多中のミュージシャンが財津に相談に行くんだから
もちろん、一緒にやりたいという連中も多かった」…とのことでした
そんな財津さんが、アマチュア時代の甲斐さんのデモテープを西田さんに渡され
西田さんが「いい声だ」と感想をお伝えになると
「よし!俺のマネージャー合格!すぐに九州に飛んで契約した方がいいよ」とおっしゃったってことは
甲斐さんのことをかなりお認めになっていたってことですよね?
ちなみに、甲斐さんもその後、石橋凌さんのテープを西田さんにお聞かせになり
「久留米に行った方がいい」とお勧めになったみたいです(笑)
そうそう!その海援隊の元ドラマー・上田雅利さんのブログに
お父様について書かれた記事があるんだけど
本業の水産加工業が順調でいらした傍ら、戦前は「プロの歌い手」としてレコードを発売
でも、戦争で喉を潰され、戦後はドラム奏者に転向
タンゴバンドを率いて米軍キャンプを回っておられたらしく
そのタンゴバンドで、ギターを弾いていらしたのが
「甲斐よしひろ君のお父さん」だったとの一文が…!?
上田さんのツイッターでは「甲斐はこの話に無反応ながら事実判明」と呟かれてました
甲斐さんが「無反応」でいらしたというのは、このタンゴバンドの存在が
以前に甲斐さんが明かされていた、甲斐さんのお父様と高橋真梨子さんのお父様が
ご一緒に演奏なさっていた頃よりも前のもので
たぶん、甲斐さんがお生まれになる以前のことだったからじゃないかと…?
でも、この「本業」以外に音楽活動にも熱中なさるお父様方同士
きっと相通ずるものがおありだったんだろうなあと…?(笑)