ボクの奥さん

ボクの奥さんは、甲斐よしひろさんの大ファン。そんな彼女との生活をお話したいと思います。

甲斐よしひろ BEAT HARDWORK(6/4)2

2021-06-07 17:55:00 | メディア
続いては、萩原健太さんの「Music Stories」をお聴きになった方からの投稿…
「これも…この番組もJFNですね、ハイ
えー、この番組は、今、僕が(『LEGENDS』を)やってる、僕のスタジオで…
(萩原さんに)来て貰って、えー、録ったんですけど、ハイ」と甲斐さん

かつて、萩原さんが「サンスト」に出演なさっていたことを思い出したとの一文に
「『サンスト』は、えー、某国営放送の…えー、FM番組ですね、ハイ
10年近く僕がやった番組ですが…」と説明され
萩原さんが解説をお書きになったブックレットが付いている
「ビルボードライブ コンプリートBOX」のリリースを楽しみに待っているとの内容に

「えー、この『コンプリートBOX』は、6月の10日過ぎ…
6月の10日過ぎにリリースということになっております、ハイ
えー、是非ね、お待ちになって頂きたいと…
えー、良かったら是非、手に入れて、えー、頂きたいなと思っておりますが…」と告知なさったあと

「僕はですね、甲斐バンドを解散した時に…
まっ、バンドって、ある意味こう…『村社会』みたいなトコがあるんで
ナンかこう…世間から、どんどんもう…(孤立して行って)
とにかくバンドだけで、ナンかこう…えー、社会が回って行くみたいなトコがあって…

そういう『村社会』的なことがあるんで、視野を是非、広げたいなあ…ということとか
あと『社会性も持ちたい!』みたいな、ね?」
…と、いきなり、1986年の甲斐バンド解散の際に、甲斐さんがよく口にされていた
「村社会」というフレーズが飛び出し、奥さんビックリ!(汗)

でも「…ということで、飲み…色んな…バンド以外の人間達…
バンド(のメンバー)、それからマネージャー、スタッフ以外…
以外よ?…人達と飲み始めた、一番最初が萩原健太なんですよ」と話の行先が判り、ひと安心(笑)

「…で、月に1回…えー、もう、いっつも呼んで、飲み倒してたんですけど
えー、次が…えー、ストリート・スライダースの土屋公平で
3番目がですね、役者の吉岡秀隆くん、ハイ…で、次が、mc.A.Tみたいな、ねぇ?

ナンか…でも、この順番見てると、ナンか…考えたら
徐々に社会性が失われてしまった気がするんですけど(笑)」
…って、どなたに一番失礼なのか、よく判りませんが…(苦笑)

「mc.A.Tなんて、あの…会う時にキャバクラでしたからね
『えっ!?ナンで?』っていう感じでしたけど(笑)
こういう形で、どんどん色んな人間達と、こう…ナンか、会うようになって
ナンかね、こう…『ああ、面白いな』という感じ…

まあ、それがすごい…逆に…バンドの良さは逆に、そういう人達と会えば会うほど
『あっ!バンドってイイんだな』っていう…『面白かったんだな』って感じとかね
えー、逆に、そういう風に…えー(気持ちが)行ったりするトコあって…」
…と、いわゆる「年下に遊んで貰おう」と、お決めになった頃を振り返られたかと思ったら

「ギターの大森信和が(バンド活動を)やれないんだったら
『バンド面白くねぇだろうな』っていう…
まあ、大森さんがもう…ちょっと…ちょっと、えー、引退気味にこう…
色々、心情的に告白されて、考えてたんで…
『大森さんとやらないんだったらなあ』と…

大森さん…リードギターの大森信和と僕が、まず組もうとなって
それで、松藤呼んで来て…っていう(甲斐バンド結成の)形があるんで
2人で話し合ったところのハンドリングを、大森さんが松藤に上手くやって
そいで、こう…色んなアレンジが、どんどん出来上がって行って…

まっ、そのベースの…最初のベースの長岡和弘も含め
実は、みんな色んな複数の楽器が出来るんで
僕が、パッパッパッパッとアイデア出して言うとすぐ、その音が出て来るっていうことが
やっぱり、甲斐バンドのすごさだったような、ね?感じで…

だからまあ『大森さんがいないんだったらなあ』っていう感じが、まず最初ですかね
えー、バンドの…まあ、解散のきっかけっていうかね」…といった流れになり
「オリジナル甲斐バンド」にこだわりがある我が家の住人は
「甲斐さんもアニバーサリーイヤー関連のインタビューや番組出演が増えて
色んなこと思い出したのかなあ?」と遠い目…(苦笑)

「メンバー全員がユーティリティプレイヤー」という表現をお使いになったのは
例えば「昭和40年男」に甲斐バンドが取り上げられた時など、わりと最近?(笑)のことみたいですが
その時時のご自身のラジオ番組などで、レコーディングの話をなさる際に

甲斐さんが、アコギでデモテープを作られたり、曲のイメージを説明なさったりすると
メンバーの皆さんが、それぞれの担当楽器のフレーズをお考えになるという風に
スタジオに入られてから「実際に音を出して、メンバー全員でアレンジを決めて行く」という
レコーディングのやり方をなさっていることや

「とにかく4人しかいないから、一生懸命あれこれ工夫してね
大森信和が12弦のギター弾いてたり、長岡がウッドベース担当したりね」と
理想の音に近づけるために、試行錯誤なさっていることを明かされていたのを思い出したらしい

技術が発達した現代から考えると、かなりアナログな
「手作り感」満載のレコーディング風景だけど(失礼!)
「照和」時代の仲間でいらした頃のデモテープ作りの延長みたいな
ちょっとほのぼのしいというか、音楽好きな少年たちが
「ああでもない、こうでもない」と語り合っているような光景が浮かびました(笑)

甲斐さんは「甲斐バンドは大森さんと作ったバンドだから」と、よくおっしゃってますが
その大森さんが、耳の具合が悪くなられたことと
また、松藤さんから、緻密なレコーディング作業やハードなツアー日程など
甲斐バンドの活動から「一旦リリースされたい」といった相談をお受けになって
甲斐さんに「心情的に告白」なさった頃というのが

かつての「日本一のスタジアムバンドになる!」という夢が
毎年恒例となった武道館ライブや、数々の野外イベントなどで叶い
音楽的にもニューヨークでのミックスダウンなどによって高いクオリティを得られて
ある種の達成感を覚えていらしたお二人と
バンドのリーダーとして「更なる高み」を目指しておられた甲斐さんの間に
多少の温度差が生じ始めていた時期なのかなあ?と思われ

「今思うと、解散じゃなくて、活動休止でも良かったのかも知れない」とか
「大森さんが亡くなって、本気で甲斐バンドをやろうと思った」という甲斐さんの言葉からも
「リードギター、大森信和」が、甲斐バンドにとって
どれだけ大きな存在でいらっしゃったのかが、改めて伝わって来ますし
デビュー当時からのファンである奥さんのこだわりも、ある意味むべなるかなあと…

ただ、こんな思いがけない方向に話が展開した直後に
「もう1枚…」と、奥さんのラジオネームが呼ばれ
ついさっきまでの「遠い目」を、白黒させながら
「イヤイヤ!この話の次に読まないで欲しい…」と焦っておりましたけど…(笑)

でも、甲斐さんは…「先日、映画評論家の町山智浩さんが、ご自身のツイッターに…
「『ドラゴン桜2』を見ていて、バイクチェイスのシーンで
『おお!この撮り方、マッドマックスじゃん!』と喜んでたら
娘に『そういうトコがイヤ!』と言われてしまった…」と呟かれていたんですが」

…と読まれる間も、笑いを含んだ声でいらしたのが
「ハイ!(笑)もう、これ、すっごいよく判ります!ハイ(笑)」とクスクス(笑)
「甲斐さんは、音楽的な専門知識を披露なさって、ご家族から嫌がられたことがおありですか?」
…と、最後まで読み終えられると「ハイ、僕はもう判りますよ!ハイ」AGAIN(笑)

「えー、家族とか知り合いからですね
『あの曲、どんなんだったっけ?』って言われて、メロディを口ずさみ始めるとですね
『イントロ長っ!』って、いつも僕…必ず言われるんですよ
で、僕らのバンドって、みんな(笑)イントロから言わないとイヤなのね(笑)
だから『イントロ長っ!』って、絶対言われるんで…『あっ、そうなんだ…』っていう…

…で、サビから歌ってもねぇ…『うん?』っていう感じもあるんですけど
必ず、これは言われますね『イントロ長っ!』は、ハイ
えー、まっ、悪いクセなんですけど…」と話されてましたが
そういえば、以前に「セイヤング」で、松藤さんとお二人で
「俺たち、イントロからしか歌えないよね(笑)」とおっしゃっていたような記憶が…?
でも、他のミュージシャンの方から、そういう話をお聴きしたことがないので
「ミュージシャンあるある」なのかどうかはワカリマセン(笑)
コメント
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