日本の「政治」の〈可能性〉と〈方向性〉について考える。

「政治」についての感想なり思いを語りながら、21世紀の〈地域政党〉の〈可能性〉と〈方向性〉について考えたい。

腹が立ってどうしようもないんだ。ただ誰に対してなのか、それが大事な問題なんだがね。

2020-02-09 | エッセイ

腹が立ってどうしようもないんだ。ただ誰に対してなのか、それが大事な問題なんだがね。

先ずは以下の(mns ニュース)ネット記事(以下に引用、貼り付け)を読んでほしい。私もほとんど同感だ。ただ、最後のくだりは、日本に対する外交辞令というか社交辞令だろうが、私からすれば、甘い評価だ。それでも、やはりこの記事で描かれた日本政府とそれを支持する日本国民の愚かさが見事に浮き彫りとなっている。勿論、私もそのあほな国民の一人に他ならない。それがわかるからこそ何とかこのアホさ加減をどうにかしたいんだが、皆さんと同じでどうにもならないのが悲しい現実なのだ。

しかも、日本を甘いという国は、日本を中国との中継地として使う、使い捨てにしているではないか。いわゆる抜け道として。それを甘んじてさせている(受け入れている、受け入れざるを得ない)日本と日本人は何なのだーーー、とまたまたうんざりとなる。(頭が「ゴーン」となり、彼の国外逃亡とコロナウイルスの国内流入が同じ現象として重なって見えてくる。)。

そうして気が付くと、いつまでたっても負の思考の連鎖から抜け出せなくなる。もっとも、そうは言っても、現実の生活の楽しいこと、苦しいこと、情けないことが、私を我に返らせる。今の私の最大の目標はあんま師の国家試験に合格すること、さくら征服クラブの過去問が待っている、もうあと2週間ちょっとで、盲学校の学年末テストなのだ。否応なしに、厳しい現実がこの老いた体を直撃する。コロナウイルスにかかる暇などないのだが、それだけはわからないのも確かだ。

私には、このウイルスは「生物兵器」にしかとらえられない。既にいろいろな記事がそれを指摘し、同時にその出どころとそれを取り巻く関係者について教えてくれている。もっとも、それが本当かどうか和わからないが、ただあの物々しい防護(御)服と、エイズウイルスのたんぱく質云々だけでも何かがわかるのではないか。いずれにしても、私は何かの、誰かの、人体実験の材料として扱われているのかもしれない。

(それでは引用記事の始まり)

米軍関係者が指摘する日本の新型肺炎対応の甘さ(時事通信フォト)c NEWSポストセブ提供

 警察や軍関係の内部事情に詳しい人物、通称・ブラックテリア氏が、関係者の証言から得た警官の日常や刑事の捜査活動などにおける驚くべき真実を明かすシリーズ。今回は新型肺炎への日本の対応に、米軍関係者が苦言を呈する。

 新型コロナウイルスが蔓延する湖北省武漢から政府チャーター機で人々が帰国する中、政府の対応のまずさがあらわになっている。検査を拒否した帰国者を帰宅させてしまい、用意した施設は個室が足りず、相部屋になった人の中から感染者が出てしまった。

「あの対応は隔離の定義から外れている。隔離は個々別々が基本中の基本。日本の政府も行政も隔離の定義が甘すぎる」

 感染対策などに詳しい米軍関係者は厳しい一言を発した。批判されるのも無理はない。米国も政府チャーター機で武漢から自国民を帰国させたが、その対応は日本とかなり異なっている。

 チャーター機は貨物機という報道があったが、使われたのは米軍が平時から契約している民間の旅客機だという。米軍には「パトリオット・フライト」というシステムがあり、平時はいくつかのルートで本国と各国にある米軍基地との間をチャーター機が飛び、軍人やその家族、貨物などを運んでいる。日本国内にある米軍基地を南から嘉手納、岩国、横田、三沢と結び、シアトルへと帰るルートもある。このチャーター機なら飛ばすのに面倒はなく、費用も米軍機より安くすむ。

 チャーター機が到着したのはカリフォルニア州リバーサイド郡にあるマーチ空軍予備役基地だ。当初はカリフォルニア州アナハイムのオンタリオ国際空港に到着させる案が出たが、セキュリティーを考慮し軍の基地に着陸させたという。

「基地内の方がセキュリティーが高く、関係ない人間がウロウロすることはない。基地内なら他者との接触を遮断し、衛生面でも管理できる」

 途中、給油のためアラスカ州アンカレッジの空港を中継しているが、搭乗者はその都度、健康診断などを受けていたという。防護服を着用した人が彼らを出迎え、飛行機を降りた後はそのまま基地内にある収容施設に滞在している。

「基地内にいる軍人とは絶対に接触させない。軍人や軍関係者は一切ノータッチだ。そこはきっちりマニュアル化されている。対応するのはCDC(アメリカ疾病対策センター)。彼らがすべてをチェックする」

 日本では帰国時に検査を拒否した人がいると報じられた。人権などに配慮した結果、検査せず帰宅させたというが、米国ではこのような対処はあり得ないという。

「政府も行政もなっていない。米国は飛行機を降りた後、そのまま家に帰すことはない。体調が悪くても自己申告しないやつもいるからだ。アメリカは広いから、1回外に出してしまえば取り返しがつかなくなる。だから発症していない人でも最低2週間は隔離する。抵抗力が強い人も弱い人もいる。発症するかどうか見極めるには、それぐらいの期間が必要だ」

 日本では第1便帰国者に千葉県勝浦にあるホテルが用意されたが、収容施設を巡って地域や学校などで様々な差別が生じていると聞く。

「施設を提供したのはいいが、風評被害などその後はどうするのか。関係者のメンタル的な問題やPTSDの可能性もある。そういうリスクまで日本政府は考えたのかどうか」

 基地内に収容施設を置けば、後日発生するだろうこの手のリスクは回避できる。

 日本ではチャーター機の旅費8万円を個人負担することが報じられて世論が騒ぎ、結果的に首相が国側が負担すると発言したが、米国では搭乗者にエコノミーのチケット代を請求するのが当然だという。

「日本人は甘えている。彼らは中国に勝手に行ったんだ、会社なら営利目的で行っており、費用は会社が負担する。旅行客は遊びに行っただけだ。彼らは政府や軍からの命令で武漢にいたわけではない。自費負担は当然だ」

 米国務省は1月30日、中国への警戒レベルを引き上げ、渡航を禁止し、過去2週間以内に中国渡航歴がある外国人の入国を一時的に禁止した。ロシアは中国との国境を閉鎖した。だが日本はまだ中国からの観光客を受け入れている。

「中国からの観光客はストップするのが当然だ。人権や経済損失の問題ではなく、Welcome Japanなどと言っている場合でもない。否応なしにGo Homeなんだよ。もし米国民だったら、自国へ帰れと言われても誰も文句は言わないだろう」

 各国で感染者が増えているが、思ったより感染者が少ない国もある。例えばインドやネパール、カンボジアだ。2月6日現在、インドの感染者は3名、ネパールもカンボジアも感染者は1名だ。

「衛生面で問題を抱えている国は、たとえ感染者がいても把握できない。アジア圏の感染者数はその国の衛生レベルの高さに比例している。ここにきて中国で感染者や死者が急増しているのは、もともと衛生面の意識もレベルも低いことが大きな要因だ」

 医療のレベルや衛生面での意識が高い日本で、新型肺炎が中国のように猛威をふるい死者が増えることはないだろうと米軍関係者は語る。だが彼はこうも示唆した。

「日本は米国と違い人口密度が高い国だ。感染が広がってしまうと、その確率は高くなる。感染拡大、パンデミック対策に必要なのは最悪のケースを想定することで、段階的に警戒レベルを上げるような計画ではない」

  (以上、引用記事、終わり)

さて、本来ならば、昨日のブログ記事の続きとして、以下の内容を紹介したかったのだが、ただ上述のネット記事の方が読者とより多くの接点があると思い、紹介した次第である。もう既に目を通していた読者には申し訳ないが。ただ、私の関心は、日本の対応が甘すぎるとした際、それはどうしてなのか、その原因なり背景を探りたくなるのだ。そうすると、すぐに、日米関係が浮かんでしまう。日本と日本人が自らの安全保障を考えようとした瞬間に、米国がそれを許さない日米軍事同盟関係に気が付くのではあるまいか。日本の基地問題から、経済・貿易関係を勘案しても、日本独自などとても考えにくいのが現状だろう。さらに、中国との経済関係を考慮した瞬間に、二の足を踏まざるを得ない環境に気が付くのではなかろうか。ここには覇権システムにおける力と力の関係、すなわち「親分ー子分」関係が如実に体現されている。

どの国も「関係」の中で生きているから、当該諸国の独自性を100%打ち出すことは難しいだろうが、日本と日本人の立ち位置を考えるとき、それがいかに困難なことかが理解できるのではないか。これまでの覇権国であった親分の米国が太平洋を挟み隣に位置し、これからの親分となる次期覇権国の中国が日本海、東シナ海を挟み位置している。地政学的観点からみてもそうなのだが、私のモデルで描くシステムとその関係の歩みから考察した際に、日本と日本人は既に手足を縛られてしまって身動きが取れない状態に置かれているのだ。

偉そうなことを自覚して言うのだが、残念ながらこうした問題意識と分析枠組みを持つ政治学研究者がほとんど見当たらないのだ。日米間系べったりの御用学者は吐いて捨てるほどいる。日中間系べったりの御用学者が今後は雨後の筍のようにつくられるだろう。米国と中国の資金と人的ネットワークの鎧で守られた頭の中は極めて脆弱な研究者ともいえないような、そんなどうにもならない連中がマスコミで踊っている、いや踊らされ続けるのに違いない。

安倍さんや、麻生さんにはずっと辟易させられているが、もっと悲しいというか情けないというか、どうにもならないレベル、いやラベルとしか思われない者たちが、マスコミではしゃぎすぎていることは、もうご勘弁願いたいのだ。私は特に強調したいのだが、人ははどんなにご立派なことを語ろうが、権力に転ぶ、お金に転ぶ、女に転ぶ、欲に転ぶ、そんな生き物だと、常日頃思うのだ。

原発の御用学者にはあきれてものが言えない。それがあの東北の自己の際に、その少し後でよくわかったではないか。安全だ、安全だと嘘を言っていたことが。今も状況は変わらない。変わったのは、彼らではなく、国民の大多数なのだ。こんな国民を相手にしているのだから、権力者とその周りに巣くう連中は、高笑いではあるまいか。ちょろいものだ、と。

何故、「ちょろくなる」のか。差別と排除の関係の中で、自分だけは少しでも相手より差別する側に回ろう、排除する側に立とうと。そのためには自分よりも上にいる、つまり自分よりも差別し、排除する力を持つ者の仲間になろう、と。これに対して、当然ながら、より力を持つものは、さらに力を得るために、自分の言うことを聞く、手足となって動く子分を増やそうとする。仲間を増やそうとする。ここに、両者の思惑が一致する。

いわゆる「弱者」と言われるものもこうした関係の中で生き続けている。当然、強者はここに目をつける。弱者も早く上に生きたいから、それが弱者の生活を今よりも良くする手っ取り早いものだから、弱者同士がそれこそ「ワン・チーム」となって「連帯」仕様だなんて青臭いことなど言わないで、力のある者をかぎ分けすり寄っていくのが常ではないか。そんな連中は「転びバテレン」よりもすぐ転んでしまう。(そもそも最初から「信仰」する対象がないからだ。何かを信じる気持ちはやはり大切なんだ。)そう、ちょろいのだ。

これは人間集団だけに見られることではない。そうした人間集団から構成される国家においてもそうなのだ。それこそ日本の幕末以降の歴史、明治維新、富国強兵、日清・日露戦争前後の日本を取り巻く中国、朝鮮、欧米諸国の関係を見てもそれがよくわかる。

しまった。こんな話をするつもりは毛頭なかったんだが。最後に、昨日のブログ記事として書いた文章があるので、それを読んでほしい。またわけのわからないことを、と思われるかもしれないが、その時はごめんなさい。


「システム論」で語られる「不条理」とカミユのそれとの違い

私がこれまで論述してきたシステム論を基にして、カミユの提示した「不条理」を読み直してみたい。と言ってもカミユの『ペスト』を解説するわけではない。元よりそんな文学的センスを私は持ち合わせていない。カミユの不条理の「設定」の仕方を、私のシステム論で語られる不条理の設定との違いを考えてみたい、ただそれだけである。おそらくそうした作業を介して、いわゆる「実存主義」に対する私の見方も浮き彫りとなってくるのではあるまいか。

私にとって、不条理はカミユが設定したように、突然あるところからある場所にやってくるものでもないし、また突然去っていくものでもない。それは、常に私たちの身の回りに存在するものなのだ。空気のようにあるものだから、そもそもその不条理さが何であるのか、それがどうしてつくり出されたのかさえ、捉えることは容易でないのだ。

いわば、不条理な世界それ自体があたかも情理を持った世界となって進んで受容されていくのだ。そのような私の不条理さの設定を前提にするとき、カミユの不条理さで描かれる世界は、私が前提とした世界とそれをつくり出してきた人間関係における不条理さの中で展開されるはずの物語だということになるだろう。

それゆえ、カミユの不条理さを前提とした不条理な世界の設定と、それを基に展開される人間の「実存」は、私にとって、何か大事なものを隠ぺいしながら展開される実存のように思われるのだ。つまり、差別と排除の関係を五臓六腑にしみこまされて生きている実存が描かれていないのだ。もしそれがカミユの不条理の設定に組み込まれていたならば、その不条理さが突然にわかに生起したとか、またそれが消えてしまったかなどとは位置づけられなかったはずなのだ。

どうせ世の中はこんなものであり、何をやっても変わらない云々と、多くの人は語るが、同じ文章で書かれた文句が意味する背後の世界の意味と理解の仕方には、それこそ天と地の隔たりがあるのだ。すなわち、そうした世の中がそれではどのように形成され今日に至ったかについて、またその過程で不条理なるものをどのように位置付け理解するかによって、先の天と地の開きが生まれてくるのだ。

カミユが描いた宗主国フランスの植民地アフリカのアルジェリアのオランとそこで暮らす住人は、私のモデルで描く三つの下位システムから成る一つのシステムの関係の中で存在することを強いられていたのだ。すなわち、覇権システム、世界資本主義システムそして世界民主主義システムと、それら相互のシステム間の関係からつくり出される差別と排除の関係から成る不条理な世界を前提として、設定された不条理=ペストの蔓延とそれが引き起こした出来事であるにもかかわらず、カミユは前段のシステムとそれが引き起こす出来事=不条理を想定(設定)してはいない。少なくとも、私はそう見るのだ。

それゆえ、その後の流れとして、みんながそれこそ「ワン・チーム」となって「連帯」して、ウイルスと戦い勝利したといった、なんとも気色悪い話となり(以前に、私も障碍者の連帯云々といったそんな気持ち悪い内容を語っていたが)、結局は先述した三つの差別と排除の関係から成る不条理な世界はまったく変わらないままで(ただそのシステム内の人々の一部で以前と少しは異なるような感傷的な気持ちの変化が感じられて何か勇気をもらった云々みたいな「上辺だけの理屈」によっても支えられない、(いやそんなことはない、この上辺だけの理屈が今の世の中に蔓延しているではないか。ただし、この「上辺」にも何層かに分かれるし、上辺を引きはがし、掘り下げていく力が大事だとしても、上辺だけの世界の中でそんな力がどうして手に入れられるのか。この先はーーー。)それこそ不条理な高揚感だけが漂うのだが、)存続していくといった具合に止まってしまう、停滞してしまうのだ。

また時間を見つけて、システム論から文学作品を読み返してみたい。ただ何かやぼったい話となってしまうようで、あまり先は期待できないような、そんな感じである。

 

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