日本の「政治」の〈可能性〉と〈方向性〉について考える。

「政治」についての感想なり思いを語りながら、21世紀の〈地域政党〉の〈可能性〉と〈方向性〉について考えたい。

私の語る「システム」論から、斎藤幸平氏による〈反五輪でボイコット〉発言を再考するとき

2024-08-01 | 日記
私の語る「システム」論から、斎藤幸平氏による〈反五輪でボイコット〉発言を再考するとき


(最初に一言)


 今回の話も、おそらくは大半の日本人には「どうでもいい」ような話として済まされるように私には思われるのだが、斎藤氏が問いかけた問題を、私の語る「システム」論から掘り下げて考えてみたい。




 「こちら側の私たち」にとっては、斎藤氏の「反五輪でボイコット」の主張は、至極当然の物言いとして位置づけ理解されるということを、最初に述べておきたい。その際付言すれば、だからといって五輪を見ることもしないのかどうかは、こちら側の私たち各人の判断に委ねるしかあるまい。私が今回記事で問題としたいのは、斎藤氏が指摘する以外に、五輪に反対する理由はないのかという点に関してである。私はもう少し広い文脈の下で反対の立場を表明しておきたい。


 それでは斎藤氏による反対の理由を紹介しておきたい。氏は主として二つの理由を挙げている。一つ目は、ロシアの五輪参加は認めないのにイスラエルの参加は認めるという国際社会や国際オリンピック協会の「ダブルスタンダード」の姿勢を問題視している。イスラエルの五輪への参加により、イスラエルのパレスチナに対するジェノサイドについての感覚が人々から消えていくことを危惧している。もう一つの理由は、「祝賀資本主義」によって格差の拡大が助長されるということである。なお、これらに関する記事としては、〈東大准教授「news23」での「反五輪」発言に反響 スポーツウオッシュの問題点指摘「私は抵抗したい」7/31(水) 16:57配信 スポニチアネックス〉と〈「反五輪でボイコット」東大准教授、番組で明言 イスラエル出場の「ダブルスタンダード」指摘 7/31(水) 19:16配信 J-CASTニュース〉を参照されたい。


 冒頭でも指摘しておいたように、こちら側の私たちには、斎藤氏による反対理由は、当然の物言いであるとみている。それを踏まえたうえで、私はこちら側の私たちによる反対理由について言及しておきたい。その際、以下のような問題提起をしておく。先述したようにダブルスタンダードに関しての話として、それではロシアも認めてイスラエルと共に両国の参加を認めれば良かったのか、あるいは逆に、イスラエルも認めないで両国の参加を共に認めなければ良かったのか、という問題から考えてみたい。結論から言うと、両国ともに参加しない方向で国際社会がまとまればよかったのだが、それは現実の政治力学の前にどうにもならず、イスラエルの参加が許されるという事態となったのだ。おかしな話だが、結局はそうなってしまったのである。


 それゆえ、斎藤氏による先の発言がなされるわけだが、誤解を恐れずに言うならば、私にはこうした抵抗は、現実の政治力学を前にして、ほとんど意味を持たないというしかないのだ。あまりにも弱すぎるといえば言い過ぎだろうか。勿論、何を言ったとしてもほとんど意味を持たないのは確かなことだが、それを踏まえてもなお、こちら側の私たちには、もっと強いメッセージを発信する必要があるのではなかろうか。これに関して言うならば、こちら側の私たちには、五輪はもうやめてもいいのではないかと思われる事案の一つである。それこそ国体(国民体育大会)の見直し論が高まっている。両者を比較すること自体にも問題はあるのは私も承知しているのだが、それを踏まえてもなお言うならば、今の激しく拡大している格差の時代を鑑みるとき、「みんな楽しく見ている五輪」とは程遠い現状ではあるまいか。


 ロシアとウクライナの戦争、イスラエルによるパレスチナへの長年に及ぶ暴力行使は元より、世界中を見渡すとき、此処彼処で対立・衝突・内紛が勃発している。それこそフランス国内を見ても、先の総選挙の結果が物語るように、とてもオリンピックの開催どころの話ではない状態・状況におかれているのは間違いない、と私はみている。これは東京五輪でも同様であったはずである。なぜならまだフクシマは終わってはいないからだ。私のような立場からすれば、五輪の開催は開催当事国を含めた世界中の危機的問題を隠蔽すると同時に、こちら側の私たちに向かって、お前たちも「あちら側の彼ら」の仲間になる方が利口であるし世渡りにも都合がいいかのようなメッセージを送っているように思われるのである。


 ところで、私はこれまでもずっと私の語る「システム」論を、犬の遠吠えのようにこれでもかと論及してきたのだが、それは私の語る「システム」の抱える宿痾というか、私たちが後生大事に信奉してきた自由・民主主義・人権・法の支配・平和といったいわゆる英・米・仏の市民革命に端を発する普遍的価値とその実現の歩みとしての普遍主義の抱える問題に対して、私たちはもっと真面目に向き合い、それこそ命を懸けて挌闘すべきなのだということであった。そうした生き方こそが、明治以降から今日に至る私たちの自己決定権の獲得とその実現を巡る差別と排除の格差の関係の歩みに対する贖罪となりうると同時に、「システム」と距離を持って生きていける、これまでとは異なる生き方の創造につながる、と私はみている。


 そんな私からすれば、戦後の日本と日本人の生き方は覇権国である米国主導のGHQの占領統治とその下での日本国憲法体制に組み込まれて以来、戦前・戦中の日本とは別の形の差別と排除の「親分ー子分」関係を前提とする力(暴力)の支配の下に組み込まれてしまったということである。大日本国憲法体制と日本国憲法体制の表層的な違いはあれども、その内側において綿々として続いてきた、スペイン・ポルトガルを始めとした歴代覇権国を中心としてつくり出された覇権システムに特徴づけられる差別と排除の「親分ー子分」関係を前提とする力(暴力)の支配は、ほとんど何も変わってはいないのである。


 そうした暴力的支配の姿は、「システム」の低度化の深化の進行するかつての先進諸国においては、国内における分厚い中間層の解体と相まって、たとえそれがどんなに表面的なものだったとしても、これまでの寛容の精神も涵養されなくなった社会には、対内的にも対外的にも「弱者」に対する余裕はなくなり、それが弱者の切り捨てとして表面化する事態となっている。たとえば、国内では低所得者層に自己責任の論理をことさら強く求めるとか、国外に対しては、移民や難民の流入はお断りといった強硬な姿勢を打ち出すとか等々である。


 元より、私たちのこれまでの豊かさとそれに裏打ちされた寛容の精神は、私の語る差別と排除の関係を前提とした「システム」によって提供されたものであることから、それほどというか、ことさら礼賛されるものでは全くないのである。付言すれば、これまた何度も語ってきたように、米国のニューディール期の黄金の資本主義社会と民主主義社会も、こうした差別と排除の関係を抜きにしては実現しなかったことを銘記しておいた方がいい。同じく、戦後日本の高度経済成長と民主主義の実現に体現される日本国憲法の各条項に示された「理念」も、私の語る自己決定権の獲得とその実現を巡る差別と排除の関係を前提とする「システム」によって提供されたことを、もう少し具体的に言えば、「システム」が時の覇権国である米国を介して日本に提供したということを、私は今回記事においても強調しておきたいのである。


 ここまでの私の話を踏まえるとき、私たちのいう「ダブルスタンダード」の問題は、それ自体の問題というよりも、そうした基準をつくり出す仕組みというか構造は、果たして何であるのかを問うことの方が、さらにこちら側の私たちには大切であるように、私には思われる。前々回記事?でも述べていたように、私たちの自由・民主主義・人権・法の支配・平和が実現するには、私の語る「システム」全体を構成する諸国とそこに暮らす人々に対する有無を言わさぬような強制連行的な総動員体制を前提としているにもかかわらず、結果としてその果実を享受できるのは、その一部に限定されるという事実なのだ。たとえて言えば、同じ仕事をしているにもかかわらず、正規と非正規においてその手にする果実が違い過ぎるという今の格差社会の現実と重なる姿なのだ。


 ここでもおかしな話だが、そうした格差社会に対して私たちは確かにそうした賃金格差を問題にはしているのだが、そうだからと言って、そうした格差問題に対して、それこそ本腰を入れて真面目に向き合い挌闘するかと言えば、そうではない。むしろ後ずさりするか、声はあげてもそれ以上に深入りするのは避けるのだ。どうしてなのか。それは私たちの享受している幸せは、そうした格差を、すなわち差別と排除の関係を前提として初めて手にできることを、十分すぎるほどにわかっているからなのだ。


 それと同様に、世界のカクサ(格差)に関しても、よくわかっているのである。たとえ、それを理論的というか、いろいろな事実とされる事象を積み重ねて説明できなくても、生身の人間として強く体感しているのだ。少し付言すれば、私たちの知的状況は、特に左翼的・革新的とされる知は、こうした普通の人々の体感に至るまで到達できるそれではもはやないのである。民主主義と帝国主義は「水」と「油」の関係にあるといくら知識人が強弁したとしても、普通の人々はそうした物言いの偽善性に気が付いているのだ。イスラエルによるパレスチナ人に対する虐殺に象徴される帝国主義を見せつけられる度に、民主主義と帝国主義が手に手を取って弱い者いじめをしていることを、体感するのだ。もはや彼らに偉そうに民主主義の崇高さ云々の話は通じないのだ。


 ここには、私たちの生き方それ自体における「ダブル・トリプル・スタンダード」が色濃く刻印されている、と私はみている。それこそ、福沢諭吉の説いた「文明ー半開ー野蛮」の関係を前提とした生き方を本能的に自覚?しているのだ。こうしたダブルスタンダードには目を向けないままに、私たちはロシアとイスラエルを巡るダブルスタンダード云々の話には食いつきやすいのではあるまいか。おそらく、斎藤氏の問題提起は、「どうでもいい」ような話で盛り上がって、それでしばらくすれば終わりとなるに違いなかろう。本当ならば、本来ならば、それで済まされてしまっては残念なのだが、これまたどうしようもないのだ。私たちの社会は差別と排除の人間関係を前提とするものであり、そのような社会の中で生きているのは問題がある云々といくら叫んだところで、私たちの生存それ自体がそうした差別と排除の人間関係を前提として成り立っていることを承知していることから、なかなかそれは一筋縄ではいかないことになる。


 だが、ここで問題となるのは、それでは私たちが差別し排除する側から、差別され排除される側に回った時に、従容としてそうした関係に甘んじて生きていけるのだろうかということである。それはできない相談だというのが、つい最近までの歴史が教えてくれる。欧米社会での極右・極左の暴動やポピュリズムのうねりがそれを端的に示している。こうした動きが、やがて戦争へと私たちを今また駆り立てることにでもなれば、それは大変であるのは言うまでもなかろう。


 憲法を守れと叫んだところで、また9条に体現される平和憲法を改正しろと叫んだところで、私たちを取り巻く危機的環境にうまく対応・対処できると私は考えてはいない。何度も言うのだが、私の語る「システム」とそれが抱える宿痾を直視して、「システム」と格闘しなければならないことを、私は主張するだけである。特に、{[B]→(×)[C]→×[A]}の図式で描かれる今進行中の「システム」の動きから目を離してはならない。


 この「システム」を少しでも学んだ人であれば、今や米・中覇権連合の強化の下に、着々と次期覇権国としての中国の台頭が準備されていることを理解できるに違いない、と私は推察している。私から見るとき、今の日本と日本人は20世紀の両戦間期において、突如として?日英同盟を米国からの圧力で廃棄されてしまい、英米覇権連合の下で孤立感を深めて戦争へとひた走った姿と重なってしまうのだ。そろそろ日米同盟も廃棄される時期に差し掛かっているのかもしれない。


 それゆえ、ここで大事なことは、「システム」の発展とその維持・存続に際して、「システム」が打ち出すであろう「一手」を、私たちも前もって予測・予想しておいた方がいいということである。そのためにも、私の語る「システム」は、何よりも戦争を、カネの成る木としての「システム」にとって、最重要なエネルギー源(収入源)として位置づけ理解しているということを知っておくのは、私たちの生活上の安全保障にとって必要不可欠なことであると言えよう。それゆえ、「システム」は覇権国の米国と次期覇権国の中国を介して(使いながら)、次の戦争を仕掛けよう時としているのだ。それとの関連で、今のロシアによるウクライナ戦争は位置づけ理解される、と私はみている。これらに関しては、以前のブログ記事を参照されたい。、




(最後に一言)


 今回記事は斎藤氏の「反五輪でボイコット」に関する記事をたたき台として、私の語る「システム」論から論及した次第。私はそろそろ「こちら側の私たち」の「おりんぴっく」を考える時期だと思っている。お金のない私たちのそれは、華々しい採点とはかけ離れた、それこそすべてが自給自足的な競技会になるはずだ。おそらくというか必ずや「あちら側の彼ら」のそれと比べられないほどにお粗末なレベルな代物だと私は確信している。だが、その中にこそ、私たちが見失った人間の持つすばらしさ?・輝かしさ?があるのかもしれない。そんな物言いをしながらも、残念ながら、私には未だにそれが見えてこないのだ。だからこそ、もしそんなものがあるのならば、それを見てから、正確にはそれを感じながら死にたいと切に思うのである。


 あちら側の彼らの提供する祭典とは異なるこちら側の私たちのそれを提示できるようになって初めて、あちら側の彼らに向かって発せられる「反・五輪でボイコット」論は、論ではなく現実の形となるはずだ。もっとも、そんなこちら側の私たちの祭典が実現したとしても、やはりそれに対するこちら側の私たちからの反対やボイコット論があるのは否定できないだろうが、それは異なる次元における反対でありボイコット論である。当然ながら、それらの異議申し立ては空気のように自然な姿として、私たちは受容するであろう。別にことさら何か社会に対する「異論」であるかのように取り上げる必要もない。


 ここまで書いてきたのだが、読者はおそらく「お前のいう五輪反対に関する理由は何かが不鮮明ではないのか」と私に尋ねるかもしれない。それは残念なことだが、私の語る「システム」の中で、それこそ差別と排除の関係を前提として生きている社会において、そうした差別と排除の人間関係を不問に付したままで、どうして五輪の開催とか参加などを考えられようかというのが、こちら側の私たちの反対の理由である、と私は強調しておきたい。


 そうした差別と排除の関係を前提とした「システム」の中で、ロシアのウクライナ戦争やイスラエルのパレスチナに対する暴力行使が引き起こされるのだから、ダブルスタンダード云々や祝賀資本主義云々の問題も、私の語る「システム」と結び付けて語ることは当然である、と私はみていることから、「システム」を俎上に載せてそれと挌闘する者ならば、そもそも「システム」の主要な利権・利害関係者が支配するあちら側の彼らの提供する祭典に参加することはやはり気が引けるというしかあるまい。これらが私の反対理由である。だが、これまた何度も述べてきたように、こちら側の私たちも、あちら側の彼らと同様に、私の語る「システム」を担い支えるシステム人であることを自覚するならば、それこそ反対のトーンは弱弱しいものとなることだけは否めない。それを承知したうえでの、恥の上塗りとなるのを覚悟しての、今回記事での私の論の展開となった次第である。




(付論)


 前回記事に関する補足説明をしておきたい。大きく分けると二点であるが、今回記事では最初の点についてのみ付言しておきたい。それは、〈平衡感覚を私たちが相当になくしてしまった〉云々に関してである。平衡感覚というとき、多くの人は誤解するかもしれないが、私たちの社会における「立ち位値」は決して平衡というか平らな地点には位置してはいない。それゆえ、それは「法の前に平等」であることを憲法が謳っていたとしても、、その理念を享受する現実の私たちは、差別と排除の格差の関係を前提とした社会の中で生きているということを忘れてはならない、そこから目を背けてはならないということである。


 何度もこれまた述べてきたように、私たちは自己決定権の獲得とその実現を巡る差別と排除の格差の人間関係を前提とした社会の中で生きている。それゆえ、私たちの平衡感覚には、そうした社会の格差が的確に埋め込まれていることが何よりも必要となるのだが、ここで大きな問題として、私たちは現実に生きている世界を直視する前に、社会はこうあるべきだとの観点から社会を捉えようとしてしまう。特に、日本人はそうした感性に邪魔されやすい、と私はみている。


 前回記事でも述べていたが、民主主義に関した話においてもそれは顕著ではあるまいか。いつも理念というか、あるべき状態を物差しとして、そこから現実の距離を測るというような倒錯した議論があまりにも多すぎるのだ。それゆえ、そもそも今俎上に載せられている民主主義とは、どのようにして、どのような人間関係を前提として作られてきたのかといった最低限度の話さえもスルーしても何も問題はないかのように話が展開されてしまう。これはやはりおかしいのではあるまいか。


 平衡感覚を磨くためにも、現実を直視して、それを起点とした理念との距離を図ると同時に、どうしてあるべき理念が現実に投影されないのかを問いただす作業を試みたほうがいいのである。そうすることによって、理念とそれをつくり出した仕組みというか構造と、それが抱える問題に、換言すれば私の語る「システム」に初めて目が向けられることになる、と私はみている。


 もう一つの残された問題は、最近の異常気象を前にした際の、私たちの災害時に備えた向き合い方に関してである。これに関しては、いずれ別の機会に取り上げて論じたいと考えている。少し言及しておくと、どうして二人の若い警察官は「殉職」しなければならなかったのか。私には本当にあってはならない事件なのだ。今も考えている。



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