日本の「政治」の〈可能性〉と〈方向性〉について考える。

「政治」についての感想なり思いを語りながら、21世紀の〈地域政党〉の〈可能性〉と〈方向性〉について考えたい。

「システム」とその関係の歩みはコロナ感染とその世界的蔓延にも一切動じない。右往左往しているのは一体誰なのか。

2020-02-29 | エッセイ

 

 

 

「システム」とその関係の歩みはコロナ感染とその世界的蔓延にも一切動じない。右往左往しているのは一体誰なのか。

やっと試験が終わり、ほっとしていたところに、一昨日の木曜日午後の安倍首相による特別支援学校とその他小中高校の全国一斉休校要請の知らせに、さらに安堵した私である。試験中の緊張とこの2年間の帯状疱疹のしんどさもあったのか、昨日はの朝方の2時くらいから体調不良で、盲学校に行くのをやめた、欠席してしまった。卒業式も欠席するつもりだ。

いま眼前で展開されているコロナ騒動から、私は教えられることが多々あるのだが、とりわけ、どんな時でも自分で判断して、決定すること、その責任は自分が引き受けるということ、それを今さらながら確認した次第だ。自分の安全保障は自分でしなければどうにもならない。

こんなエラそうな思いは、その通りだが、これが本当にできるのかと問われれば、言うまでもなく、できないに決まっている。ここでもはっきりとわかるのは、私という自己とその決定なり、決断は、私以外の他の人の自己とその決定とその決断との「関係」を介して初めてなされるということなのだ。つまり自己責任という場合の「事故」とその「責任」は、他の人の自己と責任との関係を介して初めて引き受けることのできる作為(あるいは不作為)に他ならないのだ。

こんな当たり前のことを何度も言うのは、それなりの理由がある。人は一人では生きられないとか、あるいは、私たちは関係の中で生きているとか等々をこれまで見聞きしてきたものだが、それなのに、国際関係を見るときに、そうした身近な関係の出来事を忘れて、どこかの国が悪いとか、そこのナショナリズムはおかしいとか、はたまたどこかの国には民主主義社会が根付いていないとか云々の話にみられるように、身近な関係論がそれほど生かされているとは、私にはあまり思われないのだ。

今回記事のタイトルに直接は当たらないかもしれないが、少し気になる記事に出くわしたので、それを先に書いておきたい。(記事のタイトルで話したかったのは、それこそスペイン、オランダ、イギリス、アメリカの覇権国の興亡史の間に勃発した戦争の悲惨さがどのようなものであれ、システムとその関係の歩みは、そうした人類の犠牲に関係なく、まるでそれらがなかったかのように、確固とした基盤を形成しながら、発展、変容してきたということであった。今回のコロナ騒動も、少し前のサーズの時と同様に、やがては収束するに違いない。それが数カ月なのか、はたまた数年なのかは別にしても、そしてその間の私たちの命と安全がどれほど脅かされるとしても、そうなのだ、という話であったが、それこそ本当にっつまらないものだということは、読者には申し訳ないが、確かである。ただし、それでも書き続けなきゃならないと、私は考えてきたのも、また確かなことなのだ。)

さて、そうしたことを踏まえた上で、先ずは、以下の「阿修羅ランキング瞬間」★阿修羅♪ > 政治・選挙・NHK270 > 179.html ★阿修羅♪に掲載された孫崎享氏の記事を見てほしい。  

(以下、貼り付け、引用開始)

戦況悪化を隠した大本営と不況を回復という安倍政権は同じ(日刊ゲンダイ)
http://www.asyura2.com/20/senkyo270/msg/179.html
投稿者 赤かぶ 日時 2020 年 2 月 28 日 10:55:05: igsppGRN/E9PQ kNSCqYLU  
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「景気は緩やかに回復している」とは…(C)共同通信社

 内閣府の発表によると、昨年10~12月期のGDP(国内総生産)が前期(7~9月期)より1・6%減、年率換算で6・3%減となった。これを受け、米経済紙ウォールストリート・ジャーナル(WSJ)は、<みじめな2019年最終四半期に続き、日本経済はリセッション(不況)の危険に直面している>と報じた。

 誰が見てもそうである。さらに昨年10~12月期の動向を細かく見ると、状況が極めて厳しいことが分かる。個人消費はマイナス2・9%、住宅投資は同2・7%、設備投資は同3・7%、輸出は同0・1%である。政府は公共投資(1・1%増)に力を入れ、下支えしようとしているが、他の悪材料が強すぎる。誰がどう見ても全分野に危険信号が出ている。

 そして、昨年10~12月期は新型コロナウイルスの影響はない。コロナの影響が出る今年1~3月はさらに深刻な状況が出るだろう。こうした中で、政府は2月の月例経済報告で<景気は緩やかに回復している>としたが、信じがたい評価である。

 第2次大戦下、日本の大本営は負け戦を「勝利」「勝利」と喧伝していた。今も同じ状況にある。ある新聞は苦し紛れに<政府認識と条理する指標>と報じていたが逆である。<指標と乖離する政府認識>が正しい。市民の解釈で言えば「嘘の政府認識」なのだ。

 なぜ、このような嘘をつくのか。答えは簡単だ。「安倍首相の失政」との批判を避けるためだ。

 10~12月期に落ち込んだ理由は消費税を10%に引き上げたからだ。GDPの約6割を占める消費が大幅に下がったのだ。

 今後、日本経済は大きく後退する。新型コロナで国内消費は一段と下がる。各種の行事が取りやめになる。JR東海によると、今月1~19日の東海道新幹線の利用者数は前年比8%減である。全国の飲食店への新型ウイルスの影響について、大きな影響は31%、多少の影響は20%、合わせて51%に影響が出ているとの調査があった。

 こうした危機的状況だからこそ、現状を客観的に見なければならない。深刻な不況の傾向が出ている中、「経済が緩やかに回復」との認識であれば、必要な打開策がとれるはずがない。

孫崎享 外交評論家
1943年、旧満州生まれ。東大法学部在学中に外務公務員上級職甲種試験(外交官採用試験)に合格。66年外務省入省。英国や米国、ソ連、イラク勤務などを経て、国際情報局長、駐イラン大使、防衛大教授を歴任。93年、「日本外交 現場からの証言――握手と微笑とイエスでいいか」で山本七平賞を受賞。「日米同盟の正体」「戦後史の正体」「小説外務省―尖閣問題の正体」など著書多数。

(以上、貼り付け、引用終わり)

さて、上に貼り付け引用した孫崎氏の記事を、これまで何度も私のブログ記事で紹介してきたシステムとその関係の歩みに関する1970年代までのモデル({[A]→(×)[B]→×[C]})と、それ以降の今日に続くモデル({[B]→(×)[C]→×[A]}、いずれのモデルも省略形、共時態モデルである。詳しくは下記の拙著、88-91頁のモデルを参照していただきたい。)を念頭において読み直してほしいものである。特に一番最後の段落にある内容は、私には受け入れがたいものだ。

孫崎氏は、そこで「こうした危機的状況だからこそ、現状を客観的に見なければならない。深刻な不況の傾向が出ている中、「経済が緩やかに回復」との認識であれば、必要な打開策がとれるはずがない。」と述べているが、はたして孫崎氏自身は危機的状況が歴史のどの「地点」からもたらされてきたかについて、それこそ「客観的」にどこまでご理解されているのか、私はそう言わざるを得ない。

孫崎氏の見解はおそらく「素人」受けはするのだろうが、私にはそこが一番気にかかるのだ。素人の中には経済学者や経済評論家も含まれる。ノーベル経済学賞の受賞者も例外ではない。このようにまた私はえらそうなことを述べているのは重々承知なことだが、「システム」論に拘泥してきた私からすれば、システムとその関係の歩み、すなわち「歴史」をまったく理解できない研究者やジャーナリストがほとんどであり、そのために、危機の性格、性質が捉えられないということなのだ。

確かに、安倍首相とその取り巻きの愚かしさやあほらしさは枚挙に暇がないほどだが(もしこれを言うならば、あの原発事故当時の民主党政権下の菅元首相、官房長官の枝野氏やその取り巻きの蓮舫氏も同等、いやそれ以上にひどかったではないか。枝野(氏)は特に許せないと今でも私は見ているが、またこんなことを言うと、システムとその関係の歩みは、「そうなのだ、枝野も、安倍も、菅も、麻生も、さらに田中も、佐藤も、岸も、吉田も悪いのだ、そんな皮相的な批判ばかりしていればシステム人にはふさわしい言辞だ」とうそぶくばかりで、私たちはとても「本丸」にまでは到達できないのだが)、また同時にそうした現状が事態を悪化させているのも確かなことなのだが、私たちが陥っている「危機」とは、政治家とそのリーダーシップや、その時々の政権が打ち出す政策や法律云々に原因があるというよりも、むしろ私たちとその祖先や親たちの世代が自らその形成と発展、変容に「システム人」として関わりながら(正確に言えば、関わることを余儀なくされながら)、一旦動き出したシステムとその関係の歩み(歴史)に対して、人的能力でもって制御できなくなってしまったというところにこそ、事態の深刻さがあると言わざるを得ない。

つまりは、私も含めて、たとえ政権を批判していても、政権に就いたとたんに、前政権と同じかそれ以上に悪い政治しか行うことができないということだ。そこにはシステムとその関係の歩みが大きくかかわっている。そこで安倍政権が倒れて、次の新しい政権が誕生した時には、おそらくひどいものとなるに違いない。そして以後はこの繰り返しとなり、そこからもう少しこわもての政権が誕生する可能性は高い。あまり面白くない話だが、そうなるだろう。

{[B]→(×)[C]→×[A]}の関係史モデルで示される歴史の段階にあるシステムのAグループがⅢ”期にある時に登場するリーダーは往々にして扇動的タイプとなるのだ。忘れてならないのは、こうしたタイプの扇動家を生み出すのは「民主主義」の「発展」における「低度化」の「段階」の時期であり、それは民主主義の発展の過程(Ⅲ”期の段階)で生まれてくるということなのだ。付言すれば、これに対して、ナチズムやコミュニズムは、{[A]→(×)[B]→×[C]}のBグループの先頭を走る国家が、システムとその関係の歴史の段階において、Ⅰ期からⅡ期へと民主主義の発展における「高度化」の段階において、Ⅰ期からⅡ期の前期、中期に向かう段階で、Aグループの上位に位置する諸国と対立、敵対する局面を迎えた時期において顕現する現象である。これらの動きも、民主主義の発展の過程(高度化の歩み)の中で位置付けられるということを銘記しなければならない。なお、詳しい話は拙著を参照されたい。

ところで、先の話に戻れば、これはまさに、M・ヴェーバーが問い続けた歴史の宿痾であったが、私はそこに資本主義システムの次元のみならず、それに加えた民主主義システム、覇権システムの三つの次元から構成されるシステムとその歩み(歴史)にみる宿痾として捉え直したのである。こうした地点から私は今日の世界と日本の歩みを位置付けようと試みることから、孫崎氏の歴史の見方があまりにも皮相的なものにしか映らないのだ。

私はこれまでの著作において論述してきたように、70年代以降のB、C、Aの関係の中のAグループの中の位置から確実に下降している日本と日本人には、できることよりもできないことの方が多く、しかもそのできることも、Bの先頭に位置する中国やCグループ、そしてAグループに位置するこれまでの覇権国(親分)であった米国との関係を無視してはできないということであった。そして、私はそこから何かを主体的に作為するということよりも、むしろ何をしてはいけないのか、駄目であるかを訴えてきたのである。

その中でも、今後の日本と日本人にとって一番大切なのは、これまでの親分であった米国と、これからの親分である中国とは絶対に対立、敵対し、そしてその挙句は戦争に至るような事態だけは何があっても避けなければならないということであった。(もっとも、これはすこぶる難しいことだ。私の話よりも、韓国時代劇「テ・ジョヨン」〈渤海国の建国者とされる〉のビデオをみたらすぐわかるに違いない。)もしそれを基本的原則としたならば、この時期に憲法改正をするという愚策は取らないし、取りようもないだろう。そして第9条を安易に手直しするなどはしてはならないはずだ。(とは言うものの、このくだりも、それほど簡単ではない。戦後ずっと親分の米国の優等生の子分として生きながらえてきた日本と日本人にはやはり無理なことだろうが、それでも「それにもかかわらず」という「道」を求めてもよかったはずだが。そのためにも、私が描いているように、「システム」とその関係の歩みに関する見取り図は理解しておかねばならない、と私は考えるのだが。もっとも、理解すればこそ、逆に、「独立」のためには「戦争」しかないということにもなりかねないかもしれなくなる。システムとその関係の歩みから独立する道を模索することの方が、私には一番大事なことなのだが。このくだりもまたああだ、こうだとややこしくなってしまった。)

誤解のないように付言すれば、拙著(『21世紀の「日本」と「日本人」と「普遍主義」-「平和な民主主義」社会の実現のために「勝ち続けなきゃならない」世界・セカイとそこでの戦争・センソウ』晃洋書房、2014年)においても指摘したように、私は日本国憲法の前文と「普遍的人権(普遍的価値)」や9条やその他の権利条項について批判的・懐疑的である。そもそも近代憲法はシステムとその関係の歩みを円滑に行うために、そして「金の成る木」としてのシステムとその関係の歩みを維持、発展させるために、システムが提供したものであるから、最初からお話にならないものなのだ。

ところが、私に、それでは差別と排除の関係からつくり出されてきた現行のシステムとその関係の歩みに対抗して、別のそれこそ世界中のすべての者が等しく尊重される生き方を保障する「ふへんてきじんけん(ふへんてきかち)」とその実現を可能とする別の異なる「しすてむ」とそのかんけいの「あゆみ」を提供できる力があるのか、と自問自答するならば、笑うしかないではないか。それでは「平和憲法」の下に戦後新たに生まれ変わったとはずの「日本」と「日本人」はどうだろうか。もう泣くしかないだろうか。絶句ーーー。

そして今コロナである。孫崎氏も語るように、戦前の大本営発ーーー云々だ。ただし、戦前のそれは、{[A]→(×)[B]→×[C]}のシステムとその関係の歩みでのそれであり、今日の戦前と同じように思われる安倍首相の下での繰り返される真相隠しは、{[B]→(×)[C]→×[A]}のシステムとその関係の歩みの中で起きている。この仕組み(構造)の同質性とその歴史の「段階」の違いを的確に描くことができなければ、危機的状況の分析(診断)を見誤ることとなるだろう。その意味では孫崎氏は前者に関しては述べていると言えるかもしれないが、同質性と歴史の段階の違いは、両者を同時に視野の裡に置かない限り、どちらも正確には語っていない、と私はみるのだ。誤解のないように一言。この指摘もどうでもいいことかもしれない、今となっては。こうした点をわかればわかるほど、生きているのがとてもしんどくなるだろうし、ますます自己閉塞感に陥ってしまうだけだ。別に偉そうなことを言っているわけでもないのだが、虚しさだけがつのるというだけのこと。ただし、たとえそうだとしても、孫崎氏のような見方をする人たちが、そうした見方しかできない人たちが、安倍政権の批判をしたとしても(ここも誤解のないように、批判はすべきだし、それも当たり前のことだが、)、そこから出てくるものは、何もないということくらいは理解できるようになるだろうが、それでいくら儲かるか。何も金にはならない、子供の頃から「ユーチューバー」になって一獲千金を目指すことが何よりだとする社会には何のためにもならない。それも確かなことだ。勿論、お金を稼ぐという営みは、個人においても、国家においても、共同社会においても、重要なことだがーーー。

何か、孫崎氏の記事にいちゃもんをつけているようだが、誤解のないように付言しておくと、こうした孫崎氏の見方が、安倍首相に反対する論者に共通していると思うので、孫崎氏の記事を取り上げた次第である。

確かに以前の私ならば、誰それはどうだとか云々の話をしたかもしれない。それは研究において大事なことだ。ただ、私は特別支援学校に学ぶ中で、また中途視覚障碍者としての経験から、私がいまこの記事で述べていることがほとんど役に立たないという現実に打ちのめされたのだ。(もっとも、こうした苦しい思い(苦みを伴う心痛)は、「表向き」は「健常者」として生きていた、何十年も前から引きずっていたのだが。)つまり私の記事に目をとめている読者はごくわずかであり、ほとんどの者には全く興味も関心も喚起しない、それこそどうでもいいような戯言なのだ。それを重々知りながらも、こうして読者に訴えてきたのは、誰かが私の考えを受け止め、そして継承してくれることを祈念するからなのだ。ただそれだけである。

 

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