日本の「政治」の〈可能性〉と〈方向性〉について考える。

「政治」についての感想なり思いを語りながら、21世紀の〈地域政党〉の〈可能性〉と〈方向性〉について考えたい。

私の語る「システム」論から、改めて反「システム」(論・運動)について論じるときー「イジメ」られっぱなしでは、やはりあまりにもだらしなさすぎるだろうが。こちらも力をつけて、倍返しにしてやらなければダメ

2022-07-26 | 日記

私の語る「システム」論から、改めて反「システム」(論・運動)について論じるときー「イジメ」られっぱなしでは、やはりあまりにもだらしなさすぎるだろうが。こちらも力をつけて、倍返しにしてやらなければダメであろうが!

(要点)

*「システム」は、ただ単に「資本主義システム」の次元に収斂・包絡されるものではない。人間存在に関して根源的な、「力」(暴力)と「力」(暴力)のぶつかり合いを介した「自己決定権」の獲得と実現を巡りつくり出される差別と排除の関係から構成されるナショナリズムとその最終的創作物である覇権システムを、その中心的原動力としている。それを基にした「親分ー子分」関係に都合のいい「衣食足りて」の営為に関するシステムと「礼節を知る」営為に関するシステムとが作り出されてきたのである。

前者は資本主義システムとして、後者は、民主主義システムとして、それぞれ位置づけ理解されている。だが、ここで私たちが銘記しておくべき重要な点は、覇権システムがまず最初に独立した形でつくられたということ、そしてそれとの関係において、資本主義システム、民主主義システムが生まれてきたということ、この二点である。

これに対して、私たちのこれまでの「システム」についての理解は、まず最初に「資本主義システム」が作り出され、その関係から、国家や民主主義システムという上部構造が作り出されてきたというものであった、と私はみている。つまり、資本主義システムの中にナショナリズムが内包されていると同時に、資本主義との関連から国家が位置づけ理解されてきたのだ。国家とは、資本家階級による労働者階級に対する支配と抑圧の道具であり、装置だとして見られてきた。

そしてその階級抑圧的装置としての国家は、資本主義の次の段階とされる社会主義、そしてさらに最終的到達点とされる共産主義の段階に入ることにより、「止揚」されるとされたのである。ここにはナショナリズムは、資本主義という下部構造によりつくり出された上部構造としての位置づけと理解の仕方がうかがわれるのだが、それによって、ナショナリズムとその延長上に位置した覇権システムの理解の仕方が、あまりにもおろそかにされてしまっている。資本主義の次元と切り離されて位置づけ理解すべき覇権システムという描き方ができないのである。

勿論、資本主義という下部構造が、政治や国家の上部構造に影響を与えるだけでなく、上部構造も下部構造に対して、逆に影響を与えているといった見方も認められている。しかし、その際の上部と下部の二つの構造は、あくまでも下部が最初につくり出されるということを、議論の前提としている。

私の主張は、そうした見方こそ、先ずは見直すべきということである。だが、私のこれまでの議論は、いわゆるこれまでの学問の「常識」の前で、容易に認められそうもない。その意味では、k・マルクスとその流れを汲むウォーラーステインやフランク等のマルクス主義者の果たした(私の語る「システム」の擁護と維持と発展における)「功績」は大だとしか言いようがないのである。

私の語る「システム」論で描く「システム」とその関係の歩みを、しっかりと学習・理解し、「システム」の維持と発展を誰よりも積極的に担い支える世界の超富裕層・権力者たちにとっては、こうしたマルクスやマルクス主義者の担った役割は、絶大であったとことであろう。否、そうした貢献を見越したうえで、彼ら超富裕層は、マルクスとマルクス主義者を養い、育てた、と私は見ている。「金の成る木」としての「システム」が未来永劫、大きな批判に晒されることなく、確実にその発展の歩みを辿るためには、彼らの思想や哲学は必要であった、と私はみている。

それを踏まえて言うならば、これまでマルクスやマルクス主義者たちの提起してきた常識に替わり、私の語る「システム」論が、世界の抱える難問に立ち向かえる羅針盤の一つとして、位置づけ理解され、多くの賛同者を得たならば、それこそ、これまでとは異なる政治の「可能性」と「方向性」を見いだせるに違いない、と私は確信するのだが、それほど単純な問題ではないのも、確かなことだ。

これまでの話を踏まえながら、さらに以下において、論を展開してみよう。(要点)で述べた内容と繰り返しとなるかもしれないが、それに躊躇することなく話を進めていきたい。


(最初に一言)

今回のタイトルにある話に関しては、これまでも何度も形を変えながら語ってきたが、最近の記事の話との関係から、少しまた書いてみたくなった次第。ただし、あくまでも以前の研究を前提とした話とならざるを得ないことから、取り立てて、反「システム」論や運動に関する最近の新たな知見の紹介はできないことを、最初に断っておきたい。もっとも、以前の〈反「システム」〉論や運動に関しても、それほど詳しいわけでもないのだが。


それらを踏まえた上でいうならば、今回記事の目的は、あくまでも、私の「システム」論が、他の「世界資本主義」システム論者のそれと、何が異なっているのか、同時にまた、私が特に何を強く主張してきたかについて、論じてみたい。


先ず何より私が拘泥し続けてきたのは、歴史を動かすダイナミズムとは、自己決定権の獲得とその実現を巡り繰り返される力(暴力)と力(暴力)とのぶつかり合いを介して繰り返される「親分ー子分」関係を前提としてつくり出されてきた差別と排除の関係から構成される覇権システムの形成と発展、そしてその変容である、ということである。私が最も強調したいのは、それが最重要となるということだ。

最近の中国時代劇ドラマを見ていて、私がつくづく納得してしまうのは、中国何千年の歴史をつくり出した原動力は、まさにこの自己決定権の獲得と実現を巡る「親分ー子分」関係を前提としてつくり出されてきた覇権システムの形成と発展、そしてその変容に至る壮大な歴史それ自体ではなかったのか、としみじみと思うのである。

その覇権システムの形成と発展を前提としながら、そこで覇権を握る親分たちが、彼らに都合のいいように、「衣食足りて礼節を知る」営為の関係のネットワークを築いてきた、と私はみている。そして、私たちが資本主義システムと呼んできたのは、その親分たちが中心となってつくり上げた「衣食足りて」の営為の関係のネットワークをさしている、と私はみている。同時にまた、民主主義システムに関しても、その「礼節を知る」の営為の関係のネットワークを際している、と私はみているのだ。


こうした見方に対して、これまでのシステムの位置付け方と理解の仕方は、常に「衣食足りて」の営為を、そしてそこから、マルクスやその他のマルクス主義者が考えてきたように、資本主義を前提とするものであった。すべてが資本主義という下部構造を基にしてつくられるという発想であった。

それは、資本主義を基にして国家という上部構造が形成されるとの話へと繋がる。すなわち、国家は資本家がつくったものであると同時に、彼らの「階級」支配の道具とされたのだ。ここには、私の説くように、覇権システムがナショナリズムの源であり、国家をつくり出す前提を構成するとの位置付け方や理解の仕方は皆無である。そもそも歴史における覇権システムの果たした役割を的確にとらえられていないのだ。

私がこれまで問い続けてきたのは、結局のところ、私たちの最大の問題は、資本主義や民主主義に直接、起因するものではなく、「親分ー子分」関係を前提としてつくられてきた差別と排除の関係から構成される覇権システムであったということなのだ。つまり、力を有した者とそれを欠いた者との関係が前提となる。

この関係は、私たちには何ともし難い難しい問題ではあるまいか。と言うのも、誰も力のある者には逆らえない。逆らうと、その後どうなるかは容易に推察できるから、たとえばいじめや暴力行為により脅されている者を見かけたときに、多くの者はそれを避けようとするのではあるまいか。

こうした力と力の関係は、実は私たち人間社会を構成する上で、最も基礎となる重要な要素なのだ。人間社会の輪郭はまさにこうした力(暴力)によって作り出されてきた、と私はみている。ところが、どういうわけなのか、私たちは、それをごまかしてしまうか、はぐらかすかのような議論を、これまで展開してきたのではあるまいか。それは何よりも、覇権システムの問題として先ずは取り上げなければならない問題を、やれ資本主義システムだとか民主主義システムだとかの問題にすり替えてしまうところにも見え隠れしているのではあるまいか。その端的な例は、私たちの親分である米国に対する子分の日本と日本人の向き合い方である。

結局は、私たちの卑怯さ、狡さに導かれてしまう問題だが、それゆえ、この問題の解決は、いつも誰かを身代わりとするような落としどころ以外には見当たらないのが普通となる。つまりは、誰も自分自身の問題として受け止めることを拒否してしまうのだ。それは致し方なかろう。誰も責めることはできないから。そして、その結果として、私たちは都合のいい答えを用意するのである。その代表が資本主義であり、民主主義ということなのだ。

私がここで、特に読者に伝えておきたいのは、先ずは正直に、私たちが抱えてきた問題が覇権システムにあったことを認めるべきだと言いたいのだ。その問題に、自分の非力さや卑怯さから直接向き合うことができないとしても、それはそれで何も恥ずべきことではあるまい。恥ずべきなのは、真摯に問題に向き合うこともしないで、都合のいい答えを用意して、お茶を濁してそれで良しとする浅薄な態度それ自体なのだ。

私は先に〈いじめ〉云々と述べたが、今の日本は米国からファイザー社のmRNA・コロナワクチン摂取を押し付けられ、挙句は多くの日本人が殺され続けているのだが、それに対して誰も大きな声を上げようとはしない。日本の野党、とくにその中でも、令和新撰組とか共産党に泡のような期待を抱いているのだが、彼らは「非合法」活動には、あくまでも躊躇するだろうから、もはや望みは薄い。

もう国会や議会で何かを討議して、そこから何か国民に益となる解決策が出てくるとは思えない。国会で決められる内容は、あらかじめ日米合同委員会を介して、米国から押し付けられたものがほとんどだからである。このままいじめられ続けていては、もうどうにもならないだろう。それではどうするか。決まっている。イジメているものに、倍返しで仕返しするしかないのだ。もはや議論の時代は終わってしまった感がする。


(最後に一言)

そのためには、やはりある程度の力のある集団を組織しなければならない。相手側の「合法」的というやり方で、こちら側は殺されたり身体の自由が利かない状態にされていくのだから、その合法に対して、別の号砲を鳴らすしかない。ホントに怖い話である。ここまでくれば、これはもう絶望的というしかない話である。

はっきりと言えることは、いま私たちは、自由や民主主義を標榜してやまない米国の指導者と、その子分である日本国の指導者によるイジメという名の暴力犯罪の当事者となっているのだということだ。先に、私は〈仕方がない〉と言ったのだが、それでは私の家族は勿論のこと、周りの多くの人たちやその子供や孫の命までも見殺しにしてしまうということを述べているということだ。

そんな私を、私は決して許せるはずもなかろう。汝、ヤラレル前に、ハリタオセ、殺すべし!という物騒な言葉が腹の底から自然と出てくるのだが、今はまだまだ思案中であり、なお悶々とした状態で、打ち上げ花火のように、あっけなく、夢のように消えてしまいかねないが、敵基地攻撃能力の向上が見込めれば、やるしかなかろう。

今回は少しだけ「過激な」内容の話となってしまったが、要するに、私も含めて、多くの者はいろいろな理屈をつけて同胞を見殺しにしているという現実から目をそらしてはならない、と言いたかったのだ。少し前の記事で、北海道旭川の女子中学生のイジメ凍死事件という痛ましい出来事があったのだが、このいじめ問題を辿っていくならば、私たちが今の日本政治において直面している上述したコロナワクチンに関連したいじめ問題につながるはずなのだが。

つまりは、自己決定権の獲得とその実現を巡る力・暴力と力・暴力のぶつかり合いを介した争奪戦により導かれる差別と排除の関係を刻印した「親分ー子分」関係を前提としてつくり出される覇権システムの抱えるいじめ問題へつながるということなのだ。勿論、ここでややこしいのは、その当事者がイジメの加害者であるとか被害者であるとの告白を、簡単にできないような環境がつくられているということである。

今の岸田政権がもし、「私たちは米国にいじめられて困っています」云々と言った瞬間を、少しイメージしてほしい。勿論、彼はそんなことをしないし、いじめにあっているなどとは思いもしない。米国と一緒になって、イジメる側に回っているのだから。これは学校現場で起きている、力の強い学校内の親分と目されている教師や学生と一緒になって、力のない子分と目されている教師や学生をイジメているのと同じ構図である。

何かむなしさを感じる。だが、私が言いたいのは、やられるだけやられて、それで自ら死んでしまうのであれば、少し待ってほしい。やはり、その前に少しはやり返さないと。そのためにあらゆる準備をするのだ。そうして時を待っていれば、力が出てくるはずだ。無責任な物言いで申し訳ない。それでは、私自身、米国に対して復讐するための何か準備をこれまでしてきたか、その準備をしていく際に、何か力が出てきたのか。そう質問されるや、それほど明快な答えを出せない。

ただ一つ言えることは、私にとっての米国に対する「復讐」とは、力でもって何か事をなそうというものではない。それは、私の語る「システム」論で描いた覇権システム、世界資本主義システム、世界民主主義システムの三つの下位システムから構成される一つの「システム」とその関係の歩みに関する著作を上梓することによって、米国がこれまで理想として掲げてきた自由や民主主義、人権、法の支配といった普遍的価値とその実現の歩みとしての普遍主義の抱えてきた〈宿痾〉を白日の下にさらすことであった。そして、それによって、東京裁判で裁かれた日本と日本人の「「汚名」を注ぐことが、私の何よりの復讐であったのである。

ただ、やはりそんなことをいくらしたとしても、何も米国は反省などしない。結局、どうにもならないのだ。と、なれば、後はもう「核をぶち込む」しかない?。だが、誰を殺すために、そうするのか、巻き込まれて死ぬ、私やあなたと同じ境遇にある人たちも犠牲にしてはならないだろう。結局、核攻撃だなんていくら主張しても、その攻撃対象が定まらないことになる。

その対象者がもし故人となっていれば、さらにだれがどの問題に対してどれだけの責任を担っていたのか、その責任に相応する攻撃が果たして核となるのか等々、考えれば考えるほどその対象者が見えにくくなっていく。さらに、いくら「こいつは断じて許されない、殺しても当然だ」とされる人物がいたとして、それこそ「一人一殺」でもって殺したとしても、歴史が教えるように、雨後の筍のように、殺しても殺しても「悪い奴ら」は出てくる、出てくるのだ。

そうであれば、そんな悪いやつらにどのようにやり返したらいいのか、となるのだが、これまた難問である。確かに、そんな連中をつくり出す仕組みというか構造に目を向けなければならないのは、もとより明らかなことなのだが、さりとて、その構造にだけ目を向けていても、それ自体は、さらに動かしがたく、何も変わりようがないから、それならば、先の連中にとどめを刺した方がいいと考えてしまうのも仕方がなかろう。だが、これも難しい。そんな悪いやつらは、日ごろから用心棒を雇っているから。


今回は、この辺でやめておく。さすがに疲れてしまった。そのせいで、心の中にあった「殺そう」という力がなくなってきた。やはり、情けない男である。否、もう男でもない。目も不自由な視覚障碍者の私には、相手の顔がそもそもはっきりとは見えない。自分一人では、道路も渡れない。情けない私である。一先ず、こう述べておく。

 

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