日本の「政治」の〈可能性〉と〈方向性〉について考える。

「政治」についての感想なり思いを語りながら、21世紀の〈地域政党〉の〈可能性〉と〈方向性〉について考えたい。

私の語る「システム」論から、斎藤幸平氏による〈反五輪でボイコット〉発言を再考するとき(続)

2024-08-03 | 日記
私の語る「システム」論から、斎藤幸平氏による〈反五輪でボイコット〉発言を再考するとき(続)


(最初に一言)


 前回記事において、---私たちの社会は差別と排除の人間関係を前提とするものであり、そのような社会の中で生きているのは問題がある云々といくら叫んだところで、私たちの生存それ自体がそうした差別と排除の人間関係を前提として成り立っていることを承知していることから、なかなかそれは一筋縄ではいかないことになる。ーーーと私は述べていた。今回記事はこのくだりを論の起点として以下に話をしていきたい。*なお、引用貼り付けに際して、前回記事のくだりを一部削除したことを断っておきたい。




 そこで私が読者に伝えたかった差別と排除の人間関係を、明治維新当時の日本を取り巻く国際社会の文脈の下に言い換えて論じていたのが、福沢諭吉の『文明論之概略』において強調していた「製物の国」と「産物の国」に見いだされる差別と排除の人間関係であったと私はみている。福沢は、そうした差別され排除される側に置かれた産物の国から、差別し排除する製物の国へと移行することを、明治日本は目指すべきと訴えていたのである。


 福沢は、こうした論との関連から、文明ー半開ー野蛮の差別と排除の関係を理解すると同時に、その関係を善悪というか道義的・倫理的な問題ではなく、現実の国際社会の中で生き残るためにはどうすべきかとの「責任倫理」の観点から、「文明」を目指す必要性を説いていた、と私はみている。そう説くことによって、福沢は、私の語る「システム」を前提とした人間関係とそれが体現した国際社会を容認した、積極的な形で受容したのである。その意味において、福沢は、「あちら側の彼ら」の提供する知識人として「システム」に奉仕する学者であった、と私は位置づけるのだ。


 だが、そうであるからといって、そのような福沢を、「お前は差別論者だ」としてすぐさま批判・非難することが、果たして私たちにできるのだろうか。その際、私たちの正規労働者と非正規労働者の議論を鑑みるとき、私たちは奇妙な議論を行っていることに気が付くかもしれない。それは、国際社会における、より構造的な差別と排除の関係には目を向けることなく、むしろそうした人間関係を受容しながら、それでいて、日本国内における製物の国に呼応する正規労働者と、産物の国に呼応する非正規労働者の関係に対しては、少しでも是正しなければならないと語っているのだから。


 そうした物言いはやはり何かを隠しているというか、都合の悪い関係をみようとはしていないように、私には思われるのだ。たとえば、福沢が先に指摘していた産物の国と製物の国の格差の関係は、今日においては、第一次産業と第二次産業といった表現で描き直されてしまっているのだが、それに関して私たちは、産業構造における当然の「発展」(「段階」)の推移くらいにしか考えていないのではなかろうか。そこからはもはや、差別と排除の関係云々の臭いすら嗅ぐのは難しい話となっているのではあるまいか。


 それゆえ、私たちはダブルスタンダードを含む国際社会における多種多様な構造的格差に象徴される差別と排除の関係について、それらが一体どうして、どのようにしてつくり出されてきたかの考察が求められているだろう。この点にこそ私たちは目を向けて、その理由について論及しなければならないのではあるまいか。その際、私は、「こちら側の私たち」と、「あちら側の彼ら」といった区分けをせざるを得ないと感じるようになってきたのだ。


 ここで誤解のないように読者に話しておくならば、私は福沢を「あちら側の彼ら」を構成する一員として位置づけ理解しているとしても、彼を簡単に批判・非難するつもりはないのだ。その関連から言うと、彼の「脱亜論」に関しても、私の語る「システム」を前提とする限り、当然の選択肢の一つであったとみるのである。ここでも道徳論というか「宗教倫理」でもって国際社会の中での私たちの命と暮らしを守る安全保障を議論することは差し控えた方がいい、と私はみている。


 だが、それと同時に私が問い質したいのは、そうした方向を私たちが辿ったとしても、私たちすべてが生き残れないという現実を認めるならば、どうしても生き残ることの確率の低い人々は、今一度、「こちら側の私たち」という立場から、「システム」の中で生き残るためには、どのような「政治」の〈可能性〉と〈方向性〉が存在しているのかに関して、徹底的な議論を繰り返すことが大事である、と私は強調しておきたいのである。


 ここでも私が残念に思うのは、こうした私の問いかけに対して、本来ならば当然ながら、こちら側に属していてもおかしくないはずの相当数の人々が、あちら側の彼らの構成員と一緒になって、私の提言には耳を傾けるどころか一笑に付してしまう様が大きく見えることである。これまた、仕方のないことだが、そこには、こちら側の私たちといった観点から、話の輪を広げてこなかったという問題がある、と私はみている。


 ここまでの話の流れを踏まえるとき、私のこれまでの論は、こうした観点に立って展開されてきたといっても過言ではない。このような私からすれば、たとえ政治とお金の問題で泥まみれの自公政権を批判して、可及的速やかな政権交代が必要であると野党勢力が主張しているとしても、また民主主義の危機を叫び、民主主義を取り戻せ!と力説したとしても、さらに憲法が危ない、今こそ憲法を擁護すべき時である云々とか、またその逆に、憲法が時代にそぐわないから憲法を改正すべしと主張したとしても、私はそれらの議論が「システム」の抱える宿痾と切り結ぶことのない話であるといわざるを得ないのだ。


 それゆえ、こちら側の私たちにとって是非とも必要であると思われる、「システム」からどうすれば少しでも離れた地点で私たちの生存を確保できるかについての議論を、ほとんどといってよいほどに論及できないことから、失礼ながらも、私にはあまり役に立たない話となってしまうのである。誠に偉そうな物言いであることは承知しているのだが、それを断ったとしてもやはりこのままではどうにもならないことは確かだということを、改めて強調しておきたいのである。




(最後に一言)


 結局のところ、「あちら側の彼ら」と同じ土俵の上に立って、彼らの利権・利害関係を体現する「システム」の提供するメディア情報に対してあれやこれやと難癖?をつけても、結局のところ、そこから次へと続くような話とはならないだけの消耗戦に陥るだけで、意味はないということを、こちら側の私たちはそろそろ気が付いた方がいいのではあるまいか。もっとも、こちら側の私たちも、元より彼らと同じ「システム」の中で生きているのだが、如何せん、私たちの側は、彼らとそん色のないメディア情報を提供できないままにある。


 ここで少しあちら側のメディア情報について述べておきたいことがある。それは少し前の記事でも触れていたと思うのだが、トランプの登場でアメリカ社会の分断・分裂が激しくなった云々の情報に関してである。それと関連して、今の欧米社会に顕著な難民や移民の流入と国内の格差の進行に伴う社会の分断・分裂を問題視するメデイア情報の氾濫?に私たちはもう少し注視すべきである、と私は強調しておきたい。


 そこにはこれまでの欧米社会で常識とされてきた主権国家と国民国家の下に国民が「一つの姿」として統一され統合されてきた社会を、またそうした社会の下で豊かさを手にすることのできる?資本主義と、自由と人権と法の支配と平和を享受できる?民主主義の実現された社会の在り様を、善とするような見方が色濃く投影されているのではあるまいか。それゆえ、そうした善とされた、望ましい姿として位置づけ理解された私たちの社会の歩みそれ自体が、今日の欧米社会の分断・分裂を引き起こしたのではないかといった私の「仮説」は、あちら側の彼らには、決して思い浮かぶものではない?と同時に、それこそ何を戯言を語っているのかとの批判となるか、あるいはその逆に、まったくの無視となるかもしれない。


 あちら側の彼らは、彼らの提供・操作するメディア情報を介して、私のそうした見方に代えて、今日の分断・・分裂を導いた「主犯」は、トランプの登場とポピュリズムの猛威であるとか、極右・極左の台頭とその下での暴力的破壊行為であるとか、果てはプーチンや習近平等々に代表される権威主義体制が支配する世界の風潮であるとか、私には怪訝に思えるような話のオンパレードばかりなのだ。それゆえ、私は今回記事でも述べたように、「こちら側の私たち」といった立場を鮮明に打ち出すと同時に、こちら側の私たちにとって、あちら側から提供される氾濫する情報を前にして、何が有益となるのかの識別作業を重視したい、と私は考えている。


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