海上保安庁職員、警視庁機動隊、あるいは民間警備会社職員、更に沖縄県警といった辺野古キャンプシュワブゲート前や大浦湾に全国規模で動員展開する官憲などによる実力行使、つまり辺野古埋め立て工事に反対し20年近く昼夜を分かたず現場に座り込み、あるいはカヌー隊を組んで海上で抗議活動をする市民、活動家、反対派議員を、連日腕づく力づくで排除するような行為が示しているように、この安倍政権のなし崩しの権力的強行姿勢そのままの在り様で、事実、本土においてこうした反対運動があれば間違いなく即日に手を引くだろう差別的対応として厚顔にも繰り返して止まないというかつてなく恥知らずな、ヤマトゥンチュ本性(それは歴史的に琉球に対して行われた数多の侵略的行為に示されてきた)むき出しの国家犯罪にこの国が邁進していることは、同じ日本人として、本土で人生の大半を生きてきた沖縄移住者にはまことに悲しく慙愧に堪えない所業としか言えない。
彼ら官憲の暴力的な対応は既に市民の中から何人もの怪我人を出しているのだが、彼らが彼らの背後に持たされている国家権力の重圧を度外視して、こうした所業の結果について自分らの責任だと言うわけもなく、当然、言い訳の仕方、逃げ方についてそのように訓練されているし、ギリギリのところで明らかな暴力行為にならぬように見せかけてもいる。彼らを法的に訴えても仕方がないということだが、ナチス犯罪のように、事後ほぼ永久に追及され続けるような劫罰の地獄へと落ちるのかもしれない、というような想像力、そういう危うい職務に忠実であることの「未必の故意」的な罪過傾向意識が、彼らの日常に逃れようもなくついて回る、といった危惧感は、日々の自身の行為が徐に作る馴化作用によって否応なく削ぎ落されていくに違いない。そこに国家犯罪は機械的に利用価値を見出し、己の目的を遂げるべく「ブルドーザー」のように彼等組織化され機械化された人群を使いまわす。
人間としての心の「痛み」を忘れた暴力装置。こうして国家は人民を全体化した国家主義的雰囲気の中に窒息させ、国民が有している個人としてのその本来的な自由意思を抹殺するのだ。我々は今、戦前我々の父祖が経験し戦後これを忌避することに全力を挙げたはずの古めかしい時代錯誤なファッショに見舞われている。ファッショの原点は国家的弾圧そのものではなくその雰囲気から徐々に浸透する何気ない自己規制だと言われる。辺野古で連日野蛮に繰り広げられている、非暴力市民運動への官憲の血税を使った弾圧は、やがて市民自身が諦め心根を萎えさせ運動推進力を減退させやがて完全に鎮静化し速やかに完工するのが狙いであって、その結果本土の国民は巧みに覆い隠された国家犯罪の実態を知らされることもなく、事なきを得たと思い込まされる。だが、安倍政権の盲信されたアナクロニズムは辺野古沖縄に留まるはずもなく、本土の国民自身がデジャブ的に戦前のファシズムに呑み込まれていく自身の姿に気づいたときは、法も公論もあったものではなく、一人の狂った独裁者がゲッペルスを従えて我が物顔に戦争への道を突き進むような国家の一員にさせられている、ということだ。後戻りはできない。(つづく)