ヤマトゥの常民(「一般国民」に相似するが、国家権力が国家エゴ的に様々な局面で利用する印象操作対象、又はある意味で世論動向に近似する大衆的反映ともいえるが民俗学的定義とは別種に考慮されるべきものである)は、概して決定的に琉球沖縄の過去現在に渡る真実の姿を知らないし、勿論知ろうとも思わないだろうし、ある意味事実を知ってさえこれに同朋としての関心を寄せることはない。
これはどういうことかというと、恐らくは沖縄への政府対応における定着した印象、つまり「内国植民地扱い」として特化しているものという印象に拠るのだが、実は筆者もその常民の内実を了解すべく心理学的知識というのに欠けるため、格別穿った見解を披瀝することはできないでいる。従って、主にこの所為で隔靴掻痒の感を禁じ得ない対ヤマトゥ意識のなかにいる。しかしこのことはもっと重大な意味を示唆していると思われるんだが、この21世紀2015年の現代において、この国が政官常民こぞって(従って結果的にはヤマトゥンチュ打ちそろって)沖縄に対してしている前時代的封建遺制の所業を、ほぼ通常の理解の範囲では到底腑に落ちることがなく、深い五感、悟性の蟠りの只中に突き落とされる経験として見るのだ。実はこの国が大戦中に犯した日本軍「慰安婦」事件(強制連行と強姦性に満ちた戦争犯罪)の話もまた、これと似たような思いで受け止めた。両者は戦後70年経ても延々と未解決事件として関係者とその近縁、あるいは多くの支援者を苦しめ続けている。
その、通常あり得ない未解決という事態を招いた最大の要素は「日本会議」以下日本の右翼系保守主義勢力を出自とする「歴史修正主義」者たちの、歴史的事実の捻じ曲げ、あるいはこれの史的根拠なき否定乃至史的事実の矮小化や希薄化、更には所謂「自虐史観」への誹謗中傷など、敗戦を軸とする日本の戦後が醸成した「避戦」「厭戦」「反戦」「非戦」思潮を真っ向から覆さんとする試みだが、安倍晋三による、憲法違背事案としての現行選挙制度における政治権力奪還以降、この宰相が「決める政治」と称して繰り出してきた公約無視の具体的な強行立法行為が徐々にその相貌を明らかにし始めた現在、この勢力が在野のネトウヨも含め調子に乗って次々と国際的常識あるいは史的コモンセンスを打ち破る暴挙に出でたために、益々混迷を深めている、という近況だ。
日本軍慰安婦の問題は、沖縄戦同様、その惨たらしく酷薄な体験を公に語るとか何らかの訴えを起こすとかいう以前に、これを明るみに晒すことの恥辱や体験追憶の苦痛に満ちたPTSDのせいで敢えて語り得ず、戦後ずっと公的にはほぼ不問に付される運命をたどった。この間、実質的には(日本国公式の実質的謝罪姿勢として)性被害者や沖縄戦被害者の思いが報われる補償が行われたことはない。つまり、本来避けなければならない人民の戦争被害を、軍事的横暴により残酷に引き起こしたことにつき最大の責任がある国家が、人民の受けた傷に見合った補償を怠っているという、情けない「未解決」性だ。
辺野古容認派が言い張っている「普天間危険性の早期の除去」と「辺野古移設」の連関は、ちょっと脳髄を冷やせばそのあり得ない矛盾に直ちに気が付こうという程度の「言い訳」なのだが、実際はこの全く論理性のない関連付けこそ、政府の情報操作、印象操作だということ。そして常民レベルでこれがまことしやかにこの国の世論を形成し心情を決定し、常民の固定した通念と化している、ということであり、自民、高村辺がおためごかしに「感謝」とか「国民の甘え」とか言っては偽善的にしょげて見せてこれを狡猾に「言い訳化」しているわけだ。これをまた、朝日新聞辺がそのまま報道しているが、こういう記事を読まされる国民のどれほどの人が沖縄の実態を正確に捉えうるか、考えたことがあるのだろうか。ジャーナリズムの批判精神がまるで見えないのだが。少なくとも普天間を固定化しているのは自民党である。前後30年以上そうすることになる。辺野古移設など到底あり得ない。人民戦争になるだろう。(つづく)