沖縄を考える

ブログを使用しての種々の論考

詩395 「人間の国」でない国にいる我々 28

2012年11月25日 18時59分02秒 | 政治論
 インマヌェル・カント「永遠平和のために」は戦争における暫定的な戦後講和の決定的な不備に対し批判的に論じられ、かつ彼が在命した18世紀末時点での基本的平和実現の手だてを綴った有名な著書であり、ここに列挙された平和のための具体的方法が国際連合に結実したとされているが、残念ながらカントの平和理念自体はこんにち少しも有効な非戦、反戦確定国際法規に至っていないということが言える。それはどこまでも単なる理想かといえば、オバマのように、ある大国の主導者がそうだといえば現実が優先し(戦勝国構成の安保理など何の意味があるか)、理念からどこまでも遠ざかるという別の現実を生む。つまり現実は現実であり理念は理念なのだ。それは別の次元であり本来理念を有しない政治的現実などありえない。このレトリックじみた関係をいくら論じてみたところで何一つ明らかにはならないが(同じことは間接民主主義手法についてもいえることで、今次の総選挙が民意を代議する実質がないのなら、単純に政治家はいらないし官僚丸なげで一向構わないのである。つまり業務的専任に預かる各省庁統括責任者-意思決定機関-を置いて管理型政治に徹することだ。お祭り騒ぎといっても良いこの国の選挙実態は-実質的業務をこなさない党派囲い込み議員を選挙するという-税金の無駄使いそのものである)、理念は言葉でもないし、到達目標でもない、いつでもそこに立ち返りそこからまた出発すべき原点にほかならない。カント批判におけるヘーゲル哲学を御用学と呼ぶマルクスにあってはじめてカントの真意が伝わってくる。誰でも「永遠」という絶対性を目の前にして逡巡する、当然ながらここに人性に逆らう自然があるのだが、次の段階で、これを超克しようという「人間」の自然、理念が立ち現れる。これをしも「性善説」並みに(皮肉に)扱うなら恐らくはあらゆる議論は不毛というしかない。カントは予言しているのであって、同時に予言が必ずしも当たらないということにまで言及している。つまり戦争は永久に絶滅しないし、戦争はむしろ常態であり休戦が希なのだ。人が議論すべきは、この、常態であるものを絶滅させようという試みの持つ、「人間」の自然性以外にはない。そして法規的確定性を有しない国際連合などまったく意味がないし、(沖縄にあって明白に見えてくる世界人種差別撤廃委員会勧告の無意味さ)これがカントの理念体現機構などというのはまことにおこがましい。先述のように人性に逆らうという自然もあり、これを超克しようという自然もある以上、その理念的担保は国際法規の確定性にほかならず、これを実現しないあらゆる「理想」こそは「夢物語」だといえる。(中断)