沖縄を考える

ブログを使用しての種々の論考

詩395 「人間の国」でない国にいる我々 20

2012年11月07日 09時54分41秒 | 政治論
 自民民主に対する第三極の模索は、与党に対する野党の一極化という構図により官僚主導から政治主導に大転換する足がかりとする肚だろうが、その(転換の)段階的到達手段としては評価するとして、さて、そこに現出する超党派の政治というのは概してその思惑通りに行くまいというのが歴史に見る実情ではある。というより権力意志が関わる限りこうした試みは人性的に破綻するのが目に見えているということだ。諸国が連合する壮大な理想としての戦後国際連合という無意味な企てが、戦勝国論理の専権から更にはアメリカの横暴(国連決議案の反故化、無視)という現今情勢を生んだ事実は、所詮こうした行き詰まった政治的荒廃状況にあっては益々横断的連携の無力さを醸し出しているということになる。しかしながら、統治的理念でなく「千年革命」的方法論としては、あくまで多数決原理に基づく現民主制のうちにあっては「数」を頼むしか手立てはないので、石原軍団の危うい出発点は現状肯定、突破口探索という立ち位置しかないわけだ。彼の政治的ライフワークという見方をすれば、ただ彼が作り出そうとする、「政治主導」が可能な確かな城砦だけは、一応「より良い」評価に至る可能性を残しているかも知らない。無論彼には事実上政治家としての能力はない(尖閣で実証済だ)。さて国内政治地図がどうなろうと、この国の唯一の評価は「戦争紛争動乱」が起こらないできたことにしかない。それを日米軍事同盟のおかげとするのが日本とアメリカの大きな意図された「嘘」であることは言うまでもないのであり、簡単に言えば戦後67年というのはアメリカはじめヨーロッパ以外の全ての民族、国家乃至国家群にあっては、独立とそれに伴う「建国」的努力と正常化、平常化という事情のなかにあり、他国のことなどかまっている暇はなかったのだ。しかもその動きに対し、専ら社会主義共産主義あるいは一般に民主主義運動乃至民族主義運動と言われる民衆活動を謀略と力で暴力的に弾圧、抑圧、封殺、抹殺、傀儡化してきたのが欧米資本主義勢力であった。結果お山の大将は確かに圧倒的に力の強いアメリカ合衆国が悠々とその位置に収まったのであり、そこには欺瞞と暴力と策謀しか見当たらない、まさに理念なき絶対君主的世界制覇意志を感得する。この理念なき国家アメリカは、それでも彼らの言う「自由」と「民主主義」が生み出した大規模な「混沌とした価値の海」を有するが、民衆、人民が賢明にもそこから「智慧」と「勇気」により「人間的な」価値を取捨選択していく一方、これに専権的絶対的に君臨する「国家安全保障」という鬼っ子を巨大化し本質化したときこの国は言わば彼ら自身の言う「ならず者国家」に成り下がったのである。(中断)