◇日本100名城のひとつ「鉢形城」
一時中断があったが、このところ毎年、50年前に1年間一緒に学んだ仲間が
秋になると集まる。同じ釜の飯を食った仲間という表現がある。固い絆の代表
的な関係であるが、寄宿舎で文字通り同じ釜の飯を食って学んだ仲間である。
これまで35名の仲間が全て健在で、同期会の度にそれを喜び合ったものだ
が、今回初めて2名の物故者に黙祷をささげる哀しい会になった。これも時の
流れの結果。避けては通れない。
今回は埼玉県大里郡寄居町の金山温泉のある宿で泊まり宴会。翌日は荒
川の船下り(長瀞船下り)コースと「鉢形城」歴史探訪コースに分かれて行く秋
を楽しんだ。
「鉢形城」は一昨年の新緑の頃、鉢形城の見張り砦が置かれた「鐘撞堂山」に
登り、少林寺の「五百羅漢」を観てやはり同じ宿に泊まって、翌日「鉢形城」を見
学したことがある。昭和7年に国の史跡に指定され、日本100名城に認定され
ている。
元来この地は交通の要衝であり、旧くから関東にとっては上州と信州方面に
対する重要な戦略拠点であった。今もこの地理的重要性は変わらず、現在も
「寄居駅」はJR八高線、東武東上線、秩父鉄道の連絡駅である。
「鉢形城」は寄居駅から南に、荒川に架かる橋「正喜橋」を渡った地に位置し
ている。荒川と深沢川に挟まれた断崖絶壁の上に築かれた広大な平城で、ま
さに天然の要害を生かした名城のひとつである。(全体で24万平方メートル)
1/250復元地形模型 本曲輪跡から荒川 城内を流れる深沢川
さて、ここ「鉢形城」は文明8年(1476)当時の関東管領山内上杉氏の家臣
長尾景春の築城と伝えられ、その後畠山重忠、上杉顕定、上杉顕実が城主
となったが、北条市の勢力が武蔵野国を圧倒し上杉氏が一掃された後、こ
の地の豪族・藤田康邦に入婿した北条(小田原)氏康の四男氏邦がこの城
に入り整備拡充し、現在の大きさになったと伝えられている。その後永禄12
年(1569)武田信玄が小田原攻めに際し、鉢形城も攻撃したが守りが堅いた
めそのまま南下し滝山城に向かった。また天正2年(1574)上杉謙信に侵され
城下を焼かれたこともあった。当時の群雄割拠の中で、甲州・信州からの侵
攻への備えとして重要な役割を担った城であった。
天正18年(1590)豊臣秀吉による小田原攻めでは後北条氏の重要な支城
として前田利家・上杉景勝らの北国軍に包囲され、激しい攻防戦が繰り返さ
れた。およそ1ヶ月あまりの籠城の後、北条氏邦は城兵の助命を条件に開城、
自らは前田利家預かりの身となった。
その後「鉢形城」は徳川氏の関東入国に伴い、家康は以下の成瀬正一、
日下部定好が代官となり治めた。
土塁址 内堀址 二の曲輪の土塁
搦め手・石垣跡 二の曲輪土塁・空堀 二の曲輪・復元木橋
二の曲輪・江戸緋寒桜
◇鉢形城歴史館
広大な鉢形城址は全体が鉢形城公園となっているが、その一角に「鉢形城
歴史館」があり、鉢形城を巡る歴史紹介・企画展示等が催されている。
(有料200円 休館日:月曜日・祝日の翌日・年末年始)
歴史館正門 櫓門模型 関東の城