読書・水彩画

明け暮れる読書と水彩画の日々

旧白洲邸「武相荘」を訪ねて

2016年04月06日 | 里歩き

◇「武相荘」とは
  東京の外れ、川崎市と接した街町田市鶴川に「武相荘」はある。
  かねてより白洲次郎とその妻正子の生涯の住い「武相荘」を見てみたいと思っていた。

  小田急線で新百合ヶ丘で乗り換えて鶴川駅に降り立つ。歩いておよそ15分。小高い
 丘陵に一群の旧い屋並みが見えて来る。藁葺き屋根の家は当時この辺りに普通に見
 られたという農家の建物である。白洲次郎はこの家を手に入れるとその後何度か建て
 増しや改築などを繰り返し自分好みの家にしていったという。
  「武相荘」とは武蔵の国と相模の国の境にあることに因むが、白洲次郎独特のひねり
 を利かせて「無愛想」と掛けたようである。

  白洲次郎は裕福な実業家の子息として英国に留学。ケンブリッジに学んだ。やがて
 実家が零落し帰国、1929年(昭和4年)8歳年下の正子と出会い結婚する。開戦早々
 に太平洋戦争の行方に見切りをつけ、1942年10月、当時の鶴川村に居を移し、世
 捨て人のごとく自給自足の農業に従事した。
  戦後旧知の吉田茂の請われて占領軍との交渉に携わった。GHQ高官をして「尋常
 ならざる唯一の日本人」と言わしめた硬骨漢であった。その後通産省の設立に尽力、
 また東北電力会社会長に就いたこともあり、政界入りを勧める声もあったが、生涯在
 野を貫き83歳でこの世を去った。
  英国から戻った白洲次郎は樺山伯爵次女正子と知り合い結婚した。正子は青山二
 郎、小林秀雄などと親交があり、文筆家として、また骨董の世界で名が知られ、88歳
 で亡くなった。

    旧い農家なので梁や天井、柱は黒い。まさか全体が煤で汚れたとも思えないが。
 今の感覚ではやけに天井が低い。白洲次郎は180センチ以上の当時としては大男
 だったというので、常に背をかがめて家の中を歩いていたのではないだろうか。屋内
 の写真撮影は禁止なので詳細はお伝えできないが、書斎に使っていた部屋は壁面
 いっぱいに書籍が積まれ、窓からは林が見渡せて心落ち着く雰囲気であった。

  一般公開している旧白洲邸の散策路北側の林の中には長女牧山桂子さんの山荘
 風の家がある。

  

  

  

  

  

  

  
  

  

  

                                (以上この項終わり)
  

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