【ただいま読書中】

おかだ 外郎という乱読家です。mixiに書いている読書日記を、こちらにも出しています。

外国人と日本

2019-08-31 06:57:32 | Weblog

 観光客にはじゃんじゃん来てもらえるように魅力のある国にしたいけれど、移民として定着したくなるような魅力はない国にしたい、というのは、結局日本をどんな国にしたいということなのでしょう?

【ただいま読書中】『勘定奉行の江戸時代』藤田覚 著、 筑摩書房(ちくま新書1309)、2018年、780円(税別)
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 江戸幕府の「三奉行(寺社奉行、町奉行、勘定奉行)」は幕府で重要な政治案件決定に携わっていました。勘定奉行(と勘定所)は、財政を担当するだけではなくて、道中奉行として陸上交通を管理し、幕領の管理(年貢徴収と裁判)も行い、評定所(現在の最高裁判所)の重要なスタッフでもありました。つまり、財務省・国土交通省・法務省の仕事を担当していたわけです。だから江戸では、役所は御勘定所・役人は御勘定方・長官は御勘定奉行とすべて「御(ご)」をつけて呼ばれていました(ただし町奉行よりは格下扱いでした)。
 勘定奉行になるためには、旗本が目付から長崎奉行などを経験して勘定奉行になるエリートコースと、少数ですが内部からの叩き上げコースとがありました。
 大名領内の紛争は、各大名が扱います。幕領での紛争は勘定奉行と配下の代官が担当。では、幕領の百姓と大名領の百姓がもめた場合は? この場合に評定所が設置されます。そのトップは勘定奉行、そしてスタッフは勘定所から出向した役人で固められていました。寺社奉行も全国の寺社領民の訴訟を扱うことになっていましたが、実質的に勘定所の評定所が実務を担当していました。
 さらに老中は重要案件について三奉行に諮問することがありました。著者が確認できた最初の例は、ロシアが南下して蝦夷地に接近・アイヌが蜂起したことを受けて寛政四年(1792)に老中松平定信が蝦夷地政策について三奉行に諮問したことです。以後も外交関連の重要案件について三奉行にまとめてあるいは個別に諮問が続けて行われました。
 幕府の人事システムは家格重視です。しかし勘定所では「筆算吟味」という職員採用試験に合格したら、たとえ御目見得以下の御家人であっても、能力や業績次第ではトップの勘定奉行に昇進できる可能性が開かれていました。もちろんメインは上層旗本(御目見得以上)のエリートコースですが、全勘定奉行の10%は「叩き上げ」でした。これは江戸時代には特異な現象です(たとえば町奉行所では、奉行所職員の与力・同心から奉行に昇進した者はゼロ人です)。中には、もともと御家人ではない人が御家人株を取得して御家人となり、累進して勘定奉行に、という例さえあるそうです。お庭番から勘定奉行になった人もいます。こういった特異性によって、勘定所にはユニークで優秀で努力家の人材が集まったのではないでしょうか。
 江戸幕府は赤字で悩んでいました。それに対して「緊縮財政(支出の削減)」派と「積極財政(貨幣の改鋳)」派とが対立していました。ところが支出の削減には人気がありません。そこで貨幣の改鋳が盛んに行われましたが、悪貨が出回れば起きるのはインフレです。あわてて貨幣の質を元に戻しても、残るのは幕府への不信感。江戸時代に様々な経済政策(幕府の赤字減らし政策)が行われていますが、きちんとうまく行ったものはありません。やがて黒船が来航、財政は破綻。さらに日本から大量の金が海外に流出。泰平の世にはうまく行っていた「江戸幕府というシステム」は瓦解してしまうのでした。勘定所も一緒に。