【ただいま読書中】

おかだ 外郎という乱読家です。mixiに書いている読書日記を、こちらにも出しています。

カリキュラム

2018-10-31 06:58:32 | Weblog

 小学校で英語を教えるのもいいですけど、「日本語教育(ネットでやたらと見るような日本語が貧しい人たちではなくて、もうちょっとまともな日本語が使える人を増やす)」や「健康教育(迷信や盲信ではなくてきちんと自分の体のことを理解する)」も小学生の内から教えておいて良いのではないです? ついでに簡単な経済学(クレジットカードの仕組みや特殊詐欺の手口ややたらと安易に借金をしてはならない、など)も。あ、「安易な借金」は別に日本政府を批判しているわけではないですからね。個人防衛の話です。

【ただいま読書中】『ハンガー・ゲーム』スーザン・コリンズ 著、 河合直子 訳、 メディアファクトリー、2009年、1800円(税別)

 いつか(おそらく未来)、どこか(おそらく北アメリカ)。「キャピトル」は支配する12の地区に飢えとハンガー・ゲームを押しつけていました。年に1回の「刈り入れの日」、「贄」として、それぞれの地区に住む12歳〜18歳の子供の中から男女一人ずつを抽選で選択し、計24人に周囲から隔離された闘技場で殺し合いをさせます。最後に生き残った一人とその出身地区には栄誉と食糧、他の地区には屈辱と飢えが与えられます。そしてすべての地区には悲しみとあきらめも。
 「今日は皆さんに、ちょっと殺し合いをしてもらいます」の「バトル・ロワイアル」を連想させる状況設定です。
 物語の語り手は、石炭採掘が主産業の第12地区に住む16歳の少女カットニス。一緒に選ばれた男の子は、カットニスがひそかに恩を感じているパン屋の息子ピータ。二人は豪華列車でキャピトルに運ばれます。キャピトルはもっと豪華な環境で、自分たちが押し込められている劣悪で過酷な環境と比べてカットニスは怒りを覚えます。しかしそれを表に出しません。反逆者と思われたら不利ですから。
 異様に派手な開会式のあと、3日間のトレーニング期間が設けられます。しかしすでに戦いは始まっています。自分が何が得意なのかの手の内を他地区の贄に知られないようにしながらトレーニングをする必要があります。もちろん心理戦も仕掛けられます。裕福な地区は、あらかじめ子供たちに訓練をさせています。まるでプロを養成するように。プロと言っても、プロの贄なのですが。
 カットニスの専属スタイリストになったシナは、なぜかカットニスに肩入れをします。それどころか理解と共感も。横暴で腐敗した抑圧者ばかりのキャピタルになぜそんな人がいるのでしょう?
 そして、とんでもない場面で愛の告白。えっと、これも何かの戦略? 心理的揺さぶり? つまり「ゲーム」? それとも、真実? カットニスは何を信じて何を疑うか、それが自分と相手と周囲とにどのような影響を与えるのかまで計算しながら行動を決定しなければなりません。
 お互いに殺し合わなければならない中でも、とりあえず生き延びるために協力をしなければならない場面もあります。さらに、追尾式カメラで闘技場(毎回違う場所が選択されますが、今回はカットニスが得意とする森林や草原)を移動する贄たちの行動は常に世界中に放送され、さらに場面を盛り上げるために(派手な人死にが出るように)ゲームの管理者たちが便利なツールを配ったり山火事を起こしたり水の流れを変えたりの干渉をしてきます。慣れない環境での狩りや植物採集のサバイバルをし、人とは殺し合いをし、さらに自分たちに殺し合いを強制して喜んでいるキャピトルの支配者たちとテレビの視聴者たちになんらかのメッセージを送りあわよくば一泡吹かせたいと、カットニスたちは心身の力を振り絞ります。
 そして、なんとか生き延びたと思っても、それは「ハッピーエンド」ではありません。ここから明らかに「次のゲーム」というか「ゲームを越えた戦い」が始まります。おっと、本作は3部作なんですね。第二部も読まなくっちゃ。



水の表面

2018-10-30 07:30:29 | Weblog

 水の沸点は1気圧で摂氏100度ですが、常温でも水面から盛んに空気中に水分子が飛び出しています。ところが水面には表面張力が働いていて、それはいわば「蓋」のように機能しているはず。蓋をしていながらそこを水分子が活発に通過できるとは、面白いですねえ。原子や分子を見ることができる視力があったら、水面を見ているだけで退屈をせずにすみそうです。

【ただいま読書中】『水の歴史』イアン・ミラー 著、 甲斐理恵子 訳、 原書房、2016年、2200円(税別)

 昨日と同じタイトルの本ですが、こちらは「食の図書館」シリーズの本です。つまりこちらは「人が口にする水」の本です。
 人は水を必要とし、文明は大量の水を必要としました。だから古代文明は「水」のそばで発達するか、インカ帝国や古代ローマ帝国のように水を自らの近くに呼びよせました。しかし「水」を「安全な飲み物」にするための歴史は「苦難の歴史」でもありました。一見きれいに見える水にも様々なものが混じっていることは昔から知られていましたが、それを取り除くのは大変だったのです。
 「海水の脱塩」に最初に科学的に取り組んだのは、17世紀のフランシス・ベーコンで、土を入れた容器をいくつも重ねて海水を濾過させました。結果は失敗でしたが、これを基礎として水濾過技術は進歩し、その結果生まれた「サンドフィルター技術」によって公共水道が建設されるようになります。
 ほんの数世紀前のヨーロッパ(特にイギリス)には「水は健康に悪い(だからアルコール飲料を飲むべき)」と信じている人が多数いました。19世紀には逆の「大量の水は健康に良い(体内が浄化される)」という「水治療」も流行しますし温泉療法も流行しました。「水とアルコール飲料のどちらが人間に適しているか」の論争の中には「神が人に与えたのは水かワインか」というものまであります。
 水は「産地」「色」「味」「炭酸」などで分類されていましたが、レーウェンフックが発明した顕微鏡は新しい基準を水にもたらしました。「微生物の存在」です。すべての微生物が有害なわけではありませんが、そのなかには病気をもたらすものもいることがわかり、「きれいな水」の定義は革新されます。
 「水の保存(と運搬)」はまず船乗りに必要でした。「海水の淡水化」は1770年にチャールズ・アーヴィングが最初の実用的な技術を開発します。同じく18世紀には「ミネラルウォーターの瓶詰め」が発売されます。19世紀には廉価なガラス瓶が開発されて人気がさらに高まります。20世紀には核戦争に備えて水の缶詰も発売されました(割れにくいですから)。
 「単なる水」に魅力的な付加価値をつける試みの最初は、人工的な炭酸水です。「ペリエ」など天然のボトル詰め炭酸水が人気だったので、それにあやかって製造されました。ただし輸送途中での事故が多く、それに対する対策が、日本ではラムネの瓶に使われるコッドネック・ボトルです。
 プラスチックボトルが商品化されたのは1940年代で、製造原価が下がって大量生産が可能になったのは1960年代。家庭で炭酸水が製造できるソーダサイフォンが発明されたのは1813年、ただしこれは二酸化炭素がなくなると詰め直す必要がありました。硫酸と炭酸カルシウムを混ぜて内部で二酸化炭素を発生させるソーダファウンテンの開発は1832年。これは数十年後には世界の主要都市のドラッグストアや小売店に広まります。
 マーク・トウェインは「ソーダ水を38本飲んだら、翌朝腹がパンパンになって服が着られなかった」という「不満」を訴えています。
 バイロンのように「炭酸水は味気ない」と不満を言う人も多くいて、その対策として「フレーバー」も用いられました。1827年の「炭酸ナトリウムまたは炭酸カリウムとクエン酸を混ぜた水」は初期のレモネードと言えるでしょう。もともと「フレーバー付きの水」は医療用に広く用いられていて(さまざまな薬草や果汁を入れていました)、たとえば「トニックウォーター」はキニーネが入っていて抗マラリア効果が期待されていました。「スカッシュ」はルネサンス期のイタリアで作られましたが、そのベースはアルコールでした。炭酸水をベースにしたスカッシュ(の原形)は1867年に登場します。
 「氷を入れる」も水の魅力を増す一つの方法です。これは氷が手軽に入手できるようになるまでは、氷室を使ったり北方から南方にはるばる輸送したり、の苦労がありました。19世紀に上流階級を相手の氷産業が栄えますが(氷は高価な贅沢品でした)、20世紀に一般家庭で氷が作れるようになると氷産業は崩壊します。そういえば我が家でも、電気冷蔵庫がやって来るまでは氷屋さんから氷を買っていましたっけ。
 世界に淡水は不足しています。そのことに関して、著者は「飲み水は天然資源と考えられがちだが、実際は人間がつくる製品と考えたほうがよい」と言います。つまり「水」がそこにあったとしても、そのままでは「安全な飲み水」とは言えないのです。とりあえず私にできるのは、節水でしょうか。




きれいな水

2018-10-29 07:30:30 | Weblog

 浄水技術はどんどん進歩しているのに、川の水が昔のようにきれいにならないのは、なぜ?

【ただいま読書中】『水の歴史』ジャン・マトリンコ 著、 遠藤ゆかり 訳、 創元社、2014年,1600円(税別)

 まず「水」とは何か、から話が始まります。古代ギリシアのエンペドクレス以来「水」は「元素」として扱われていました。1758年にラヴォアジエは四大元素説を否定、水は酸素と水素が化合してできていること・水を分解したら酸素と水素になること、を示しました。
 水は、私たちが生きる環境で、固体/液体/気体で存在するという非常に特殊な性質をもち、ほとんど万能の溶媒で、摂氏4度で密度が最大になる(固体が液体に浮かぶ)という不思議な性質ももっています。
 水はさまざまなところで「循環」しています。動物の体内、植物の体内、そして環境。
 地球以外にも水は存在しています。その一部は隕石が降り注ぐとき地球の大気圏内で蒸発して水蒸気となっています。最近では月や火星など他の天体に水が存在する可能性が注目されていますね。
 「水のコントロール」は、文明にとっては重大事でした。古代中国では「黄河の氾濫を抑える」ことが皇帝の最優先事項だったはず。古代文明はどこも大河のほとりで発展しましたが、氾濫対策や灌漑施設がつきものです(古代エジプトはナイルの氾濫を喜んでいたでしょうが、それでも為すがままではなかったはず)。古代ローマでは水道橋まで建設しましたが、中世では「水の利用」に関する文明度はむしろ退化してしまいます。
 人口の増加と集中は、水の汚染もまねきました。科学が発達して水の浄化ができるようになりましたが、汚染はますます深刻になっていきます。さらに現在は「水を無駄遣いしている地域」と「水が質量ともに不足している地域」とに地球は分かれています。洪水防止や水の効率的な利用のためにダムが建設されますが、下流への泥土の供給減少によって土壌がやせるなどの“副作用"が生じています。現在は「たくさんの資産を持つ人」が「富豪」ですが、将来は「たくさんの水を支配する人」が「富豪」になるかもしれません。



背中の傷

2018-10-28 08:14:29 | Weblog

 武士が負傷した場合「背中の刀傷」は逃げようとした証拠で「武士の恥」とされたそうです。
 なんで?
 本当に逃げていたら相手の刀は背中に届かないでしょう。
 乱戦で取り囲まれていて後ろから攻撃を受けたのだったら、後ろから攻撃する方が卑怯です、というか、乱戦だったら卑怯もへったくれもないでしょう。
 そもそも、かなわないときにはいったん逃げてあとからきちんと復讐するのが武士の嗜みというか義務だと思うんですけどね。

【ただいま読書中】『幕末の海軍 ──明治維新への航跡』神谷大介 著、 吉川弘文館、2018年、1800円(税別)

 「たった4杯の蒸気船」で日本人を驚かしたペリー提督ですが、実際には蒸気船は2隻であとの2隻は帆船でした。ペリー提督は当時の最新テクノロジーの蒸気船をいち早く海軍に導入して「蒸気海軍の父」と呼ばれているそうです。日本人はただ驚くだけではありませんでした。そのメカニズムに興味を示し、サスケハナ号に乗り込んだ与力の中には質問ばかりしたため「根掘り葉掘り調べて、好感が持てない」とペリー側の人間に感じさせた者もいたそうです。
 老中阿部正弘は海防体制についてパブコメを募り、800通も集まった意見書の中で目を引いたのが勝海舟の「オランダに限定せず広く外国と交易をしてその利潤で軍艦を建造する」というものでした。これで勝は「幕府海軍」と緣ができます。浦賀奉行も砲台を建設し軍艦を建造して江戸湾防衛、という構想を示します。
 安政東海地震の津波で破損したロシア船「ディアナ」は結局沈没し、その代わりの洋式帆船が戸田村で建造されました。幕府はそれも実地検分して洋式船の建造法を学びます。幕府は「鳳凰」という船を試作しましたが、その現場を訪問して熱心に学んだ一人が長州藩の桂小五郎でした。のちに第二次薩長戦争で両者が洋式海軍で対決することをまだ誰も知りません。
 軍艦購入・留学生受け入れ・教官派遣などを依頼されたオランダは大喜びでした。最初は浦賀に学校を作ることが構想されましたが、江戸に近すぎる(他国の軍艦が入港しようとする恐れがある)と却下され長崎に海軍伝習所が作られます。各藩から集まった伝習生たちは、蒸気機関の構造や操作・操船・造船・数学・オランダ語・砲術の知識と実習・歴史学や地理学・軍楽隊などに熱心に取り組み、外輪船「観光」を伝習生だけで江戸まで回航することに成功します。
 伝習開始から2年の安政四年(1857)幕府がオランダに注文していた100馬力のスクリュー式蒸気船「ヤパン」が長崎に到着、「咸臨」と命名され、第二次伝習の練習船となります。充実した教授陣によって、講義・実習・練習航海が繰り返され、伝習生の実力は上がっていきます。最初期から伝習生の監督を務めている勝海舟についてオランダ人は「人望や交渉能力の高さ」を評価していますが、「万事すこぶる怜悧」でもあったそうです。頭がよすぎた、ということなのでしょうか。榎本武揚も優れた品性と熱心さが教官の目を引く存在でした。
 長崎は遠いため、幕府は築地軍艦操練所に「海軍」を集中させることにします。オランダ人教官は「学ぶだけ学んだら、お払い箱か」と不快に感じていたようですが、幕府は長崎伝習所をあっさり閉鎖します。次の目標はアメリカへの使節派遣。そこで正使が乗るのとは別の船を派遣することが提案され、「咸臨」がその候補となります。乗組員の主力は伝習所出身者。船が座礁して帰れなくなったアメリカ人11名も同乗することになりました。難破しそうになったり飲料水が不足したりの危機を乗り越え、サンフランシスコに一行は無事到着。咸臨の戦隊を修理するために浮ドック(一度ドック本体を沈めて船を入れてから排水して一緒に浮かび上がらせて修理する)が使われましたが、乗組員はその構造にも興味津々で情報収集をしています。帰りの航海もやり遂げた乗組員を迎えたのは「桜田門外の変」の知らせでした。それでも幕府は「海軍」を進めます。軍艦奉行の下に軍艦頭取・軍艦組という指揮系統を作り、制度としての「海軍」が成立します。問題は、実力主義と家格制度の調整でした。さらに攘夷の志士による外国人襲撃が続いたため、横浜開港地警備の一環として、軍艦奉行は交代制で常に二隻の船が横浜沖の警備をするようにします。
 将軍家茂の2回目の上洛は海路でした。幕府の艦船だけではなくて、松江藩・薩摩藩・福岡藩の船も艦隊に参加しています。陸路だと20日くらいかかるのが海路だと数日ですから、メリットは大きかったでしょう。難破したらえらいことですが。
 各藩も続々洋式艦船を購入します。本書には4ページもの購入リストがありますが、この100隻以上の艦船にどのくらいの支払いがされたのか、私は一瞬「もったいない」と思ってしまいます。「死の商人」たちは大喜びだったでしょうね。幕府は艦船の修理基地として浦賀を整備し、石炭の供給体制も整えます。人も育てなければなりません。「海軍」を持つのは大変ですが「機械文明」に直に触れることで、「日本」は確実に変容していったはずです。
 幕長戦争では海戦がありましたが、戊辰戦争では指揮官の榎本武揚が幕府と政府の間で二重の対応をしたため、「海」では奇妙なバランスが保たれてしまいました。榎本武揚は「幕府への忠義」と「新しい時代の日本への忠誠」との間で“バランス"を取っていたのかもしれません。だからこそ五稜郭での戦いのあとでも許されて明治政府に参画できたのかな。



無縁墓

2018-10-27 07:22:01 | Weblog

 無縁墓が増えることを憂えたり責める人がいますが、そういった人はご自分の先祖全員の墓所をすべてきちんと把握されているのでしょうか? 先祖の数は「2のn乗」だから、たかだか10代前でも「御先祖様」は約1000人いるんですよ。

【ただいま読書中】『墓石が語る江戸時代』関根達人 著、 吉川弘文館、2018年、1800円(税別)

 現代風の墓所に慣れた私たちは「墓石=墓」と考える傾向がありますが、墓石はあくまで「墓標」つまり「墓の二次装置」です。日本で墓石が登場したのは平安末期、平泉の中尊寺などの五輪塔で、高僧の供養塔とみられています。鎌倉時代に大型の五輪塔や宝篋印塔(ほうきょういんとう)が高僧や有力武士のために次々建てられました。鎌倉時代には「(個人の名前を記録した)位牌」が中国から伝わり、関東地方で「板碑(いたび:板状に加工した石材に梵字で人名・年月日・供養の言葉などを刻んだもの)」の造立が始まり、室町時代に小型化しつつある五輪塔や宝篋印塔とともに全国に広まります。貴族にとって「死」は忌避すべき者でしたが、武士は死と向かい合うことで所領を獲得するため、墓は先祖と所領の象徴だったのでしょう。
 戦国時代に、近畿地方とその周辺で、庶民は小型(高さが大体90cm以下)の「一石五輪塔(一つの石材を五輪塔の形に成形したもの)や片面に仏像を刻んだ石仏を供養塔として建てるようになっていました。墓地に林立するこれらに文字は刻んでありませんが、おそらく墨書されていたのだろうと著者は推定しています。
 私が「墓石」と言って思い浮かべるのは「○○家の墓」とか「先祖代々の墓」とか刻んである縦長直方体方の墓石です。これは「和型」と本書では分類されていますが、実は最近は横長薄型の「洋型」の墓石が急増しているそうです。さらに「デザイン型」とされる、ピアノやゴルフボールやキティーちゃんなどの形の墓石も21世紀になって急増。2010年には「和型」は過半数割れをし、それ以降急落しているそうです。さらに都市部では納骨堂がブームとなっています。
 では戦国時代と現代の間、江戸時代のお墓はどんなものだったのか、ということで、本書の主題が始まります。
 墓石に刻まれている文字は、戒名と死亡日時くらいで、それだけでは大した情報になりません。ただ「ビッグデータ」にしたら話が違います。同じ日に多数亡くなっていたら大災害があった可能性が考えられますし、戒名は過去帳と照合したら俗名がわかり墓石を中心とする人間のネットワークが再構築できます。ただそこで重要なのは「悉皆調査」。宗派とか無縁かどうかとかお構いなしに、とにかく「そこにあるすべての墓石」を記録する。そうすることで「ビッグデータ」を得ることができます。
 調査では「個人情報(特に差別につながるもの)」への配慮が必要ですし、「墓石を建てられなかった人」が存在することも忘れてはいけません。江戸時代は「旦那寺」「葬式仏教」の時代ですから、きちんと記録が残されていて、それによると江戸時代後期にはけっこう高率に墓石が建てられていたようです(ただしその後風化や破壊や移動で失われてしまったものも多くあります)。本書に紹介された津軽地方のあるお寺の例では、6割の人が墓石を建てていますが、そのうち半分はのちに失われています。
 墓石の「形」には、宗派による差・地域差・流行(時代による違い)があります。墓石の大衆化は17世紀後半〜18世紀初めですが、そのときには地域差が非常に大きく、家族墓が普及する18世紀後半〜19世紀初めには、四面にたくさんの戒名や没年月日が刻める角柱型や箱形の墓石(方柱墓石)が増えます。ただ、方柱墓石が主流になるのは東日本では早く西日本は遅い傾向があります。ただ、19世紀の弘前は東日本型なのに、日本海航路のターミナルだった松前は西日本型でした。
 大災害のあと、被害者を供養するための石碑がよく建てられます。それは江戸時代も同様で、たとえば青森県で江戸時代の飢饉供養塔を著者とゼミの学生たちは128基確認しています。大飢饉の場合、古文書による記録は残っていないことが多く、あったとしてもそれがどこまで信頼できるか(藩によっては「過少申告」をしている可能性がある)という問題があります。著者は過去帳を調査することで、弘前藩が犠牲者数の隠蔽工作をしていた可能性を指摘しました。西日本でも似たことが指摘されていて、幕府からのおとがめを恐れる官僚が考えることは、どこでも同じようです(正直に申告した伊予松山藩では藩主の松平定英が「差控え(謹慎)」処分を受けているから、「保身」というよりは「忠義」だったのかもしれませんが)。著者はさらに「墓石に刻まれた文字は失われにくいから『動かぬ証拠』になる」という発想から、墓石を対象とした「歴史人口学的研究」を始めました。そのグラフを見ると、墓石でも過去帳でも、元禄・天明・天保の飢饉や疫病流行によって死者の数はするどいピークを描いています。もちろん宗門人別帳で「生きている人の数」もわかるのですが、それでの「マイナスのピーク」はグラフでは小さく見えるので、短期的な変動を鋭いピークで見せる「死者の数のデータ」は有用な情報として使えそうです。
 墓石が普及すると、いろいろ彫りたくなるようで、「死者の供養」とは無関係のはずの俗名や享年・出身地など「生前の個人情報」も彫られるようになりました。研究者からはデータが増えるのはよいことなのですが。辞世の句や追善のために詠まれた和歌・俳句・漢詩などは江戸時代中期から刻まれることが増えています。墓石の個性化です。石臼型や徳利の形など「デザイン型の墓石」もすでに江戸時代に存在しています。大名屋敷ではペットのための墓も建てられています。人がやることにはそれほどたくさんのバリエーションはないのかもしれません。



見えない下書き

2018-10-26 07:56:40 | Weblog

 私は悪筆です。手紙を書くとき「乱筆乱文お許しください」は「儀礼」ではなくて「本気」で書いています(いました)。で「子供のころから字が汚いのは、もう仕方ない」と思っていたら、ある書道家が「紙には見えない下書きがあって、自分はそれをなぞっているだけだ」と言っているのを聞いて考え込んでしまいました。すると私の目の前の紙にある「見えない下書き」は「汚い字で書いてあるのか」と。それ、誰が書いたの?

【ただいま読書中】『仕事消滅 ──AIの時代を生き抜くためにいま私たちにできること』鈴木貴博 著、 講談社(+α文庫)、2017年、840円(税別)

 2016年「ディープラーニング」を身につけたAIは「囲碁」の世界で人間を越えました。そして「シンギュラリティ(人類と同等の能力を持つAIが登場する日)」が現実味を持って語られるようになりました。そこで何が生じるか、それを私たちはどう乗り切ればいいのか、対策を早急に立てる必要があります。本書の予測では「最初の仕事消滅」は2025年。時間はもうあまり無いのです。
 本書は「仕事消滅」に関して経済学的に考えるため、「いつ」「なぜ」「生き延びることはできるのか?」「その過程で何が起きるか」「不幸な未来はどう回避するか」「未来はどうなるのか?」と内容がまとめられて章が立てられています。
 「仕事消滅」の予測は複数あります。オックスフォード大学のオズボーン准教授とフレイ博士は「2025年から2035年までに日本の労働力人口の半数が就いている仕事が、AIとロボットに代替可能になる」、マッキンゼーグローバル研究所は「近い将来、6割の職業で3割の業務が自動化可能、2055年頃には世界規模で現在の業務の半分が自動化される」と予測しています。
 ここで「シンギュラリティのパラドックス」が登場します。AIとロボットに少しずつ仕事を奪われると、仕事と収入を失って不幸になる人間が次々増えます。ところがAIとロボットが一挙に人間の仕事を全部奪ったら、それは「肩代わり」となり、GDPは全然減らず、人間はこれまでと同じレベルの生活を労働をせずに過ごすことが可能になります。
 2025年ころ、完全な自動運転が実用化されたら、プロのドライバーは失業します。その数は日本で123万人(宅配便のドライバーは生き残るはずなのでそれは除いた数です)。それ以外にも「20年以内に消える職業のリスト」には具体的に実にさまざまな職業が載せられています。私にとって意外なのは「ネイリスト」。「素敵なデザインの考案・提案」はAIに、「塗る作業」は3Dプリンターに手を入れたら精密に機械がやってくれるようになるのだそうです。ビッグデータを活用したら、銀行の融資担当やクレジットカードの審査や弁護士の助手も不要になるそうです。
 恐ろしいのは連鎖反応があることです。自動運転で人間のドライバーがいなくなれば、交通事故は激減します。したがって自動車保険業界も消滅することになります。
 著者は「『破壊的イノベーション』が登場したとき、『狼が来た』と騒ぐ少数の人と『あんなのおもちゃだ』と片付ける大多数の人がいる。そこから20年で破壊的イノベーションは現実の脅威となり、30年で古い業界最大手が消える」と断言します。その実例として「デジカメ」「ネットでの流通」が挙げられます。で、現在の「AI」はまだ「おもちゃ」扱いです。だけど「おもちゃのようなAI」が出現したのが2012年だとしたら、「危機」はおそらく2030年ころに訪れるはず。
 そういえば将棋ソフトも今から5年前には「おもちゃ」でしたね。あっという間に強くなりましたが。
 ロボットは「指先の器用さ」ではしばらく人間に勝てそうもありませんし、製造に手もかかります。しかしAIはディープラーニングでどんどん進化するしデジタルコピーが簡単です。するとAIの方が普及が早い。すると肉体労働よりは知的労働者の方が仕事消滅のスピードは速くなりそうです。会議でも人間は論理より感情を優先させますが、AIが会議を仕切ったら論理優先であっさり経営方針なんかが決まってしまいそうです。科学者や芸術家の仕事もAIは得意としています。
 「シンギュラリティ後」には、「一部への富の集中」は加速します。格差は広がります。ではそれに対する解決策は……著者は「ロボット経済三原則」を提案しています。ロボットが人間の仕事を奪うのではなくて、共存できる経済的な提案ですが、これはたしかに良さそうですね。資本家は自分への富の集中が減るから、反対するでしょうけれど。



細部と全体

2018-10-25 07:23:58 | Weblog

 「美」とか「真実」とか、「細部に宿る」ものは重要なようです。だけど細部ばかりにこだわっていると、「木を見て森を見ず」になる恐れもあります。さてさて、どの辺のバランスが最適なんでしょうねえ。

【ただいま読書中】『独裁者たちの最期の日々(下)』ディアンヌ・デュクレ、エマニュエル・エシェント 編、清水珠代 訳、 原書房、2017年、2000円(税別)

 ユーゴスラヴィアのティトーは、最期の4箇月を、足の切断をされてまで「生きることを強いられ」て過ごしました。周囲の人間がティトーに死ぬことを許さなかったのです。彼はスターリン以上にスターリン的な強権を振るって、冷戦の“隙間"に上手くユーゴスラヴィアを位置させました。そのため、国際外交では米ソのどちらにも属さない非同盟主義の国々のリーダーとして振る舞い、国内では6つの共和国と2つの自治州をがっちりまとめることができていました。ただ、そこで相当な「無理」があったことは、ティトーの死後ユーゴに何が起きたのかを見るとわかる気がします。ただ、独裁者が死んでも大混乱が起きない国もあるわけで、それは何が違うんでしょうねえ。
 ブレジネフの時代、ソ連では、汚職・横領・密売によって不正蓄財をする政府高官が多くいました。しかしKGB議長アンドロポフからその報告を受けたブレジネフは何もしませんでした。彼も同じ行為をしていたからです。そして、アンドロポフを閑職に追いやる決定をする直前、ブレジネフは急死します。著者はアンドロポフによる暗殺を強く示唆しますが、さて、真相はどうなのでしょう?
 チャウシェスクの最期は、報道で知って、ちょっとしたショックを私は感じました。それまで革命とか暴力的な政権交代は「歴史」の範疇の出来ごとだったのですが「ニュース」で知ったことが私個人にはショックだったのです。自分が「歴史」の中にも生きていることを、この時私は初めて自覚したのかもしれません。
 本書にはヘーゲルの「国民は記憶をもたない」という言葉が引用されていますが、独裁者が何をやったのか、は、記憶が薄れたとしても記録には残しておいた方が良いと私は考えます。



全権掌握

2018-10-24 06:52:05 | Weblog

 現在のビルマ(ミャンマー)で何か悪いことがあるとアウン・サン・スー・チーさんを責める人がいます。そういった人はたぶん彼女があの国で全権を握っている(だからすべてに責任がある)と考えているのでしょうが、実際にそうなんです? 軍は「私はあなたの忠実なるしもべです」とアウン・サン・スー・チーさんに忠誠を誓ってます? それともそれは表面だけのことで「権力」は実は薄氷の上でバランスを取っているだけ? そのへんを見極めないと、誰を責めたら良いのか、ポイントを外してしまいそうな予感がします。

【ただいま読書中】『独裁者たちの最期の日々(上)』ディアンヌ・デュクレ、エマニュエル・エシェント 編、清水珠代 訳、 原書房、2017年、2000円(税別)

 本書はさまざまな独裁者の「最期の日々」を、歴史家あるいはジャーナリストが描いたものを集めています。この「二重のアプローチ」で、私たちは「独裁者個人の物語(歴史の真実の断片)」と「独裁者と社会システム」についての新しい見解を得ることができるのだそうです。
 上巻の目次を見て、おかしくなります。「007は2度死ぬ」がありますが、本書では「ドゥーチェ(ムッソリーニ)」も2度、「ペタン元帥」は4度、ポル・ポトは6度も死んでいるのだそうです。さて、その意味は? というか、ペタン元帥は独裁者だったんですね。これはページを開くのが楽しみです。
 ムッソリーニの最初の「死」は1943年7月25日。ファシズム大評議会で首相解任動議が決議され、監禁された日です。「イタリア」は連合国軍と休戦協定を締結。激怒したヒトラーは20個師団を派遣して北イタリアを占領すると同時に、グライダー急襲部隊によってムッソリーニを奪還、彼を「イタリア社会共和国」の首班に据えます。ただのドイツの傀儡として絶望の日々を過ごした後、45年4月28日、レジスタンスの手に落ちたムッソリーニは愛人や部下とともに殺されました。彼らの遺体は翌日逆さづりのさらしものとされます。
 ヒトラーが自殺したのは同年4月30日。4月16日にすでにベルリンでの戦いが始まっていて、20日の「ヒトラーの誕生日祝賀会」の席で「ベルリンを決戦の地とするか、死ぬしかない」とヒトラーは秘書官たちに言っていました。その彼に衝撃を与えたのが、ムッソリーニの死体がさらし者になった、という知らせでした。自分は同じ目には遭わない、とヒトラーは決心します。その傍らでは、「ヒトラーの後継者」になるべくナチス高官たちの権力闘争が繰り広げられていました。当人たちは(文字通り)必死なのですが、傍目には滑稽としか言いようがありません。独裁者の最期は、なんともブラックな滑稽さをもたらすことがあるようです。
 1944年8月20日ヴィシーで88歳のペタン元帥がドイツ軍に連行されました。しかしドイツ軍はペタンを持てあまし、とうとうスイスに放り込んでしまいます。そのまま亡命生活をすることも可能だったはずですが、フランスで自分を被告とした欠席裁判が進行中と聞いたペタンは、弁明のために帰国することにします。もっとも聞く耳を持つ者はいなかったのですが(実はペタン自身も極度の難聴のため、誰の発言もきちんと理解できない状態でした)。
 スターリンの最期の時にも、脳出血で倒れてぜいぜいと息をしているスターリンの枕もとで権力闘争が始まっていました。放置しておけば死ぬとわかっていたベリヤは医者を呼ばせず、裏工作を始めます。結局医者が呼ばれたのは、倒れてから48時間後。なぜそうなったかと言えば、そうなるような「恐怖の構造」をスターリン自身が構築していたからでしょう。
 スペインのフランコも、臨終の場の周囲で権力闘争が繰り広げられます。フランコ自身はファン・カルロス王子を後継者に指名して帝王教育を施していましたが、フランコ主義者の人たちはそれに納得していなかったのです。ここでも醜い争いがひそかに行われていました。



トゥー

2018-10-23 06:58:33 | Weblog

 to, too, two,2,toe……
 どうやって耳で区別をしたらいいのでしょう?

【ただいま読書中】『狭き門』アンドレ・ジッド 著、 中条省平・中条志穂 訳、 光文社古典新訳文庫、2015年、980円(税別)

 昨日の「カルピス」と同様、昔懐かしい記憶を今日も語ってしまいます。
 本書を初めて読んだのはまだ小学生の時で、なんで学校の図書室にこんな本があったのか、今でも謎です。ともかく読んだときの感想は「キリスト教って、窮屈だなあ」だけでした。まあそれでキリスト教に興味を持って、中学校で新訳や旧訳聖書を読むことになったのだから、無駄ではなかったのですが。
 で、50年以上経って読んでみての感想は「もどかしいなあ」に要約できます。
 ジェロームは初心な少年が初心な思春期を迎え初心な青年になっていますが、もうちょっと成長しろよ、と言いたくなります。アリサに対しては「妹がジェロームに恋している」「自分の方が年上だ」「神様がお許しにならない(狭き門を選択するべきで、簡単に幸福になってはならない)」などと細かく理由をつけてジェロームを焦らしまくっていますが、これは「愛を二人で育てて豊かにする」のではなくて「純粋さを求めて愛の細部を削りまくって結局貧相にする」態度に私には見えます。欲望に簡単に負けない、というのは「立派な態度」なのでしょうが、表面にざらつきがあるから摩擦力が生じて両者が噛み合うのに、「純粋な表面」を求めてつるつるに磨き上げてしまったら(見た目は綺麗だしその努力の成果に自己満足は得られるでしょうが)両者のあいだの摩擦力は「ゼロ」になってすれ違いになってしまうだけでしょ。
 本書は、残酷なまで美しい作品です。世界は光に満ち、美しく耀いています。人の心もまた美しく耀くものばかり。だけど頭でっかちの理屈が、その美しさを陰らせます。ジェロームはアリサに拒絶された、と思っていますが、実はジェロームの方が(自身が成長しないことによって)アリサを拒絶していたのではないか、なんてことも感じました。で、解説を読むと、著者は結婚はしていたが実は同性愛だった、とのこと。そのへんが「女性を愛すること」に「女性に拒絶されること、女性を拒絶すること」が影響して、表現を屈折させてしまったのかな。
 ともかく、もどかしいなあ。異性愛でも同性愛でもいいですけど、愛は豊かに育っていって欲しい。



カルピスの味は……

2018-10-22 06:41:25 | Weblog

 私は子供時代にカルピスが大好きでした。それまでの「でかい氷のかたまりを一番上に入れて全体を冷やす“冷蔵庫"」のかわりに電気冷蔵庫が我が家にやって来て製氷室でアイスキューブが作れて氷を店から買わずにすむようになったら、夏には冷蔵庫で冷やした麦茶か冷たいカルピスを飲むのが定番でした。最近それを思い出して久しぶりにカルピスを買ってみたら、あらあら、ビンがずいぶん小さくなっています。でも味は記憶の中のものと同じでした。ただ、子供時代のように思いっきり濃いのではなくて薄めにしましたが。子供時代から変わらないものがあるというのは、嬉しいものですね。

【ただいま読書中】『カルピスをつくった男 三島海雲』山川徹 著、 小学館、2018年、1600円(税別)

 浄土真宗の寺の子として生まれた三島海雲は、日本の青年たちを覆う「大陸進出」の気運に押されたのか、中国で日本語教師として働き始めます。当時「シナ浪人」「大陸浪人」と呼ばれた日本人青年たちは、個人個人ではさまざまな夢を叶えようとしていました。ただそれは、日本の帝国主義が大陸に進出する“先兵"としての役割も持っていました(ヨーロッパ列強の帝国主義が貿易商や宣教師を“先兵"としていたことも私は連想します)。北京東文学社で三島は中国人に教育を与えることでこれまで日本が文化的恩恵をこうむっていたことの“恩返し"をしたいと思っていましたが、同じところで一緒に活動していた日本人の中には、スパイになったりシベリア鉄道爆破を画策する者もいました。中国での活動は思うようにならず、母が死に、三島は一時自暴自棄となったようですが、やがて立ち直り、仲間と日本の雑貨を扱う行商を始め、そこで「コスト」を意識するようになります(それがのちのカルピスの値付けにも反映されることになります)。
 日露戦争で、軍需物資の需要が高まり、三島たちに軍馬の注文が来ます。ただ、中国の馬はすでに財閥に押さえられていました。そこで三島たちはモンゴルの馬を買い付けることにします。ところがその旅は、地図も情報もない冒険旅行でした。そこで出会った乳製品に三島は惹かれます。宿痾だった便秘と不眠が改善し、夏痩せせずにむしろ太ったそうです。三島が滞在したヘシクテン旗(と呼ばれるモンゴルの地方区域)は海抜1000m以上の高原で、清朝時代には宮廷と太い繋がりがあり、この地で産する乳製品は宮廷人に愛されていました。そこに生来の虚弱体質の三島がやって来て、馬の代わりに素晴らしい乳製品に出会ったわけです。さらに、浄土真宗の三島と、チベット仏教を信仰するモンゴルの人たちとは、おそらく共鳴するところがあったはずです(著者はそれを現地で確認しています)。
 「乳製品」には「牛酪(寒天のように固まっているバター)」「乳豆腐(チーズに似ている)」「チャガントス(穀物を混ぜたバター状のもの)」「ジョウヒ(生クリームかヨーグルトのようなもの)」など実に多数の種類がありました。著者はまずジョウヒを食べますが、現地の人がやるように砂糖と煎った栗を入れると味わいがまったく違ったものになるのに驚きます。三島は「初めて食べた乳製品に砂糖を入れた」と記録を残していますが、それはおそらくジョウヒだった、そしてそれがカルピスにつながる、と著者は推定しています。
 三島はまず蒙古の牛を日本に輸入しようとしますが、失敗。ついで、大隈重信の後援でメリノ種の羊を蒙古で育てようとしますが、これも失敗。そこに、妻の病気と辛亥革命。三島は帰国を余儀なくされます。三島はまず「醍醐味」を生産、大正時代の健康ブームに乗り(それまでの「養生」が「健康」に変わる時代でした)、「醍醐味」はヒットしますが、歩留まりが悪くあまりのヒットで原料の牛乳が不足したため生産中止に追い込まれてしまいます。次の「乳酸菌入りキャラメル」は大失敗。しかし三島(と後援者たち)はあきらめません。醍醐味の“産廃"となる脱脂乳を利用しての新製品を考え、試行錯誤からカルピスのプロトタイプが生まれます。それを様々な人に試飲してもらって改良を続けます(試飲した中には、親交があった与謝野鉄幹・晶子夫妻もいて、晶子は試飲したその場でカルピスを詠み込んだ歌を二首作っています)。健康と滋養のために、カルシウムを添加、1919年(大正8年)に「カルピス」が市販されます。すでに日本ではヨーグルトが人気となっていたのですが、カルピスはがんがん売れます。1923年の関東大震災では、カルピス入りの飲料水を4台のトラックに積んで被災者救援に奔走。これは、広告のためでもあるでしょうが、三島の浄土真宗の精神の発揮だったのでしょう。
 他のメーカーも「二匹目のドジョウ」をねらいますが、昭和2年(1927)の森永コーラスがかろうじて生き残っているくらいです。ただ、1924年に(発酵後に加熱殺菌したカルピスとは違う)生菌を使ったタイプの乳酸菌飲料「エリー」が、35年には「ヤクルト」が発売されます。私から見ると、ヤクルトとカルピスは「別の飲み物」なんですけどね。
 カルピスのキャッチフレーズ「初恋の味」は、1920年(大正9年)に採用されましたが、大坂ではそのポスターに対して「色恋は社会の公序良俗を乱すことなので、白日のもとで口にすべき言葉ではない。ポスターや立て看板は自粛してほしい」と警察から申し入れがあったそうです。「そんな時代」だったんですね。
 三島は先見的な人のようで、社会貢献やインターンシップ制度の先駆けをすでに大正時代から始めています。広告も、商品そのものよりは企業PRに注力していました。しかし、経営者としては脇が甘く、1937年に味の素に会社を乗っ取られてしまいます(味の素から見たら、合法的に増資を引き受けて株式の過半数を握っただけですけれど)。
 戦争で原料が統制され,カルピスの生産は落ちますが、ビタミンを添加した軍用カルピスが生産されていました。しかし45年5月の空襲で恵比寿の本社と工場は焼け落ちてしまいます。戦後は倒産の危機を乗り越えて「代用カルピス(砂糖の代わりにサッカリンなどの人工甘味料を使用)」をまず生産しました。美味しくなかったそうです。統制が解除された水飴を用いた「特製カルピス」も返品の山。また倒産の危機となったカルピス社は、三島を代表権を持たない会長に祭り上げ、大規模な人員整理を行います。経営改革は効果を上げ、52年には砂糖の統制撤廃となって「オリジナルのカルピス」が作れるようになり、56年に78歳の三島は社長に返り咲きます。
 三島が何を大切にしていたか、それを回りの人間にどう伝えていたか、そしてその言葉を聞き三島の行動を見た人たちがどのように変わっていったか……本書は「カルピス」の物語ではありますが、実は「人として大切なものは何か」の物語でもあります。そして「三島が大切にしていたもの」が何であるかは、本書から直接読み取ってください。