【ただいま読書中】

おかだ 外郎という乱読家です。mixiに書いている読書日記を、こちらにも出しています。

海外旅行

2018-12-31 07:03:37 | Weblog

 私が「海外旅行」で思い出すのは「JALパック」「ノーキョーツアー」、バックパック、それとバブル期の買いあさり(中国人観光客が最近やっている爆買いツアーの“御先祖様"と言えるかな?)。もうちょっと精神的に“豊かな旅"を楽しむ人が増えて過半数になったときに「日本は豊かになった」と言えるのでしょうが、それはいつの日でしょう?

【ただいま読書中】『海外観光旅行の誕生』有山輝雄 著、 吉川弘文館、2002年、1700円(税別)

 明治39年(1906)朝日新聞社は「汽船を丸ごと借り切って満州・韓国を巡遊観光する旅行団」の募集をします。「海外の観光」がまだ「外国人が日本に観光にやって来る」を意味していた明治時代、「30日の旅程」「費用は最高60円、最低15円(巡査の初任給が月俸12円の時代です)」であったのに、5日間で374人の枠は埋まってしまいました。「ガイド付き団体ツアー」の嚆矢と言える「海外観光旅行」でした。
 日本ではお伊勢参り・大山参りに「御師」という“ガイド"がつくし「講」という“団体"で行動する、という“先例"があったので日本人には馴染みがあったのかもしれません。イギリスではトマス・クックという人が、1841年に禁酒運動のパレードのために鉄道旅行遠足を企画して成功、「団体旅行の企画と斡旋」を本格化させ、51年ロンドン万国博覧会の見物旅行で、600万人の入場者数の内トマス・クックが扱ったのは16万5000人と大成功をしました。トマス・クックはついで海外旅行も扱うようになり、1872年には世界一周旅行を実現させています(ジュール・ヴェルヌの『80日間世界一周』出版はその翌年です。まだ「世界一周」は「冒険」の範疇にあった時代です)。
 海外観光旅行客はまず頭の中に「観光地のイメージ」を持ちます。そしてその旅行は「頭の中のイメージ」と「実際の観光地での体験」とを一致させることが目的となります。つまり客にとって旅行は「疑似イベント」です。ちょっとしたハプニングは許容されますが、本当に予想外のことは「トラブル」として拒絶の対象です。
 面白いのは、日本で最初の海外団体旅行を企画した朝日新聞社が報道に値する「イベント」を必要とする企業だったことです。
 この「イベント」と「疑似イベント」の並立が実に興味深い。(そういえば筒井康隆がこのへんをテーマに何か書いていたような記憶があるようなないような……)
 さらに著者は「人の意識」と「まなざし」に注目しています。
 たとえば最初の満州韓国旅行は「野蛮の見物」でした。「日清・日露戦争に勝利した文明国として日本人」という意識の「観光客」は満州・韓国に「野蛮」を探していて「相手からのまなざし」は無視していました。ところが明治41年(1908)に朝日新聞が企画・募集した世界一周旅行(90日間、2100円)では、日本人客は「文明国の一員としての自負」はやはり持っていましたが、米欧では「相手からのまなざし」を過剰なくらい意識しています(だからフロックコートなどの正装を準備していました)。
 この「見つめるまなざし」と「見つめられるまなざし」の交叉があるかないか、が国と国の関係を如実に現しているようです。ところで、最近の爆買いツアー、中国人と日本人の「まなざし」は、交叉していたのでしょうか?



改元

2018-12-30 08:10:56 | Weblog

 安部さんは「改元」よりも改憲をしたいでしょうね。それならいっそ、新元号を「改憲」としたらどうでしょう。「今年は改憲元年です」と公式に言えるようになります。

【ただいま読書中】『新しい1キログラムの測り方 ──科学が進めば単位が変わる』臼田孝 著、 講談社(ブルーバックスB2056)、2018年、1000円(税別)

 「キログラム原器」とその複製によって、世界中の「1キログラム」は定義されてきました。しかし「人が作ったもの」は変化します。だからきちんと定義し直そう、という動きが起き、2019年には「キログラム」だけではなくて「アンペア(電流)」「モル(物質量)」さらに「ケルビン(熱力学温度)」も定義が変わる予定となっています。
 古代から「単位の定義」が重要であることはわかっていました。たとえば長さの単位「キュービット」は、ファラオの前腕の長さを「定義」とし、それを花崗岩に刻み(その行為を「現示」、ものを「原器」と呼びます)、普段使う木の物差し(原器のコピー)を定期的に花崗岩に当ててその正確性を再確認(「校正」)しました。
 「共通単位」は「王の権威の象徴」でもありましたが「社会活動を円滑にする」機能も持っています。18世紀に「市民」が力を持つと社会と科学の要請からフランスで「メートル法」が検討されました。これは「人類共通の自然(地球、水など)による」「10進法」などを基本方針としていました。このとき「メートル」と「キログラム」が定義され、他の単位(面積や速度など)は基本単位の組み合わせで表現することにしました。そのためにフランスの科学者がまず行ったのは測量です。ダンケルクからバルセロナまでの子午線の長さを精密に測量し、それを元に地球の一周の長さを計算、それをもとに「1メートル」を確定しました。18世紀末、フランス革命で揺れに揺れている社会の中を測量した人たちには、大変な苦労があったそうですが、当時の最先端の科学技術が投入されました。その「1メートル」から「1リットル」が導き出されるとその水の重さが「1キログラム」とされました。そして、1889年に白金とイリジウムの合金から「キログラム原器」が作製されますが、そこにも当時の最先端の技術が使われます。
 1960年には「1メートルは、クリプトン86の波長の165万763.73倍」と定義が変更されました。これはまず「クリプトンの波長を測定」してからそれを「既存の1メートルの定義に当てはめる」というややこしい手続きが踏まれました。ただしこれでメートル原器の「物質的制約」から「1メートル」が逃れたことになります。さらに1983年には「1メートルは、光が真空中で2億9979万2458分の1秒の間に進む距離」と再定義がされました。なお、これ以降「光速度の測定」は無意味となりました。だって「不変の光速度」自体が「原器」ですから。
 キログラム原器のコピーには「天秤」を使います。現在最高レベルの天秤は100億分の1の違いを検出できるので、相当精密な「コピー」を作れるのです(ちなみに、メートル原器のコピーの不確かさは1000万分の1)。ところが、「コピー」の元となるべきキログラム原器の質量が揺らいでいることがわかりました。厳重に保管されているはずですが、表面に不純物が吸着したりしているようで、多くの副原器が100年で最大50マイクログラム、原器よりも重たくなっていました(ただし、原器が軽くなっているのかもしれません)。ちなみに、分銅に指紋を一つ付けると50マイクログラム増えるそうです。
 科学はどんどん進歩しましたが、「単位」に大きな影響を与えたのは「量子」でした。「量子を数える」ことで様々な単位の再定義が行われました。ただ、その流れから「キログラム」は取り残されていました。しかし、ついに「プランク定数で質量を表現する」ことに人類は取り組みます。(有名なE=MC^2と、あまり有名ではないE=hf(プランク定数×電磁波の周波数)の二つの式を組み合わせると、質量はプランク定数から導き出されるのです)。あるいは、アボガドロ定数を用いて「キログラム」を決める手もあります。ただここでややこしいのは、プランク定数とアボガドロ定数にはいわば「反比例」の関係があることです。ともかく、2018年11月国際度量衡総会で「新しい1キログラムの定義」が採択されました。
 「定義」が変わったからと言って、私たちの生活には何の影響もありません、というか、影響があったら困ります。困らないように慎重に新しい定義が定められました。しかし、科学的で長持ちする基準が定められたことは、長い目で見たら大きなことです。問題は、新しい「1キログラムの定義」がどうにも私にはわかりにくいことなんですよね。もうちょっと直感的にわかるものにして欲しかったなあ。「私がわかること」よりも「科学的に正しく社会的に使えるものであること」の方が重要なこともわかるんですけどね。



冬至が過ぎて

2018-12-29 06:30:10 | Weblog

 これから寒さはさらに厳しくなりますが、少しずつ日は長くなってきます。特に日没が少しずつ遅くなるのは、なんとなく嬉しい。冬至が過ぎても日の出がすぐに早くなるわけではない(むしろちょっと遅くなる)のは残念なんですけどね。

【ただいま読書中】『キャンディと砂糖菓子の歴史物語』ローラ・メイソン 著、 龍和子 訳、 原書房、2018年、2000円(税別)

 楽しい装幀です。カバーの下の表紙は薄いピンク、栞の紐は鮮やかなピンク。見ただけで「ちょっと美味しそう」と思います。
 数千年前のインドに「sarkara」と「khanda」という言葉がありました。どちらも水晶のような固形の砂糖を意味していたようで、そこから「キャンディ」という言葉が派生しました。砂糖と言葉はペルシアを経て西に伝わります。中世後期に「desservir(食後に召使いがテーブルをきれいにする間に、部屋を替えて食後酒としてスパイスワインを飲みウエハースや砂糖衣でくるんだスパイスをつまむ習慣)」が生まれ、ルネサンス期イタリアでは「コラツィオーネ(テーブルに用意された豪華で高価な山盛りの甘い食べもの)」が楽しまれます。それがヨーロッパの宮廷に広まり、「デザート」がコース料理に組み込まれるようになりました。
 氷砂糖はもっとも基本的な砂糖菓子で、1000年以上の歴史を持っています。砂糖シロップを型に流し込んで作るキャンディも古い歴史を持っていて、10世紀のエジプトや12世紀の中国の文献にその記載があります。砂糖の結晶を(低めの温度で煮詰めたり、コーンシロップを加えて)微細なものにするとフォンダンのような柔らかな食感となります。独特の焦がしカラメルの味がするファッジは19世紀後半のアメリカで流行しました。女子大学でファッジが人気となり、1950年代に「夏の暑さで溶けるチョコレートの代わり」としてお菓子業界が売り出したことが大きかったのかもしれません。
 本書には様々な砂糖菓子の製法が紹介されますが、煮詰めるときの温度が数度違っても出来上がるものが全然違ってくるのには驚きます。砂糖って面白い物質なんですね。
 砂糖は様々なものとの相性も抜群です。中でもナッツ類は人気があって「ブリトル」として世界各地で人々に愛されています。ナッツと砂糖シロップと泡立てた卵白を使って作るのは英語圏で「ヌガー」と呼ばれるお菓子です。世界各地に似たお菓子がありますが、砂糖シロップを煮詰める温度が140度〜149度のどこかで食感ががらりと変わるそうです(温度が低いと白くて柔らかい。高いと砂糖がカラメル化してベージュ色でぱりぱりとした食感)。
 果物との組み合わせも多数あります。もともと果物の保存に砂糖漬けが用いられていたことが発祥でしょうが、実に様々な果物が世界各地で砂糖漬けとなっています。そういえば日本でも江戸時代のレシピ集に、果物だけではなくて野菜(茄子、蓮根、胡瓜など)や天門冬や麦門冬(生薬)なども砂糖漬けにする、とありましたっけ。これはおそらく中国からの輸入情報で、本書では「中国では粟粒やタケノコ、ショウガなど食べられるものはほぼすべて砂糖漬けにしており」というイギリス人の旅行記が紹介されています。本書で紹介される「日本のユニークな砂糖漬け」は、甘納豆や餡。豆の砂糖漬け(または砂糖煮)は世界では珍しいもののようです。
 薬と砂糖の関係もあります。昔は砂糖そのものが「薬」として扱われたこともありました。そして最近では苦い薬を飲みやすくするために使われます。
 最初から最後までタイトル通りの本で、読んでいて脳が甘くなった感じがしました。何か甘い物が口にも欲しいな。



時空間の彼方

2018-12-28 08:26:45 | Weblog

 科学好きの人間は子供時代に「恐竜派」と「星派」に大別される、と聞いた覚えがあります。私自身はどちらかというと恐竜派かな。今は両方好きですけれど。どちらも共通点は「時空間の彼方を見つめようとするところ」かな。
 もっとも、昆虫派とかお医者さんごっこ派などもありそうなので、あまり簡単に“二分”はしない方が良さそうですが。

【ただいま読書中】『愛しのブロントサウルス ──最新科学で生まれ変わる恐竜たち』ブライアン・スウィーテク 著、 桃井緑美子 訳、 白楊社、2015年、2500円(税別)

 「僕はむかし、恐竜だった」と本書は始まります。なるほど、著者は少年時代に「恐竜派」だったわけです。しかし、筋金入りの五歳児は「大人は意外にものを知らない」ことを早期に発見してしまう、という困った現象に出くわす運命にあります。多くの人にとってそれは思春期で起きるべき出来事なんですけどね。
 私が子供時代、ティラノサウルス・レックスはゴジラのような恰好で立っていました。それが今では頭を下げ尻尾をぴんと後ろに突き出しています。その骨格標本を初めて見たときに私は驚きましたが、著者もまた同じ驚きを感じたようです。さらに著者は科学の進歩によって「ブロントサウルス」が「アパトサウルス」に改名させられた音を惜しんでいます。私はそこまでブロントサウルスに思い入れはないので、これが「恐竜派」と「どちらかというと恐竜派」の大きな差なのかもしれません。
 三畳紀、恐竜が登場して数百万年経ったとき、恐竜は「地上の支配者」ではありませんでした。ワニによく似たフィトサウルス類など強力な捕食者が恐竜をばりばり食っていました。しかし恐竜は生き抜き繁栄の時代を迎えることになります。ペルム紀末に空前絶後(海洋生物の90%以上、陸棲生物は70%以上)の大絶滅が起きますが、その直後に主竜類が登場、彼ら(の子孫)がジュラ紀以降の「恐竜の時代」を作ることになります。
 著者にとって「なぜ恐竜が繁栄できたのか?」は大きな謎ですが、もう一つ「彼らはどうやってセックスしたのか?」も大きな謎だそうです。たしかにあれだけでかい尻尾があると、邪魔でしょうね(ちなみに、ティラノサウルス・レックスの貧弱な前脚に実はたっぷり筋肉が付いているのは、捕食のためではなくて交尾の時に相手をしっかり掴むため、という説があるそうです。それでも尻尾はどう処理したらよいでしょう?)。「生殖器の化石」は今のところ見つかっていません。ただ、恐竜の子孫である鳥類が総排出腔を持っているのだから、恐竜も同じようなものを持っていた、と想像するのはそれほど無理はありません。
 新しい化石が見つかると、一つの謎が解ける場合もありますが、多くの場合は謎の数が増えます。卵は産みっぱなしだったのか孵化するまで世話をしたのか、生まれたあと子育てはしたのか、群れを作ったのか単独行動か、体温調節はどうやっていたのか、体表の色は、スパイクや角などの目立つ特徴は何の役に立っていたのか……恐竜について知りたいことは山ほどありますが、その回答はなかなか得られません。それでも少しずつ恐竜研究は進歩していますが、その結果は喜ばしいものばかりではありません。著者の大好きなブロントサウルスが名前を失ってアパトサウルスになったのが一例ですが、他にも始祖鳥が「最古の鳥」の座を失ったことも古い恐竜ファンの心情に衝撃を与えました(こういったことに星の世界で相当するのは、最近の「冥王星が惑星ではなくなった」騒動でしょう。現実は何も変わらず分類が変わっただけですが、多くの天文ファンの心は傷つきました)。
 恐竜には「小さな敵」もいました。寄生虫です。これは糞の化石を調査することで詳しいことがわかりました。日本でも古いトイレの発掘調査で、昔の人が寄生虫を宿していたことなどがわかってきていますが、恐竜でも同じような研究をしていたんですね。ただし「恐竜サイズの寄生虫」ではなくて「普通のサイズの寄生虫」だったようですが。おっと、1億6500万年前の蚤(2.5cmサイズ、跳ねることはできない)は、恐竜サイズの寄生虫と言えそうです。
 そして最後に「恐竜絶滅の謎」。「巨大隕石衝突(とそれに伴う天候激変)」によって滅びた、が定説ですが、衝突以前、そして衝突後にもいろいろともの悲しい物語が存在しているようです。ただ、悲しいことは悲しいのですが、恐竜が絶滅してくれていなければ、私たちはここに存在していないわけで、なかなか複雑な気分ではあります。
 本書は、最新科学によって恐竜の「知識」だけではなくて「イメージ」が大きく変えられたことを扱っていますが、同時に「恐竜への愛」もまた熱く語られます。科学は愛によっても支えられているのです。



風が吹くと

2018-12-27 11:06:02 | Weblog

 桶屋が儲かる、と私は言いたくなりますが、最近は木製の「桶」を使ってましたっけ? 身近に桶屋さんがありましたっけ?

【ただいま読書中】『風の又三郎』宮沢賢治 著、 田原田鶴子 絵、偕成社、2007年、1800円(税別)

 夏休み明けの9月1日、子供たちが登校すると、まるで外国人のような見慣れぬ子供が一人来ていました。赤毛で洋服を着て靴を履いているのです。ここで現代の人は、子供たちが受けた衝撃の意味があまりわからないでしょう。赤毛はともかく、洋服と靴は戦前の尋常小学校の多くでは「異常な恰好」だったのです。私の父親も、尋常小学校に普段は和服(つんつるてん)で行っていましたが、上海で成功した親戚から送られてきた洋服を着せられて革靴を履かされて登校したら皆にひどくからかわれてとても嫌な思いだった、という思い出を持っています。
 転校生を巡って大騒ぎをする子供たち、それを鎮めようとする教師。非常に生き生きとした場面なのですが、そこで「言葉の対比」も印象的です。子供たちは方言を使っています。しかし教師は共通語です。「岩手に進出してきた“東京”」がそこに見えますが、同時に私は「日本に進出してきた欧米文化」の影響も感じます。当時の日本人は「どんどん身近になる欧米文化」についてある種の実感を持っていたはず。それが本作には二重写しのようになっているのです。
 「又三郎」は、風のようにやって来て、風と戯れるように皆と遊び、そして風のように去って行きました。読み返してみて改めて「たった2週間足らずの物語」だったんだなあ、とその短さとその濃密さに私は感銘を受けます。たとえばランサムの「夏休みの冒険シリーズ」に日本の作品で対抗しようとしたら、本作がその筆頭候補かな。



2018-12-26 06:42:46 | Weblog

 ALSOKのロゴは、最後の「K」の縦棒が「O」と重なって省略されてるようにデザインされています。ところがそれが私にはひらがなの「く」に見えてしまいます。つまり「ALSOく」。もちろんこれでも“正しく”読めるんですけどね。

【ただいま読書中】『ちょっとピンぼけ』ロバート・キャパ 著、 川添浩史・井上清壹 訳、 筑摩書房(ちくま少年文庫14)、1978年(85年3刷)

 目次の前の見開き写真があの有名な「崩れ落ちる兵士」ですが、本書はスペイン内戦ではなくて1942年のアメリカから始まります。無一物でオケラ(手もとにあるのはカメラと空っぽの部屋の停止された電話と5セント硬貨一枚だけ)の著者は、「敵性国人の通知」と「戦場カメラマンとしての契約」を同時に受け取ります。抱腹絶倒のやり取りを続けてなんとか渡英した著者は、重大機密漏洩をしそうになったあと北アフリカに派遣されます。南京虫と戦い地雷原に迷い込み爆撃されて寝ていたテントが吹き飛ばされてもねむり続け、とうとう最前線へ。輸送機に同乗してシシリヤに降下する最初のアメリカ兵の写真を機内で撮影します。ところがそこに届いたのは新聞社からの「馘首の通知」。その通知から逃げるために著者はこんどは飛行機から飛び出してシシリヤに降り立ってしまいます。しかし、アメリカ軍に正式につかまったら、強制送還をされる立場の著者は、戦争の写真を撮りながら敵からもみ方からも逃げ回らなければなりません。しかもその写真を何とか発表したい。発表できたらライフ誌などに雇ってもらえて正式な戦場カメラマンの立場を得ることができますから。
 「ピンキィ」という愛称のガールフレンドとのラブロマンス(の欠片)が絶妙のタイミングで各所に差し挟まれますが、最近読んだ本ではこれは実は半分フィクションなのだそうです。ということは、半分はノンフィクションなんですよね。
 イタリアで戦争に食傷してロンドンに帰還した著者を待っていたのは、恋人とDデイでした。最初の上陸部隊に従軍できる報道カメラマンはわずか4名。著者はその中に選ばれていました。そこで著者は攻撃第一波の歩兵部隊に同行することにします。銃の代わりにカメラを持って、ノルマンディーの海岸でドイツ軍に撃ちまくられるのです。そこで撮影されたのが有名な「キャパの手はふるえていた」の写真です。もしこの時のキャパの行動を指して「意気地なし」とか誹る人間がいたら、キャパと同じ環境に放り込まれたときその人がどのくらい“勇敢”な行動をしてみせるのかを、見てみたいとは思います。他のカメラマンは海岸に近づいてはいないのです。
 パリへの一番乗りをした戦車になぜか著者は乗り込んでいました。これにはスペイン内戦まで遡るお話が絡んでいます。なるほど、著者が本書のはじめからスペイン語にこだわっていたわけがやっとわかりました。ロンドンに戻り、恋人との仲はこじれ、そしてライン河へ。戦争は終わり、本書も終わります。オチとして、恋人との仲が……おっと、未読の人のためにはこれは秘密にしておいた方が良いかな。



イチローの背番号

2018-12-25 07:29:37 | Weblog

 日本でもアメリカに移ってからも51番であり続けたことは熱心な野球ファンには当然の知識でしょうが(ヤンキースで51が永久欠番だったので31番でしたが)、彼が42番をつけてアメリカでプレイしたことがあるのを知っている人はどれくらいいるかな? 4月15日「ジャッキー・ロビンソン・デー」にアメリカでは選手全員が「42番」を背負うので、イチローも42番をつけていたのです。なんだか妙に嬉しそうにしていた彼の姿を私はテレビで見た覚えがあります。

【ただいま読書中】『黒人初の大リーガー ──ジャッキー・ロビンソン自伝』ジャッキー・ロビンソン 著、 宮川毅 訳、 ベースボール・マガジン社、1974年(97年新装版)、2500円(税別)

 貧しい家庭に育った著者は、スポーツで頭角を現し、高校でも大学でも、フットボール・バスケットボール・野球・陸上の学校代表選手となります。卒業後に「真珠湾」が勃発。徴兵された陸軍は「人種差別禁止」が謳われていました。建前でしたが、それでも人種差別を嫌う白人が実在していることを著者は知ります。戦後は野球の「黒人リーグ」に参加(大リーグ選手は白人専用でした)。
 そこで話は、1910年のブランチ・リッキーへ。オハイオ州ウェズリヤン大学のコーチだったリッキーは、チームを連れてインディアナ州に遠征したときホテルで「黒人選手だけはお断り」と言われます。そこでリッキーは「自分の部屋に補助ベッドを入れてトーマスを寝かせる」妥協案をホテルに飲ませましたが、その部屋でトーマス選手は黒人である絶望感をリッキーに打ち明けました。35年後、ドジャースの会長となっていたリッキーは「新しい実験」に踏み切ろうとしていました。彼は若い頃に知った「黒人の苦悩」を忘れていなかったのです。まずセントルイスの球団重役としてスポーツマンズパーク(のちのブッシュ・メモリアル球場)で黒人席の廃止を画策し、周囲の反対で断念。しかし彼はあきらめません。次は「黒人選手の採用」を考えます。道徳的に正しいし、それでチームが強くなったら経営的にも正しい判断なのです。最初に目をつけたのが、本書の著者ジャッキー・ロビンソン。しかし公然とスカウトに動いたら、アメリカ社会がとんでもない反応をすることは目に見えています。そこでリッキーはカモフラージュのため「新しい黒人リーグをドジャースが作る」と打ちあげます。これは「黒人選手を利用して黒人差別を助長する」と、黒人と差別反対論者の反発を招きます。ところがリッキーが「遠い将来白人と黒人が一緒になるための準備」と真実に近いことを語ったら「偽善者」のレッテルを貼られ、逆に動きやすくなりました。実は当時のアメリカには、この手の偽善(口では差別反対と言って、実際の行動は別)が満ちあふれていたのです。おっと「当時のアメリカ」と限定する必要はないでしょう。今のアメリカにもひそかに残されている様子ですから。
 まずはドジャース傘下マイナー・リーグのモントリオールと契約。リッキーは「侮辱やラフプレーなどを白人はするだろう。それに仕返しをしない勇気を持て」と「優れたプレイヤー」であると同時に「優れた人間」であることをジャッキー・ロビンソンに求めます。野球を観戦に来た白人たち(と相手チームの選手)は著者がどこまで侮蔑に耐えられるか“テスト”(憎悪を込めた悪口、侮辱、肉体的な暴力)をし続けます。「黒人が本当に紳士であり得るか」のテストですが、それをやっている“試験官”たちはこれ以上ないくらい下劣な存在になっているんですけどね。まず自分が「紳士」になって、それを黒人が見習えるかどうか、の方がよほど好ましい“テスト”になるような気が私にはします。「自分は紳士になる気がない」人間は他人にもそれを求めちゃイケナイでしょう。
 モントリオールでの好成績を見てリッキーは著者はドジャースに引き上げることを決心します。それに対してドジャースの選手の中に反対運動が起きそうになりますが、リッキーはそれをあっさり潰してしまいます。しかし、オープン戦で著者は絶不調。本人は「スランプ」とあっさり表現していますが、おそらく慣れない環境と「大リーグ」に適応できるかのプレッシャーと人種差別のプレッシャーとによるものでしょう。白人の新人だったら人種差別のプレッシャーを受けなくても実力を発揮できなくなってもおかしくない状態なんですから。ところが、じっと我慢をしながらプレイをする著者の姿をそばで見、相手チームの汚らしいヤジをずっと聞かされているチームメイトの白人が、相手チームに対して怒鳴り返し始めます。「この臆病者め。野次るなら、言い返せるやつをヤジったらどうかね」と。新聞記者の中にも“味方”が出始めます。人種差別に反対することが、建前や文章だけではなくて、記者としての行動に表れるようになった人たちです。
 もちろん「いやなこと」は山盛りです。嫌がらせの手紙、脅迫状(著者個人に対するものだけではなくて、妻子の殺害予告状など)、ホテルの宿泊拒否、南部出身でありながら黒人と一緒にプレイしている白人選手(当然人種差別をするべきだと期待されている人)に対する個人的攻撃……しかし「良いこと」もあります。チームは一丸となってペナントレースで優勝。著者は新人王を授賞。そして、他のチームも黒人選手を受け入れ始めます。
 しかしこれは“ハッピーエンド”ではありません。いわれない攻撃に耐え続ける「受難者」として著者は大リーグに受け入れられました。しかし「もう我慢しない」と宣言した瞬間(白人だったら「ガッツのある奴」と評価されるのに)著者は「思い上がった黒人」と扱われることになります。「受け入れてやったのだから、そこで満足していろ。それ以上『白人と同じ』を求めるのか」という感情が働くのでしょう。さらに「有名人の代償」が次々著者と一家に襲いかかってきます。
 毎年毎年“戦い”続けた著者は、ついに野球から引退しますが、そこからまた“戦い”は続きます。こんどの“フィールド”は、実業界と社会です。野球の殿堂入りとかドジャースで著者の背番号(42番)が永久欠番になったことは知っていましたが、彼の引退後の社会生活については詳しいことを本書で知ることができて、アメリカ社会についていろいろ考えてしまいました。しかし、大統領選挙で、ケネディーではなくてニクソンを支持して活動した、というのには驚きましたが。著者は詳しく事情を書いていませんが、一体何があったんでしょうねえ。白人だけではなくて黒人も使うことができる「自由銀行」設立にも著者は関与していますが、その「破綻危機」についても率直に語っています。黒人差別の裏返しで、検査官が「黒人の銀行を迫害している」と非難されないために検査を手加減して、実は不良貸し付けが膨れあがっていたのに会長である著者がそれを知らされずにいた、なんて裏事情を聞くとぞっとします。
 かつて「黒人は大リーガーには向いていない」と言われていました。今「黒人は大リーグの監督には向いていない」と言われています。ジャッキー・ロビンソンの“戦い”は、まだまだ続いているようです。救いは、彼の功績を讃えて「42番が大リーグ全球団での永久欠番」とされていることでしょう。これは一つの“宣言”ですが、こういった宣言をきちんとできる度量があるのだから、アメリカ社会はさらに良くなっていくのだろうな、と私には思えます。



陳謝の主語と目的語

2018-12-24 09:34:27 | Weblog

 テレビの謝罪記者会見で「陳謝いたします」とか言って“責任者(実際には「悪いことをした人」本人ではなくて「謝る係の人」)”が深々と頭を下げている、が放送されています。ところで「誰が」本当に謝るべきか、も問題ですが、ここで語られる言葉の「主語」と「目的語」が省略されているのが私には気になります。結局「誰が誰に陳謝」しているんです? ただ単に「誰かが頭を下げた」という「形式」だけ満足させれば良いの?

【ただいま読書中】『空中写真に遺された昭和の日本 西日本編』一般財団法人日本地図センター 編集、創元社、2018年、8000円(税別)

 本書の「東日本編」で、札幌の大通りが建物疎開の結果できたのではなくて戦前からあったことを知った私は、この「西日本編」でまず名古屋と広島をチェックしました。すると、どちらも「大通り」が戦前にはなかったことの確認ができました。つまり、空襲による火災拡大を防ぐ目的で建物疎開が行われ、その跡地が幅100mの大通りになったわけ。
 ただ、空中写真で見ると「100mの幅」なんて小さいものです。江戸時代の火災のように一箇所から燃え広がっていくのだったら火除け地として機能するでしょうが、空から爆弾や焼夷弾をばらまかれた結果起きる広範な火災に対してはあまりに無力に見えます、というか、実際に無力だったのですが。昔の日本軍は「江戸時代の感覚」であの戦争を戦っていた、ということなのでしょうか。
 長崎も本書にあります。地形図を見ると実に入り組んでいて、ここで原爆を爆発させても、衝撃波が反射や干渉をするからその「効果判定」は信頼できないものになるだろう、と私には思えます。放射線の影響だけは(坂の高度補正をすれば)使えるデータが得られるかな。なんでわざわざ長崎なんだろう。いや、別の都市を推薦するわけではありませんが。



儒教的仏教

2018-12-23 08:42:15 | Weblog

 日本の「仏式葬式」が実は「儒教的」だと言うのは、ずっと前に読んだ『儒教とは何か』に書いてありましたが、今日の読書日記の『位牌の成立』では「位牌」が実は儒教から、と指摘するところから話を始めています。たしかに「位牌」は「仏教の本来の教え(成仏が最優先)」よりも「先祖崇拝」との相性が良さそうです。ちなみに私の親が信じる浄土真宗では、位牌はありません。だって阿弥陀様の導きで死者はすでに成仏しているのですから、その“記念碑”を残す必要はない、というか、残したらそれはこの世への未練に繋がり「成仏の邪魔」になるのだろう、と私は解釈しています。

【ただいま読書中】『位牌の成立 ──儒教儀礼から仏教民俗へ』菊池章太 著、 東洋大学出版会、2018年、2800円(税別)

 古代中国では人は死ぬと「鬼」になる、とされていました。ただし「日本語の鬼」とは違います。「鬼」の字形は「頭蓋骨にそれを支える身体が付いたもの」を意味し、「キ」は「帰」に通じる(タマシイが本来の場所に帰る)、とされていたそうです。中国の「タマシイ」は「精神の魂」と「肉体の魄」から成っていますが、死後にそれは分かれ、魂は天へ・魄は地に向かいます。これは「陰陽説」で「混沌が陰陽に分かれた」の反映でしょう。
 朱熹(朱子学の創始者)は「万物は陰陽の二気によって成立する」とまるで原子論のような世界観を唱えましたが、同時に「先祖と子孫には同じ『気』が流れている」とトリッキーな主張をします。だから子孫が先祖供養をすることには意味がある、と。
 古代中国には、始皇帝の墳墓のような「立派な墓」もありますが、今の樹木葬のような葬り方もありました。日本でも平安時代の「餓鬼草子」に盛り土の上に枝を刺したり木を植えた「墓地」が描かれています。そういえば「墓石」が日本で普及したのは割と新しい、は10月27日に読書した『墓石が語る江戸時代』(関根達人)に書いてありましたっけ。
 儒教の葬送儀礼は実に細かく決まっています。たとえば「泣き方」も「主人は啼し、兄弟は哭す」と違いが定められていました。死者のそばには、旗・竿・布・紙などが飾られましたがそれは「依代(さ迷う霊魂をしっかり捕まえておくためのアイテム)」です。しかしそれらの依代は葬祭の途中で姿を消し、喪が明けると「主」と呼ばれる新しい依代が登場します。この「主」について、紀元前の文献では詳しいことはわかりません。後漢以降に言及がありますが、木製の立方体または直方体で、霊魂の出入り口として穴が開けられていたようです。
 唐の時代、仏教や道教が民間に浸透し、葬儀も普及していました。キリスト教がローマに入って「ローマ」を自らに取り込んだように、仏教もまた「中国」を取り込みます。古代からの「儀礼」も「仏式」として取り込み(取り込まないと中国人に受け入れてもらえなかったでしょう)「主」が「位牌」になったのではないか、と著者は推定しています。
 道教も仏教の影響を受け「地獄」の概念を取り入れます。あれれ、道教では現世重視で死は苦しみからの救済だったはずなのに、いつの間にか「死んだら冥界に。そこで裁かれて、罪人は地獄へ、善人はこの世に転生」となったのだそうです。極楽や天国がありません。で、地獄で苦しむ先祖を救済することが、この世に生きる子孫の使命。なんだか、儒教も混交しているように見えます。
 中国で仏教の中で最も儒教の葬送儀礼の影響を受けたのは禅宗だそうです。今日の「仏式葬儀」の基礎を作ったのは禅宗で、位牌も禅宗から始まっているそうです。禅宗とは座禅オンリーで、儀礼にかまう暇があったらひたすら座れ、と道元さんは言っていたような気がするのですが……
 道元が中国留学をしたのは宋(12世紀、北宋→南宋となり中国社会が激変しつつあった時代)です。朱熹が儒家の作法を整備し、仏教も社会の変革に対応し儒家の家礼を取り入れて変革をしていました。葬儀で位牌を立てることも宋の時代に一般的となり、それが日本にもすぐに輸入されます。曹洞宗の文献では、道元の時代には「座禅」に関する語録がほとんどでしたが、時代が下がるにつれて座禅よりも葬儀儀礼に関するものが増え、応仁の乱の頃には「儀礼>座禅」となったそうです。これまた「社会の転換」への対応なのでしょう。最初は亡僧のための儀礼だったものを、在家信者にも用いるようになります。つまり「葬式仏教」の確立です。道元は「俗世の儀礼」に背を向けていましたが、南北朝時代には曹洞宗はしっかり「葬式仏教」となり、武家政権と密着しました。「臨済将軍曹洞土民」という言葉がありますが、この「土民」は土豪など武士階級を示すのだそうです(民衆には真宗が広まっていました)。さらに日本で位牌が普及する過程には、密教の影響もあるのだそうです。ハイブリッドも極まれり、ですね。
 なお、日本には「墓も位牌も無い」地域があるそうです。浄土真宗原理主義とでも言えそうな信仰ですが、これはこれでさっぱりして良いのではないか、なんて私は感じます。「現在の習慣」が「絶対の真実」ではないのですから、人が“それ”で納得していたら良いんじゃないかな?



クリスマス

2018-12-22 07:09:27 | Weblog

 日本では「クリスマスイブ」は盛んに持ち上げられていますが、「クリスマス」には何をしています? 大切なのは「イブ」じゃなくて「クリスマス」じゃないのかな、なんてことを思うのですが。

【ただいま読書中】『神のちから』さくらももこ 作、小学館、1992年(97年16刷)、970円(税別)

 さくらももこは、天才です。落語に「あたま山」という実にシュールな噺がありますが、そういった雰囲気を濃厚に湛えた短編漫画が本書で次から次へと私に襲いかかってきます。私は笑いのスイッチをオンにされっぱなし状態です。それも「強引にスイッチオン」ではなくて「さわるかさわらないかでスイッチを微妙に撫でている」といった感じなので、ますます身もだえが。
 こんな本を読むと、「ちびまる子ちゃん」が実に“無害”な漫画だったんだな、と思えます。もちろんそれはそれで良いんですけどね。