【ただいま読書中】

おかだ 外郎という乱読家です。mixiに書いている読書日記を、こちらにも出しています。

1g

2010-08-31 18:56:14 | Weblog
「いちじー」だと地球の重力加速度ですが、「いちぐらむ」だと私は一円玉の重量を思い出します。ところが一万円札の重さも実はほとんど「一枚一グラム」なんだそうです。だったら、強盗をして30㎏をかついで逃げるのなら、1円玉で3万円分よりは1万円札で3億円の方が良いですね。
どちらにしても数十メートル走ったところで息が切れて捕まってしまいそうですが。

【ただいま読書中】『蜻蛉日記』藤原道綱母 著、 柿本奨 校注、 角川書店、1967年(79年14刷)、580円

微妙な歌のやり取りが印象的です。結婚するかどうかや結婚生活が維持できるかどうかは歌のやり取りが真面目なものかどうかとその出来具合によって決定されるのですから、簡単に読み飛ばすことはできません。中でも印象的なやり取りは、妊娠した女性からの「知られねば身をうぐひすのふりいでつゝなきてこそゆけ野にも山にも」(「う」は「身を憂」と「うぐひす」にかかっている。「なきて」は「鳴きて」と「泣きて」。自分の気持ちがわかってもらえないのなら、鳴きながら野山に飛び立つ鴬のように私も泣きながら家を出て行きます)に対して、男(兼家)は「うぐひすのあだにもゆかむ山べにも鳴く声聞かば尋ぬばかりぞ」(なきごえを頼りに探し出すだけ。絶対離さぬ)と返しています。わお。修辞による“真剣勝負”です。
しかし兼家の愛は冷め、「町の小路の女」の所へ通うようになります。このあたりの歌のやり取りは哀愁を帯びています。ただし、作者自身、他の女(たとえば時姫(道長の母))から兼家を奪った“過去”があるのですが(実際には奪えませんでしたが)。ただ、当時の貴族は一夫多妻、彼女の嘆きは痛切ですが、“それ”が常識だと思って育った人は、おそらく独占欲からではない嫉妬心を発動させていたことでしょう。あまり現代風に解釈しない方が良いように思います。
著者の“世界”は「自分の視界」とほぼ一致しているように私には感じられます。日記に取り上げられる題材は、家族と歌、ごくたまの外出(参詣)、それだけと言っても過言ではありません。だからこそ“自分の視野”から夫が消える(他の女の所に通う)ことが「不安の種」になってしまうのでしょう。だから出奔して山寺へ籠っちゃうなんて荒事もしてしまったのでしょうが。
時姫は次々子を生むが自分は息子の道綱一人だけ。実家の家族も次々亡くなり、夫の愛は冷め、文字通り寄る辺ない身の上になろうとする自分の運命を見つめるしかない人生って、どのくらい辛いものでしょうねえ。



皮から作る

2010-08-30 18:34:37 | Weblog
私は子ども時代にギョウザを包むのが好きでした。どうしても大きいのを作りたいけれど、具を入れすぎたら皮がきちんと閉じなくなる、そのぎりぎりの所にチャレンジするのが好きだったのです。その頃は皮は市販のもので調理法は焼きでした。
最近わが家のギョウザは、皮から手作りです。私は皮を伸ばすのは不得手なのでそれは家内や長男に任せますが、できあがったやや厚めで形が不整の皮をいかに上手くまとめて整形するか、にチャレンジするのは面白いことです。家内も昔は市販の皮を使っていたのですが、一度遊びに来た長男の友人の中国人が手みやげに持ってきたのが、彼の家庭での皮から手作りのギョウザ。さっそく作り方を教わってわが家のレシピに加えたのでした。ちなみに調理法は、茹でです。これが美味いんだな。

【ただいま読書中】『サンダー・ポイントの雷鳴』ジャック・ヒギンズ 著、 黒原敏行 訳、 早川書房、1995年、1748円(税別)

プロローグは1945年4月30日、陥落直前のベルリン。そして舞台は一気に1992年アメリカ領ヴァージン諸島へ。ふだん潜る人がいない危険な暗礁「サンダー・ポイント」に僥倖に恵まれて潜ったベイカーは沈没している潜水艦Uボートを発見します。ベイカーが回収した艦長用の防水アタッシュケースには、このU180が、ナチスの最高幹部ボルマンを南米に脱出させる途中であることと、ボルマンが当時の英米でのナチ協力者名簿やウィンザー公のナチスへの協力を確約した文書も持っていることが記載されていました。連絡を受けた英国政府は大騒ぎとなります。大戦時の亡霊が蘇ったのですから。もしもこの名簿などが公表されたら、大スキャンダルです。ところが文書を密かに回収しようと情報部が動き出す直前にベイカーは交通事故で死亡。Uボートの位置がわからなくなってしまいます。
事件の指揮を執るファーガスン准将は、潜水をはじめ各種の特殊技能を持つ元IRAの凄腕テロリスト、ディロンをユーゴスラビアの刑務所から徴用します。政府内部ではその選択に対する反発はすさまじいものでした。さらにどこかから情報が漏れ、文書を狙う別の勢力が蠢動を始めます。戦いの場は、島と海。特に海底が急に深海に落ち込んでいるドロップオフ(Uボートが引っかかっている崖っぷちのような場所)の描写は、読んでいてどきどきします。
しかし「善玉」の間抜けぶりは徹底しています。悪玉がどんな悪辣な手を使うかを承知していながら、“騎士道”ですか?と言いたくなる“正々堂々”の行動ぶりなのです(悪玉の方も、下っ端はそれに輪をかけて間抜けですが)。ディロンは優秀なテロリストだし、それをサポートするのは情報部員なんだから、もうちょっと相手の出方を想像するとか、それに対する対処法を考えておくとか、しませんか? 盗聴器は見つけるくせに、情報交換は回り中に人がいる店の中で大声でやっちゃうし。まあ、善玉が間抜けで悪玉が悪辣だから、海洋でのアクションシーンが際だつわけではありますし最後のカタルシスも大きくなるのでしょうが、その前の犠牲が大きすぎる気がします。
もしハリウッドが本書を映画化するとしたら、元テロリストと元売春婦の純愛ものに……けっこうこれは難しそうですね。見たい気はしますが。
ちなみに、「ウィンザー公」とは、「王冠をかけた恋」のエドワード8世の退位後の称号です。どうもこの退位に関しても、ただ「恋」だけではなくて「親独の姿勢」が問題だった、という説もあるそうです。



ストレス解消

2010-08-28 17:51:56 | Weblog
酒を飲んだり運動をしたくらいで“解消”されてしまうのって、本物の「ストレス」なんでしょうか?

【ただいま読書中】『ギリシア・ローマ盗賊綺譚』塚田孝雄 著、 中央公論新社、2000年、1800円(税別)

古代中国やインドでは、「盗賊」には大した罪悪意識はありませんでした。『今昔物語』には「極(いみじ)き盗人(ぬすびと)」という言葉が頻出しますが、これは泥棒のことではなくて「大した曲者」(剛胆で機転が利く人、一癖も二癖もある人)というどちらかと言えばポジティブな意味です。そして、古代ギリシアやローマでも、事情は似ています。捕まれば罰せられますが、それでも“正当な稼業”の一つ扱いでした。商業の神ヘルメスはハイハイができるようになって最初にやった行為が泥坊(アポロンの牝牛五十頭を盗み出す)でした。婦女誘拐もギリシア神話では日常茶飯事です。
神話ではなくて史実でも、ペルシア戦争に勝って全盛期を迎えたアテナイでは、敵国への侵攻・放火・殺人・掠奪は“正義に基づく行為”でした。(大英帝国(など)の私掠船を私は思い出します) 特に価値のある“商品”は奴隷でした。軍船のこぎ手、鉱山の鉱夫など、奴隷はいくらいても足りなかったのです(どんどん使い捨てにするからでもありますが)。
市井では、掏摸が跋扈していました。江戸時代の日本の掏摸は芸術的とも言える技術を持っていたそうですが、古代ギリシアやローマの掏摸もなかなかです。ただ、現行犯で捕まったら撲殺ですが。あと、追いはぎ・強盗(日干し煉瓦の壁を突き崩して侵入したそうです。荒っぽいなあ)・人攫い・墓荒らし・神殿荒らし・人殺し・毒飼い・掻っ払い・こそ泥(これは微罪)・その他の軽犯罪が本書には並べられています。なおローマでは、撲殺はせずに鉱山に送って奴隷労働だったそうです。
そうそう、ユリウス・カエサルの有名な海賊のエピソード(海賊の人質になったとき、身の代金を自分からせり上げた)が本書にはありません。

どうして「盗賊」が広く行なわれていたかと言えば、自己責任による防衛がきちんとできない方が悪い、ということだったのでしょう。で、ほとんどの貧乏人(や奴隷)は、守るべき私有財産は持っていないから「自己責任による防衛」とは無関係。だけど近代国家では、そういった各人が自分の財産を守る、はエネルギーの無駄が多すぎるから(国としては国民のエネルギーは、生産や“外”に向けたい)、国が「自己責任」の部分を肩代わりするために、警察制度や道徳の確立をしようとした、ということではないでしょうか。



政権交代?

2010-08-27 18:20:25 | Weblog
民主党の代表選で小沢さんが勝ったらこれも一種の政権交代なんでしょうね。
私は民主党員ではないので投票権がありませんが、もしあったら「どちらが勝ったら日本が良くなるか」と同時に「どちらが負けたら日本に悪いことをしそうか」も考慮しながら投票することになりそうです。ところでお二人の「政策の違い」って、すごいんでしょ? 民主党のマニフェストががらりと変わっちゃうのかな?

【ただいま読書中】『闇の女王にささげる歌』ローズマリ・サトクリフ 著、 乾侑美子 訳、 評論社、2002年、1600円(税別)

古代ローマがブリテンに侵攻してきた時期、イギリスの伝説の女王ブーディカはケルトの諸民族を結集して立ち上がりました。ローマから見ればそれは叛乱。ケルトから見たらそれは聖戦。(クレヨンしんちゃんの父親野原ひろしの名言「いいか、しんのすけ。正義の反対は悪なんかじゃないんだ。 正義の反対は「また別の正義」なんだよ」(『大人帝国の逆襲』)を思い出します)
本書の語り手は、“馬の民”イケニ族の女王付きの「竪琴のカドワン」。ブーディカの母に仕え、そしてブーディカにも仕えました。
ブーディカの結婚は、父王の死と同時でした。ブーディカは女王になると同時に、望まない相手との結婚をしなければならなくなったのです。隣に位置するカトゥウェラウニ族がブリテンの覇者となろうとするのとの小競り合いが続く中、ローマ軍団もやってきます。イケニはカトゥウェラウニがローマと戦うのを傍観することにします。結局イケニの民は、税と兵を差し出すかわりに「自由」を得ます。
しかし、ローマは“支配”を強めます。はじめは気づかないほど少しずつ。そして既成事実を積み上げていってから節目節目では強圧的に。武器狩りが行なわれ、武器とともにイケニの民は誇りも失います。次いで、王が死に、ローマはイケニの自由州を廃止しようとします。“馬の民”は女家長制だったのですが、ローマはそれを認めず、男子がいないから跡継ぎはいない、としたのです。イケニは掠奪され女性は辱められ、人々は奴隷として連れ去られます。
ブーディカはローマに対する戦いを決意します。ただ反射的に暴発するのではなく、イケニと同じくローマに支配されている諸部族に結集を呼びかけて、決定的な戦いを起こそうと。カドワンは約束します。「女王の勝利の歌を、作ってさしあげますよ」と。悲しみを込めて。その結びがどうなるにせよ、その歌は「闇の女王」のために作られるにちがいないのですから。
かつては仇敵同士だった者たちも、「反ローマ」で結集します。不意を打たれたローマ側は、勇敢に戦いますが、トリノヴァンテス族の首都カムロドゥヌムは二日で陥落します。次の標的はロンディニウム(今のローマ)。ローマ軍はそこでも敗れ、ロンディニウムは焼け野原になります(今でもロンドンを掘ったらその時の灰の層が発掘できるそうです)。そして最後の決戦。結果がどうなったかは歴史が語っているのですが。
本書は短めで、ストーリーも淡々と進みます。ただ、「ローマ人の視点」もさりげなく混ぜられ、さらに読んでいる内に著者の「ローマ・ブリテン三(四)部作」が私の脳内で共鳴し始め、そこに『ローマ人の物語』(塩野七生)までが一緒になって騒ぎ始めるのですから、物語世界がどんどん膨らんできて、幸福感に私は包まれます。
著者は述べます。「部族の考え方(女家長制)からするなら、女王と姫たちへのローマ人のあつかいは、単に残忍で粗野だというだけではなく、もっと悪い、命そのものへの冒瀆、ということになります。また、そのあとに起こったことも、部族の蜂起から、聖戦へと変わります。そうして、聖戦ほど、あらゆる戦いの中でもっとも残虐で無慈悲な戦いはありません」。古代について述べただけではなくて、現代にも通じる重い言葉です。さらに著者が女性であることも本書では重要なファクターとして効いているように私には感じられます。少なくとも男には、こういった語り口は無理でしょう。



円高・株安

2010-08-26 18:40:50 | Weblog
最近円高と株安が進行しています。円が高くなると言うことは世界から見て「円」に買いたくなる(絶対的なものではなくて相対的なものでも)魅力があるということです。しかし株価が安くなると言うことは、日本経済は高い評価を与えられていないと言うことです。だったら円を買っている人は結局日本の何を買っているのでしょう?

【ただいま読書中】『イエズス会士中国書簡集(2)雍正編』矢沢利彦 編訳、 平凡社(東洋文庫190)、1971年

本書では雍正(ようせい)時代の蘇努(すぬ)一族迫害事件が主に述べられます。
第一書簡は1724年北京のド・マイヤーが書いたものです。福建省の教会で、男女が混合して集会を持っていることと若い娘が童貞を守る(結婚を禁じられる)ことが求められること、が「風紀紊乱である」と咎められ「キリスト教は禁止するべきだ」という上奏文が皇帝に提出されたのです。教会側は巻き返し運動を始めます。公式のルートから上奏文を出すだけではなくて、宮廷内の有力者のコネを使ったり役人を買収したりして、皇帝の目に触れる文書が自分たちにとって有利なものになるように工作します。その甲斐あって皇帝から直々に好意的な言葉を頂きますが、それは実は“プロローグ”でしかありませんでした。
雍正帝は清の第五代皇帝でしたが、本書によれば当時初代皇帝の血を引く公子は2000人いたそうです。当然権力闘争は熾烈だったことでしょう。雍正帝自身、皇位継承についてはよからぬ噂が囁かれていました。そこで行なわれるのが、弾圧です。皇位継承のライバルになりそうな自分の弟二人を「犬」「豚」と改名させて監禁しています(それでも呂后の「人豚」よりははるかにマシですが)。
教会は、宮廷でも大きな勢力を誇る蘇努一族を着々と取り込んでいました。長老の蘇努は、一族の動きに一定の理解を示しつつも、皇帝の目をはばかって自らは入信しようとはしませんでしたが、公子たちは次々と入信します。それは宮廷の中ではひどく人目を引く行為でした。
蘇努は突然「罪」を問われます。まずは「祖先の罪」。次が蘇努自身の行為ですが、かつて先帝が皇太子を廃嫡して新しい皇太子を撰ぶときの投票で第八皇子に投票したこと(実はこのときの投票は満場一致だったのですが)。さらに、皇帝が気に入らない人物が死去したとき弔問の使者を送ったこと。もう無理矢理の難癖です。
私は織田信長が佐久間信盛に突然突きつけた十七箇条の問責を思い起こします。ここで問われているのは、文書上の罪責ではないな、と。
実際、一族がキリスト教に入信しようとしていたことが、迫害の理由でした。ただし「宗教」を迫害の理由にするのは「文化国家」の皇帝にはふさわしいことではありません。そこでまずは“大きな罪”を問い、ついで、上奏文中の批判の言葉や日付の殴り書きなどを「不敬」として、叛乱罪を適用、男系子孫には次々死刑や永久監禁が言い渡されたのです。なんとも“権力者のやり口”ですな。



送電線

2010-08-25 18:39:35 | Weblog
エンジン付きのパラグライダーで低空飛行をしながらビデオを撮影する人の作品を時々見ますが、私が見たその人への取材番組では、まず地上からルートを観察して撮影プランを作ると同時に、障害物をチェックしていました。特にその人が気にしていたのは電線です。たとえば川を撮影するときには、川を横切る電線の有無とその高さをすべて頭に入れておいて、それからテイクオフをしていました。
瀬戸内海であった、ヘリコプターが送電線に引っかかって墜落した事故で、マスコミは「飛行の目的を隠蔽していた」とかを問題視していますが、そもそもヘリコプターの飛行計画検討の時点で「高圧線」の位置を確認していなかったのか、はどうして問題にしていないのでしょう。この前見たニュースでも「送電線が見えにくい」「鉄塔の障害灯が見えにくい」と「目視するのが原則」という態度でした。だけど、地図を見たら書いてありますよ。もちろん地図を丸々信じるのではなくて目視監視は必要ですが、最低地図で予備知識を入れておくものでは?
それと、送電線が切れたことで、どんな損害が発生しているのか、も私はニュースで見た覚えがありません(やっていたけれど私が見ていないだけかもしれませんが)。その損害についてもきちんと調査と報道をして欲しいものです。もしも「送電線は切れても誰も困らない」のだったら、その送電線はもうなくしちゃっても良いわけですから。

【ただいま読書中】『まっ白な嘘』フレデリック・ブラウン 著、 中村保男 訳、 創元推理文庫1962年(98年43刷)、560円(税別)

雪で覆われた草原、二組の足あとがその中心部に向かいその先に男が一人死体となって倒れていた。しかし、そこからよそに向かっていく足あとはなかった(一組は死んでいた男のもの、ではもう一組は?)、というお話「笑う肉屋」から何とも奇妙なスリラーというかホラーというか叙述トリックというか、のお話「うしろを見るな」まで、全17編の推理短編(あるいはショートショート)集です。本書での私の一番のお気に入りは、中学か高校生の時に読んだときには、意味論を扱った「叫べ、沈黙よ」でしたが、今日読んだら「メリー・ゴー・ラウンド」の方が気に入りました。年を取ったら涙もろくなったのかな。叙情的なお話が今の気分にはぴったりなのです。もちろん「叫べ、沈黙よ」も今でも好きですけど。(なお、「叫べ、沈黙よ」では「誰もいない山中で大木が倒れたら、そこで『倒れる音』は存在するのか」から話が始まって「誰かいたらどうか」「その誰かの耳が聞こえなかったらどうか」「その誰かの耳が聞こえるか聞こえないかわからなかったらどうか」と話がどんどん転がっていきます。で、ちゃんと殺人事件に結びつくのですから、著者の頭の中はどうなっているのか、と思えます)
著者のエド・ハンター・シリーズも一応全部持っているはずなのですが、どこにやったかなあ。もし見つかったら再読したくなりました。




穢れ

2010-08-24 19:00:05 | Weblog
日本の神道では「穢れ」の概念が重要ですが、キリスト教でもそれに似たものがあるように感じます。たとえば「ソドムとゴモラ」のようなもの。あれ、明らかに「穢れた地域」ですよね。ただその「穢れ」が「人間の行為」というところがユニークですが(日本人からみてユニークです)。ただ、「行為」を発生させる元は「魂」とすれば、「人間の行為によって発生した穢れ」はつまりは「人間の魂の穢れ」とも言えそうです。人の発想って、やっぱり似ているのかな?

【ただいま読書中】『中世の幽霊 ──西欧社会における生者と死者』ジャン=クロード・シュミット 著、 小林宣子 訳、 みすず書房、2010年、6000円(税別)

著者は、中世の死者記念の社会的機能を扱うと同時に、それが実は死者を忘却するための仕掛けだったのではないか、と述べます。そもそも中世の幽霊譚の多くは、俗語で口承されたものが聖職者によってラテン語で書き留められたものです。その文化的意味はどのようなものだろう、と著者は疑問を提起します。
中世初期の教会文化では、「死者が夢の中に戻ってくること」は頑なに否定されました。それは異教の残渣と見なされたのです。ただし、聖人の墓所で眠りについて聖人が夢の中に現われることを期待する「聖所参籠」の儀式は黙認されていました。それは実に“異教的”な行為だったのですが。アウグスティヌスは、幽霊を「霊的視像」とし、天使(良い天使か堕天使)によって魂の眼前に運ばれてくるものとしました。
中世初期には、「神、聖人、天使の顕現」と「悪魔、悪霊の出現」に挟まれて、幽霊の出現のスペースはあまりありませんでした。ただ、聖人は邪悪な霊を祓うことがその機能の一つだったため、それは記録に残されます。やがて不吉な死者の霊と悪霊は同一視をされるようになってきます。
11世紀に事情が変わります。幽霊を扱った自伝的な話が登場し始めたのです。これによって現代の我々は中世の精神的な態度について(可能な限りではありますが)精細に検討することができるようになりました。それらは最初は修道士や聖職者によって書かれましたが、13世紀以降には(教養ある)一般信徒も書くようになります。12世紀ルネサンスによって「中世」は知的な意味で変質した、と私は捉えていましたが、実はその前から“準備”はできていた、ということのようです。さらにそれが印刷術を受け入れるための“準備”になっているわけです。
こうして大量に登場した幽霊譚を著者は「奇跡譚」(聖堂や聖人の奇跡的なできごと)、「驚異譚」(自然界や人間の驚異的な現象)、「教訓例話」(超自然的な話から一般的な教訓を導き出す)、と大ざっぱに分類しています。私は、仏教説話から落語が生まれたことを思い出しながらこの章を読みます。
13世紀は、「話し言葉」が増加した世紀でもありました。町の人口が増え、議会や法廷での論争が増え、市場では価格交渉が盛んに行なわれ、大学での討論や説教壇での活動も盛んになります。俗語での口承からラテン語によって書き留められてきた幽霊譚は、こんどはラテン語の文献から口承にまた質的および量的転化をすることになります。
13世紀には「幽霊の絵」も増え始めます。それまでの説話では、死者も生者と同じ服装で一見したら区別がつかなかったのですが、これらの絵では、幽霊は裸足だったり衣服の裾をからげて脛をむき出しにしたり、あるいは長い裾で足を隠したりすることで、生者と区別されています。足がぼやけている日本の幽霊のことも私は思い出します。
しかし、中世初期の死者は、生者の夢に出てきても「自分のためにミサを執り行ってくれ」とか求めるわけで、それは教会にとっては都合の良い話だったことでしょう。ただ、問題は「死者が生者の夢に出る」ことそのものが非キリスト教的だったこと。たとえ夢の中であっても「死者が蘇る」ことはそう簡単にあってはならないのですから。
さらに生者と死者をきちんと区別することによって、「死者を蘇らせること」と同時に「死者を死者として文化的に“片付ける”こと」が可能になります。死者のことを安全に思い出し、そして安全に忘れることができるような文化装置として「幽霊」を使うことが可能になったのです。
「死者」とは「生者」の存在が前提となっています。これは、「生者」が死ななければ「死者」が発生しない、ということを意味するだけではなくて、もう一つ、「死者」を思い出すのは「生者」だ、ということも意味しています。そもそも、もしも幽霊がこの世に出てきたとしてもそれを認識できる「生者」がそこに存在しなければその幽霊は出てこなかったのと同じになってしまいます。ですから(あの世のことは知りませんが)少なくとも「この世での死者の問題」はつまりは「この世での生者の問題」と同義です。



地獄の責め苦

2010-08-23 18:58:00 | Weblog
「悪いことをしたら地獄に落とされるぞ」は、仏教でもキリスト教でも聞いたことがあります。ただ、仏教の方はともかく、キリスト教の場合には悪人に地獄はそんなに悪い場所なのでしょうか。『失楽園』によれば、地獄は悪魔(あるいは堕天使)の“場”です。ということは「反・神」の根城。そんなところに悪人(=神の教えに反した人間)がやって来たら、悪魔は虐めるどころか「おお、同志よ」と歓迎して、将来のハルマゲドンでの戦線形成に努めるのではないでしょうか。「味方の戦力」を虐め殺すほど悪魔は頭が悪くはないと思いますよ。

【ただいま読書中】『オペレーション外宇宙』マレイ・ラインスター 著、 野田昌宏 訳、 早川書房、1969年

1954年(昭和29年)の作品です。日本ではNHKのほかにNTVが開局したばかりでテレビ受像器はまだ15万台。アメリカでもやっとカラー放送が始まったばかりの時でした。
地球が人口爆発でぎゅう詰めとなっている時代、人気テレビ番組のプロデューサー、ジェッド・コクランは急に月出張を命じられます。使命は、社の重役の娘婿ダブニーの欲求不満(世界的な名声を得たい)を解決すること。ダブニーはなんと超光速の通信手段を開発したというのです。コクランは派手な宣伝を思いつきますが、話は意外な展開を見せ、“ビジネス”としての恒星間宇宙旅行開発計画が転がり始めます。原理は“簡単”です。ダブニー場によって宇宙船周囲の空間を変化させてその中を飛行すれば、外からは速度が光速を越えていくらでも増加させることが可能。アインシュタインも真っ青です。
しかし「“テレビ屋”がプロデュースする世界初の恒星間宇宙飛行」ですよ。訳者は大笑いしながら翻訳をしていたのではないでしょうか。それともこの時にはまだテレビ屋ではなかったのかな。
とりあえず当てずっぽうで月面を出発した宇宙船は、とんでもないスピードだったため、宇宙の迷子になってしまいます。ただ、超光速の通信手段を持っていたため、撮った写真を地球で解析してもらって現在位置がわかります。地球から178.3光年の地点、というか宙点。コクランは宇宙からの生中継を開始します。もちろん「スポンサー契約」をすませてから、ですが。彼はこの宇宙飛行で一山当てるつもりなのです。それも、とてつもなく大きな「山」を。
新しい惑星に着陸した彼らが発見したのは、すでに地球では失われた「大自然」でした。私個人としては、このあとの惑星めぐりはもう付け足しです。商業主義での宇宙開発、スポンサーをいかに獲得するか、「宇宙の映像」がいかに地球上の人に受けるか、などだけでも私は十分“満腹”です。アポロ11号の時、全世界の人がテレビに釘付けになったのは1969年のことですが、その時地球を覆った“ムード”を予言した本と言っても良いでしょう。



籠の鳥

2010-08-22 18:18:57 | Weblog
籠の鳥が可哀想だと放してやりたくなることがあります。放鳥は仏教的には褒められる行為でもあります。しかし、自活(営巣やエサの取り方)と自衛(猛禽類や悪天候などからの身の守り方)をしっかり訓練せずに鳥を籠から大空に放つのは、鳥に対して無責任な態度でしょう。

【ただいま読書中】『お医者さんのながいながい話』カレル・チャペック 著、 関美穂子 絵、関沢明子 訳、 フェリシモ出版、2008年、1333円(税別)

周りの人々に恐れられていた魔法使いヘイショヴィナのマギアーシがのどにプラムを詰めて大変なことになりました。弟子のヴィンツェクは大急ぎで医者を呼びます。駆けつけたフロノフの医者は、様子を見て、ふだん周囲に迷惑ばかりかけている魔法使いに対する悪戯を思いつきます。手術が必要だと魔法使いを脅し、その“助手”として3人の医者を集めるように命じたのです。
人手が揃うまで、フロノフの医者は「お話」を始めます。瀕死の重傷となったお姫様を救うために、医者のかわりに連れてこられて木こりが、いかにしてお姫様を救ったか、のお話を。
集まった3人の医者も、それぞれのお話を語り始めます。人を脅かすことが大好きな森のお化けが声が出なくなってしまったのを、どうやって治療したか。リウマチで冷たい水につかれなくなった河童のためにどのような治療を思いついたか。ヨーロッパでは絶滅寸前となっている妖精が脚を骨折、その治療での苦心譚とその後の妖精の身の振り方をどうしてやったか。
で、こういった「ながいながい話」が終わったら、やっとマギアーシの「治療」です。さあ、医者が4人がかりで、魔法使いののどに詰まったプラムだかプラムの種だかに対して、どんな「手術」をするのでしょうか。
いやもう、ちょっと変わったユーモアが満ちあふれた絵本で、大人も十分楽しめます。短めの「長い話」を読みたくなったら本書のことを思い出して下さい。




ツイッター

2010-08-21 13:51:04 | Weblog
twiceはトゥワイスなのに、twitterはツイッターなんですね。
ともあれ始めてみました。息子がやっているのを見ていると、まるで昔のチャットのような使い方をしている場面があって驚きました。ただ、チャットと違うのは、フォローとかリツイートがないと全体の発言をすべて拾うことができないこと(できるのかもしれませんが、私も息子もまだ初心者なのでやり方がわかりません)。ぼちぼち呟き始めてはみましたが、息子も父親にフォローされているとは、気の毒なことです。

【ただいま読書中】『襲いくるウイルスHHV-6 ──体内に潜む見えない侵入者を追う』ニコラス・レガシュ 著、 二階堂行彦 訳、 ニュートンプレス、2000年、2800円(税別)

1987年にNCI(米国国立がん研究所)では、エイズ患者が特にかかりやすいB細胞(抗体産生を担当)のリンパ腫の誘因となるHBLV(ヒトB細胞リンパ腫ウイルス)を分離しました。すぐにそれは新種のヘルペスウイルスで、T4細胞なども標的にすることがわかり、HHVー6(ヒトヘルペスウイルス6型)と命名されました。翌年(HIV発見論争で有名な)ロバート・ギャロは、HHVー6が試験管の中ではHIVより効率的にT4細胞を殺すことを述べ、このウイルスがエイズの「共同因子」であることを示唆しますが、のちに「反HIV派(エイズの原因はHIVではない、と主張する人たち)」から「共同因子が必要ということは、HIVがエイズの“原因”ではない、ということだ」と言われて、ギャロは自分の主張を取り下げます。
1980年代後半、「HIVがエイズの原因か」に関して激烈な論争が行なわれていました。高名な学者デューズバーグは、ギャロを批判して「HIVが免疫不全を引きおこすのではなくて、免疫不全になったからHIVなどの本来無害なレトロウイルスの反応が誘発される」と主張しました(もっと極端に、HIVの存在そのものに疑問を投げかける意見さえありました)。そしてギャロたちはそれに対して有効な反論ができない状態でした。当時「HIVが免疫細胞を殺している証拠」は誰も持っていなかったのですから。しかし、HHVー6が免疫細胞を殺している証拠はいくらでもあったのです。
ヘルペスウイルスは、感染が治癒した後も体内に潜伏してしばらく経ってから再活性化することがあります(その代表が帯状疱疹)。ならば多くの人が体内に持っているHHVー6も、再活性化することがあるのでしょうか。
本書の“主人公”は、ウィスコンシン医科大学ウイルス診断学研究所所長のキャリガンとその共同研究者、ノックスです。彼らは何らかの免疫力低下をきっかけとしてHHVー6が再活性化し、体内でたくさんの臓器を標的に暴れまくるのではないか、という仮説を立てます。
二人の“旅”は“ドラマ”ですが、ノックス自身もまた「ドラマ」の持ち主です。もともとはキャリガンに雇われた検査技師だったのですがその能力を買われて研究室で抜擢され、大学院に行って学位を取って公式な共同研究者になり、さらにキャリガンが欠いているプレゼンテーション能力を生かして補助金を獲得したり講演旅行をしたり、の人生になっています(ついでですが、五児の母でもあります。で、金集めなどで研究の時間が減らされるのが苦痛でしかたない様子)。
しかし、キャリガンたちの研究は、学界からは無視されました。「エイズの原因は、HIV」というドグマが1990年代に確立し、それに異議を申し立てる研究には補助金がつかなかったのです。さらにヘルペスウイルス自体がありふれたウイルスであるため、それに対する新たな研究にも補助金はつきませんでした。
「偶然の出会い」によって、キャリガンとノックスは、多発性硬化症患者や慢性疲労症候群患者の体内でもHHVー6の活性が高まっている(それらの病気ではない患者では高まっていない)ことを明らかにしますが、結局彼らは大学から追放されました。二人は間借りで私立の研究所を立ち上げ、研究を続けます。それは同時に、生き残りのための戦いでもありました。学者としての生き残りのために研究成果を出さなければならず、そのためには資金を集めなければならず、そのためには実績を示さなければならず、でもそのためには資金が必要で……科学の進歩って、ほんとに大変です。