先週パソコンが壊れ、運の悪いことに仕事が忙しくて買いに行ったり予備機を復活させることもできず、そうこうしていたらさらに運の悪いことにバックアップに使っていた外付けハードディスクも壊れてしまいました。家族にも病人がいるのでどたばたしています。おかげで通信を含めて環境を復元するのに忙しくて、本を読む暇がありません。
それでもぼちぼちとは読んでいるし、この週末に手動でパソコン環境はほぼ使えるレベルに復活したので、ふんわりと読書日記にも戻ってきました。当面は以前のようなペースでは書けないでしょうが、温かい目で見守ってくださったら幸いです。
【ただいま読書中】『星を継ぐもの(1)』星野之宣 作、J・P・ホーガン 原作、小学館、2011年、1238円(税別)
あまりに有名な作品の漫画化です。なんで今頃?とも思いますが。
月面の洞窟で発見された宇宙服姿の死体。ただし「彼」が生きていたのは5万年前。形態的にはあきらかに「人類」ですが、DNAを検査する前になぜか死体は燃え尽きてしまいます。
それとほぼ同時に、木星の第三衛星ガニメデで、100万年前の宇宙船が発見されます。
太陽系の過去はいったいどうなっていたのか? 小惑星帯を形成することになった「惑星ミネルヴァ」は、なぜどうやって破壊されたのか。そもそも現生人類の祖先は、いったい「誰」なのか。そもそも「月」の正体はいったい何なのか。
今読んでもわくわくします。
ただ、ストーリーにはいろいろと“瑕疵”も見えます。「科学」の点ではいろいろ問題が感じられるのです。
本書は、「ハードSF」ではなくて「ハードSFという“宇宙服”を身にまとったミステリー」として読むのが、“正しい”読み方なのかもしれません。星野さんがそういう読み方をしているのか、それともハードSFとして読者に読ませたいのか、最終巻まで読まないとわからないのかもしれませんから、ここで結論を出すのは留保します。
政治・経済・軍事・外交が“他者”によって支配されている地域、と定義したら、たとえば沖縄県は東京の植民地、と言うことも可能になります? 少なくとも地方“自治”は悲しいくらいの状態ですよね。
【ただいま読書中】『外天楼』石黒正数 作、講談社、2011年(12年6刷)、700円(税別)
中学生のエロ本あさり、宇宙刑事、そして、殺人事件。ロボットも人工生命体も実用化されていて、それなのに昭和の臭いが漂うというちょっと不思議な世界を舞台にしたマンガの連作短篇集のようですが、途中から破天荒な女刑事が出現して殺人事件の捜査を始めるところから、全体に一本スジが通ってきます。
天馬博士、もとい、鬼口博士は人工生命体の研究に没頭し、その結果生まれたのは……
不条理なドタバタになるぎりぎりで「何か」とたわむれていたマンガが、最後に一皮剝けてその「何か」が現われた瞬間、魂が浮遊する感覚とともに「別の何か」に変貌してしまいます。
いやあ、ショックだわ。
これは、小説でも映画でも味わえないものを読者に投下してくれるマンガです。一読の価値あり。
ファミレスで、カップルがお互いにスマホを見つめるだけで全然会話をしていない、ということを問題視している書き込みがネットにありました。
そういえば10年くらい前にはやはりファミレスで、カップルがどちらも携帯電話をいじっているだけで全然会話をしていないのを見たことがありましたっけ。
さらにそういえば、30~40年くらい前には喫茶店でアベックが、どちらもマンガを読んでいて全然会話をしていないのを見たこともあります。
やってることは似ているけれど、手に持つものは確実に進歩していますね。
ところでいちばん最初の書き込み、それもそのファミレスでスマホを使ってだったりして。で、その人の目の前には……
【ただいま読書中】『ファスト風土化する日本 ──郊外化とその病理』三浦展 著、 洋泉社、2004年(05年2刷)、760円(税別)
日本全土で「郊外化」が進行しています。どこに行っても同じようなチェーン店が並び、車がないと住みにくい社会ですが、郊外には郊外特有の問題があります。著者が指摘するのは、故郷喪失(様々な地域出身者が混在)、共同性の欠如、均質性(年齢や収入レベルや家族構成が似た人たちが集まる)、均質性ゆえの競争の激しさ(小さな差でも大きく感じられるから子供の学歴競争が激しくなる)、子供の社会化の阻害(大人の働く姿を目撃することがない、子供だけで遊ぶ機会が減少)…… もちろんそれは「郊外」だけの問題ではないのですが、郊外に「日本の問題」が先鋭的に現われる、と著者は考えています。
都会と田舎の大きな違いは「匿名性」の有無でした。しかし今は田舎も、インターネット・携帯電話・自動車などで人々は匿名性を獲得しています。それによって、それまで都市部で起きていた犯罪が地方でも起きるようになる、という現象が生じました。21世紀になって「連れ去り事件」が各地で起きました。そう言った場合「ロリコン」とか「アニメやゲームマニア」といった「個人」が注目されますが、著者は「地域」にも注目するべきだ、と主張しています。
さらに各地の犯罪現場を訪問した著者は、多くの場所に「ジャスコ」が出店していることに注目します。イオンの戦略は、弱ってきた地域に出店、です。雇用を創出するから地域では歓迎されますが、利益をどっと持っていくため地元の商店はばたばた倒れ、地域はさらに弱体化します。そして「郊外化」は加速し、人々と地域の匿名性は高まります。
もっともジャスコが犯罪を起こしているわけではありません。ジャスコは日本中どこにでもあるのですから、犯罪現場の近くにジャスコがあるのは当然です。著者が問題にするのは「郊外化(ファスト風土化)」です。ジャスコはそのシンボル。
「ファスト風土化」の“祖”は「日本列島改造論」です。都市と農村の格差をなくそうという大義名分によって公共事業があきれるほど行なわれ、大義名分は大平正芳の「田園都市構想」へと受け継がれます。日本中に中規模の「田園都市」を散りばめようという大変美しい構想です。ところがここで上げられている「家庭機能の外部化」の具体例が「ファミリー・レストラン」「クイック食品(インスタントや中食やファーストフード?)」…… 「田園都市」の構想は美しいものですが、それを「経済」に落とし込んで大量生産しようとするところに無理があるように感じられます。
さらにアメリカの構造協議がその後押しをします。著者はそれを「アメリカへの援助交際」と呼び、「自主憲法制定を叫ぶ政治家が地元に道路を建設したがるのは道理が通らぬ」と指摘しています。
資本主義社会では「消費者が王様」です。では実際に消費がどうなっているかと言えば、著者は興味深い表を提示します。各都道府県庁所在地と政令指定都市での年間家計消費支出額の比較です。1980年までは東京がトップでしたが、以後はどんどんその位置が低下し、地方都市がのし上がってきているのです。つまり、地方では消費行動が盛ん、つまり、東京を見習って消費社会化しているのです。そしてそこで育っているのが「消費しかできない子供たち」でした。
米語しか使えず海外旅行の経験もない「アホでマヌケなアメリカ人」(マイケル・ムーア)と、地方の生活で満足してしまっている日本人とが“相似”ではないか、と著者は危惧しています。そして「アホでマヌケなアメリカ人」が他国を平気で爆撃できるように、日本人もプチナショナリズムに走るのではないか、とも。
本書の最初のあたりの「犯罪」のところでは牽強付会が目立つなあ、と私は感じていましたが、後半にはいると頷かされるところが増えて驚きました。「日本の病理」の一面を本書は見事に切り取っているようです。さて、ではどうしたら良いのでしょう? ファーストフードだったら「食べない」という選択ができます。では「ファスト風土」に対しては? 「ジャスコに行かない」ではなさそうですが……
「労働組合の活動家」というのもすでに死語になったかもしれません。
前世紀からの流れを見ると、政府に露骨に楯突いていた国労・日教組つぶしはみごとに成功し、現在政府が取り組んでいるのが地方公務員の自治労つぶしですね。こちらも着々と進歩がみられるようです。ところでそういった作業を熱心に遂行した国家公務員の組合は、いつ潰されるのでしょう?
【ただいま読書中】『水軍の日本史(上)』佐藤和夫 著、 原書房、2012年、3200円(税別)
記紀には、神武天皇・日本武尊・神功皇后など「海路を用いての戦い」が頻繁に登場します。
大化の改新前、日本各地に海人の氏族集団が存在していました。たとえば「海部(かいふ、あまべ)」という地名は全国に多くありますが、それは海人が集中して住んでいた地だそうです。吉備氏、物部氏、紀氏なども大和朝廷では水軍豪族でした。
唐と新羅に圧迫された百済を救援するために中大兄皇子が派遣したのは、陸軍27000、水軍10000の大軍でした。しかし白村江の戦いで大敗北。日本は百済の滅亡を座視し守りに入ります。これは私の想像ですが、動員されて大損害を受けた水軍豪族には、朝廷に反感を持つようになったものも多かったのではないでしょうか。ところで興味深いのは、日本が新羅を恐れているのに同時に「蕃国」と侮っていることで、これは「小帝国の思想」と呼ばれるそうです。新羅は新羅で、日本だけではなくて、唐や渤海との外交関係を安定化させる必要があって大変でした。唐は安禄山の乱などで疲弊し、新羅も王位の継承争いで乱れます。日本でも道鏡が出てきたりします。そういった時代を背景に「海賊」が登場します。
9世紀には新羅海賊が“活躍”します。活動の焦点となったのは対馬です。ここを本拠地にできたら、活動がとてもやりやすくなりますから。当然日本の海賊もそれに対抗します。日本海だけではなくて瀬戸内海でも海賊が盛んに活動するようになりました。朝廷は追討の命令を何回も出しますが国司は海賊退治には不熱心で、業を煮やした朝廷はとうとう俘囚や浪人を集めての「水軍」を結成するほどでした。10世紀には、海賊は地方豪族化し、朝廷側の地方豪族も軍として組織されるようになります。そこに藤原純友の乱が起きます。
純友の“乱”は失敗に終わりましたが、朝廷の海賊対策は「鎮圧」ではなくて「体制への組み込み」となりました。まともに戦っても勝ち目がないからでしょう。その集大成が平氏による「水軍」です。もちろん源氏の側にも水軍がありますが、その主力は伊豆~三浦~房総です。都を落ちた平氏軍は、水島海戦で木曾義仲軍を散々に討ちます。瀬戸内海は、平氏側と寝返って源氏につこうとする海賊たちとで、乱れに乱れることになります。一ノ谷にしても屋島にしても、源氏は陸戦を敢行しますが、同時に梶原景時は淡路島で水軍の整備も進めていました。瀬戸内海航路を平氏が押さえている限りその勢いは弱まらないのです。
このあたりの源平合戦の記述は「海から見た平家物語」となっていて、新鮮です。新しい視点を得ることができました。
子供が生まれたときに名前の画数を数えることに夢中になる人は、戒名でも当然画数を数えるんですよね?
【ただいま読書中】『家族葬のつくり方 ──52の心に残るお見送り』平本百合子 著、 長崎出版、2012年、1600円(税別)
高齢社会では、お葬式に「呼ぶ側」も「呼ばれる側」も高齢者が主力となります。するとこれまでの通例の大々的な葬儀は少しずつ困難になります。著者は「スタッフは全員女性の家族葬専門の葬儀社」の設立者です。単に「安くて手軽なお葬式」ではなくて、「死者と家族のための手作りのお葬式」をオーダーメイドで組み立てているのだそうです。ですから、本書に登場する“ケース”は、すべて異なっています。死者の思い・遺族の思い・家族構成・式次第などすべてばらばら。それは当然ですね。家族の数だけ家族があるのですから。「パック」だの「セット」だので家族の思いをまとめることは難しいはずなのですから。
家族が亡くなったとき、まず決めるのは「どこに遺体を安置するか」。著者の会社では、遺族はまずそれだけを決めればよいそうです。次にやるべき事は「死亡診断書のコピー」。うっかりコピーを取らずに原本を提出したら、あとでいろいろ面倒だそうです。こういったきわめて具体的なアドバイスがあるのは、やはり「現場」で仕事をしている人ならではですね。
本書に書かれているのは、それぞれに印象的ですが、「無理難題」に柔らかく挑戦する姿勢に好感が持てます。たとえば「家族葬を強く希望する会社経営者」の場合。本人は家族水入らずのお見送りをしてもらうことを希望し、家族もそれをかなえてやりたい。しかし都心で手広く事業をやっている社会的地位から、会社関係や顧問先にお知らせをしないわけにはいかない、と悩む喪主。さて、どうやったら本人(もう死んでますが)・家族・会葬者すべてが満足感を得ることができるお葬式ができるでしょうか。著者が提案したのは……
「無宗教の葬儀を望む本人」vs「勝手な葬儀をしたら成仏できないぞ、の地方の親戚」の場合には、間にはさまった喪主の娘さんが悩んでしまいます。あるいは「身内だけの見送りを望む本人」vs「論外! きちんと式らしい指揮をするべきだ、の親戚」では、間にはさまった喪主の奥さんが悩みます。こういった場合の著者の姿勢の根本は「故人を大切にする」に尽きるようですが、それにしてもこれだけ細やかな心遣いをしてもらえたら、少々の不満など吹っ飛んでしまうだろうな、とも思えます。
しかしこの会社のシステムはなかなかユニークです。本人が生前に「家族葬ノート」を作って自分の希望を整理しておくし、通夜振る舞いの料理の試食会にも「本人」が参加して味見をしています。そして「この味だったら、大丈夫。孫には『お祖母ちゃんが死んだら美味しいものが食べられるからね』と言ってやります」と言う人も。いや、ここは笑うところ?
多神教だと男神も女神も存在していますが、一神教の「神」って、なんだかとっても男性的ではありません? 女神の一神教というのは、ないのでしょうか。
【ただいま読書中】『日本人の死生観 ──蛇信仰の視座から』吉野裕子 著、 講談社(講談社現代新書675)、1982年、420円
四肢がないのに地上も水中も移動でき、男根に似た形で、脱皮をする「蛇」は不思議な動物で、古来各地で信仰の対象となっていました。エジプトではコブラが信仰の対象となっていました。インドでもコブラがナーガに神霊化しています(「脱皮」が「永生」「復活」「浄化」のシンボルとされました)。メキシコには蛇神ケツアルコアトル(マヤ語でククルカン)。中国では人面蛇身の夫婦の蛇神、伏犠と女媧。中国では蛇は妖怪でもありましたが、蛇の出現は吉兆でもありました。
さて、日本です。縄文中期土器の特色は「蛇の造型」です。土偶の女性の頭部にはマムシそのものが巻きつけられています。マムシの場合には、蛇一般の特性にプラスして「毒」がありますから、さらに畏怖の念を持って見つめられていたことでしょう。弥生時代には土器から「蛇」は姿を消しますが、米を食べる鼠を退治する蛇にはやはり特殊な思いを人は持っていたはずです。
本書で著者は「日本の神は蛇である」という仮説を元に、日本人の死生観を問い直そうとします。
日本各地には二種類の産着を用いる風習がありました。生後数日(三日~七日)はボロ布などで手足を包み込んで棒のようにし、その後きれいな産着を着せて手足をのびのびとさせる用にする、という風習です。これを著者は「人は蛇として生まれ、脱皮をして人になる」と解釈しています。
次に「殯(もがり)」。これを著者は古語の「身(む)」+「離(か)れ」と見ます。死後、骨から「身」が腐って離れていく(骨神が浄化される)期間である、と。古代中国で殯が3年間であったことや、沖縄での洗骨の風習のことなどを私は想起しますが、たしかにそれは同時に「遺体が脱皮する過程」と見ることが可能なのかもしれません。
著者は日本での死の儀式に様々な「蛇」を読み取ります。ちょっと読み過ぎではないか、と思う部分もありますが(注連縄が絡み合って交尾する蛇の姿、というのはわかる気がしますが、箒もまた蛇神のシンボルというのはなんだか無理があるように思えます)、それでもかつて「蛇」が日本人にとってとても重要な精神的なパーツであったことは間違いないとは思えます。古代の日本人って、どんな世界観で生きていたんだろう、と思いますが、少なくとも私はそこでは生きることはできないだろうな、とも思います。蛇信仰があまり魅力的とは思えませんので。
ルイ・ヴィトンの歯ブラシ、マイクロソフトの練り歯磨き、アップルのアップルパイ
【ただいま読書中】『ルーヴル美術館の闘い ──グラン・ルーヴル誕生をめぐる攻防』ジャック・ラング 著、 塩谷敬 訳、 未来社、2013年、2500円(税別)
全13章+終章の構成ですが、タイトルを見るとまるで戦史もののようです。「作戦と戦闘前夜」(第3章)、「ピラミッドの闘い」(4章)、「考古学上の発掘調査戦争」(5章)、「リヴォリの闘い」(6章)、「グラン・ルーヴル最初の勝利」(7章)、「チュイルリの奪回」(8章)、「美術館の革命」(10章)、「救助活動」(11章)……
1981年ミッテランがフランス大統領に就任し、著者は文化大臣に任命され芸術政策の抜本的な見直しを求められます。著者は大喜びですが、その道程は大変なものになることは容易に予想できました。たとえば「グラン・ルーヴル(ルーヴル宮大改修計画)」では大蔵省のルーヴル宮からの移転が必要になります。これはやりかたを間違えると高級官僚機構のプライドを傷つけることになってしまいそうです。
なお著者(ら)が取り組んだのは「グラン・ルーヴル」だけではありません。文化予算を国家予算の1%(!)に増額し、それを中央よりはむしろ地方に、国民のために使おうとしていたのです。ものすごくスケールの大きな“仕事”ですが、著者は大統領と公的にあるいは私的に緊密に連絡を取り合いながらビッグ・プロジェクトを進行させていきます。
建築されて老朽化が進んでいたルーブルは、大蔵省を追い出しただけでは面積が不足のため、中庭(もともと大蔵省の駐車場)の地下に新たな構造を作り出すことにします。すると採光が必要です。ではガラスの巨大な天窓を、いやもっと芸術的なかつ象徴的なものを、ということで、ガラスのピラミッドが登場します。この話を新聞だったかテレビだったかで最初に聞いたときには驚きましたが、今写真を見てもやはり驚きを感じます。委員会は真っ二つに割れ、フランスの国論も割れます。興味深いのは、単に「歴史」「文化」「美術」面での論争だけではなくて「政治(左派対保守)」もしっかりそこに盛り込まれていることです。著者に政治的に対抗する勢力の人々は、大喜びで「ピラミッド」を攻撃します。著者は世論対策として「心理戦」を開始します。これは「闘い」なのです。
興味深いのは、著者の活動が、単なる改革ではないことです。著者は「フランスの伝統」をしっかり重んじるというスジを通しています。過去を尊重する未来志向のクリエーター。なんとも複雑で魅力的な存在です。だからこそ、行動に一貫性が生まれ、反対者も最後には賛成に回るのでしょう(「攻撃」はえげつないやり方が多いのですが、立場を変えて賛成に回るときにもきちんとそれを公言する点には好感を持てます)。
美術品のコレクションと展示だけではなくて、子供のためのワークショップやコンサートなど、ルーヴルは新しく生まれ変わりました。その後の政権交代での方針変更を著者はこころよく思っていない様子ですが、それでも日本人から見たら別次元の美術館であるように思えます。日本にもこういった世界に誇る素晴らしい美術館があるといいのですが……って、その前に「闘い」が必要になるんですね。これは大変だ。
「風聞」……空気は読むもの風は聞くもの
「仄聞」……仄かに聞こえる
「見聞記」……見聞だけでは腹が減っていく
「新聞」……新しいがしょせんうわさ話
「読み聞かせる」……まだ暗誦ができない
「聞き上手」……耳がある上側の手
「自分の胸に聞け」……胸に耳があるという思い込みの発露
【ただいま読書中】『大人がもう一度はじめる 将棋入門』加藤一二三 著、 産経新聞出版、2013年、1200円(税別)
「もう一度」というよりも、初めて始める人でも使えそうな本です。駒の動き、簡単なルール説明のあと、普通の入門書なら定跡に行きそうな所が、本書では「三手詰め」の詰め将棋になっています。将棋を一種のパズルに見立てて、パズルを解く楽しみから将棋の世界に導入しよう、ということでしょう。
私の脳の将棋の部分は完全に錆びついていましたが、この三手詰めはちょうどよい“再トレーニング”になりました。三手詰め40問では物足りない人のために、五手詰めと七手詰めの問題も五題ずつ収載されています。なんとかどれも解くことができましたが、正解に到達した瞬間笑顔になってしまうのは、なぜなんでしょうね?
やる方もやられる方も大変な野球でのトレーニングですが、これ、何が目的なんでしょう。見た感じではたぶん「守備練習」だと思うのですが、内野守備って「捕球で完結」ではありませんよね。内野ゴロの場合は「捕って投げてアウトにして完結」です。しかも、状況によって捕る体勢も投げる方向もすべて違います(たとえば同じノーアウト1・3塁でも、点差によってあるいは走者の足や打球の勢いによって、3塁ゴロを捕球してから本塁に投げて一点もやらないのか一点はあきらめてダブルプレーを狙うのかそれもあきらめて一塁でアウトを一つだけ取るか、瞬時に判断する必要があります)。それを、単に「捕球の練習」だけ延々と繰り返していたら、有能な内野手ではなくて単なる(練習では有能だが実戦では使えない)キャッチングマシーンが製造されるだけではないか、と私には思えるのですが。
【ただいま読書中】『完全なる首長竜の日』乾緑郎 著、 宝島社、2011年、1400円(税別)
タイトルに惹かれて図書館から借りてきてから、本書が「このミステリーがすごい!」大賞作品であることを知りました。
少女漫画家の淳美は、たまにコーマセンターに出かけて、自殺未遂で植物状態となってしまった弟の浩市と「SCインターフェース」という技術でコミュニケートしています。それは、夢の世界で死者としゃべるようなもので、淳美はそのたびに現実と非現実の境目が曖昧になってしまうような感覚を味わっています。浩市は時に暴力的に(自殺という形で)コミュニケートを拒絶します。植物人間になっていてもまだ自殺願望は強いのです。
15年も続けていた連載を突然打ちきられ、淳美にとっての「現実世界」は思わぬ揺らぎをみせます。同時に世界のあちこちにコーマセンターに収容されているはずの浩市の気配が濃厚に感じられるようになります。それは超現実的な、たとえば「憑依」現象なのでしょうか、それとも、淳美が「現実」だと思っている生きている世界は実はまだ訪問したコーマセンターのSCインターフェースの中なのでしょうか。
P・K・ディックの世界を連想しながら私は読み進めることになります。本書では「胡蝶の夢」(蝶になった夢を見ている人なのか、それとも蝶が人になった夢を見ているだけなのか)が“示唆”として登場しますが。そして、淳美は「夢から覚めた夢」を見、そこからまた覚めるとそこもまた別の夢の中なのです。さらに、繰り返し登場する「首長竜」のモチーフ。
さて、どうやってこの話にオチをつけるのか、と興味津々で読み進むと、ネタバレをしないために言及はできませんが、なるほどそちらに持っていきますか、というラストでした。「どうして弟の自殺の動機を知りたくないのだろうか」とか「アシスタントが有能すぎないか?」とかちょっとした会話の齟齬とか、「違和感」の形でちゃんと手がかりは明示されていてフェアな態度の「ミステリー」です。もしこれから読まれるのでしたら、一文一文を大切に読むことをお勧めします。
しかし、20年前だったら本書は「ミステリー」ではなくて「SF」だったでしょうね。これも時代の進歩でしょうか。
寝るときのふつうのご挨拶です。皆が一斉に寝るときはよいのですが、自分だけが先に寝るときにこのことばを言うと、なんだかちょっと違和感が。やはり「お先に休ませていただきます」でしょうか? でもこれだとなんだか堅苦しいんですよねえ。
【ただいま読書中】『カマキリの雪予想('06年版ベスト・エッセイ集)』日本エッセイイスト・クラブ 編、文藝春秋、2006年、1619円(税別)
60編のエッセイが収載されています。内容は様々でなかなかまとめて感想を述べることはできませんが、共通点は「まともな日本語の作品」であることでしょう。ネットでは「まっとうではない日本語」の“作品”が非常に目立ちますが、本書は少なくとも(出来不出来とか吹き嫌いの“凸凹”はあっても)文章そのものは安心して読めるものばかりです。「まともな日本語」が読めて安心する、というのは、ちと困った時代になったものだとは思いますが。
私が特に感銘を受けたのはこの2篇です。
「江戸前の鰻重」(神崎照子)……子供時代の江戸前の鰻重の味が忘れられず、今住んでいる岡山では地理的に遠くなったために東京に出たときにその味を求めたらこんどは時間的に遠くなっていることを実感した、という内容です。しかしラストの「沈痛な面持ちの医師が子供たちの前に立つ。「残念ですが鰻重です」」には吹きだしてしまいました。本当に秀逸なエッセイです。
「藤沢さんの日の光」(井上ひさし)……藤沢周平さんとの交流が淡々と綴られていますが、藤沢さんの体験と井上さんの体験が重ね合わされ、さらに「ああ、このような小説の読み方もあったのか」という気づきももらえるというなかなか“豪華”なエッセイです。