【ただいま読書中】

おかだ 外郎という乱読家です。mixiに書いている読書日記を、こちらにも出しています。

不足は消えた?

2012-07-31 19:27:48 | Weblog

 猛暑は話題になっていますが、電力不足の話はあまりありませんね。本当に大丈夫? そういえば今年は水不足の話も出ませんね。かつてあれだけ「足りない」「足りない」と大騒ぎしたのですから、大丈夫なら大丈夫と報道してもらいたいものです。

【ただいま読書中】『人生はフルコース ──帝国ホテル村上信夫の履歴書』佐藤陽 著、 東京書籍、1996年、

 最初の数ページで、何かが心にじんわりとしみてきます。
 村上信夫は1933年(大不況の時)、12歳で(尋常小学校卒業前に)就職しました。「ブラジルコーヒー」という店の、お菓子やパンを製造する工場に住み込みの小僧でした。ついで西洋料理店に派遣され(といってもやはり「小僧」でしたが)そこで様々な仕事を覚えます。そして、西洋料理とは別の『フランス料理」がこの世にあることを知ります。
 18歳で就職した帝国ホテルでは、それまで6年間のコック修行をまったく無視されて一番下っ端の鍋洗いから。村上は、それでも鍋をきれいに洗い、他の部署の手伝いも積極的に行ない、誰もが嫌がる鍋底の磨きまでせっせとやります。先輩は何も教えてくれません。自分の味の秘密を守るために、洗う前の鍋には石けん水や塩をぶち込んでから洗いに出します。隙を見て鍋のソースをなめた下っ端には鉄拳制裁。しかし、村上が鍋洗いをしているときには、石けん水が入らない鍋が出てくるようになります。認められたのです。
 村上はフランス語の勉強も始めていました。フランス語のメニューが書けるようになりたい、と。当時村上が通ったコックのためのフランス語教室には、のちにいろいろな店のトップに立つコックたちがいたそうです。しかし“学歴”は尋常小学校ですよ。大変だったでしょうね。
 出征、シベリア抑留と苦労を重ね、やっと帰国。あまりの面変わりで、帝国ホテルの料理長は村上がわからなかったのに、玉葱を刻んだらその腕前から思い出した、というのは、やはり笑うべき所でしょうか。そして、フランスへ武者修行の旅。その話が社長からあったとき、5歳と3歳の女の子、そして妻の腹には3番目の子がいる状態で、即決でした。はじめはベルギー大使館で、ついでホテル・リッツで、村上は夢中になって修行(と食べ歩き)をします。さらには北欧のスモーガスボードについても調べますが、これがのちに帝国ホテルで大ヒットとなった「バイキング」です。しかし、並み居る先輩方を差し置いて、新館料理長に任命され、村上はとんでもない苦労をすることになります。さらに、NHKの「きょうの料理」を担当。これまた大変です。プロにならともかく素人に料理を教えるのも家庭で作れるお総菜を考えるのもひと苦労です。
 ローマオリンピックで村上は「スパイ」をやってます。東京オリンピック選手村の食堂運営のためのデータ集めだったのですが、誰も何も教えてくれなかったし調理場は撮影禁止。それでも村上はなんとか資料を集めます。そして東京オリンピック。食堂を委託された日本ホテル協会(会長は犬丸帝国ホテル社長)は「冷凍食品」を採用するという決断をします。
 48歳のとき、村上は社長に呼ばれます。社長室には総料理長の一柳がいて自分の隣の席を指さして「ここ来て、坐れ」。坐った村上に社長は世間話でもするように「親方から聞いているとおりだから、なっ」。48歳の帝国ホテル総料理長の誕生でした。
 よく読むと「順風満帆」とか「運が良くてとんとん拍子の出世」などとは遠い人生であることがわかりますが、ご本人の性格なのでしょうね、軽々と生きているようにも見えます(実際の体重は重いのですが)。努力は惜しむな、チャンスは練って待て、という“人生訓”を引き出してオシマイにしてもよいのですが、もうちょっと“隠し味”がたくさんありそうです。とりあえず、美味しい料理を食べたくなったなあ。



宗教の勧誘

2012-07-30 18:40:19 | Weblog

 休日の昼間、宗教の集会への勧誘の人がやって来ました。いつも思うのですが、宗派に関係なくあの手の人ってどうしてあんなに押しつけがましい口調なんでしょう。まるで「自分は正義の味方」「お前は愚民」と言いたそう。だけど、私がどんな人間か、全然知らずに勧誘しているわけでしょ。万が一私の方が“できる人”だったらどうしよう、とか思わないのかな。
 会の名前を勝手に「鼻持ちならん会」と改名してあげたくなりました。

【ただいま読書中】『もののけの正体 ──怪談はこうして生まれた』原田実 著、 新潮新書、2010年、720円(税別)

 「鬼」ははじめは死者の魂でしたが、そのうち形が「今の鬼」に定まっていきます。その角は、「丑」ではなくて「竜」から。鬼が半裸で金棒を持っている姿は、鉱山労働者が金属を掘り出していることから(日本で鬼伝説がある場所には、大体鉱山が存在しているそうです)。
 「天狗」はもともと中国では、天では流星・地に落ちたら獣の姿になる怪異でした。それが日本で独自の進化をします。さらに元寇後には、大陸からやって来た天狗を日本の天狗が迎え撃って追い払う、という、1960年代の怪獣映画かゲゲゲの鬼太郎の妖怪軍団か、という変容も。江戸時代には、「顔」が「鳥」から「人間」に変わりますが、大きな鼻はおそらく鳥のくちばしの名残でしょう。
 「河童」の伝承は古代からありますが、それが多いのは九州です。江戸時代には全国に河童伝承は広まり、全国で「河童を意味する方言」は400もあるそうです。見ると、私の郷里にも河童の方言の名前の川があります。もしかしてそこにも河童が出没していたのかな。
 天狗や河童以外でも「もののけ」全体が江戸時代に大きく変わっていきました。著者はその原因を「社会規範の変化」に求めます。それまでは地域共同体の「掟」が人々を縛っていましたが、江戸幕府の「法」が全国にかぶせられることによって、新旧の社会規範の対立が生まれ、そこで「もののけ」も変容を強いられた、と。もちろんそれは人の意識と社会のあり方の変容が反映されただけなのですが。
 そして江戸時代には、「もののけブーム」が到来します。鬼娘が人気となり、河童は善玉となり、黄表紙は大人気。江戸時代はずいぶん明るい「百鬼夜行」となったのでした。
 そこに登場するもののけは百どころではありません。そのなかで私に印象的だったのは「飛縁魔(ひえんま)」という美しい女性の形をしたもののけです。「ひえんま」は「丙午」のもじりで、要するに「八百屋お七」です。ところがお七は天和三年に放火の罪で処刑されたとき数えで十六歳、すると生まれ年は寛文八年で戊申の年(丙午はその2年前です)。つまり後世の人間が「あれだけの大火を引き起こしたのは丙午の生まれに違いない」と決めつけて生年を偽装した俗説がはびこり、それによって「丙午生まれの女性に対する偏見」が強化された、ということだったのです。迷信の拡大再生産?
 「日本人」があまり深く知らない、琉球や蝦夷地のもののけについても本書ではページをきっちりさいて説明してあります。そしてそこにもまた「日本本土との関係」が投影されていることもわかります。
 「原初的な恐怖」は、人間にはコントロール不能です。しかし“それ”を「もののけ」と定義し、固有名詞を与えると、“それ”に対する恐怖はコントロール可能なものになります(不可能な場合もありますが)。そういう“メリット”があるからこそ、一種の文化装置としてもののけには存在価値があり、たとえその実在を信じない人たちもあたかもそれが存在するかのように振舞っていました(『耳袋』にも、怪談話を「そんなことがあるとは思えないが、そう言う人がいるのだから記録しておく」という感じで書き留められています)。そういった「自分の恐怖を外在化する」機能をもつ「もののけ」が人間にとって必要なものなのだったら、現代にも「もののけ」は生きているはずです。もしかしたら数ある「陰謀論」もそういった「文化装置」の一つなのかもしれません。



信じ込む

2012-07-29 18:27:16 | Weblog

 江戸時代に狐が人を欺すことや妖怪の実在を信じていた人たちと、現代に宇宙人やユダヤ人や秘密結社が世界を支配していると信じている人たちと、どちらの方が“健康的”に生きているのでしょう?

【ただいま読書中】『ホテル探偵 ストライカー』コーネル・ウールリッチ 著、 稲葉明雄・小川孝志 訳、 集英社文庫(世界の名探偵コレクション10)、1997年、619円(税別)

目次「九一三号室の謎 自殺室」「九一三号室の謎 殺人室」「裏窓」「ガラスの目玉」「シンデレラとギャング」

 「九一三号室の謎 自殺室」……1933年、ひどい不景気の時に聖アンセルム・ホテルで最初の事件が起きます。913号室に泊まった客がフランス窓から飛び降りたのです。不景気による自殺と思われましたが、翌年また同じ部屋で同じような事件が。さらに1935年にも。
 これは単なる偶然の一致でしょうか。それとも? 不思議なのは、三人目が投身する直前に、遠くで雷鳴と稲光があり、下の部屋で狆が騒いだことくらい。最上階に住み込んでいるホテル専属の探偵(客の品定め、売春婦の締め出しなどが業務)のストライカーは、あくまで自殺説に固執する警察に逆らいます。何か不自然なことがあるに違いない、と。
 「九一三号室の謎 殺人室」……ストライカーは913号室に泊まることにします。「人体実験」です。探偵ではなくて一般の客が泊まっているように細工をして、こっそりと問題の913号室に入ります。そこで起きたのは……
 「裏窓」……ヒッチコックの映画で有名ですね。大筋は映画と同じですが、もちろん細部は大きく異なります。まあ、どこが違うのか、映画を観ている人も観ていない人も、読んでお楽しみください。
 「ガラスの目玉」では、町内ではビー玉チャンピオンの男の子、「シンデレラとギャング」では夜遊びに憧れる女子高校生が主人公です。この二人ともがとんでもない犯罪に巻き込まれるのですが、これがどちらもはらはらどきどきでしかも笑えて最後にはしみじみできるという、エンターテインメントのお手本のような作品です。
 ウールリッチをまだ読んだことがない人は、欺されたと思って手にとってください。絶対損はさせません。


消しゴムで書く

2012-07-28 17:47:47 | Weblog

 高校生の時、私は安部公房を次々読んでいました。ただ、楽しかったかと言えばそうでもない、楽しくなかったのかと言えばそうでもない、なんで読みつづけたのかは今となっては謎です。今、何を思ったのか読み返す気になったのですが、驚いたのは文体の平易さ。高校の時にはどこか固くて屈折した文章だと思っていたのに、今読んだら、なんですかこのわかりやすさは。ぎりぎりまで削られた単語数で、イメージがストレートにこちらの心に飛び込んできます。そう言えば安部公房はエッセーで「消しゴムで書く」と言っていましたが、そうか、これがそうだったのか。
 若い頃にわかりにくいと思った原因の一つは、文の構造かもしれません。百科事典で関連する項目を次々芋づる式にたどっていくように、イメージが連関していき、そしてひょいと元に戻ります。まるでハイパーテキストのように。もしも安部公房が今も生きていて電子書籍を出版したら、とんでもなく面白い「構造」の小説を書いたのではないかな。

【ただいま読書中】『砂の女』安部公房 著、 新潮文庫、1981年(2006年60刷)、476円(税別)

 本書の冒頭、砂地に住むハンミョウについて書かれていた文章はそのまま「砂」についての考察に移行し、さらにその流動性が主人公の「彼」の人生に重ね合わされます。ここまでの数ページで読者は物語世界の(舞台ではなくて)「流れ」に取り込まれているのです。
 流動する砂丘に飲み込まれそうになっている寒村。新種のハンミョウを求めて昆虫採集をしていた「彼」は、その村に一晩泊めてもらうことにします。「彼」が案内されたのは、砂崩れによって夫と中学生の娘を奪われた寡婦の家でした。際限なく押し寄せてくる砂。それを毎日せっせと掘っては移動させることでかろうじて村を守っている人々。そして「彼」もまた、「貴重な労働力」としてそこに参加することを期待され、村に閉じ込められてしまいます。
 理不尽というか不条理というか、とんでもない設定です。拉致監禁に強制労働ですから。「彼」はストライキで対抗しますが、水を断たれ、砂に押しつぶされる恐怖に負けてしまい、ついにスコップを手にします。しかし賽の河原です。いくらかいてもかいても、砂は次々押し寄せます。その虚しい“労働”の報酬は、毎日の食糧と水の配給、週に一度の焼酎と、女の体。「彼」は「砂」から脱出しようとしますが……
 「プリズナーNo.6」や『城』(カフカ)を思い出す作品ですが、こちらでは相手が「砂」と「情念」というどちらも計算や測量がしづらいやっかいなものです。流動的でとらえどころがない、さらに肉体の外側だけではなくて内側までも支配する「牢獄」って、一体何のメタファーなんでしょうねえ。


ガンマニアの警察官

2012-07-27 18:53:36 | Weblog

 実銃やモデルガンを集めていた警察官が捕まったそうです。銃刀法違反は感心しませんが、ただ、そういった人が法律の“向こう側”ではなくて“こちら側”にいたのは、まだ良かった、とも私は思ってしまいます。少なくとも集めた銃を使って犯罪をする確率はこちら側の方がまだ少ないでしょうから。

【ただいま読書中】『日本騎兵八十年史』萌黄会 編、原書房、1983年、6000円

 明治4年2月、新政府直轄の御親兵(後の近衛兵)が薩長土から集められた6275名で編成されました。その中に土佐からの騎兵二小隊87名が含まれていました。この部隊は明治11年には近衛騎兵大隊(実際には中隊規模)172名に成長し、東京鎮台には騎兵大隊(二個中隊)もおかれました。ただし、列強に比較すると明らかに見劣りします。数だけではなくて、馬の質も。そこで軍馬の育成も始まりました。ただし、18世紀のフリードリッヒ大王や18~19世紀のナポレオンの時代をピークとして、ヨーロッパでの騎兵の重要度は低下しつつありました。
 『坂の上の雲』に登場する秋山好古は、フランスに自費留学中に官費留学に切り替えられましたが、そのとき与えられた研究課題が「軽騎兵(捜索騎兵)」でした。日清戦争で秋山は騎兵大隊を率いて戦っています。主な任務は偵察ですが、部隊には歩兵も配属されていました。私は戦国時代の部隊編成を思ってしまったのですが、実際にどのような作戦で動いていたのでしょうねえ。ともかく秋山の報告や提案は、大山や乃木の指揮に大きな影響を与えていたそうで、単なる偵察ではなくてまるで作戦参謀のような役割も果たしていたようです。ただ、いざ戦闘となるとやはり火力不足は否めず(騎兵は村田式騎銃と弾丸を30発携行していただけでした。もっとも同行する歩兵も弾丸は70発だったのですが)、以後秋山は騎兵隊への砲の配置を主張するようになります。
 日清戦争終結直後から、対露戦の準備が始まりました。7個師団は13個師団に増加し、それに連れて騎兵隊も増設されます。さらに、師団の騎兵とは独立した騎兵旅団二個も創設されました。秋山が熱望していた騎砲の配置は遅れ、そのかわり機関砲(フランス製ホチキス。弾丸は小銃と同じ6.5mm)の装備が進められました。
 日露戦争は、日本にとって(あるいは世界にとっても)、騎兵の最盛期(の終り)でした。秋山は、戦力で日本の数倍のロシア軍騎兵隊(さらに支援火力も強力)を相手に奮闘します。第二軍の奥大将は、隷下の野砲旅団から旧式の野砲6門を引き抜いて騎兵砲中隊を編成し騎兵第一旅団に所属させました。秋山の念願がかなったわけです。
 それでも、騎兵に関して、日露の戦力差は圧倒的でした。日本の総兵力は、戦略騎兵が2個旅団で16個中隊、師団騎兵が13個聯隊で38個中隊。対してロシアは、戦略騎兵が3個師団と4個旅団、136個中隊です。さらに日本には騎兵を使いこなせる指揮官がいませんでした(秋山はそのことを嘆いています)。ところがロシアの指揮官はそれに輪をかけて無能だったようで、ろくな運用ができませんでした。
 日露戦争後、再戦に備えて日本は軍備を拡張させました。騎兵も当然増やされ、同時に兵装も向上します。しかし、第一次世界大戦での、歩兵中心の陣地構築戦によって、「騎兵は不要なのではないか」という議論がおきます。ここでの議論はまことに日本的な精神論。「乗馬突撃ができる騎兵だからこそ、たとえ馬から降りても積極的な行動ができる(だから騎兵としての訓練をしておくべし)」という騎兵擁護論があります。騎兵の機甲化とか、スピーディーな展開が必要だから馬が必要(自動車やオートバイが普及したらそちらを使う)といった、「戦争に勝つための技術論」を抜きにしてイデオロギーだけを戦わせるのは、「騎兵」にとってあまり良いことであったとは私には思えません。だって、騎兵は馬に乗ることが目的ではなくて、戦争に勝つことが目的でしょ?
 満州事変では、騎兵隊の主な相手は匪賊でした。しかしノモンハンでの相手はソ連の機甲軍。ポーランドの騎兵隊がナチスの戦車部隊にぶつかって行ったのと同じ結果が出てしまいます。満州国軍では、なぜか騎兵の率が高くなりました。帰順した旧東北軍が主力だったからでしょうか。
 移動手段は機械化が進み、通信手段も進歩します。それに連れて、騎兵の活躍場所は限定されていきました。さらに困ったことに、中国軍の装備が遅れていたため、それに対応する形で日本帝国軍の進歩も遅くなってしまいました。それでも師団騎兵は捜索隊に改変され、小機甲部隊も各師団に作られましたが、諸兵を集めた戦車師団が編成されたのは昭和17年になってからのことです。ここまで遅れたは、戦車中心の運用思想がなくて「機械化旅団不要論」が関東軍司令部に根強くあったことが原因の一つです。ドイツの機甲部隊が大戦果を上げていたことはみな承知していたのですが。さらに、部隊の中でも思想の違いが対立します。歩兵出身の指揮官は「戦車は歩兵と密接に協力して運用するべし」ですが、騎兵の伝統を継ぐ捜索隊は「速度すなわち戦力」の思想でした。そのため、師団から与えられた作戦目標を無視して戦車が突進する、ということもたびたびあったそうです。
 第二次世界大戦勃発時、乗馬騎兵を大量に持っていたのは、ポーランドとソ連でした。ただしポーランドの騎兵部隊はドイツの戦車部隊に槍で立ち向かい撃破されています。ソ連は20個師団の騎兵を持っていましたが、ドイツ軍が退却を始めてから遊撃戦で活用しました。大規模な騎兵隊同士の戦いは、普仏戦争です。日本で騎兵が活躍していたのは、戦国時代およびそれより前。明治の騎兵の姿(村田銃とサーベル)が戦国時代の騎兵と似ている、と本書にはありますが、そういえば何のゲームだったか、戦国武将の部隊で馬上で火縄銃を撃つ武士団が登場するものがありました。日本軍の騎兵も戦国時代だったら圧倒的な威力を示せたでしょうね。誰か「戦国騎兵隊」という小説を書いてみませんか? これだったら、ガソリンは気にせずにすみますよ。


ディスプレイ?

2012-07-26 18:50:27 | Weblog

 岩国基地のオスプレイの映像がよくテレビに登場します。ふと思ったのですが、これって「軍事基地をのぞきこんで撮影している」わけですよね。国によっては、それだけで逮捕されちゃいますよ。日本は良い国だなあ。
 ところで「安全性が確認されるまで」と日本政府の人たちは繰り返し発言していますが、具体的に「誰が」「何を」「どうやって」「いつまでに」「何のために」確認したら「安全性が確認された」ことになるのでしょう? みなさん、小学校で5W1Hは習っていますよね?

【ただいま読書中】『スポーツシューズの本』ミズノスポーツシューズ研究会、三水社、1993年、1200円(税別)

 1980年頃、エアロビクスがアメリカから日本に輸入され、「フィットネス革命」が起きました。「健康のために運動」する人が急増したのです。スポーツシューズの売り上げは、1981年に2400万足だったのが1992年には3280万足になりました。ところがそれと平行して、スポーツ障害を起こす人も増えました。本書には「スポーツの最大の敵は、スポーツ自身が生みだす怪我」とあります。ではその怪我を少しでも減らすには……
 足の骨は28個もありますが、大まかに親指側と小指側に分けられます。親指側は大きなアーチを創って体重を支え足を踏み出すときに地面をけり出すバネの働きをします。小指側は指先に向かうにつれてそり上がるようにカーブし、足の動きをスムーズにする働きをしています。したがって靴底は、この二つのアーチの形態と機能の違いを考慮する必要があります。さらに、運動によって足は変形します。血液の流れも重要です。汗もかきます。あらあら、真面目に靴のことを考えるのは、本当に大変です。
 靴は様々な部品から構成されていますが、「甲(アッパー)」と「底(ソール)」に大別できます。それぞれが様々な製法で作られたアッパーとソールが最終的に合体して靴が完成するわけです。
 シューズ選びで大切な要素は、フィッティング・衝撃吸収性・ソールのグリップ・ソールの曲がり具合・軽さ・通気性・耐久性……あらあら、真面目に靴を買おうとしたら、これまた大変です。
 古代ギリシアのオリンピックでは、選手はシューズを履いていませんでした(そもそも素っ裸でした)。では「スポーツシューズのルーツ」はと言うと、フェイディビデスが履いていた軍靴と本書ではされています。紀元前490年にギリシア軍がペルシア軍をマラトン平原で破ったとき、首都アテネまで240kmを走り通した男です。
 19世紀に天然ゴムが実用化されると、世紀中頃にさっそくランニングシューズに応用されました。1861年にイギリスで実用新案を取得したスパイクシューズは、クリケット専用でした。さすがイギリス。1865年頃にはスパイク付きランニングシューズが量産されています。日本ではマラソンに地下足袋やそれを改良した“マラソンシューズ”が最初は用いられていました。
 日本では1980年代の「健康ブーム」ころから「科学」(新理論、新素材)がスポーツシューズにどんどん取り入れられます。そうそう、ここに「ヒール・ストライク(着地時に踵が受ける衝撃)」をいかに軽くするかの研究が書かれていますが、先日見たNHKの番組では、アフリカのマラソンランナーが着地の時に踵からではなくて足全体をそっと地面におくような走り方をしていて、それで筋肉の疲労が全然違う、という研究を放送していました。靴も大事ですが、もちろんそれを生かす走り方も大切なようです。



細かい違い

2012-07-25 19:07:39 | Weblog

 些細と仔細と委細
 細雪と細氷と細雨

【ただいま読書中】『アナタはなぜチェックリストを使わないのか? ──重大な局面で“正しい決断”をする方法』アトゥール・ガワンデ 著、 吉田竜 訳、 普遊舎、2011年、1600円(税別)

 社会は複雑になり、様々な事故が起きていますが、その原因は「無知」と「無能」に帰することができます。問題は「無能」が原因の事故を起こす人間が「無能な人間」ではない、それどころか「有能な人間」であることが非常に多いことです。それは、航空機事故や医療事故を見たら簡単にわかります。
 では、その原因は何か? そして、対策は?
 1935年、アメリカ陸軍航空隊は次世代の長距離爆撃機のコンペを行ないました。最有力だったのはボーイングのモデル299。しかし「一人で飛ばすには大きすぎる飛行機」と呼ばれるくらいその構造と操縦は複雑で、コンペの場で機は墜落してしまいます。陸軍はダグラス社を採用しますが、あまりに優秀だったモデル299も捨てませんでした。一部の関係者はモデル299を生かすために、新しいアイデアを採用しました。「チェックリスト」です。そのおかげで、モデル299は後にB−17として戦場で大活躍をすることになりました。
 2001年にジョンズ・ホプキンズ病院のプロノボスト医師はICUにチェックリストを導入することで、カテーテル感染と死者を大幅に減らしました。
 では、チェックリストは「万能」なのでしょうか。
 世の中の問題は「単純」「やや複雑」「複雑」に三分できます。「ケーキを焼く」は「単純な問題」。基本的な技術を覚えて練習をしてレシピに従えば、高確率で成功します。「ロケットを月に飛ばす」は「やや複雑な問題」。単純なレシピは存在せず予期せぬ困難が頻発しますが、一度成功したら同じやり方が次でも使えます。「子育て」は「複雑な問題」です。先行きは不透明で、子供は一人一人異なり、前の経験がそのまま生かせるとは限りません。
 チェックリストが有効なのは「単純な問題」に対してです。では「やや複雑」「複雑」に対してはどうしたらよいでしょう。
 外科医である著者は、そのことをずっと考えていました。答えは、新病棟の建築現場、16あまりの業種が関わる、「一人の棟梁では全部を管理できない複雑すぎる」設計と建設の現場にありました。そこで著者が見つけたのは「チェックリスト」です。スケジュール管理と呼ばれていますが、各業種の業務行程を一覧にまとめたものでした。さらに「コミュニケーション」のチェックリストも。予期せぬ問題は必ず出現します。それを誰か一人が適当に解決すると、それは他の業種に別の問題を引き起こす可能性があります。だから最初から「コミュニケーション」を予定しておくのです。「人」は誤りやすいが「人々」なら誤りにくい、という発想です。この二種類の「チェックリスト」は、性格がまったく異なります。「権限」の点から見ると、前者は「集中」、後者は「分散」です。前者は上意下達式に規律を重視し見逃しを防ぎます。後者は、自由裁量とコミュニケーションで「チーム」を作ります。
 意外なところでも同じ二種類の「チェックリスト」が活躍していました。芸術的な料理を作るシェフの厨房です。
 2006年、WHOから著者に「世界中で増えている手術のリスクを減らすプロジェクトチーム」への参加要請がありました。2004年に世界中で2億3千万件の手術が行なわれ、100万人以上の死者が出ていたのです。様々な地域で様々な人によって様々な患者を対象として行なわれる手術全体に適用できる「リスク軽減の手段」なんてものが、果たして存在するのでしょうか。プロジェクトのメンバーは、議論をしていくうちにチェックリストが有望そうだと結論を出します。では、どんなチェックリスト? 著者らが手本にしたのは、緊急時に航空機のパイロットが用いるチェックリストでした。短時間に重要な事項だけをチェックして機の墜落を防ぐものです。やっと完成したチェックリストを、著者らは2008年に世界の様々な地域のタイプの違う8つの病院で試すことにします。チェックリストの導入自体にもすったもんだがありましたが、効果は劇的でした。3箇月後、8つの病院で4000人近い患者のデータが得られましたが、深刻な合併症は36%・死亡率は47%・感染症は50%・再手術は25%減少したのです。そのデータを見た著者はどうしたか。狂喜乱舞はしませんでした。笑ってしまいますが、この効果が本当にチェックリストによるものかどうか、チェックを開始したのです。
 著者らが作ったチェックリストには、厳選された項目しかありません。ところがそれを使うと、その項目以外(たとえば出血など)の合併症も減少します。著者はそれは「チームのコミュニケーションが向上したから」と考えています。医学に限らずどんな分野でも、コミュニケーションが良好なチームの方が不良なチームよりは好成績を上げる傾向がありますから。
 チェックリストを使う人間は頭が悪い、チェックリストばかり見ていると思考が硬直化してします、などという“反論”があります。しかし著者の主張は、それとは正反対です。「良いチェックリスト」を用いたら、チェックをしたらそのことについてはもう安心して忘れて、もっと大切なことに集中できるのだ、と。もちろん大切なのは「そのとき一番重要なことに、人間の能力を集中させること」ですよね?
 


合理的

2012-07-24 19:09:05 | Weblog

 「合理的な思考」「合理的な行動」とは、「それ以外に選択肢がない状態」とも言えます。

【ただいま読書中】『読書と市民的家族の形成 ──ピューリタニズムと家族観』L・シュッキング 著、 角忍・森田数実 訳、 恒星社厚生閣、1995年、3200円(税別)

 「国民の性格」というものがあるとしたら、イギリス人のそれは「自制」である、と本書は始まります。理想とされる人格は「冷静・沈着」である、と。そこには清教徒の態度と合理主義が混ざっているためこの理想は「宗教に根ざし、生真面目と不断の自己統制をもって自己改革を志向しながらも、世故にたけている合理主義」となります。本書はそのルーツをピューリタニズムに求め、特にその中でも「家族」についてのテキストを広く渉猟して紹介してくれます。
 ピューリタンは「聖書」(特に旧約聖書)を規範として生きようとしました。そこに描かれるのはユダヤ民族の家父長的家族形式です。もともとキリスト教徒には聖書を「文字通り」読もうとする傾向が見られますが、ピューリタンではそれが徹底されました。たとえば「理想の結婚」は「アブラハムとサラの結婚」です。(もちろん「すべて」を規範としたわけではありません。一夫多妻などは排除されていますが、そういった取捨選択が見てわかるところが、「聖書」を規範とすることの“弱点”となっています) さらに、キリスト教の基底にある「禁欲主義(アウグスティヌスは「性」が本来の「原罪」としました)」と「産めよ増やせよ」の両立はけっこうやっかいです。17世紀になっても「地を満たすのは結婚であるが、天を満たすのは純潔である」という格言が使われていました。
 ミルトンの『失楽園』を著者は「結婚問題をテーマとする論述にほかならない」とします。そこではアダムとエヴァが男性と女性の類型として描かれ、特にエヴァのとらえ方が斬新である、と。彼女はサタンでさえ官能的欲望に捕えられるくらいの美しさの持ち主ですが、同時に、「女特有の弱さ」が与えられています。必要がないのに聞き耳を立て、行動に不誠実さがあり、自分勝手な論理を弄びます。アダムはアダムで、独善(道徳的な自信過剰と慢心の傾向)が見られます。ここにはピューリタン的な「服従(粗野な暴力による支配ではなくて、説得による支配)」はありませんが、それはミルトン個人の持つ“特殊性”からかもしれません。
 ピューリタンの運動は家族(家父長制)に根ざすものです。原罪にまみれて生まれてくる者にまず責任を持つのは家長ですから、「家」はそのまま「教会」になり、生活全体が一種の礼拝となります。そこでは「夫婦」だけではなくて「親子関係」も重要になりますが、もちろん英国文学でそれを扱ったものは豊富に(豊富すぎるほど)あります。ところが、カルヴァンが「結婚に父親の同意が必要なのは、息子は20歳まで、娘は18歳まで」としたのに対し、イギリスでは(年齢制限なしで)「両親の承諾が結婚の前提条件」とされていました。ただし、子供の意志に反して親が結婚をさせても良いか、については、ピューリタンの間では大きな争点となっていました。ここで「親」とは「父親」のことで、母親の影は薄いものです。それはふだんの家族間の親密さにも影響を与えてしまいます。文学に現われる「家族関係」は「父親と子供」のことが中心となり、「母親と子供」は軽く扱われ、「子供同士の間の親密さ」はほとんど無視です。
 ピューリタンの「究極の目標」は、宗教的なもの(来世での新生?)であり、現世の生活はその目標を達成するための手段でした。つまり家庭生活は一種の義務だったのです。
 ここで意外なことに、デフォーが登場します。言わずとしれた『ロビンソン・クルーソー』の作者ですが、もちろんあれに「家族」は登場しません。しかし、『ロビンソン・クルーソー』で得た名声を生かして構想した第二作では「結婚問題」が取り上げられました。ロビンソン・クルーソーの二度目の島への訪問では、そこの住民たち(ヨーロッパ人と現地人)の結婚とキリスト教への教化が「冒険小説」として扱われたのです。
 18世紀になってリチャードソンがピューリタンの規範と実際の生活の解離を取り上げました。私はリチャードソンは未読ですが現代の目からはずいぶん退屈な小説だそうです。ただし、当時のイギリス社会の建て前と本音を理解して読むと、とても面白いそうで……
 この18世紀は、イギリスで女性の教養が平均的に上昇した時代でした。同時に、上流階級の礼儀作法と市民階級の道徳的なものの見方が融合し始めた時代でもあります。つまり「文学」だけではなくて「社会」の中に近代的な意味での「家族」ができてきたのです。
 いやあ、社会も文学も、いろいろな読み方ができるものだと感心します。私も自分ならではの読み方がしたいなあ。


雷注意報

2012-07-23 18:54:08 | Weblog

 私は、地元気象台からの気象情報(警報や注意報)の速報を携帯電話で受けるようにセットしているのですが、最近特に目立つのが「雷注意報」です。大体朝10時くらいには注意報が出されて、夕方に解除になることもあれば、翌日、ひどい場合には翌々日までずっと出っぱなしということもあります。この一週間で数えてみたら、発表は4回、継続時間(注意報が出されてから解除されるまでの時間)の総計は4日と9時間でした。つまり雷注意報が出ていない時間の方が短い。日本の大気は(少なくとも私が住む地方は)ずいぶん不安定になっているようです。
 ところで、雷には「注意報」はあっても「警報」がないこと、ご存じでした?

【ただいま読書中】『人と技術で語る天気予報史 ──数値予報を開いた〈金色の鍵〉』古川武彦 著、 東京大学出版会、2012年、3400円(税別)

 かつての天気予報は、地上天気図に基づいて予報官が経験と洞察力で予報をする「地上天気図時代」でした。私は中学校の理科の時間に、各地の測候所のデータを転記しその結果から地図上に等圧線を引くやりかたを習いましたが、これこそ「地上天気図時代」のやり方です。
 現在の天気予報は、スーパーコンピューターによる数値予報となっています。その始まりは、1959年、気象庁に超大型電子計算機IBM704(真空管式)が導入されたときです(レンタル料は年間1.5億円)。著者が気象庁に入ったのと同じ年のことでした。しかし本書は、一度明治にまで遡ります。
 1875年東京気象台が発足、84年(明治17年)6月1日に全国を対象とした「天気予報」を開始しています。記念すべき最初の天気図では、等圧線が二本、本州の南側と九州の北西部に引かれ、かろうじて低圧側と高圧側を示しています。なにしろ観測点が全国で22ヶ所ですから、こんなラフな天気図になるのも致し方ないでしょう。
 1882年(明治15年)に東京気象学会(後に、大日本気象学会→日本気象学会)が設立されます。日本の主な自然科学系の学会のほとんどは明治10年代に創立されていますが、気象もその一員だったわけです。ちなみに英国で王立気象学会が創立されたのは1850年です。
 私が驚いたのは、当時から「天気予報は確率的なものである」ことを関係者が意識していたことです。現在でも「確率」を理解できない人が多いことから類推すると、当時の世間には理解してもらえなかったでしょうけれど。
 「天気晴朗なるも波高かるべし」の有名な天気図も収載されています。当時はまだ「前線」の概念がなかったそうですが、本州沖と日本海の二つの低気圧が遠ざかり、対馬周辺は移動性高気圧に覆われていることが見えます。そしてその情報が電報で旗艦「三笠」に届けられたわけです。(無線ではなくて、対馬までの軍用海底ケーブルを使う有線で)
 20世紀に航空機が誕生し、世界中の気象界の関心は「空」に向かいます。筑波に高層気象台ができて観測を開始したのは1922年(大正11年)でした。後に風船爆弾にもつながっていくのですが、この研究が高気圧・低気圧や前線の構造や変化・移動について大きな役割を果たし、やがて数値予報への道を開くことになります。
 技術の進歩・業務の拡大に連れて人材不足が深刻となり、1922年には中央気象台附属測候技術官養成所(のちの気象大学校)が設立されます。著者もこの大学の出身ですが、「気象が好き」以外の志望理由を持つ者がいること(貧乏で学費不要の学校に入りたかった、など)も紹介され、いろいろと社会などについても考えさせられます。
 1934年(昭和9年)9月21日室戸台風が室戸岬から関西を襲います。死者3000人行方不明者200人。この台風が、気象知識・暴風警報・高潮予報・気象通知の方式などに大きな揺さぶりをかけました。「気象特報(現在の注意報)」が新設され、関係者全員に天気予報や警報のすべてが通知されるようになりました。
 日中戦争が拡大するにつれ、軍からの圧力が高まりました。陸軍は陸軍気象部を立ち上げ、海軍は水路部で気象を扱っていましたが、それぞれとの連携を求められたのです。さらに「戦時体制」として組織の改編(それまで県営だった各地の測候所の国営化、陸海軍気象機関の拡充、通信・放送設備の整備など)が進められました。これは「中央気象台の独立性」を犯すものである、と気象台長の岡田武松は強く抵抗し続けました。軍刀に脅かされても節を曲げなかったとは、気象の人であると同時に気骨の人です。
 しかしが、岡田武松はとうとう1941年に辞任、12月8日から「気象管制」が実施され、天気予報は一般には公表されなくなりました。再開されたのは1945年。東京は8月22日、全国は12月1日からでした。(そういえばその時代を扱った『空白の天気図』(柳田邦男)という作品もありましたね)
 数値予報の歴史は1922年まで遡ります。英国のリチャードソンが、手計算でその試みを行なっていました。その後この難題に挑戦した人が多くいたことが、一人一人紹介されます。著者にとっては「自分とつながっている人たち」なのでしょう。おそらくほとんどは「友人・知人」「友人の友人」くらいでカバーできてしまうのではないかな。観測データが精密になり、理論は進歩し、電子計算機が発達することで、「数値予報」はどんどん進歩します。もしかしたらこれですべてが予報できるのではないか、と思うくらいになったところで「カオス理論」が登場。ただ「だから数値予報はダメなんだ」ではないと私は思います。「相対性理論とニュートン力学の関係」のような感じで、ある限界の範囲内なら従来の理論での数値予報で十分、ということがわかればいいのではないでしょうか。ただ、「人」については非常に面白いのですが、肝心の数値予報については「知っている人が書いている」せいでしょう、素人にはわかりにくい本です。これについては「知らない人が必死に学んで、知らない人のために書いた解説」を読んだ方が良さそうです。


キングゲイナー

2012-07-22 18:51:53 | Weblog

 息子が何を思ったのか急に「キングゲイナーを見たい」と言い出しましたので、古いビデオテープのストックを漁るとすぐに見つかりました。ただ、液晶大画面とブルーレイディスクに慣れた目には、画質が粗くて粗くて。ところがなるべく画面から離れて2~3話見ると、目が慣れてきて「当時は20だったか27インチのブラウン管ではとんでもなくきれいに見えたんだよな」と当時の感激が思い出せました。
 アニメの内容は、全然古くなっていません。とても楽しめて10年前のものとは思えません。こうなったらDVDかBDかで見たくなってしまいました。借りるかな、それとも、買う?

【ただいま読書中】『古代の船と航海』ジャン・ルージェ 著、 酒井傳六 訳、 法政大学出版局、1982年(2009年新版)、2600円(税別)

 本書が扱う「海」は、主に地中海です。用いられるのは従来の「史料」と「海底考古学の成果」。捨てるべきは「トポス(思い込みとか常識、という意味で著者はこの言葉を使っています)」。
 「船大工」という専門家集団は古くから存在していました。古代エジプトのレリーフにその姿が残されています。古代ローマになると、テキストや碑文で詳しい情報が得られます。その給料でさえ。
 最も原始的な「船」は、筏ですが、これにもいろいろなタイプがあります。木造船でもっとも原始的なのは、丸木船。地中海とその周囲の河川で広く使われ、4世紀になってもまだ言及されています。複雑な構造の木造船もすぐに登場します。ただし、初期のエジプトの船は、喫水が浅く構造が脆いため、大したものは運べませんでした。やがて甲板が張られるようになり船室も作られます。
 推進力は主に「櫂」と「帆」でした。最初の帆船はエジプトで登場しましたが、大型船では櫂にないスピードという利点を持っていました(逆風や無風状態では櫂に負けますが)。本書では、櫂や操舵具、帆や索具の形状や使い方について、きわめて具体的に(図を交えながら)述べられます。これがおそらく海底考古学の成果の一つなのでしょうね。
 錨は、最初は石でした。はじめはでこぼこの石の塊に索を結びつけただけ。後に索を安定させる溝を掘り、穴を開けて索を通すようになります。ただ、海底で発見された石錨の年代測定はとても難しいものです。早い時期に、鉛で重くした木の錨も登場しました。形は現代の錨とよく似ています。求められる機能が同じだからでしょう。
 古代ギリシアのツキジデスは「ミノアには艦隊があった」と記述していますが、著者はそれには否定的です。当時の“海戦”は船の捕獲のための接舷戦あるいは兵員の輸送が主体だったはずで、ふだんは商船として用いたものを軍用にも転用していただけだろう、と。古代ギリシアやローマには「軍船」があったことは確実で、その特徴は「衝角」です。古代エジプトでも船の戦いの壁画が残っていますが、戦いの主力は弓矢と槍でした。衝角の代わりに船首突端は野獣の頭になっていますが、これは敵船の横腹を打つことで転覆させることが目的だったようです。
 船が長くなると構造が脆くなります。しかし戦争ではスピードが重要。そこで漕ぎ手を二段あるいは三段に重ねた船が登場しました。この三段櫂船によって、海戦は「人対人」から「船対船」の戦いになりました。著者は三段櫂船を「飛び道具」と言います。柄は船体、刃は衝角、投げる手が乗組員、と。古典的な三段櫂船は、長さ35メートル、幅5.5メートルでした。
 船自体が武器となれば、当然次は「船の武装」が始まります。「砲」と本書ではまとめられていますが、その内容は、投石機・石弓・船首の塔(弓兵や槍兵を収容)……そういった攻撃手段が発達すると、今度は船の防御も発展します。装甲船です。
 ヘレニズム時代に以上のような大艦隊が発展しましたが、その時代にローマはカルタゴと対峙していました。カルタゴは当時海の強国として知られていましたが、その中身については現在はほとんど知られていません。ローマはカルタゴに対抗するためにカルタゴの船を真似て造船をはじめ、その海上支配によってハンニバルはイタリアで孤立することになります。カルタゴがローマの海軍を育成してしまった、と言ってもよいでしょうか。
 ローマは大艦隊を編成しましたが、パックス・ロマーナによって、艦隊の出番は激減します。海軍は自ら自分たちの存在理由を無くしてしまったのです。
 船・港・乗組員・海事法など、よくわかっていないことはわかっていないとして「定説」に逃げ込まずに解説をしようとした本です。訳文はこなれていませんが、「昔の海」が好きな人は、読んでおくべき本でしょう。