昨日は「ガス」を扱った本でしたが、今日は「水道」です。幸いなことに今回は「まともな人間」が登場します。
【ただいま読書中】『プノンペンの奇跡 ──世界を驚かせたカンボジアの水道改革』鈴木康次郎・桑島京子 著、 佐伯印刷出版事業部、2015年、1500円(税別)
ポル・ポト政権によってぼろぼろになったプノンペン。強制移住させられていた人びとの帰還や農村部からの移住で人口は増加していましたが、電気・下水・通信・ゴミ処理などのインフラ整備はまったく間に合っていませんでした。もちろん上水道も。人びとは、水道管から盗水をしたり水売りから買ったりで日々を過ごしていました。
水道局には、人・もの・金が足らず、不正と腐敗が横行していました。
1993年、新しい水道局長としてエク・ソンチャン(当時43歳)が就任します。水道事業は未経験でしたが、外国語ができて市長の通訳をしていたことがきっかけだったそうです。「水道の素人」ですから、エク・ソンチャンは就任直後の1箇月は黙って現状把握に努めました。それから「改革」に乗り出します。前局長自身が盗水をやって大儲けをしていた(しかも前局長は副局長として残っている)組織の「改革」ですから、大変です。しかしエク・ソンチャンは、強力なリーダーシップを発揮します。そのリーダーシップの助けとなったのが、有能(だが冷や飯を食わされていた)若手メンバーと日本の協力でした。
ポル・ポト政権での「再教育」と「虐殺」をどうやって生き延びたのか、カンボジアでのサバイバーにはそれぞれの「物語」があるはずですが、エク・ソンチャンの「物語」もけっこう強烈です。
エク・ソンチャンが「道標」とした「プノンペン水道事業の長期整備計画」は、JICAが事前に調査し、カンボジア政府・世界銀行・国連開発計画・フランスなどの援助国と協議や調整をおこなって完成させたものでした。このマスタープランを現実化させることが「プノンペンの奇跡」になっていくのです。
エク・ソンチャンはまず「顧客リスト」の作成から始めます。誰が水のユーザーなのか、誰が支払い誰が支払っていないのか、を明らかにする作業です。これには1年かかりましたがエク・ソンチャンはやり遂げました。つぎに「料金支払いの依頼」。将軍のところに水道メーターを取り付けに行ったら、武装した部下に取り囲まれて作業ができません。ではどうしたら?
水道局ではモラルを喪失した職員がはびこっていました。では彼らに仕事へのモチベーションをどうやって持たせたら?
エク・ソンチャンは一つ一つ粘り強く取り組んでいきます。日本も無償資金協力などで、浄水場の改修や配水池の新設、水道メーターの供与などをおこないました。3次の無償資金協力で総額71億円、と聞くと巨額に思えますが、実は大変“お安く"水道網の整備ができたのだそうです。
日本でも「技術の伝承」が問題になっています。上水道はすでに普及の飽和点で、新設などの経験者がどんどん引退していきます。それを日本の若手に伝承するために、国際協力が役に立つこともあるそうです。単に「自分の利益のため」ではなくて「情けは人のためならず」で動いた方がよい、ということかな?
電気・ガス・上下水道・鉄道など「共有部分」が都市の多くを占めています(電線そのものは細いですが、電柱は道路のけっこうな部分を専有しています)。あれを最初からもうちょっと効率的に配置できるように計画して置いたら、都市はもっと使いやすくなるのに、と思うことがあります。一度できてしまったものを改造するのは大変ですから。
【ただいま読書中】『ガス爆発 ──静岡駅前大惨事の真相』山下弘文 著、 影書房、1991年、1500円(税別)
1980年8月16日午前9時20分頃、静岡駅前ゴールデン街第一ビルでガス爆発が発生しました。さらに午前9時56分に二回目の爆発。死者15名負傷者223名と周囲の建物163棟に被害が生じる大災害となりました。政府も動きましたが、その十年前に大坂天六地下鉄工事現場で起きたガス爆発災害の“教訓"が生かされていないことも問題とされていました。
最初の爆発は小規模なものでした。開店準備中の鮨屋の店員がお湯を沸かそうとガスに火をつけてトイレに行ったらどんと爆発。びっくりはしたもののガ死者も負傷者もいません。しかしやがてあたりにガスの臭いが充満します。消防も「ガスが充満している」ことを検知。ところが誰も何もせず、ついに大爆発。ガス会社がガスの本管の遮断弁を操作してガスを停止させたのは、午後1時12分でした。(ちなみにこの遮断弁は誰も手が届かない地中に埋設されていました)
「ガスがなぜ充満したか」の原因追究も必要ですが、「ガスの充満をなぜ防止できなかったのか」の追及も必要、と私はここまで読んだだけでも感じます。
最初の爆発の急報で駆けつけた静岡瓦斯の職員は一人だけ(それも緊急要員ではありません)。しかも検知器はガスの種類が判別できないタイプで「においがしないから都市ガスではなくて自然発生のメタンガスかもしれない」と言っています。ところが静岡瓦斯は「付臭(ガス漏れがすぐわかるように人工的に臭いを付けること)」をしていませんでした。コスト削減にはなりますが、これではガス漏れがわかりにくい。
被害の全容もまだわからないうち、もちろん原因なんか見当もつかない段階の爆発当日、静岡瓦斯は「爆発の原因は自然発生のメタンガス」説を唱えます。それに乗るマスコミもいましたが、すごいのは県警もそれに乗ったことです。「現場検証」のあと公開された「爆心」は、いかにも地下の貯蔵槽に貯まったメタンガスが爆発したかのような姿でしたが、爆発直後に「入るな」という制止を振り切って生存者を捜索に入った民間人が見た光景とは明らかに異なるものでした。「現場保存」ではなくて「改変(捏造)」がされていたのです。ここに著者は「静岡瓦斯の会長が、公安委員長も兼ねていて、警察に“力"を及ぼす立場であったこと」の影響を見ています。
現場を保存ではなくて改変しただけではなくて、地中に埋められているガス管がぼろぼろになっていることを被災者に指摘されると「まわりが粘土質だから大丈夫」とまで静岡県警は言います。静岡瓦斯の代弁者? ちなみに実際の地質は砂礫層なんですが、というか、ガス管がぼろぼろで以前から周囲でときどき「ガス臭がする」と言われていたことをまったく無視していた静岡瓦斯は、大丈夫か?とも思いますが。いや、大丈夫じゃなかったわけです。
しかし、以前のガス漏れの時には「ドブ臭がするからメタンガスだ」と主張し、爆発直前には「ガスのにおいがしないからメタンガスだ」と主張している時点で、静岡瓦斯の主張は「科学的」以前に「論理的」に破綻していると私には思えます。(「臭いがするからメタンガスだ」と「臭いがしないからメタンガスだ」は両立します?)
警察と行政と民間の大企業と御用学者が組むと、資本主義社会では「最強チーム」となります。大抵の裁判はこれで乗り切れます(「欠陥裁判官」もチームの一員に加えたら「無敵」です)。静岡での裁判でもこの最強チームが活躍することになりました。
それに対する被災者側の科学者の主張は、「論理的」だけではなくて「科学的」にも納得がいくものが並んでいます。惜しむらくは「無理が通れば道理が引っ込む」「泣く子と地頭には勝てない」こと。
そうそう、この事件の裁判は、本書出版時にまだ一審が結審していません。遅すぎる裁判もまた、被害者を苦しめる「共犯者」なのでは?
大英帝国時代にイギリスが植民地支配で分割統治を実に上手にやっていたことは有名ですが、日本政府も沖縄で「辺野古/普天間」の分割統治をやっているようですね。ところで沖縄って日本の植民地でしたっけ?
【ただいま読書中】『アメリカのマドレーヌ』ルドウィッヒ・ベ−メルマンス&ジョン・ベーメルマンス・マルシアーノ 作、江國香織 訳、 BL出版、2004年、2200円(税別)
私は初見ですが、絵本に「マドレーヌシリーズ」というものがあるのだそうで、本書はその一冊です。
パリの大きな屋敷に12人の少女が「2列」になって住んでいましたが、その一人のマドレーヌにアメリカの曾祖父の遺産相続の話が突然舞い込みます。でっかいクリスマスプレゼントです。何しろ、テキサスの広大な牧場と金鉱山と油田とデパートが含まれているのですから(ところで、テキサスの金鉱山って有名でしたっけ?)。
まるで夢のような話ですが、その展開もそして最後もまた「夢」のような終わり方をしています。この絵本を読み聞かせてもらった子供たちは、最後でどんな思いをするんでしょうねえ。
後半に収載されている「サンシャイン」は、ちょっとスクルージっぽい家主とそこの間借り人との、これまた洒落たクリスマス・ストーリーです。
魂のデトックスのためには、たまにはこういった絵本を読むことも、大人にとって必要ですね。
「未来の予言」を聞くと人の行動は変容します。するとそれで「未来」は「未来(2)」に変容します。それを予言したら「未来(2)」は「未来(3)」に。
「未来(無限大)」まで予言しない限り「当たる予言」にはならないわけですが、それって結局「予言」なのでしょうか?それとも単なる現実操作?
【ただいま読書中】『第四間氷期』安部公房 著、 早川書房(世界SF全集27)、1971年、980円
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「電子計算機」「無線電話」「テレビ」などが実用化されている社会での物語ですが、本作が発表されたのが昭和33年(1958)だったことを思うと、ずいぶん「先進的」です。
ところが「データを可能な限りたくさん電子計算機に与えたら、『未来の予言』が可能になる」「冷戦の影響」「共産主義には素晴らしい未来がある可能性がある」といった「古くさい(当時としては「同時代的」な)」思想も登場します。
すべてが「先進的」だと読者がついていくことができませんから、適度に「同時代性」を混ぜることが必要でしょうが、その案配が絶妙です。
さて、そういった時代背景をベースにして進行するのは、「人の未来」を予言するためにデータを集めようとしていて殺人事件に遭遇してしまった学者の、悪戦苦闘です。「胎児ブローカー」「人工胎盤による胎外発生」「水棲哺乳類」という奇妙なキーワードをめぐって、電子計算機の研究を続けるために悪戦苦闘していたはずがいつのまにか冤罪を晴らすために殺人事件の謎を解こうとすることになり、さらに自分自身の子供(や全人類)の未来も心配しなければならなくなる、という驚愕の展開です。また「コンピューターへの人格の“移植"」という当時としては非常に先進的なアイデアも重要な役割を果たしています。
「日本初の本格長篇SF小説」が本作のような傑作であったことは、日本のSFにとっては幸福なことでした。
スパゲッティでは「アル・デンテ」がゆで加減で重要ですが、これは乾麺だから言えることで、生麺だったらそんなことは言えそうもありません。
ということは、ラーメンやそば・うどんでも、乾麺をわざわざ使って「我が店では『アル・デンテ』が売りです」と主張することが可能に?
【ただいま読書中】『根絶』上田哲 著、 現代ジャーナリズム出版会(いるか叢書)、1967年、380円
昭和35年(1960)6月北海道大夕張でポリオが流行しました。はじめはぽつりぽつり、やがて流行地域は拡大し,患者数は激増します。しかし「鉄の肺」は北海道に1台だけでした。
私自身、当時の新聞報道で「鉄の肺」という言葉を知りました。紙面の白黒写真では、何がどうなっているのか詳しいことはわかりませんでしたが。
ポリオ(小児麻痺)には治療薬はありません。ワクチンで予防するのが唯一の手段です。新興宗教と薬草売りがどっと北海道に入りました。また「小児麻痺は大人には無関係な病気だから、大人がこの病気で死ぬのはおかしい」と主張する人も多くいました(だから私は「ポリオ」と表記します)。
北海道衛生部が対策本部を作った7月7日、患者数は182人(前年の7倍)、患者が発生した家には「小児麻痺患者の家」と張り紙が貼られ、子供たちは「隔離ごっこ」で遊んでいました。
ワクチンは準備されておらず、夕張市の神父が自費で母国から3000人分のワクチンを取り寄せて寄付しましたが、「ワクチンの国家検定には2箇月と150万円の費用が必要」と厚生省は主張して譲りません。厚生省が熱心にやったのは、4万5千リットルのDDTと290トンの生石灰の噴霧でした(もちろんこんなものは、ポリオウイルスには無効です)。
怯えた住民は「疎開」を始めます。疎開先で新たな流行が始まりました。
11月中旬までに、患者数1609人、死者106人を数えて、この年の流行はやっと終わりました。
著者は「学問と政治の完敗」と言います。そして、マスコミ人(著者は当時NHKの記者)としての「責任」も痛感していました。
1953年に「ソークワクチン」(ホルマリンで不活化したポリオウイルスを人体に注射する。8箇月の間に3回の注射が必要)が使われるようになり、54年には「生ワクチン(弱毒ウイルスを口から飲む。ソークワクチンより効果が確実でしかも安全)」が発表されました。議論はありましたが、ソ連では58年から生ワクチンの大量生産を始めていました。しかし日本は……
当時東大医学部で使われていた教科書には「ソークワクチンは有効である。70%に効果が認められ、2〜3年持続すると言われている」と書かれていたそうです。日本では医者も「ソークワクチン」と「生ワクチン」の違いなどについてまったく無知だったのです。ただ、インターネットや公共的な文献検索サービスがない時代で、専門家でさえ月遅れで届く外国の雑誌を読むことで“最新知識"を得ていた時代であることは、考慮に入れる必要があるでしょう。
じっと待っているだけでは、厚生省もNHKも動きません。だったらゲリラ的に動くしかない、と著者は仲間を募り、情報集めやキャンペーンを始めす。時は冬。「夏になって爆発的流行が起きてからでは遅い」と焦る人びとがいます。しかし世間一般の反応は「夏になって起きてから考えればよい」でした。しかし、熊本ではすでに63人の患者がでていました。「エマージェンシー(今の言葉なら「パンデミック」)」の始まりです。
厚生省は重い腰を上げましたが、「ソークワクチンはアメリカ、生ワクチンはソ連。だったらアメリカで決まり」という態度でした。ウイルスには東西はないし、それで死ぬのは日本人、ということはどうでも良いことだったようです。
NHKはついに「動く」と決断します。行政では月に1回とかしか情報を報告しないことになっているので、NHKがそのネットワークを生かして全国の保健所から毎日新鮮な情報を集めます。
著者のネットワークの中に、イスクラ産業という商社があり、その社長は、厚生省の正式決定前に、家まで抵当に入れて金を集めソ連に飛んでいました。生ワクチン緊急輸入の交渉です。
流行が始まってからソークワクチンの接種が始まります。量は全然足りず、しかも効果が出るのは7箇月後。しかも厚生省の正式認可が遅れ、そのあとは単価の決定(国内のワクチン業者を保護するために、高い値段をつけようとしてもめました)に時間がかかります。役人は「時間稼ぎ」だけは得意です。
全国でポリオが発生。しかし厚生省は「生ワクチンは『実験』としてだったら投与してよい」と責任逃れを画策します。それまで静観を決め込んでいた新聞各紙は、東京に流行の火の手が上がると一斉に書き立てます。
そして厚生省が「緊急発表」。1300万人分の生ワクチンの緊急輸入です。
なんとか流行を制圧できましたが、著者は「次」を見据えます。麻痺を持っている人の福祉、流行の再発予防、予防行政の確立、生ワクチンの国産化……
本書を読んで「厚生省の役人」のだらしなさにはあきれますが、その「伝統」は(最近の仕事ぶりを見る限り)現在の「厚労省の役人」にもしっかり受け継がれているようです。困ったものです。
万国旗とか万国博覧会とか、どうして「万」を使うのでしょう? 「まん」ではなくて「ばん」と読むから「数」ではないのかな?
【ただいま読書中】『図説 万博の歴史 1851ー1970』平野暁臣 著、 小学館、2017年、4800円(税別)
1851年ロンドンで第一回万国博覧会が開催されました。その“目玉"は、主会場となった「クリスタル・パレス」そのものでした。建物とは石や煉瓦で作られるのが常識だった時代に、4500トンの鉄骨と30万枚のガラスで長さ563m幅143mの巨大建築をわずか半年で建設して見せたのです。「大英帝国の実力」が具体的に示されていました。展示された「テクノロジー」は、蒸気機関車・オーブンレンジ・封筒折り機・車いす……
当然他の列強も黙っているわけにはいきません。1853(〜54)年にはアメリカ・ニューヨークで万博が開催されますが、主会場は「クリスタル・パレス」で、つまりは「ロンドンの縮小コピー」の万博でした。ただ、新興国アメリカが万博を開いたこと自体が、国威発揚には役立ったことでしょう。
55年にパリ。展示で蒸気機関車などの機械ももちろん置かれていて、ロンドンと違うのは実際に動くところがみられること。また目立つのが「植民地」です。「植民地」も「万博コンテンツ」となったのです。
1862年第4回はまたロンドン。ただ、前回の大成功があまりに強烈な印象だったためか、規模では上回っていたのにこの回は厳しい評価でした。日本人が「万博」を知ったのはこれが初めてです。幕府が派遣した文久遣欧使節団が偶然ロンドンに滞在していて開会式に参列。イギリス公使オールコックが収集した日本の美術工芸品や生活用具が「日本コーナー」に展示されていたのも眺めています。
第5回は67年のパリ。日本が初参加しましたが「佐賀」と「薩摩」もまた独自の出展をしていました(「日本大君政府」と同等の扱いで、“幕府の終焉"は海外で先に“展示"されていたわけです)。江戸柳橋の芸者3人が“展示"された茶屋は大人気で、日本大君政府館に匹敵する売上をあげました。
第6回は73年のウィーン。オーストリア=ハンガリー帝国がついに名乗りを上げました。
エッフェル塔が登場したのは89年の第6回パリ。「エンターテインメント」が“万博の駆動力"になると気づかれた回です。エッフェル塔には200万人が押しかけましたが、そこで「来世紀の明るい未来」を予感した人は多かったはずです。写真ではまわりに巨大な建造物が皆無なので、ますますその威容が強く感じられます。
本書の最後は1970年の大坂万博です。私も見物した記憶が残っていますが、高度成長期の終わり頃で、まだ「明るい未来」を夢見ることができましたっけ。こんどの大坂万博では、誰がどんな夢を見るのでしょう? カジノで大儲けの夢かな? なんとも「夢」のない話ですが。
映画やテレビで、冬山で遭難しているシーンで「寝るな! 寝たら死ぬぞ!」と言っていることがあります。
ところで、冬山の野生動物は、どうして寝ても死なないのでしょう?
【ただいま読書中】『パピヨンは死なない』アンリ・シャリエール 著、 長塚隆二 訳、 早川書房、1982年、1600円
第二次世界大戦終了直後、刑期を終えたパピヨンは、ベネズエラ、エル・ドラドの徒刑場から釈放されます。一緒に釈放された仲間のピコリノは、体が不自由で常に介護が必要です。ところが「自由の一日目」に二人は、無料の下宿とピコリノの世話をしてくれる人びとを得ます。さらには色恋沙汰の予感まで。
パピヨンは、冤罪で自分に13年もの辛い思いをさせた人たちに復讐をする気満々です。しかしやくざの道から足を洗ってベネズエラで気のいい人たちと一緒に穏やかな生活をすることにも魅力を感じています。これまでのやくざの道を歩み続けるか、それとも真人間になるか。ここは考えどころです。
考えはしたのですが「復讐」の誘いはあまりに強く、パピヨンはベネズエラでの銀行強盗の誘いに乗り(これは未遂)、“南米のある国"で質屋強盗の誘いにも乗ってしまいます(これは成功)。さらにクーデターの試みにもちょっと関係してしまいます(結果は失敗)。
おいおい、一体どうなるんだ、と思っていたら、何と道路工事がきっかけで運命が急変。パピヨンは新しくできたホテルの何でも屋をやったことがきっかけでコックになり、それがきっかけで探検隊のコック兼ガイドになり、愛する人と出会い、と“真っ当な世界"で生きることを選びます。しかし、フランスで別れてからずっと会えないままだった愛する父の死を知ってまたも復讐の欲望がむらむらと。
ここでパピヨンは気づきます。「復讐」は実は「逃避」だった、と。人生で乗り越えるのが困難な障害にぶつかったとき、彼は「復讐をしよう」と常に思ってそちらに夢中になります。「困難」を乗り越えるのに夢中になるかわりに。そして、そのことに気づいたとき、パピヨンの目の前には「別の人生」が開けます。
ベネズエラに帰化、パスポートを得てどこにでも行けます。「脱走犯」として扱われるフランス以外には。
いろいろあって(その「いろいろ」がまた波瀾万丈です)、61歳になったパピヨンは自分の一生を書こうとします。やっと書き上げて興味を持ってくれた出版社に原稿を持ち込みますが、なんとそこは破産寸前。パピヨンは「おれの人生は本当に波瀾万丈だな」といった感じで笑い飛ばします。これまでの人生と同じように。
昨日の『地球上から天然痘が消えた日』(蟻田功)は昭和の時代の撲滅記でしたが、今日の本は江戸〜明治時代の苦闘についての記録です。
【ただいま読書中】『天然痘根絶史 ──近代医学勃興期の人びと』深瀬泰旦 著、 思文閣出版、2002年、8500円(税別)
嘉永二年(1849)オランダ商館医モーニッケによって痘痂がもたらされます。それを心待ちにしていた蘭方医たちは、さっそく牛痘接種を開始します。
当時は人工的な保存法がないため、人から人へ植え継ぐことで「予防接種」と「“たね"の保存」とを同時に行っていました。だから遠方の地に種痘を広める場合には、植えた子供とその保護者を帯同しての旅行となりました。こうして日本中に種痘は広まっていきましたが、民衆の“抵抗"も強く「牛痘を植えると頭に角が生える」との噂を信じる者も多くいました。ジェンナーの時もそうでしたし、最近だったら「福島の産品」に対する風評もあるし、迷信深い人間がやることは古今東西それほど変わりがないようです。
安政四年(1857)幕府はアイヌに対する牛痘接種を始めます。蝦夷地で貴重な労働力のアイヌが天然痘でばたばた倒れるのを防止するためでした。江戸から派遣された医師は、上記の「植え継ぎ」で「たね」を蝦夷地に持ち込みました。1箇月の旅程で、途中5箇所で植え継ぎの作業を行ったそうです。当時の江戸では漢方の勢力が強く「オランダ医学禁止令」が公布されていましたが、「そんなことを言っている場合ではない」状況だったようです。官医の松本良順もポンペから医学を学ぶために長崎に派遣されましたが、「禁止令」を満足させるために「海軍伝習生」の身分で派遣されています。さらに蘭方医たちが「種痘所建設の請願」を出し、安政五年(1858)老中堀田正睦によって許可されています。この時の蘭方医の数が、従来の「82名」ではなくて実は「83名」だった、と著者は実に得意そうに書いています。ともかくこれで「お玉ヶ池種痘所」が開設されました。ここでは江戸の子供たちへの種痘が行われただけではなく、オランダ医学の教育・訓練や研究も行われ、最終的には人体解剖も行われるようになりました。名称も「西洋医学所」から「医学所」に変わっていきます。明治政府によって医学所は接収されましたが、種痘は継続して行われ、名称はめまぐるしく変わりますが、最終的には東京大学医学部になっています。
お玉ヶ池種痘所を設立したグループの中に「手塚」姓の医師が二人いますが、その一人手塚良庵(のちに手塚良仙光享)はマンガ家手塚治虫さんの曾祖父です。そういえば手塚治虫さんは「陽だまりの樹」というこの時代の医学漫画を描いていましたね。
天然痘に対する「人痘接種」は、中国式やトルコ式が昔から行われていました。トルコ大使夫人メアリー・モンタギューはトルコ式をイギリスに持ち込み,反対を押し切って(まず囚人で人体実験をした後)王立病院で皇太子の娘たちに人痘接種をおこなっています。イギリスでは、ヴィクトリア女王で成功したので無痛分娩が普及したし、王室には“そんな責務"があった、ということなのでしょう。そういえば明治天皇も率先して洋装・肉食・牛乳の飲用、をやって“宣伝塔"となってましたね。
そしてジェンナーが牛痘接種を成功させ、それがはるばる日本にまで普及したわけです。「過去の話」ではありますが、こういった「歴史からの教訓」はこれからも役に立つはず、と私は感じます。
私が子供のころ、新聞に「接種禍」という言葉が見出しに踊っていました。いわば「ワクチン悪者説」で、今でもネットには「ワクチンなんか百害あって一利なし」といった意見があります。たしかにワクチンには「禍」もありますが、最近だったらハシカ、昔だったら天然痘のように、命にかかわる病気に対して使える武器がワクチンしかない状態に対しても「百害あって一利なし」と断言できるのかな、と私は感じています。強いて言うなら「百利あるけれど一害があることも忘れるな」じゃないかしら。
【ただいま読書中】『地球上から天然痘が消えた日』蟻田功 著、 あすなろ書房、1992年、1262円(税別)
2月11日にここに書いた『厚生労働省崩壊 ──「天然痘テロ」に日本が襲われる日』(木村盛世)の中に「尊敬できる厚生官僚」として実名が挙げられていた人の本です。
表紙を開くとまず出てくるのが「切手」の写真です。各国で発行された「天然痘根絶事業を表す切手」あるいは「天然痘撲滅記念切手」の数々です。天然痘撲滅が「世界規模のプロジェクト」であったことを、小さな切手の群れが雄弁に語っています。
1963年リベリア共和国の密林の中、著者はWHOから「西アフリカで天然痘を根絶させるための予備調査」目的で派遣されていました。訪れた集落で、予想外に患者が多いことに著者は驚きます。
天然痘は“古い病気"です。3000年くらい前に死んだ古代エジプトのラムセス5世のミイラにも天然痘の跡がありました。中国では2世紀、日本では6世紀に記録があります(仏教と共に渡来したので、「仏教のせいだ」と仏像が破壊されたり、あるいは「仏教の祟りだ」と恐れられたりしたそうです)。16世紀にスペイン人は「新大陸」に天然痘を持ち込み、免疫を全く持たないアステカ人の多くが死亡、アステカ帝国は滅亡しました。
天然痘は世界中に蔓延していて、だから「天然痘から救ってくれる神様」も世界中にいます。たとえば「シタラ・マタ(ヒンズー教)」「サポナ(西アフリカのヨルバ族。のちにヨルバ族が奴隷として南アメリアに連れ去られ、サポナはブラジルで「オムル」という名の天然痘の神様になりました)」「源為朝(日本)」。
10世紀に中国で「人痘法」が始まります。天然痘患者ののうほうを粉にして鼻から吸い込む予防法です。13世紀のエジプトや15世紀のヨーロッパでは、患者の体から取った材料を腕の皮膚に植え付ける方法がとられました。これらは「軽い天然痘」を発症させよう、という試みですが、つまりは「感染源」を新しく作ることにもなっていました。そこでジェンナーが登場。はじめは「人→人」と植え継いだものを種痘に使っていましたが、19世紀に全世界にこの法法が広まり、19世紀半ばには仔牛を使ってのワクチン製造が開始されます。その結果、フランスでは平均寿命が23歳→38歳、スウェーデンでは35歳→40歳と、ワクチン採用前後で大きな違いが生じています。保健医療体制が整備された先進国では天然痘は激減しました。世界地図で「天然痘発生国」の範囲が少しずつ小さくなり、「天然痘根絶」が現実的な目標として見えてきます。しかし、予算不足・各国の思惑・官僚主義などがプロジェクトの進行を妨げます。1966年のWHO総会で「天然痘根絶対策」は、わずか2票の差で可決。しかし、先進国の多くは反対または棄権でした。先進国の協力がなければプロジェクトは進みません。著者らプロジェクトのメンバーは青ざめます。ただその時思い出したのは、周囲の反対や揶揄や非難をものともせずに「種痘」を推し進めたジェンナーのことです。
まず必要なのは情報です。どこにどのくらいの患者がいるのか。ワクチンの量と品質管理も重要です。そして輸送やワクチン接種の手段と計画。
“敵"は病気だけではありません。厳しい自然、迷信、無知、差別、官僚主義、戦乱……次から次へといろんなものがプロジェクトメンバーの前に立ちふさがります。機器の故障も日常茶飯事。
朗報もあります。「全員」にワクチン接種が必要、と最初は考えられていたのですが、アフリカでの経験で「発生した村を囲うようにワクチンを打てば、天然痘を封じ込めることができる」とわかったのです。労力とワクチンが相当節約できます。かくして、世界各地で患者は激減を始めました。各地域の患者数年次推移がありますが、数字を見ただけで私は感動します。ただ、ここでも“敵"が姿を見せます。見せる、というか、隠す、というか、病気の発生を隠す政府があるのです。まるで「数字をいじれば、それで病気はなかったことになる」と言いたいかのように。他国のことを笑えませんね。今の日本の厚労省の「不正統計」のことを思えば。
1976年エチオピアが「最後の国」として残りました。エチオピアとソマリアの紛争で難民が出て、話はややこしくなっています。それでもWHOの根絶対策員がオガデン砂漠で「最後の患者」を発見します。ところがその直後、ソマリアで天然痘患者が3人発見されます。一体何がどうなっているのでしょう? 手をこまねいていたら、ソマリアからまた世界中に天然痘が拡散する恐れがあります。特に、砂漠の遊牧民にどうやってアプローチするか、が問題です。世界各地で活動していたメンバーはもう手が空いていたので全員ソマリアに集中。最後の封じ込め作戦が始まります(残念ながら日本からはこれという援助はなかったそうです。著者が頼んでも無視されたのでしょうね)。ソマリアのゲリラとエチオピア軍がうようよする砂漠で、「最後の戦い」が始まりました。
「昔の湯治」で私がすぐに思い出すのは、「釈日本紀」にある聖徳太子一家の道後温泉への湯治旅行です。その頃瀬戸内海をはるばる旅行するのは、それだけで“冒険"だったのではないか、と思えるんですけどね。だけど、すでにその地域(海域)は、安全は確保されている「日本」になっていたのでしょう。また、天皇家の人間が長期滞在できるだけのインフラ整備もされていた、ということです。
「予約」はどうやっていたのかな?
【ただいま読書中】『温泉の日本史 ──記紀の古湯、武将の隠し湯、温泉番付』石川理夫 著、 中央公論新社(中公新書2494)、2018年、880円(税別)
記紀には「日本三古湯(道後、有馬、白浜)」がすでに登場しています。これは「温泉」と「天皇」とにすでに「関係」があったことを意味しています。日本書紀では温泉地は「○○温湯」と表記されますが例外的に「温泉」と書かれることもありました。現在の日本の「温泉」は「水温摂氏25度以上」が定義の一つですが、古代日本では「本当のお湯」でないと「温泉(または温湯)」とは認めてもらえなかったようです。
道後温泉は、古事記では「伊余湯」ですが、万葉集では「伊予温泉」になっています。ちなみに中国では、後漢の時代に「溫泉」と書かれた文献が残っています(私には見づらいのですが「温」と「溫」の違いがあります)。
仏教も温泉と強い関係を持っています。全国の温泉の「開湯」に、行基や空海などがやたらと名前を残しています。ただ、「個人」として温泉を発見したのか、あるいは行基や空海の足跡をたどった多くの人たちが山中で修行しているときに湧泉を見つけたのか、はわかりません。
平安時代になると貴族もよく温泉旅行をするようになりました。この行為は「療病」「湯療」と呼ばれていましたあ、平安後期になると貴族の日記に「湯治」が登場するようになります。ただしこの言葉は最初は「自宅内で温水を使って沐浴すること」の意味でした。言葉としての「温泉での湯治」が使われたのは、九条兼実の日記「玉葉」の安元元年(1175)の記述からです。鎌倉時代に入ると「温泉での湯治」は広く使われるようになりました。もっともこの頃には「療養」ではなくて「遊興」が主目的になりつつあったようですが。
鎌倉幕府の成立によって、箱根・熱海・草津など「東日本の温泉」が脚光を浴びるようになります。それぞれの温泉にそれぞれの“物語"があるのですが、「草津」の場合はあたりに漂う硫化水素の臭いから「臭水(くさみず)」と呼ばれていたのが「くさうづ」→「くさづ」→「くさつ」になった、という説があるそうです。「津」と言えば「港」と私は思っていて、だから草津温泉のどこに港があるんだろう?と不思議だったのですが、前は「くさづ」だったんですね。
別府温泉は、奈良時代の「豊後国風土記」に「速見湯」として扱われていましたが、山崩れや噴火の記録はありますが、温泉についてはその後まったく音沙汰がなくなっていました。それが鎌倉時代、一遍上人の名前と一緒に、歴史に再登場しています。そこでは「お湯につかる」のではなくて「蒸し風呂として活用する」ことで温泉開発が加速しました。
中世後期、「山中温泉縁起絵巻」には「温泉町」の光景が活写されています。温泉に入ったら腹は減るしひと休みしたくなるから、温泉町ができるのは当然、ということなのでしょうか。大きな共同浴槽は混浴で、皆が和気藹々と入浴している雰囲気です。江戸時代前期の「山中湯図」では、浴槽が男女別になっていることも示されています。必ずしも「男女混浴は江戸時代の常識」ではなかったようです。
戦国時代には「戦傷者の治療、リハビリ」も湯治の目的となりました。武田信玄は草津温泉を手に入れると「3箇月間使用禁止令」を出して、自分たちの独占使用としました。「信玄の隠し湯」は有名ですが、戦国大名たちはそれぞれに「隠し湯」を持っていました。「いつどこに行くか」がばれると襲われる恐れがありますから「隠す」のは当然、とも言えそうですが。
江戸時代、泰平の世には、計画的な温泉町の建設と、庶民の湯治旅行がブームとなります。江戸時代には「番付」もブームでしたが、当然のように「温泉番付」も出版されました。東の草津・西の有馬が不動の大関です。温泉は東に多いので、西の番付下位には東の温泉地が多く潜り込んでいたそうです。
明治以降は「温泉観光」の時代となります。掘削で得られた“源泉"からのお湯を楽しむだけではなくて“それ以外の楽しみ"を貪欲に求める人たちの動きに、温泉側は対応を迫られました。
私はときどき「のんびり湯治でもしたいな」と思うことがあります。ただ、思うのは思うのですが、朝起きて温泉に入る以外にすることがない生活って、何日自分が耐えられるかな、なんてことも思います。1週間もつかしら?