【ただいま読書中】

おかだ 外郎という乱読家です。mixiに書いている読書日記を、こちらにも出しています。

震災後

2012-02-29 19:06:27 | Weblog

 口では「絆」「復興」「支援」。
 態度は「風評被害」「瓦礫は受け入れ拒否」。

【ただいま読書中】『逃げる百姓、追う大名』宮崎克則 著、 中央公論新社(中公新書1629)、2002年、720円(税別)

 江戸時代、各地の大名は「走り」の禁令を出していました。
 「走り」(欠落・逐電・退転)とは、百姓が許可なく土地を離れて別の土地に移り住むことです。百姓に走られると生産力が落ちるから、大名は困ります。だから禁令を出すのです。禁令があると言うことは「それ」が存在する、ということです。
 11世紀後半から「逃散」というものが日本にはありました。これは「村を挙げての労働争議」です。村人が神水を飲んで団結し、山などに籠ります。帰って欲しければ年貢をまけろ、と要求をし、それが叶えられたら帰村します。対して「走り」は、逃散との厳密な区別は難しいのですが、多くは個人的な逃亡で村に帰ることは前提となっていませんでした(18世紀に一応そのように定義されています)。
 大名は、自領内での走りなら自分で対応できますが、他領に走られると自力では対応できません。そこで、大名間で「人返し」の協定を結びました。また「還住(げんじゅう)優遇策」を採りました。もとの地に帰って住んだら、年貢や賦役を免除したりするぞ、と(「還住」は1603年の「日葡辞書」(イエズス会編纂)に載っているそうです)。ただ、「人返し」と言っても、どこそこの誰を返せ、という指名は逃げられた側の責任ですし、指名されたものが全員返されたわけでもありませんでした。走り者を受け入れた側としては「労働力」を得たわけですから、ほくほくの藩もあったわけです。また、大名同士の関係(仲の良さ)も影響します。仲が険悪だと、交渉も難しくて幕府に仲介を頼んだりしています。
 訴訟関連の史料の分析も面白い、というか、「工事」と書いてあったので「普請関係」に分類されていた史料が実は「公事」(走り者の返還訴訟記録)だった、なんて話からして笑えます。走る者の不満は、年貢だけではなくて、夫役の過重であったこともこの書類からわかります。名古屋城普請に徴用された人夫たちに多くの死者や走りが出ています。また、人身売買が堂々と行なわれていることもわかります。たとえば細川領では、領内での人身売買は禁止されていますが、「例外」として他領者はOKなのです。
 ここで著者は「走り先」(走り者を受け入れる側)の検討を始めます。ここで示される史料によると、特定の時期や特定の村への集中的な「走り」はありません。地縁や血縁を頼りにばらばらと散発的に継続しています。移動距離は大体1~2日行程(50~60km)圏内。走り者の多くには少しとはいえ土地が与えられ「下人」ではなくて「本御百姓」になるものが結構な割合でいました。本書では、本来の百姓が走ったために土地が空いてしまった場合、そこに他国からの走り者を入れて耕作をさせる、という例が紹介されています。村にとっても、連帯責任で年貢を納めるのに、無主地があるのは負担ですからたとえ他国からの走り者(細川領では「牢人」と呼ばれました)であっても、“労働力”は歓迎でした。たとえば慶長年間の近江国の検地帳では、耕作地の1割くらいが「失人」によって放棄されていたのです。また、新田開発にも新しい労働力が必要です。ですから「ウエルカム」なのです。
 ただ、17世紀後半になると、生産力が上がり人口が増え始め、百姓は定着する傾向を見せるようになります。すると大名は「走り」に対する興味を失い始めます。たとえ少数の走りが出ても、年貢は村の請負にすればいい、と。 さらに、家臣の知行地が細分化されて存在することも話をややこしくするため、「村の代表」を通しての支配になっていきます。すると定着農民側の行動も、「走り」から「一揆」へと変化していきました。
 江戸時代の武士が必ずしも知行地と密接な関係を持っていなかったことは19日の読書日記に書いた『武士の家計簿』に詳しく指摘されていました。そして、農民もかつては必ずしも「土地に縛りつけられた存在」ではなかったようです。日本の「封建制」というのは、実はなかなか面白いものだった様子です。



オリバー・サックス

2012-02-28 19:01:22 | Weblog

 ロンドン生まれの神経内科医で作家です。一般には『レナードの朝』の原作者として知られているかもしれません。
 この13日に彼の『左足をとりもどすまで』を読んだばかりですが、その本で取り上げられる題材と語り口の面白さだけではなくて、私が驚くのは彼の読書歴のすごさです。作中でさりげなく引用・言及される本の質と量は半端ではありません。こんな読書家には、ただただ頭を垂れるばかりです。憧れちゃうなあ。

【ただいま読書中】『妻を帽子とまちがえた男』オリバー・サックス 著、 高見幸郎・金沢泰子 訳、 晶文社、1992年、2900円(税別)

 神経機能の“喪失”について、論文ではなくて「物語」として書かれた本です。それぞれの「機能障害」を抱えた人の人生が、生き生きと描かれます。あ、言い直します。書かれているのは「神経機能の喪失」ではありませんでした。「神経機能の喪失を持って生きる人の人生」です。ですから最近の「脳科学」のように「どこそこのなんとか野の障害でこれこれしかじかの障害が生じている」なんて記述は登場しません。
 「妻を帽子とまちがえた男」Pは、左側の空間が存在することに気がつかず、人の顔も区別できません(よほど特徴のある鼻とか黒子が見えた場合には、そこから論理的に推察してその人が誰かはわかります)。
 「ただよう船乗り」ジミー・Gは、20歳の時から新しい記憶を持つことができなくなりました。1分くらいで記憶が蒸発してしまうのです(『博士の愛した数式』(小川洋子)に出てくる博士のようです)。
 「からだのないクリスチーナ」は、固有感覚(体の位置・動き・緊張の感覚)が完全に失われてしまいました。自分の体の存在感が失われてしまい、コントロールが不能になってしまったのです。クリスチーナはそれを「視覚」で補おうと努力します。「姿勢」のかわりに「ポーズ」をとります。
 「ベッドから落ちた男」は『左足をとりもどすまで』でも紹介されていた話です。入院してある朝目覚めたら、「死体から切り取った足」がベッドの中に突っこまれていることを発見。仰天してその足をベッドから放り出したら、なぜか自分までもがベッドから落ちてしまった。医学ミステリーですね。
 脳性麻痺で盲目、生まれてから手を使ったことがないためか、「手を使う」という概念を持たないマドレーヌ・Jやサイモン・Kがどうやって「粘土のかたまり」のようだった自分の手を使えるようになったか(「マドレーヌの手」)。思わず自分の手を見つめてしまいます。
 失語症の患者たちがなぜレーガン大統領の演説をテレビで聞いて爆笑していたか(「大統領の演説」)。これにはこちらも爆笑です。
 第1部では以上に挙げたような「喪失(機能的欠陥)」が集められていました。第2部はその逆「過剰」です。トゥーレット症候群(動作だけではなくて全人格にチックが生じる)、脳梅毒による興奮、コルサコフ症候群(果てしない作話)などが並びます。
 第3部は「移行」。追想とか嗅覚による世界認識、悪夢、幻視…… 話は少しずつ複雑になっていくように私には思えます。
 第4部で扱われるのは、知的障害者の「心の質」です。子供や未開人とも共通するそれは「具体性」です。抽象的なことが理解できないからこそ、現実を直接理解しようとする彼らの心の動きを、抽象概念を操る人間はなかなかきちんと理解することができません。そこで著者は「ロマンチックな科学」が必要だと説きます。著者が出会った「知恵遅れの天才(イディオ・サバン)」や「詩人」「数(特に素数)が見える人」が登場します。ここで感動的なのは、そういった人たちの姿だけではなくて、そういった人たちの本質をきちんと見ようと目を凝らしている著者の姿です。知能指数が60で、掛け算や割り算が全然できない兄弟が、突然散らばったマッチ棒が111本であることを一瞬で「見」、同時にそれが3つの素数の和であることもわかるシーンがあるのですが、著者はそこから「数字と対話する(数字も彼らに返事を返す)」彼らの世界がどのようなものか、叙情的に表現します。「自閉症の芸術家」に対しても同様です。
 繰り返しになりますが、本書は「こんな変わった症例がある」のカタログではありません。自分には想像もできないような障害をかかえて、それで生きている人がいて、そういった人たちが(私たちとは違ったやり方で)回りの世界と相互作用をしている、その作用の物語です。本書を読んでいたら「この世界」は本当に「私が見ているとおりの世界」なのか?という疑問が湧いてきます。明らかに「違う方法」で「この(あるいは違う)世界」を見ている人がいるのですから。もしかして「この世界」は、私が自分の能力で限定的に認識しているものとは、実はまったく違うものなのかもしれません。



ジャンル分けと順位

2012-02-27 19:08:34 | Weblog

ジャンル分けと順位
 文学賞というのはそれぞれの賞にふさわしいものに与えられます。たとえば芥川賞は「新人の純文学」・直木賞は「ベテランの娯楽小説」と私は認識しています。したがって「候補作品」はまずそれぞれの「ジャンル」によって分類されてしまいます。どんなに優れたものでもたとえば「新人の娯楽作品」は芥川賞の候補になることはありません(私の認識が正しければ、ですが)。
 さて、めでたく5作品(でしたっけ?)の候補のラインナップに入ったとしましょう。次に問われるのは「5作品の何番目であると評価されるか」です。「1番」だったら受賞はまず間違いないでしょうが、それでも「受賞作なし」となる場合だってあります。「3番以下」だったらもう受賞の目はありません。
 で、ここで私は思うわけです。選考委員は候補作すべてについていろんなことを言いますが、候補の選択から漏れた中に、実はもっとすごい作品がある可能性については何も言わないんだなあ、と。まるで「メニューに載っていない料理は一切注文できないレストランの客」みたいだな。

【ただいま読書中】『共喰い』田中慎弥 著、 文藝春秋2012年三月特別号、848円(税別)

 「小説」を私は、「世界」を「ことば」で表現したもの、と思っています。「世界」は、「現実」から「完全な虚構」までグラデーションのかかったものです。小説家はその「世界」のどこかに焦点を合わせ、そこで「自分のことば」を使い始めます。「ことば」は「紡ぐもの」であったり「切り出すもの」であったり、それは様々です。どんなことばをどんな風に使うか、それも小説家が選択します。こうして「他の人には書けないオリジナル作品」が登場します。
 芥川賞を受賞した『共喰い』で扱われている「世界」は、「現実」にひどく近いにおいがします。この地球上のどこかに本当に存在するかもしれない「現実」。そしてそこで著者によって使われる「ことば」は、作中に登場する「釘針」のような、鋭くて突き刺さったらがっちり固定はできるものの、すくい取れる範囲はずいぶん狭く限定されているもののように私には感じられました。たとえば「セックスをする」という表現が何回も出てきます。だけど、私だったらべつの「ことば」を使おうとするでしょう。このままだと「セックスの時に女を殴りたくなる」のは「欲望の発露」となってしまい、「勃起したペニスで障子を破る」のと同等のものでしかなくなってしまいますから。それだったらわざわざ「新しい作品」を登場させる意味はありません。せっかく「息子の中にある父の暗い影」と「父の中にある息子の暗い影」の相互作用のコワサを描いているのだから(私は本作を一種のホラー小説として読みました)、「セックスをする」ではなくてもっと「文学的な表現」が欲しかったなあ。
 たまたま本屋で「芥川賞発表」の文字が目に飛び込んできたので発作的に購入しましたが、この雑誌はお買い得ですねえ。受賞作以外のところでも、いろいろ読み応えがあります。これで税込み890円とは安いなあ。



無責任監督

2012-02-26 17:30:34 | Weblog

 「投資顧問会社の監督を強化する」と政府が言っているそうです。
 これで私が想起するのは、2005年の「耐震偽装問題」です。監督官庁がちゃんと“監督”せずに民間に丸投げで好きにさせていて、それで大問題が発生してからあたふたと「監督」を強化する、という点がそっくりですので。というか、官僚はあの事件からきちんと学んでいない、ということなのでしょうか。
 ところで、日本の「監督官庁」の“監督”って、正直者を苦しめて、嘘つきは栄えさせる傾向がありません?  私自身、政府の監督を受ける業界に身を置いていますから“偏見”があるのかもしれませんが、監督官庁の一番の興味は「権限を振りかざすこと」であるようにしか見えないことがあるんですよねえ。非論理的で不合理な行政指導がはびこっていますから。「国民の利益」はだから、二の次。あ、違った。お役人様が大事にしているのは、「人事」が二番目、「自分の老後の確保(天下り)」が三番目のように見えるから、国民の利益は四の次だ。

【ただいま読書中】『アメリカにおける秋山真之(上)』島田謹二 著、 朝日新聞社(朝日選書52)、1975年、1200円

 日清戦争が終わって1897年に米国留学を命じられた秋山真之は、素晴らしい論文を発表している退役大佐マハンのアドバイスを受けて、猛勉強を始めます。当時アメリカは近代海軍を作り始めたところでした。“後進国”だからこそ、新しい発想で合理的な海軍を構築しようとしている態度に、秋山は驚きます。用兵・戦術・人事・造船など知るべきことは豊富にありますが、さらには「報告の書き方」まで秋山は学びます。アメリカには“良いお手本”があったのです。
 当時日米関係は「ハワイ合併」をめぐってごたごたしていました。しかし「国益」を見たら、ハワイよりはアメリカの方が重く、日本海軍は二等巡洋艦を二隻アメリカに発注します。それが、のちに日本海海戦で活躍する「笠置」と「千歳」です。
 エスパニアが植民地としていたキューバでは独立運動が起きていました。「圧政からの自由」というスローガンはアメリカ人の心をくすぐります。アメリカの干渉を恐れるエスパニアは、多国間の外交による解決を試みますがヨーロッパはまとまらず、国内では保守党政権のカノバスが虚無主義者に暗殺されるなどの混乱があり、アメリカのマスコミは金切り声を上げ続けます。そして、ハバナ港に停泊していた戦艦メーンが爆沈。死傷者多数ですが、日本人もコックやボーイとして8人乗り組んでいてうち6名が死亡しています。アメリカのイエローペーパー(代表はハースト系の新聞)は「エスパニアの挑発」と憤激し、戦争を煽ります。「エスパニア艦隊」がやってきてアメリカの東海岸を砲撃して回るぞ、と。
 本書には両国海軍力のデータも載せられていますが、戦艦部門ではアメリカが優位、エスパニアは装甲巡洋艦で優位、と言ったところで、紙の上ではそれほどの優劣は見えません。国内事情とか士気の点ではエスパニアは劣勢。補給や修理の点ではエスパニアは絶望的でしょう。
 アメリカ議会は、キューバ独立を認め、キューバのエスパニア人を追放する権利をアメリカ大統領に認めます。エスパニアは当然それに反発。かくして米西戦争開始です。まずは極東。マニラ湾で両国のアジア艦隊が戦闘し、米国の圧勝。
 次は大西洋です。スペインを出発したエスパニア艦隊の行方をアメリカは必死に探ります。大西洋を越えてきたエスパニア艦隊が石炭などの補給に立ち寄る第1候補はプエリト・リコのサン・ホワン港です。アメリカ艦隊がそこで待ちかまえていることはエスパニアも承知のはず。ではどうするか。お互いに、相手の出方を読み合い、給炭に苦労し、少しでも自分たちに有利なように状況を変えようとします。エスパニア艦隊はついにサンチャーゴに入港、アメリカ艦隊はその外側で封鎖線を敷きます。
 秋山は「軍事視察」という名義で「観戦(文字通り、戦争を観る)」をすることになります。これも“勉強”なのです。各国の海軍武官は戦艦に泊まり込みます。
 キューバのエスパニア陸軍は10万の大軍でした。それを降伏させるためには、アメリカ陸軍(数と武装ではエスパニアより劣勢)の力だけではなくて、制海権も必要です。サンチャーゴ港封鎖のために、給炭船を自沈させる作戦が行なわれました。
 秋山大尉は、この戦争をその目で見ていたわけです。もちろん彼も、兵学校で学び英国に留学し日清戦争での戦闘体験を持っています。しかしアメリカで「戦争(全体像)」を掴むことができ、さらに作戦が「上手くいく場合」と「上手くいかなかった場合」の両方を見ることによって、秋山の才能が大きく開花したのではないでしょうか。なにしろ、のちの日露戦争での“予告”がたっぷりあちこちに散りばめられているのですから。
 逆に言えば、「机上の空論」しか知らない人間が戦争の指揮を執るのは、とっても恐いことだと言えるでしょう。素早く損害が少ない勝利を得られる確率が減ってしまいますから。だからとしって、軍人の戦争体験を豊富に積ませる、というのは、つまりは「もっと戦争を」ということになってしまいます。う~む、これは困った。



安定政権

2012-02-25 18:04:39 | Weblog

 私は自民党の佐藤政権の記憶をまだ持っています(と言っても具体的に残っている記憶は「栄ちゃんと呼ばれたい」とか「新聞記者とは話さない。テレビカメラはどこ?」といった、政策とは無関係な枝葉のことだけです)が、この政権の一番の特徴は「長期安定」でしょう。今の、学校の生徒会長のように毎年新しい人が総理大臣をするのとはまったく違っていました。
 ところが“同じ”こともありました。それは、マスコミの政権批判。長期安定を褒めるのではなくて、スキャンダルとか腐敗とか、まるでこの世の終りのような騒ぎ方でしたっけ。長期安定が気にくわないぞ、と(だから最後には「新聞記者とは話さない」になってしまったのですが)。
 ……え~、長期はだめ、短期もだめ、ということになると、マスコミのお好みは中期? “賞味期限”が切れかかった頃(マスコミが“次のネタ”が欲しくなった頃)にちょうど政権が交代してくれる。そんな都合良く世の中が動くわけないですよねえ。というか、そもそも「世の中」はマスコミの都合のために存在しているわけではありませんってば。

【ただいま読書中】『Q.E.D. 証明終了(30)』加藤元浩 作、講談社(講談社コミックス1149)、2008年、400円(税別)

 某所でヒト型ロボットについて書いたら、それについたコメントで紹介された本です。「人形殺人」「犬の茶碗」と2話収載されています。
 主人公は、マサチューセッツ工科大学を15歳で卒業し、日本に帰国して高校に再入学した超天才児、燈馬想(とうま そう)。ジャンルは、推理マンガです。流血がないわけではないですが、謎と人間の心理をめぐって相当理詰めで話が進みます。あちこちに伏線が張ってあって、一コマも見逃してはならないような気分にさせられてしまいます。

 「人形殺し」は、文字通り「人形」が殺されるお話。ホームズの「踊る人形」では、「人形」はただの「記号」でした。しかしここでの「目鼻がついた人形」は、いわば「人間の代理」として機能しています。「人は、人型のロボットが破壊されることに、耐えられるか?」という問いが、なかなか面白い。
 「犬の茶碗」は、落語の「猫の皿」が元ネタとなっています。「古典的なやり方で行こう」と言って燈馬少年が使う策略が、なまじっか落語を知っているだけに、笑えます。もちろん、落語を知らなくても、笑えます。
 まだ二作だけなので断言はしませんが、なんとなく私と“リズム”が合う作家のようです。時間を作って、第一巻からじっくり読んでみたくなってしまいました。



定量・定性・反応の制御

2012-02-24 18:30:00 | Weblog

 台所での料理と、理科室での化学実験と、基本的には似ていません?

【ただいま読書中】『実況 料理生物学』小倉明彦 著、 大阪大学出版会、2011年、1700円(税別)

 「料理生物学入門」は正規の大学の基礎セミナーです(でした)。受講資格は「何でも食べられること」。15人くらいの小規模体験授業で“学んだ”ことの記録が本書です。
 まずは「カレー」。コロンブスが新大陸から持ち帰った様々なナス科の植物を材料に「心皮」「子房」と言った言葉を学びます。うらやましいことに、明治5年に出版された日本最初のカレーレシピどおりに作られたカレーの試食会があります。鶏・海老・鯛・牡蠣が入った豪華なカレーですが、もう一つ意外なタンパク源が。
 第2講は「手打ちインスタントラーメン」。班分けをして、うどんとスパゲッティも手打ちをします。粉をこねて寝かしている間の講義で、それぞれの麺でタンパク質のSS結合を行なうメカニズムが異なることがよくわかります。
 第3講は「ホットドッグ」。腸詰めを手作りします。しかし、挽肉をこねこね(混捏)したときに出てくる粘りは、細胞が壊れて出てきたDNAによる、って、ご存じでした? なるほど、だからちょっと水を加えて浸透圧で細胞が壊れやすくするんですね。(食品工業ではさまざまな増粘剤が使われますが、魚の白子も核酸系の増粘剤として使われるのだそうです。DNAがやたらとリッチな材料ですから)
 第4講は「お茶」。お茶とコーヒーの関係が生き生きと語られます。というか、著者は何でも生き生きと語るんですけどね。
 第5講は「焼き肉」。牛の第1胃から第4胃のそれぞれの機能と形態の関係、焼くと色が変わるのはメイラード反応、シュールストレミング体験記、キムチの効能……これが授業? いや、たしかに知らないことが次々出てきて楽しい“授業”です。
 あとはお酒とデザートで、みごとな“フルコース”が完成しています。
 料理を入り口として、生物学だけではなくて、歴史や文化や医学など、蘊蓄の限りを尽くした本です。この本自体を楽しむのも良し、この本を“入り口”として、興味を持った方向に少し深掘りをしてみるのも良し、様々な楽しみ方ができます。



ゴール設定やアセスメント

2012-02-23 18:40:02 | Weblog

 法律や条約などを変える場合には「改正する」といいます。たとえ結果的に改悪の場合であっても「より正しくするぞ」という意志をそのことばで示しているわけ。ところが「変革」とか「改革」の場合には、その「より正しくするぞ」という意志の表明さえありません。下手すると「とにかくぶっ壊せば良いんだ」という「現状の否定」にだけ全力を尽くす人がいます。
 個人の場合、「現状の否定だけ」で始まると「成長」ではなくて「(存在しない)本当の自分探し」になるのがオチです。それは「変えること」が手段ではなくて目的となっているから。
 「日本の改革」の場合、「現状の否定だけ」で始まると結局何がもたらされるのでしょう?

【ただいま読書中】『音楽療法のすすめ ──実践現場からのヒント』小坂哲也・立石宏昭 編著、 ミネルヴァ書房、2006年、2200円(税別)

 本書には「音楽療法の定義」がいろいろ紹介されていますが、欧米のものは基本的に「音楽療法士が患者(クライアント)に提供する音楽的なプロセス」となっています。ところが日本には「音楽療法士」が公的な資格として存在しません。そこで日本での定義は「音楽を使った治療プロセス」といったものになってしまっています。「人と人との間に存在する治療プロセス」ではなくて「もの」としての「治療プロセス」となっているところが、ちょっと寂しく感じます。
 旧約聖書「サムエル記」には、ダビデが竪琴を演奏することでサウルの悪霊が追い払われ精神が癒された、というエピソードがあります。18世紀にはイタリアのカストラート歌手ファリネリがスペイン王フェリペ5世のために歌い、王のうつ病が回復したそうです。バッハの「ゴールドベルク変奏曲」は、ロシア大使カイザーリンク伯爵が不眠症を癒すためにバッハに依頼したものだそうです。1940年代のアメリカでは、心身が傷ついた帰還兵のために音楽レクリエーションが行なわれ一定の効果を示しました。これが近代的な音楽療法の始まりのようです。
 実際に使われている「評価票(アセスメント)」は、MCL−S、UCMA、DMTS、MCL、と様々です。脳卒中後遺症、認知症、発達障害児など対象者によって使い分けられています。
 重複障害をもった肢体不自由児の場合、児の身体・心理・感情・社会性などに働きかけることが音楽療法の目的となります。ここで忘れてはならないのは「母子関係」です。自閉症児への音楽療法でも同様のことが言われています。
 知的障害者や精神障害者、認知症高齢者、末期患者、不妊症の人などの事例も具体的に挙げられています。方法はいろいろですが、そのどれも「他職種との連携」「肯定的な対応」の大切さを挙げているのが印象的でした。
 難しいのは「効果を定量的に表現しにくいこと」です。「効果があった」としても、それが主観的な表現でしかなかったら、音楽療法は客観的な共有可能なものになりません。だけど、「効果」があることは間違いないわけで、だとすると一体どうしたらよいのでしょう。
 ただ、音楽療法を行なっている部屋の前を通ったその病院のスタッフが「私もこれを受けてみたい」と言う例が紹介されています。医療のプロが受けたくなるのだったら、たぶん音楽療法は“ほんもの”なのでしょうね。



「報道によれば」と言う人

2012-02-22 18:38:28 | Weblog

 「報道」は100%真実だと信じている。
 「報道」と言えば、相手が納得すると思っている。
 それ以外に相手に注目してもらうせりふの手持ちがない。
 その「報道」が正しいかどうか自分では調査していない、と告白している。

【ただいま読書中】『争うは本意ならねど』木村元彦 著、 集英社インターナショナル、2011年、1500円(税別)

 2006年、沖縄出身のJリーガー我那覇和樹はオシム監督の下で急成長をしていました。
 明けて2007年、体調を崩して脱水状態となっても無理をしていた我那覇は、チームドクター後藤に相談して大嫌いな点滴を受けることになります。ビタミンB1を入れた生理食塩水です。それをきちんと取材もせずにサンケイスポーツは「秘密兵器のにんにく注射」と報じ、その記事がJリーグのドーピングコントロール委員会でドーピング禁止規定に抵触するとされて川崎フロンターレに通達、我那覇はACL出場自粛とされました。後藤は「禁止されている健康体へのにんにく注射ではなくて、脱水状態への生理食塩水とビタミンB1である」とチームに報告しますが、無視され、後追いをした毎日新聞も事実を確認せずに「にんにく注射」と重ねて報道します。
 Jリーグのドーピングコントロール委員会でヒアリングが行なわれますが、これは完全に“魔女裁判”でした。「にんにく注射をした」という結論が先にあり、それを球団(と本人)に認めさせるための“手続き”だったのです。しかしここで“裁判官”をやってる青木治人さん、医学知識もろくにないくせに偉そうに医者に治療方法(それも明らかに変なもの)を指示するわ、「世界の規定を守れ」というくせにその規定を“解釈”で平気でねじまげるわ、選手がどのくらい体の不調を隠して頑張るかはまったく無視するわ、まったくすごいことを平気でやる人です。その議事録を読んだJリーグのチームドクターたちは義憤に駆られます。なんと31チーム全部のチームドクターが立ち上がります。Jリーグへの質問状とマスコミ向けのリリースを発表したのです。これは単なる個人のドーピング事件ではない、大切なJリーグの選手のメディカルの問題である、と。後藤はチームから退職勧奨を受けます。我那覇は出場停止、球団には1000万円の罰金。
 メディアは動きますが、Jリーグは動きません。チームドクターたちは次のアクションに挑戦します。JADA(日本アンチドーピング機構)への問い合わせと公式回答の引出しです。ただ、当時JリーグはJADAに加盟していませんでした。回答が来るかどうかは不明、来ても我那覇の「ドーピング」が“冤罪”であると書いてあるかどうかの保証はなし、書いてあったとしてもJリーグが「JADAには加盟していないから関係ない」と主張するかもしれません。それでもドクターたちは動きます。青木が自分の意見に固執するあまり“実害(緊急で治療が必要な選手でも、まずリーグの裁定をもらわなければならなくなったため、治療(点滴や手術)が遅れる)”が出始めたのです。
 連絡会議は、チームドクター全員VS青木の様相となりました。しかし青木さん、達人ですね。都合の悪いことは平気で無視・論点ずらし・プラフ・作話などディベートのテクニックを駆使しています。川渕会長も青木擁護に動いています。はじめにマスコミに「我那覇はクロ」と口を滑らせてしまったために「組織のメンツ」を守るための“頑張り”が始まったのです。
 WADA(世界アンチドーピング機関)からの公式回答は「我那覇はシロ」というものでした。文科省はWADAに従うことにします。鬼武チェアマンはチームドクターの“首謀者”を叱責することで事態を収めようとします。
 FIFA(国際サッカー連盟)からも、ドクター側を是とする回答が来ます。日本サッカー協会は無視します。
 残るはJSAA(日本スポーツ仲裁機構)への申し立てです。どこかの頑固者のせいで、話がどんどん大きく(国際的な恥さらしの方向に)なってしまいます。しかし、川崎フロンターレは仲裁を拒否。我那覇本人が望んでいないから、と。
 ところで我那覇は「蚊帳の外」でした。サッカーに集中させようと、どの人も彼には事の次第を教えていなかったのです。しかし詳しい事情を知った我那覇は決意します。JSAAに申し立てよう、と。しかしその声は無視されました。残された場はJリーグの希望で、CAS(スポーツ仲裁裁判所)。裁判所の場所はスイス。料金は翻訳だけで1500万円以上を覚悟しなければなりません(使用言語を、我那覇は日本語を希望しましたが、Jリーグは英語を希望したからです)。“敷居”を高くしたら我那覇はあきらめるだろう、という目論見があったのではないか、という疑いがあります。それも濃厚に。我那覇にそんなお金はありません。しかし、自然発生的に募金運動が始まります。Jリーグ内外から。弁護士も集まります。
 結果は「Jリーグが我那覇に対して行なった公式試合出場停止処分の取り消し」「仲裁費用はJリーグの負担」「我那覇の弁護士費用などのうち2万米ドルをJリーグが負担する」「Jリーグの費用は自己負担」……我那覇側の完全勝利です。ところが、詭弁と誤訳でJリーグ側はごまかしをはかります。まことに見苦しい態度ですが、それを信じる人もいるようです。なお、47項や48項はCASが出した原文(英文)と、それに対する我那覇側の翻訳とJリーグ側の翻訳が並んでいます。興味のある方は「双方の主張」ではなくて、原文を読んで自分で判断したら良いのではないでしょうか。高校程度の英語力があればたぶん大丈夫ですよ。(しかし「我那覇がドーピングをしたかどうかについては(していないことが最初から明白なのだから)論じる必要さえない」(私の訳)がJリーグにかかったら「ドーピングについて論じていないから、ドーピングをしたかどうかの決着は結局きちんとついていない」になるのですから……)
 権威と強弁と詭弁と恫喝で世界を何とかしてきた人たちの醜さが、議事録などからの「生のことば」でよくわかります(読み込むのはちょっと疲れますが)。著者は自戒を込めてこう言っています。これは「我那覇事件」ではなくて「青木問題」「鬼武問題」「川渕問題」である、と。それはそうですよね。我那覇はドーピングをしていない(つまり「問題」を持っていない)のを「問題だ」と言い募った人の方に何か「問題」があるわけですから。



悪い知らせをもたらす使者にはなりたくない

2012-02-21 19:20:05 | Weblog

 「悪い知らせ」を宴曲に言ったり遠回しに言うと、まったく理解してくれない人がいます。ところがそういった人にわかるようにストレートに言ったら、「知らせの悪さ」を理解できた瞬間、そういった人は「悪い報せをもたらした使者」を憎むことに全力を尽くします。結局、そういった人の場合、「悪い知らせ」は、無視されるか対策を取るのが遅れてずっと放置されたまま、ということになってしまいます。困ったものです。

【ただいま読書中】『組織事故とレジリエンス ──人間は事故を起こすのか、危機を救うのか』ジェームズ・リーズン 著、 佐相邦英 監訳、 (財)電力中央研究所ヒューマンファクター研究センター 訳、 日科技連、2010年、4000円(税別)

 30年以上「組織事故」について研究してきて、著者は「人間の不完全さ」にちょっと食傷してしまったのでしょうか。本書では「人間の驚異的なリカバリー」にも注目してみよう、とのことです。著者は本書を「複雑で潜在的な危険性を有するシステムの管理における哲学書」と定義づけます。内容は「リスクを合理的に実行可能な限りできるだけ低く保って、そのうえでビジネスを継続できるように、潜在的に危険性を有するシステムのなかで生じる問題への対処方法について述べる」こと。
 まずは「エラー」と「違反」を「不安全行動」とまとめて著者は扱います。ただし、「不安全」かどうかは結果論です。結果として「安全」になる場合もあるものですから。
 「スイスチーズモデル」の時代変遷は、私には興味深いものでした。私が知っているのは一つだけでしたので。
 直接観察によって、航空機の操縦室内では年間1億件のエラーが生じている、と推測されました。しかし実際に起きる事故は機体損傷事故が毎年25~30件です。イギリスで165件の新生児の心臓の大手術の直接観察から、手術1件当たり平均7個のエラーが見つかりました。しかしそれはすぐにリカバーされ子供の死亡率には影響を与えていませんでした。では、どうやって「エラー」がリカバーされていたのでしょう。
 本書の後半では、まず「スペイン独立戦争での撤退戦」「朝鮮戦争での撤退戦」「タイタニック号沈没に急行して生存者救助を行なったカルバチア号の行動」「アポロ13」「ブリティッシュ・エアウェイズ09便(飛行中に火山灰によって全エンジンが停止)」……などの実例が挙げられます。「ヒーロー」たちの紹介です。さらに外科手術の分析から「優秀な外科医」とは「正常から逸脱した事象に対して上手く対応できる能力を持っている」ことがわかります。それと「柔軟な楽観性」も。そういった外科医個人の資質だけではなくて、「チーム」もまた重要であることが本書では述べられます。そういえば、本書で挙げられている航空機の事例でも「ヒーロー」は基本的に一人ではありませんでした。
 「驚異的なリカバリー」の源泉は何でしょう。言い換えると「生まれてからこれまで出会ったことがない突発事に、短時間で最適の回答を出す秘訣」とは何か、です。それを簡単に述べることは困難ですが、著者は二つの要因を抽出します。「現実的楽観主義」「古いことと新しいことのバランス」。それによって「起ってしまった悪いことからのリカバリー」が生まれるようです。
 さて「組織事故」については「個人を責める」から「組織で事故を予防するようにする」に社会は少しずつ変化しています(まだ「個人を責めればいい」と思っている人も多くいますが)。しかし著者はそこからもう一歩先に行っています。「レジリエンスを高めればいい」と。ただ、そのためには具体的にどうすればいいのでしょう。著者の次の著作を待つか、自分で考えるか、でしょうか。


国策

2012-02-20 22:39:34 | Weblog

 かつてホンダが自動車生産に乗り出そうとしたとき、官僚はそれを妨害しました。
 かつて官僚は、原発を推進しました。

【ただいま読書中】『石巻赤十字病院の100日間』石巻赤十字病院 + 由井りょう子 著、 小学館、2011年、1500円(税別)

 2011年3月11日午後2時46分。それから4分後に石巻赤十字病院では災害対策本部が立ち上がりました。停電のために自家発電に切り替わった病院内では、マニュアルと訓練通りに人びとが動き、地震発生から1時間経つ前には正面玄関にトリアージエリア設置(トリアージとは、大災害時の非常事態にまず患者に優先順位をつけて振り分けること)と医師の配置が終わりました。
 しかし、初日はまだ事態は緩やかでした。予想以上に重症者の搬送はなく、午後8時には2/3の職員に帰宅指示がでます。災害対策本部は3交代24時間態勢を考えていました。ところが職員は帰れませんでした。津波による冠水と瓦礫によって、道が不通となっていたのです。午後9時40分、自衛隊が防災行政無線を求めて来院します。津波で孤立した市役所とやっと連絡が取れ、以後自衛隊は病院を拠点とします(これは本来あり得ないことだそうです)。
 やがて、帰宅困難者や周辺住民が、あたりで唯一明かりがついている病院に集まり始めます。それから、傷病者も。“想定外”だったのは、低体温症患者の多さでした。それと、海水と油や汚物を吸い込んだための津波肺。
 夜が明けて、不眠不休の戦いが始まります。救急車や自衛隊によって患者が続々と運び込まれるようになります。記録では13日には63機のヘリコプターが患者を運び込んだそうです。ふつうは一機に患者一人ですが、この時には数人いっぺんにということもあったそうです。非常時です。あまりの忙しさに時間感覚を失い、病院の職員で地震後数日の記憶がはっきりしない人がけっこういるそうです。病院は野戦病院と化します。ただ、日本各地からの応援部隊(救護班やDMAT(災害派遣医療チーム)などの医療チーム)も続々と到着するようになりました。しかしメディアは来ませんでした。来たのはやっと3日目になってからです。もっとも来てからの“宣伝効果”は抜群だったそうですが(「物資が足りない」ことを具体的に訴えることで、支援物資が続々届くようになったそうです)。
 不幸中の幸いで軽症で治療がすんだ人も、帰宅できませんでした。家も交通手段もないのですから。病院は巨大な避難所になってしまいます。そこで市が手配した巡回バスで病院と避難所を結ぶことにします。それに対して「病院から追い出すのか」と食ってかかったり、診察の順番をめぐって殴りあったり、それを止めに入った職員を蹴ったりする人がいるのには、悲しくなります。本書にはそういった例はほんのわずかしか紹介されていませんが、実際にはもっと非道い状況もあったのではないか、と私は想像しています。本書の別の場所にある言い回しですが「大災害では、人の真の姿が見える」のです。
 そうそう、昨年10月27日の読書日記で書いた『6枚の壁新聞 ──石巻日日新聞・東日本大震災後7日間の記録』に出てくる記者の一人は、津波に巻き込まれて死にかけたところをやっと救出され、この病院に入院していました。トリアージでは黄タグだったそうです。
 水タンクが空になりそうです。資材(トイレットペーパーなど)がどんどん減ります。エレベーターは動きません(自家発電はありますが、一度停電で停まったエレベーターは専門業者が点検する必要があります。その業者が病院にやってこれないのです)。
 1万リットルの水槽車が救援に来ました。ガス会社から「液式移動式ガス発生設備(液化天然ガスを仮設の製造装置で気化させて病院のガス管に送り込む)」がやってきました。ボランティア第一陣は長野から。彼らは院内の避難者からボランティアを募り仕事を割り振りました。病院の仕事“以外”で疲弊していた病院スタッフたちには、彼らが神様に見えたそうです。
 「非常食」は、400人分の3食3日分が備蓄されていました。入院患者は300人。エレベーターは停まっているので、最大6階まで人力輸送です。……職員700人分は? 12日の職員の食事は三食ともピンポン球大のおにぎり一個ずつでした。支援物資として賞味期限切れの菓子パンが大量に届いたときには、患者に出すわけにはいかないので職員が三食連続メロンパン(一個)、ということもあったそうです。
 石巻周辺の「救護チーム」の一元管理も、3月20日石巻赤十字病院で始まりました。行政機能が壊滅状態だったからともかく誰かがやらなければならなかったのです。限られた医療資源を4万人の被災者に効率的に配分するためのシステム構築です。言うのは簡単ですが、120日間で3484チームですよ。
 病院で待っているだけではありません。病院から調査チームは避難所に「ローラー作戦」をかけます。医療状況の調査です。薬剤師チームは、富山の薬売りよろしく、薬を持参して被災した民家や避難所をアセスメントして回ります。「薬で困っていませんか?」と。感染症対策チームも避難所を巡回します。巡回するだけではありません。支援物資の流通も滞っていますから、物資の仕分けなども巡回チームが行ないます。エコノミークラス症候群の予防も巡回して行ないます。もちろん震災関連死を減らす、という意味では「医療の仕事」なのでしょうが、「被災地の病院の仕事」なのでしょうか。アメリカだったらさっさと軍と専門家チームが中央から大量に投入されているのではないか、と思えますので、「こんなに石巻赤十字病院は頑張った」ということは「日本政府がそこまで頑張らせた」ということを意味するように思えます。日本は「民活の国」なんですね。
 本書を読んでいて、職員の心のケアが心配になりました。石巻赤十字病院の職員も全員「被災者」です。家族の安否や自宅の状況さえわからないままでいるその「自分の重荷」だけではなくて、理不尽な(大量の)死に直面し、患者や被災者や遺族の感情にさらされ続け、極限ぎりぎりの所まで肉体を酷使し続けていました。その心身を支えているのは、職業上の使命感でしょうが、「病院の職員だから」という理由だけで、いつまでも(人が耐えうる限界の、あるいは限界を超えた)重圧にさらし続けることは宜しくないでしょう。もちろん石巻赤十字病院でも対策は取られていますが、これまたいつまでも「民活」でやっていて良いんですかねえ。