【ただいま読書中】

おかだ 外郎という乱読家です。mixiに書いている読書日記を、こちらにも出しています。

義務教育

2015-02-28 07:11:06 | Weblog

 このことばを「子供は学校に行く義務がある」と解釈している人がいる、ということを知って驚いたのは20世紀のいつ頃のことだったでしょうか。明治時代に「文明国では小児労働をさせてはならない(ましてやローティーンの娘を売り飛ばしてはいけない)」ということで「親には子供に教育を与える義務がある」と始まったのが日本の義務教育ですから。だけどそういった経緯も「義務の対象」が「親」であることも無視し、「義務」という単語にだけ注目して言葉の意味をねじ曲げて、登校拒否の子供たちに冷たい言葉をかける人がいましたっけ。
 ところで、本当に「子供は学校に行く義務がある」のだとすると、病気などで長期入院している子供は、どうすれば良いのでしょうねえ。
 そういえば、「教育」と「学校」は“同義語”でしたっけ?

【ただいま読書中】『学校の先生にも知ってほしい慢性疾患の子どもの学校生活』満留昭久 編、慶應義塾大学出版会、2014年、2000円(税別)

 入院や通院が必要な子供、あるいは長期入院をしている子供には、医療だけではなくて教育ニーズが発生します。ではそういった子供たちに学校や病院が何が提供できるか、という話です。
 「身体障害者」の30%は、外からはわからない内部障害者(心臓、腎臓、消化管などの障害)です。しかし学校教育法では障害者基本法とは違う「障害者」を扱います。
 「病弱児」の重要なテーマは、戦前は「結核」でした。戦後すぐは「栄養失調」。それからしばらく経つと、長期入院を必要とする慢性疾患(ネフローゼなど)が多くなりますが、現在は心身症や小児癌が増えています。
 平成25年5月1日の時点で、日本には特別支援学校(病弱)は143校、1万9653人の子供が在籍しています。病弱・身体虚弱特別支援学級は1488学級で2570人が在籍。この内250学級は病院内に設置されています。つまり病院“外”の方が圧倒的に多いのです。これには入院日数の短縮も関係しています。早く退院できるのは良いことですが、完治せずに寛解状態で退院する人が増えているのです。
 院内学級にかかわる人の言葉が私の心に届きます。院内学級では、勉強を教えるだけではなくて、「自己肯定の感情」を持てるように支えるのだそうです。
 学校での生活では、疾患別にいろいろ注意が必要です。たとえば慢性腎疾患では、日本ではこれまで運動制限が行われてきました。しかしこの慢性腎疾患への運動制限には根拠がないのだそうです。転換の場合まず問題になるのは「偏見」だそうです。さらに発作時に「口にものをかませる」と今でも信じている人がいるそうです。(痙攣発作が起きたら筋肉は強直しますから、発作が起きてから「舌をかまないように」と口をこじ開けることには意味がありません。噛むのならもう噛んでいます。それを無理矢理こじ開けたら歯を折るのがオチです) 落ちついて体の状態を観察してそれを医者に伝えたら、発作の型がわかって薬を変更できる場合もあります(本人はどうなっているのかわかりませんし、発作の時にふつう医者はそばにいませんから、そういったサイドからの情報は貴重だそうです)。
 小児癌、膠原病などけっこう深刻な病気の話もありますが、本書全体を貫いているのが「患者本人を人間として尊重すること」と「情報の共有」です。それと「特定の子供だけを特別扱いする」のではなくて「病気のハンディキャップに対して、他の子供とひどい格差が生じないように配慮する」態度。でもそれは、病気の有無とは別に、すべての子供に平等に教育の機会を与えるためには、常に考えていなければならないことですよね。あとは無責任なデマを飛ばす連中をどうするか、ですが、そういった人こそきちんと「教育」をうける“義務”があるのではないかしら。


汚染水の管理

2015-02-27 07:03:19 | Weblog

 「汚染水は完全にコントロールされている」のだったら、「漏れたこと」もまた「コントロールの一環」ということになります? では「コントロールして漏らした」ことの意図は? 「浄化しない汚染水を排出しても、大量の海水で希釈したらデータは検出限界以下にしかならない」ことの確認?

【ただいま読書中】『ロビンソン・クルーソーを探して』高橋大輔 著、 新潮社、1999年、1500円(税別)

 1719年に発表された『ロビンソン・クルーソー漂流記』(ダニエル・デフォー)には「実在のモデル」が存在していることは、広く知られています。しかしその人がどこの誰でどこでなぜ漂流生活を行い、その生活は実際にはどのようなものだったのか、は世界にはあまり知られていません。著者はそれを調べます。つまり本書は、「実在のロビンソン・クルーソーの冒険」についてと、著者が“それ”を求めて世界を探って回った旅についての、記録です。
 “モデル”の名前は、アレクサンダー・セルカーク。スコットランドのラルゴという小さな村の出身です。ラルゴにたどり着いた著者は、「自分の曾祖父の曾祖父の祖父の弟がアレクサンダー・セルカーク」という人と出会えます。ちなみに、タクシーが連れて行ってくれたホテルは「ザ・クルーソー・ホテル」。
 1703年セルカークはキャプテン・ウィリアム・ダンピアに指揮される2隻の私掠船団に(2番船の)航海長として乗り組みました。目的地は地球の反対側の南太平洋。私掠船とは要するに国家公認の海賊です。しかし獲物は乏しく、気性の荒いセルカークは“専制君主”のストラドリング船長と激しく衝突し、とうとう無人島に置き去りになってしまいました。
 1994年チリの首都サンチャゴ、著者はとても頼りなく見える小さなセスナ機に乗り込みます。目的地は670km向こうの「ロビンソン・クルーソー島」。もしかしたらセルカークの痕跡が何か残っているかもしれませんから、実際に“その島”を探検しようというのです。しかし情報が乏しい。そもそも「島の地図」さえ手に入りません。かつての無人島には現在は小さな集落があり人々がロブスター漁で生計を立てていました。しかし彼らもセルカークのことはほとんど知りません。唯一「セルカークの見張り台」と呼ばれる標高565mの丘は存在していました。セルカークが救いの船がやってくるのを見張っていた場所です。著者もそこに登り、水平線と島全体を眺めます。そして想像します。自分がセルカークだったら、どこに住むだろうか、と。必要なのは、水・食料・住居、そして見張り台。さあ、25kgのバックパックを背負って、探検の始まりです。
 「ロビンソンの洞穴」という伝説のある場所。そこに船で送ってもらって著者は一人で上陸します。慣れない環境で孤独な夜を過ごします。ここでの目的は、ロビンソンの洞穴からセルカークの見張り台までのルートがあるかどうかの確認です。しかし絶壁が著者を阻みます。では島の反対側は? こちらは“海へのアクセス”が困難です。最後に残った候補地は、現在集落がある場所。人が住むには一番良い条件を揃えている、つまりセルカークの痕跡が最も残っていないであろう土地です。それでも人がはいっていない場所に何か残っているかもしれない、と著者は茨の道(トゲトゲだらけのブラックベリーの藪)に潜り込みます。
 結論から言うと、著者は「ロビンソン・クルーソー」を発見はできませんでした。しかし、数少ない文献に描かれた「セルカークの生活」を、自分で追体験することはできました。慣れない自然の中でのサバイバルの困難さと孤独をしっかり味わえたのです。ロビンソン・クルーソーは28年2ヶ月19日、アレクサンダー・セルカークは4年4ヶ月。そして著者は1ヶ月。島の豊かさが彼らの命を支えました。
 1997年スコットランド。著者はセルカークが救出された後の人生を追跡していました。
 セルカークを助けたイギリスの私掠船デューク号には、なんとかつての総指揮官キャプテン・ダンピアが乗り組んでいました。そしてセルカークは、自分が乗っていた(そして置き去りにされた)セント・ジョージ号がスペイン人に拿捕され、乗組員の多くが死んだことを知らされます。生と死は紙一重だったのです。
 帰国したセルカークは一時有名人となりますが、やがてフィクションの『ロビンソン・クルーソー』に人気をさらわれ世間から忘れられます。セルカークは再び「海」に戻ります。
 そして、日本に帰国した著者は、またもスコットランドに出かけることになります。セルカークの日誌がある、というのです。さらに著者は「時を超える旅」も行います。デフォーとセルカークが出会ったとされるブリストルの住所が特定できたため、古地図を片手に現代のブリストルを歩き回るのです。二人が本当に会ったかどうか、それはわかりません。ただ、セルカークの体験がデフォーに大きな影響を与え、59歳で初めて小説を書かせたことは確かです。そして「ロビンソン・クルーソー」によって人生が変わった人もたくさんいるようです。本書の著者もそうですが、世界のあちこちで彼は同じように「ロビンソン・クルーソーによって人生が変わった人」と出会っています。たかがフィクション、とは言えないんですね。


2011年の春

2015-02-26 06:36:07 | Weblog

 日本では「東日本大震災」でしょう。もう忘れた人も多いかもしれませんが。
 もう一つ私が思い出すのは、アラブの春です。こちらの方は忘れた人がもっと多いかもしれませんが。

【ただいま読書中】『ジャスミンの残り香 ──「アラブの春」が変えたもの』田原牧 著、 集英社、2014年、1500円(税別)

 2014年、著者は「革命は徒労だったのか?」という問いを胸に、カイロを訪問します。
 2010年チュニジア、警察官に暴行された貧しい青年が抗議の焼身自殺をはかり、それがきっかけで「ジャスミン革命」が起きてベン・アリー独裁政権が倒されました。チュニジアと同じく警察国家だったエジプトでも青年が影響を受け2011年1月にデモを呼びかけそれが拡大、結局ムバラク政権は倒されます。しかしそこから混沌が。イスラム同胞団のムハンマド・ムルスィー(ムルシ)が大統領に選ばれるとリベラルな公約は次々破棄してイスラム化政策を推進、左派やリベラル勢力は反発し、軍の介入を望みます。そこで軍が事実上のクーデター、イスラム同胞団を非合法化しますが、旧独裁政権の人間も次々復帰してしまいました。同胞団は、穏健派は反軍政デモ、過激派はテロに走ります。それは軍政からのさらなる弾圧を引き出すだけでしたが、その弾圧の矛先は同胞団にだけ限定されるものではありませんでした。
 学生時代に“時代遅れ”の新左翼運動にかかわり、アラブ世界を定期的に訪問して“定点観測”を続けていた著者にとって「アラブの春」は衝撃的な出来事でした。そして、アラブ世界で旧知を訪ね歩く著者の足取りを追っていて私が感じるのは「ややこしさ」です。小さな所では部族や世代間の対立もあります。大きな所では、イスラムという宗教と国家の政権の関係は複雑ですし、国内情勢と国際政治(イスラエル、他のイスラム国家、欧米国家との複雑な関係)とがリンクしてお互いに影響を与え合っています。たとえば同胞団は、親ソだったナセル政権にたてついていたため、アメリカとの結び付きは強くなっています。アメリカは「敵の敵は味方」として反射的に援助するくせが伝統的にあるらしく(たとえばサダム・フセインは反イランで盛大に援助されています)、それで世界がややこしくなっている面が相当あるのではないか、と私には思えます。
 2014年1月のカイロは重苦しい雰囲気に包まれていました。イスラム同胞団の排除は評価するが、それに代わった軍も結局は抑圧者です。ではそれ以外の「第三の道」は、といえば、その政治的な受け皿がエジプトにはありません。さらに「中間層の分解と格差拡大」という、世界のあちこちで(日本でも)見られる現象がエジプトにもあることが紹介されます。エジプトではインフレのため貧困化がさらに深刻になっているのです。
 著者は2011年のカイロ、タハリール広場にいました。実際に何が起きているのか目撃しておこうと駆けつけたのです。さらにその年の末、内戦初期のシリアにも入っています。しかし、10年前のイラク、そしてこの時のシリアで、「難民」として“優遇”されているのが気にくわない、と「パレスチナ人排斥運動」が起きているのを知ると、私は言葉を失います。「難民」という立場がそんなにうらやましいのか、と。そういったところに鬱憤を晴らしたいほど鬱屈が貯まっているのか、と。
 反アサド政権の戦いは、やがてイスラーム国家建設運動に変質していきます。ダーイシュという組織が外国人義勇兵も加えながらイラクからシリアを荒らし回ります(これがのちの「イスラーム国」です)。しかし著者は驚きません。イスラーム武闘派がぶいぶい言わせるのは、いくらでも前例があるのです(もっともそれはイスラームに限りませんが)。これまでも、そしておそらく、これからも。


英雄への憧憬

2015-02-25 06:41:10 | Weblog

 英雄にあこがれたりそれと自分を同一視する人はこの世に多いのですが、そもそも「その英雄自身」は「英雄」にあこがれて「英雄」になったのでしょうか?

【ただいま読書中】『江戸のナポレオン伝説 ──西洋英雄伝はどう読まれたか』岩下哲典 著、 中公新書1495、1999年、700円(税別)

 黒船密航に失敗して5年後、萩の野山獄から吉田松陰は佐久間象山の甥で松代藩士の北山安世に手紙を送りました。その中に「那波列翁を起こしてフレーヘードを唱えねば腹悶医(いや)し難し」「草莽崛起(そうもうくっき)の人を望む外(ほか)頼なし」とあります。「那波列翁」は「ナポレオン」、「フレーヘード」は「自由」、「草莽崛起の人」は「草むらの中にいて志を持った人」のことです。死んだナポレオンを地の底から呼び起こして、草莽崛起の人による革命を起こし、「自由」を実現させたい、という火の出るような思いが込められた手紙です。実は吉田松陰の師である佐久間象山は、自分自身をナポレオンと重ね合わせていました。ではこの「ナポレオン」は、どうやって鎖国下の日本にやってきたのでしょう。
 「鎖国」と言いますが、海外の情報は日本に流入していました。「鎖国」とは「幕府による情報や物産の流れの厳しい統制」だったのです。貴重な情報の一つがオランダ風説書です。ただ、その中にオランダがナポレオンに支配されたという情報は含まれていませんでした。幕府はフランスをカトリックの国と危険視していましたが、それを知っているオランダ人はじぶんたちがカトリックだと見なされて日蘭貿易が危うくなることを恐れたのです。しかしヨーロッパの大変動は、たとえばレザノフ来航やフェートン号事件の形で日本にも及びました。
 ナポレオンが戴冠したのは1804年ですが、そのとき日本は文化元年でした。当時の蘭学界の重鎮大槻玄沢(『解体新書』改訂版の出版責任者)は、蘭方(西洋医学)から蘭学全般を研究するようになっていて、ロシアから帰国した漂流者から聞き取り調査を行ったりして「環海異聞」「捕影問答」を著します。しかしここには「ナポレオン」は登場しません。ただ、大槻玄沢が「捕影問答」で「オランダ商館長に世界情勢について尋問を行ったらどうか」と提案したことが実現し、その結果アメリカ独立やロシアの脅威についての情報が幕府にもたらされます。しかし商館長はフランスについては慎重に情報を伏せました。長崎にやってくるのに、中立国アメリカの船を使っている理由も誤魔化します。
 ナポレオン情報はロシアからもたらされました。1811年国後島に上陸して南部藩の守備隊に捕えられたロシア船の船長ゴロウニンからです。ナポレオンのロシア侵攻と敗北についての噂レベルの情報でした。しかし日本にはロシア語の通詞も育っていて、のちにロシアの新聞からオランダがナポレオン支配下にあることを確認します。
 ここで頼山陽が登場します。頼山陽は長崎に遊学します(厳密には「学」よりも「遊」が主な目的だったようです)が、そこで知り合ったオランダ人医師がナポレオンのモスクワ遠征に参加した軍医だったのです。頼山陽は「仏郎王歌(フランス王の歌)」という漢詩を発表しますが、これこそが日本における「ナポレオン紹介」でした。そしてこの漢詩は、多くの若者によっても受容され、「ナポレオン」は日本で広く知られるようになります。1803年に出版されたナポレオンの伝記も翻訳されますが、翻訳者の小関三英は蛮社の獄の弾圧の中で自殺してしまいます。
 天保十年(1839)アヘン戦争の第一報がオランダ風説書によってもたらされます。ついで中国船の入港がぴたりと止まり、幕府は大陸に注目します。高島秋帆は国防の重要さを説きますが、そこで「近年の戦争(ナポレオン戦争)によってヨーロッパでの戦争の装備ややり方が急激に変化していること」を指摘しています。しかし幕府の方針は「幕府内の限られた者以外は、外国や国防について考えてはならない(考えた者は処罰する)」ですから、秋帆もまた罰せられる運命にありました。それでも「ナポレオン」は日本に“ファン”を増やしていきました。たとえば、徳川慶喜、あるいは西郷隆盛。彼らはそれぞれに「日本のナポレオン」になろうとしていたようです。そうそう、最初に登場した佐久間象山や吉田松陰も。つまり、「ナポレオン」になろうとした人々によって明治維新が達成されたかのようです。
 もっとも、ナポレオン自身が「ナポレオン」になろうとしていたかどうかは、謎ですが。


読んで字の如し〈草冠ー10〉「芋」

2015-02-24 06:36:43 | Weblog

「芋粥」……敦賀の名産(芥川龍之介談)
「薩摩芋」……薩摩特産の芋
「芋茎」……かつては重要な食品
「山の芋が鰻になる」……予算の関係であり得るメニュー
「山芋」……山のような形の芋
「里芋」……里のような芋
「ジャガ芋」……ジャガのような芋
「石焼き芋」……石を焼く芋
「大学芋」……大学特産の芋
「芋焼酎」……芋を入れた焼酎
「芋虫」……芋に擬態した虫
「芋の子を洗うよう」……芋が子供を洗っているようす
「芋刺し」……芋で刺す(「串刺し」を参照のこと)

【ただいま読書中】『描かれた倭寇 ──「倭寇図巻」と「抗倭図巻」』東京大学史料編纂所 編、吉川弘文館、2014年、2500円(税別)

 まずは「倭寇図巻」です。右手からみすぼらしい恰好の倭寇が迫ってきて上陸、略奪・放火を繰り広げます。人々は絵の奥の方に避難します。そこに左手から明軍が。まず水軍。そして続々と陸軍の援軍も出撃してきます。
 次いで「抗倭図巻」。こちらも平和な村が倭寇に襲われ、そこに明軍が出撃して倭寇を撃退します。物語の展開は同じですが、違うのは画面構成。「倭寇図巻」では「右が倭寇」「左が明軍」でしたが「抗寇図巻」では「右から左に時間が流れる」のです。従って、最初に右から登場した倭寇は最後には左に逃げていくことになります。巻物を開いて見る場合、後者の方が“読み”やすいでしょう。
 本書では、「オリジナルの巻物」があって、そこから様々に派生したバリエーションの内の二つが、上記の二つの作品なのではないか、という推測がされています。実際に、現物は残されていませんが別の「平倭図巻」という作品に関する文字記録が本書では紹介されています。
 しかしこういった図巻を、誰が何の目的で製作したのでしょう? 軍人の勲功を表彰・記録するためか、政府のプロパガンダか……まさか娯楽目的ということはないでしょう。
 ちなみに「倭寇」が日本人であることのシンボルとして使われる重要な小道具は「日本刀」と「扇」ですが、この二つは当時日本から明への重要な輸出品でもありました。明の人たちが「日本」と言ってすぐ思いつくのがこの二つだった、ということでしょう。かつての「眼鏡とカメラと出っ歯」と似たようなものですね。
 


時代を超える人

2015-02-23 06:30:28 | Weblog

 人は「時代」の中で生きています。その時代を超えることは、普通はできません。
 もし時代を超えて生きることができる人間がいたらその人は偉人と呼ばれるでしょう。ある時代の中でだけ通用するのは偉人ではなくてただの有名人です。もちろん有名人であることだけでも、大したものではあるのですが。

【ただいま読書中】『風姿花伝』世阿弥 著、 夏川賀央 訳、 致知出版社、2014年、1400円(税別)

 本書の最初の版は1400年に世に出ました。私は能楽に関する秘伝書、と思っていましたが、現代語訳者の夏川さんは「教育書(いかに才能を開花させるか)」「ビジネス書(いかにお客さんに能を喜んでもらうか)」の書でもある、と述べています。そして、13歳で絶頂に登りますが、父やパトロンであった将軍義満の死後は不遇の人生となり佐渡への流刑まで経験する、という中でも能をあきらめなかった人の「人生論」でもある、と。
 まずは役者としての「花」について述べられます。子役、若手、ベテラン、それぞれの時期の「花」が役者にはあります。しかし能の役者としての絶頂期は35歳~40歳。それを過ぎたら「花」は衰えていきます。そこで無理をせずに「主役」は人に譲ってしまい、それでも観客から「花がある」とみてもらえたらそれこそが「誠の花」なのだそうです。
 当時は「勝負」も広く行われていたようで、役者として相手に“勝つ”ための戦略も紹介されます。「料理の鉄人」みたいな感じだったのかな? 重要なのは、才能と稽古。さらに和歌の心得も。
 世阿弥は猿楽を「申楽」とも表現し、そのルーツを「天岩戸の前での踊り」「お釈迦様」「泰河勝」「聖徳太子」などに求めます。なんだかものすごい権威づけです。たしかに古い芸能ですが、聖徳太子が申楽を好んだ、というのは言い過ぎでは?
 本書では「真似る」ことが重視されていますが、「表面だけ真似る」のではなくて「本質を把握した上で真似る」ことが要求されます。ただしここで「観客の存在」が指摘されます。いくら自分が「上手く真似た」と思っても、それが観客に伝わらなければならないのです。それを上手に伝えるのが、演出であり演技です。
 そして「秘すれば花」。私はこの部分を読んでいて、つい先日読んだばかりの「剣客商売」を思い出していました。あそこでも秋山父子は「自分の戦術」を公開しません。読者にも知らせず命を賭けて対決をし、相手の意表を突いて勝ってしまいます。能と剣術とを比較するのは間違いかもしれませんが、世阿弥はもしかしたら剣客に通じるくらいの覚悟をもって能に向き合っていたのではないか、と思えました。


早すぎる期待

2015-02-22 07:19:51 | Weblog

 テレビでは「野球のキャンプ」のニュースが盛んに登場します。ふつうは人気チームが中心ですが、今年は珍しいことに広島カープ(特に大リーグから復帰した黒田投手)が妙に注目を浴びている様子。
 だけど、「まだ早い」のでは? シーズンはまだ始まっていないのです。いまからどーのこーの言うのは、早すぎるでしょう。
 私がもし特集番組を見たいとしたら、「どうしてこんなに特定選手に期待をしてしまうのか」という心理に焦点を当てた番組かな。そして「シーズン中」に特集を組むとしたら、私が見たいのは、「大リーグ仕込みのすごさ」ではなくて「それをベースとしてさらに進化した黒田投手の投球がどのようなものか」をきちんと知らせてくれるような番組です。

【ただいま読書中】『剣客商売全集 第二巻』池波正太郎 著、 新潮社、1992年(98年3刷)

 「剣客商売」を1巻ずつこつこつと読むのは面倒だなあ、と思っていたら、2巻ずつの合本が出ていました。本書は「剣客商売」の第3巻「陽炎の男」と第4巻「天魔」です。
 登場人物は少しずつ変わっていきます。三冬は秋山大治郎に恋心を抱きます。秋山小兵衛が今から30年は生きることも明示されます。そして小兵衛は相変わらず好奇心の塊で、江戸をうろうろしています。40歳も年下の女房を可愛がることに熱心なのは相変わらずで、さらに食欲にも負けるようになり、鯰を食べ過ぎて腹痛で寝込んだりしています。まったく、煩悩の塊です。三冬の心が小兵衛から離れてしまうわけもわかるような気がします。
 ちょっと面白かったのが、男色の扱いです。最初は「気持ち悪いカップル」として描かれていた男色の二人が、実はそれぞれが見た目とは違う中身を持っていることが小兵衛の前に示されます。いやいや、人間と人生は、見た目だけで判断してはいけません。
 さすがに2巻分をまとめて読むと、少し満足感があります。次もこの全集で剣客商売を読むことにします。


暴力による傷

2015-02-21 07:10:18 | Weblog

 暴力を振るうと、善良な人間は「暴力を振るってしまった自分」にある種の嫌悪感を抱きます。そういった「心の傷」を暴力を振るった側も受けるということは、暴力を喜びと共に振るう暴力的な人間にはおそらく理解できないでしょう。
 ところで「体罰」も暴力の一種と私は思っていますが、「体罰を振るう人間」は、喜びと共に暴力を振るっています? それとも殴るたびに自分の心に傷を負っています?

【ただいま読書中】『明日の明日の夢の果て』小松左京 著、 1972年(74年3刷)、角川書店、820円

 22編のショートショート集です。ネタバレのために詳しい内容紹介はしません。
 月開発・キャッシュレス社会・気候調節・人に恋するコンピューターなど、昭和の香りがぷんぷんする「未来」の断片が、次々登場します。「懐かしい未来像」です。
 私のお気に入りは「こちら“アホ課”」。コミュニケーション、もとい、「コンミュニケーション」の重要性がとてもよくわかります。というか、現代のわかりにくいマニュアルを平気で量産しているすべての企業に「アホ課」が必要なのではないかなあ。


絵解き

2015-02-20 07:08:47 | Weblog

 文字通り読めば、絵を解きあかすこと。
 するとどんな事件も一度「絵」にしないといけませんね。

【ただいま読書中】『ダ・ヴィンチの「最後の晩餐」はなぜ傑作か? ──聖書の物語と美術』高階秀爾 著、 小学館101ビジュアル新書、2014年、1100円(税別)

 多くの壁画や浮き彫りで飾られた中世の聖堂は「字が読めない人のための聖書」と言われました。詰まり昔の絵画は「読み解くもの」だったのです。そこで語られる「大きな物語」としては、ギリシア・ローマの神話と聖書があります。
 まず登場するのは「システィーナ礼拝堂の天井画」。ミケランジェロは、天地創造・エデンの園(と追放)・ノアの方舟を描きましたが、壁面にはモーゼとイエスの物語も描かれているそうです。天井だけ見て帰ってはいけないんですね。
 中世の絵画は平面的ですが、ルネサンスに「人体を立体的に描く技法」が広がりました。著者はここで様々な絵を紹介しつつエデンの園について語りますが、私は「立体的な描法」の方に興味がそそられます。おそらく、解剖学的な知識が画家レベルにも広がってきたことが重要なのでしょうが(西洋で重要な解剖学書『ファブリカ』(ヴェサリウス)の出版は1543年です)、同時に「聖書を通じてではなくて、自分の目で世界(人体を含む)を見つめるまなざし」を人々が獲得したのではないか、とも私には思えました。
 旧約聖書の「外典」である「ダニエル書」からは「水浴のスザンナ」(ティントレット)という絵が紹介されます。そういえば私は旧約聖書の正典は読んでいますが外典はまだでした。これは一度読んでみなくては。この「スザンナ」は多くの画家に好まれましたが、その理由の一つが「女性のヌードを堂々と描ける」ことだったそうです。
 ダビデの物語、旧約聖書の「雅歌」、サロメ、受胎告知、と「絵解き」が行われ、最後が「最後の晩餐」です。
 ダ・ヴィンチ以前にも「最後の晩餐」は様々な画家によって描かれています。しかし「キリスト以外は誰が誰やら」状態のものがほとんど。さすがにユダだけは明確になっていますが。ダ・ヴィンチは、人物の配置や遠近法を工夫することでイエス・キリストを画面中央に浮き上がらせ、さらに12人の弟子たちにそれぞれの「ドラマ」を演じさせます。さらに絵全体で「見えないドラマ」も表現されています。
 私はキリスト教にはそれほど詳しくないので「そんなものか」と思いながら本書を読みましたが、画家というものは本当に工夫をしているんですねえ。



ただの人

2015-02-19 06:56:05 | Weblog

 「英雄も従僕の前ではただの人」という格言が西洋にあります。逆に「上流階級の人間は下層階級の者を『人間』とは思っていないから、レイディは男の使用人の前でも平気で着替えをする」という言葉を聞いたこともあります。実際に“そういった人”もいたのかもしれませんが、本当の英雄とか本当の上流階級の人間(公私ともに「英雄」として、あるいは「すべての人間の手本である上流階級の人間」として振る舞い続ける人)もいたかもしれません。
 私のような“下々の人間”からは、「実はただの人」であって欲しいとも思いますが、「“自分が果たすべき役割を”徹底できる人」でもあって欲しい、なんて矛盾したことを思ってしまうだけですが。

【ただいま読書中】『おだまり、ローズ ──子爵夫人付きメイドの回想』ロジーナ・ハリソン 著、 新井雅代 訳、 白水社、2014年、2400円(税別)

 著者は1899年にヨークシャーで生まれました。田舎の牧歌的な生活、ですが、生活は食えるかどうかのぎりぎりのところです。奉公として「お付きメイド」を目指し、まずフランス語と裁縫を学ぶ、という用意周到さですが、それはお屋敷での奉公経験を持つ母親の知識が大きく役立っています。18歳でタフトン家のお嬢様付きメイドとなり、著者は「キャリアウーマン」の人生をスタートさせます。当時は第一次世界大戦の影響で、お屋敷の使用人に男の影は薄くなっていました。「ウーマンリブ」の世界だったのです。
 一人前の「お付きメイド(レイディーズ・メイド)に育って、4年後に転職。5年間レディ・クランボーンに仕えて、「貴婦人とはどのようなものか」を著者は学びます。そしてそれから35年も仕えることになるアスター家へ。
 レディ・アスターは「いわゆる貴婦人」の枠を越えた存在でした。独特の倫理観と強烈な押しの強さを持ち、気が変わりやすく、自分と同じくらいの頭の回転の速さを使用人にも求めます。お付きメイドはついていくのは大変です。さらにレディ・アスターはイギリス初の女性国会議員でした。日常生活だけではなくて公務の時のファッションもメイドの仕事の一部です。服を仕立て洗濯し次に着るときの準備をしなければなりません。口癖は「おだまり、ローズ」。ということは著者もしょっちゅうレディ・アスターのすることに口を出していた、ということですね。
 というか「奥様」と「ローズ」の“舌戦”が具体的にいくつも紹介されています。読んでいてはらはらするようなやり取りですが、実にきわどいバランスを取りながらの真剣な“ゲーム”を二人が行っている様子です。
 当時の雇用契約では、定期的な休みは使用人の権利でした。しかし著者はそれを取りませんでした。週に1回休むと言うことは、その休み明けに必ず大混乱が起きていてそれを収拾しなければならなくなることが目に見えていたからです。そのかわり、夜9時~朝6時は何があっても休む、ということにしていたそうですが……
 著者から見てレディ・アスターは欠点の塊であり、美点の塊でもありました。そして私から見て、著者は、労働者階級出身者で教養は主人に対抗できませんが、知性と知恵と芯の強さと人に対する思いやりとを十分以上に持った人のように見えます。
 本書は、階級社会に極めて上手に適応した人々の物語です。女主人も、そしてそれに仕えた人も、きっちりと自分の分を守り、協力し合って「社会」を形作っています。イデオロギーなどからそれが気に入らない人もいるでしょうが、そういった人は「自分の気に入った社会」を作れば良いのではないかな。ただしそれはまた別の人から批判されるかもしれませんけどね。