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【ただいま読書中】

おかだ 外郎という乱読家です。mixiに書いている読書日記を、こちらにも出しています。

折れた口/『レモネードを作ろう』

2009-02-28 17:00:25 | Weblog
 哲学者は、ふだん使う言葉の重みで口が折れた学者なのです。

【ただいま読書中】
レモネードを作ろう』ヴァージニア・ユウワー・ウルフ 著、 こだまともこ 訳、 徳間書店、1999年、1600円(税別)

 なんとも特徴のある本です。本書を適当に開いたところから引用してみます。

父さんが死んだことって、おしゃべりの種にするようなこととはちがう。
それは、いつもわたしが背負っているもの。
うちの学校に「蒸気教室」というのがあって、
わたしも出席している。
自分の背負っている荷物が自分のせいだと責めてはいけない……そういうことを教えてくれる。
自分のせいでそうなったんじゃない、自分が悪いんじゃない、
その荷物をおろすことはできなくても、自分を責めてはいけない、と。
友達のアニーが背負っている荷物は、親が二回も離婚したこと。
マートルのは、家庭にドラッグの問題が多すぎること。
そしてわたしのは、父さんがひどい死に方をしたってこと。

 引用はここまで。
 ごらんの通り、まるで散文詩のような文章がならんでいます。ただ、一文一文が妙に味が濃い。
 貧乏から脱出するためには大学に行かなきゃ。でもうちにはお金がない。そこで14歳のラヴォーンはベビーシッターのアルバイトを始めます。尋ねた家には17歳のシングルマザー、ジョリーがシッターを待っていました。2人の子ども(2歳のジェレミーと赤ん坊のジリー)を抱えては仕事ができません。だからシッターが必要なのです。家の中はめちゃくちゃ。子どもたちはどろどろ。友達も母親も、ラヴォーンのバイトに賛成しません。ラヴォーンは、ジョリーのような境遇の人からお金をもらって大学に行くことにためらいを感じつつバイトを始めます。
 ジョリーは妊娠で学校を中退したため文字もろくに読めず家事能力はゼロ、仕事はすぐに首になります。付き合っている仲間は暴力やドラッグにとっぷりつかった連中です。仕事を失ったジョリーからはバイト代が払ってもらえませんが、ラヴォーンは一家のために何かしたいと思うようになります。ジョリーのために、ジョリーの子どもたちのために、そして、自分のために。
 ラヴォーンはいやがるジョリーを、同じ高校の「立ち上がる母親計画」クラス(妊婦または子持ちで高校を卒業したい人のためのクラス)に放り込みます。そして大学進学に必要な(でも取りたくない)授業に自分自身を放り込みます。
 14歳にしてはちょっとできすぎた少女ではありますが、悲惨な境遇の人に対して、口先だけ同情したり(「まあ、なんてお可哀想」)あるいはお気軽に批判したりする(「なんでもっときちんとしないの」)人とは違って、彼女は覚悟を決めて関わりを持っていきます。そしてその行動が周りの人間にも影響を与えていきます。最後の「レモネードを作ろう」。胸にしみる希望のことばです。明るいかどうかはわかりませんが、とにかく「未来」について一緒に語ろう、と言うことばなのですから。「自分の未来」ではなくて「自分たちの未来」を。



差別病名/『破滅の種子(下)』

2009-02-27 17:45:39 | Weblog
 昨日からの【ただいま読書中】の主人公は癩病患者ですが、この病名はハンセン氏病と言いかえられ現在はハンセン病とかレプラと言われています。社会の偏見が原因、とのことですが、病名を言いかえたら差別や偏見が無くなるものかには、私は疑問を持っています。
 あ、『信ぜざる者コブナント』ではまさにその偏見と差別が中心テーマ(の一つ)ですし、私は原典を勝手にいじるのは好みでないので、このシリーズを取り上げる中では原典のまま「癩病」と書きます。「癩病」という文字列を使うことで社会的な偏見が助長される、と非難したい人はどうぞお好きに。

【ただいま読書中】
破滅の種子(下)』(信ぜざる者コブナント 第1部)ステファン・ドナルドソン 著、 小野章 訳、 評論社、1983年、1200円

 トーマス・コブナントは旅の途中で何人もの人(存在)を不幸にした後、やっとこさレベルストンにたどり着き、諸侯会議の席で魔王からの伝言を披露します。王たちは魔王の企みが罠であることを知りつつ、「掟の杖」を「岩の虫ドルール」から取り返す軍旅を起します。「白金を司るもの」「古王」の名前でも呼ばれるようになった「信ぜざる者コブナント」は、その旅に同行します。「お、やっと話が動き出したか」と思いますが、そうは問屋が……前書では船旅の間はほとんど寝ていましたが、こんどは馬上でほとんど茫然自失です。彼は自分自身がまるで釣り針に付けられた餌であるかのように感じているのです。
 戦いがあり、森の民が大量殺戮され、コブナントは自らの手でも殺戮を行います。本来してはならなかった行為を。さらに、飢えているのに食事を絶ち、気が短い人をわざわざ冒瀆して怒らせます。コブナントはまるで死を急いでいるかのようです。さらに結婚指輪が呪いの影響で負担となります(このへんは『指輪物語』を思い出します。ただし指輪の役割は違うようですが……「ようですが」というのは、なかなかその辺が明らかにされないからです。コブナントと同じく、読者も謎の闇の中をよろよろとさ迷い続けることを強いられのです)。
 月は汚されて真っ赤になり、指輪も毎夜月の光を浴びて赤く染まります。そしてついに一行29人は、雷山の地下に侵入します。魔王とそれに操られているドルールから掟の杖を奪還するために。しかし、多勢に無勢、状況は悲惨です。探索隊のメンバーは次々倒れ、そしてついに断崖に追い詰められます。
 ……だが……

 私は、五行の「木火土金水」の思想の、土を石に交換したらなんとなくこの異世界を説明できるのではないか、と直感します。ただ、あまり深くそこを追求しようとは思いません。ファンタジー世界を「説明」することにどのくらいの意味があるのか、と半分投げやりに思うからです。ただ、思いっきり暗いファンタジーではありますが、でも不思議な魅力があります。不信と不安と優柔不断と不満……と思いっきり「不」に満ちた“ヒーロー”って、ある意味とても人間くさいからかもしれません。




大臣の横車/『破滅の種子(上)』

2009-02-26 19:05:57 | Weblog
 そういえばちょっと前に、総務相の行動に対して「かんぽの宿売却への大臣の横車は許されない」と社説を書いた朝○新聞は、今も大臣の行動を許していないんでしょうね。

【ただいま読書中】
破滅の種子(上)』(信ぜざる者コブナント 第1部)ステファン・ドナルドソン 著、 小野章 訳、 評論社、1983年、1200円

 癩病にかかったコブナントは、妻には離婚され社会で差別されながら生きていました。末梢神経が麻痺しているため触覚に頼らない生活を強いられ、痛覚が無くなったため傷に気づかなかったらすぐに致命傷になってしまいます。性的不能にもなり、生き続けるために想像力を殺し、常に自分の肉体の状態を監視しながらの孤独な生活です。自分の未来を失った喪失体験と感覚喪失と社会からの差別と、三重の鎧に彼は閉じこめられています。しかし、交通事故にあった瞬間、コブナントは異世界に召還されます。召還した「魔王」は、コブナントに健康を約束し不思議な使命を与えます。「隻手のベレック」として。
 明らかに異世界に来ているのに、コブナントはそれを信じません。目の前で自分の傷が薬用の泥によってみるみる治っても「あり得ないことだ」。絶望の世界に生きる時には希望を拒絶していたように、自分が正気を失ったと思わないためには目の前のすべての“異様さ”を拒絶するしかなく、彼は自分が夢を見ているのだ、と主張します。
 その世界では「隻手のベレック」は、英雄でした。ではなぜ魔王はベレックを召還したのでしょう。「この世界(あるいは自分が狂気に陥ろうとしていること)を信じない」ことと「魔王の真の狙いが何かわからない」ことからコブナントは「何もしないこと」を選択しようとします。本書でコブナントは一つの大陸をほとんど丸々横断しますが(直線距離で約1000マイルの旅です)、ほとんど(たとえ自分の足で歩いていても)“誰かに運ばれているだけ”で、能動的に何かをしようとはしません。たまに反射的に自分で決断をしますが、あとはほとんど“おまかせ”です。

 この本は図書館の児童書の所に並んでいましたが、なんとも風変わりなファンタジーです。主人公はみごとなアンチヒーローです。本の最初からずっと去った妻と自分の失われた肉欲についてぶつぶつ言っているし、それで“貯まったもの”を解放するために異世界に転移した最初の夜にやったことは強姦です。おい。置くとしたらせめてヤングアダルトのコーナーじゃないかなあ。まあ、やたらと漢字が多いので普通の小学生は敬遠するでしょうが(といいつつ、「魑魅魍魎」はひらがなになってて、かえってわかりにくかったのですが)。
 だけど、木の伝説の人々や石の伝説の人々や巨人族、そして血の衛兵……魅力的な存在が次々登場します。主人公が“活躍”しなくても、十分魅力的な一冊です。


駆け込み乗車/『爆発する太陽電池産業』

2009-02-25 18:37:20 | Weblog
 この前上京した時のことをふっと思い出しました。山手線の内回りに乗ると、絶妙のタイミングだったのでしょうか、駅で停車するたびにホームの反対側に外回りの電車が停車していました。つまり外回りはぴったり「二駅一台」で運行中に見えたわけです。さすがに東京は便利だなあ、と思いました。一電車のがしても、数分待てばすぐ次の電車がやって来るわけですから。
 そこで気になったのが、それでも駆け込み乗車をしている人がいることです。個人にはそれぞれ急ぎの事情があるでしょうが、暇だったのでちょっと時間の損得に関する暗算をしてみました。
得:駆け込むことでその人が次の電車を待たずにすむ時間を3分とします。
損:電車に乗っている人(500人としましょう)が駆け込み乗車をする人によって閉じかけたドアが開いて遅れる時間を5秒とします。
 さて、この“損得勘定”はどうなるでしょう? 「得」は1×180秒=180人秒。「損」は500×5=2500人秒。おやおや、駆け込み乗車は、電車一編成に乗っている人間が36人以下の場合に限定しないと、計算上は「社会的損失」の方が大きな行為、と言えそうです。

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爆発する太陽電池産業 ──25兆円市場の現状と未来』和田木哲哉 著、 東洋経済新報社、2008年、1600円(税別)

 著者は野村證券の金融経済研究所のアナリストで、どちらかというと「エコ」の立場よりは経済に偏した立場から太陽電池産業を論じています。文章も薄味で繰り返しが多く、そのへんによくあるビジネス書のようにさくさく読めます。
 ……しかし素直に読んだらすごいタイトルですね。まるで爆発する太陽電池で商売するみたい。

 太陽電池には大きな誤解がある、と著者は始めます。
1)シリコン精錬に大きな電力が必要で、発電でその電力を回収できない。
2)生み出された電力は高コストで、商業ベースに乗らない。

 1)については「それは20世紀のお話」だそうです。2001年NEDO(新エネルギー・産業技術総合開発機構)の調査報告書では、結晶法では1.5年・薄膜法では1.1年で製造に要した電力を発電できるとのことです。
 2)については1)ほど明快には言えません。1キロワット・アワーあたりの発電コストは、原子力発電6円、火力発電10円、太陽光発電35~46円とされています。たしかにこれでは太刀打ちできません。ただし、消費者が電力会社から買っているコストは昼間で23円です。すると太陽光発電が1/2にコストダウンできれば、電力会社に売ることが商業的にペイすることになります。
 さらに国の政策が絡みます。ドイツでは、フィード・イン・タリフという電力買い取り制度があり、電力会社には販売価格の4~5倍で太陽光発電の電力を買い取る義務があります。日本の買い取り制度はネットメタリング制度と呼ばれ、販売価格で買い取るものです。EUではフィード・イン・タリフを梃子に太陽光発電の拡充が政策的に進められています。韓国でも07年度にフィード・イン・タリフが始まりました(現在世界一高い買い取り価格です)。その他、補助金制度やクリーンエネルギーの使用を義務づけるなど、太陽光発電を普及させようと(熱意に差はありますが)各国は取り組んでいます。

 太陽光発電は、ハイテクの塊ですが、半導体や液晶に比べると生産ライン一式を一括導入するターンキー・システムがあり、企業の参入の敷居が低くなっています。そのため製造装置市場が急成長しています。太陽電池メーカーは現在200社。ただしこれはこれからどんどん淘汰が進むだろうと著者は予想しています。
 2004年には世界の太陽光発電の50%を絞めていた日本は、2007年にはドイツの半分で米国とスペインに猛追されるポジションに落ちぶれました。政府が「もういいや」と政策を転換したからですが、クリーンエネルギーよりも電力会社の既得権の方が重要、という判断だったのかな?


先入観/『血と砂 ──愛と死のアラビア(下)』

2009-02-24 18:57:49 | Weblog
 もし相手が「-2」の先入観を持っていることがわかれば、相手に「10」をそのまま伝えると「8」になって届くことが予想できます。ということは、どうしても相手に「10」を届けたければ「12」にしておく必要があります。「+2」だったら、その逆です。
 問題は、聞く人がいろいろ混じっている場合です。「私は先入観でこれだけの補正をします」と一人一人顔に書いてあればいいんですけどね。

【ただいま読書中】
血と砂 ──愛と死のアラビア(下)』ローズマリ・サトクリフ 著、 山本史郎 訳、 原書房、2007年、1800円(税別)

 ワッハーブ派によって占拠されている聖地奪還を旗印にアラビア半島にエジプトは軍を進めます。トマスは太守の息子トゥスンに従い騎兵隊隊長として出陣します。エジプト軍は一度は苦汁をなめますがついに聖地メディナを落とします。洋の東西も古今も問わず、陥落した都市が見舞われる略奪と強姦の夜、トマスは一人の女性を救います。一家を殺され家を焼かれ輪姦される寸前だったアノウドです。
 トマスは振り返ることをしない人です。戦場でも人生でも、行動としても心の持ちようとしても。そして、常に砂漠に「美」を探しています。小さな花、まばらな木に萌える若葉、雨上がりの砂漠特有のすばらしい香り、そして妻を迎える家を飾る砂漠のダマスクローズ……同時に彼は自分を見つめる視線に敏感です。そして、かすかな不安の予兆にも。

 「イスラムの民」といっても、本当にいろいろです。部族や宗派や国によって、共通点もありますが相違点も目立ちます。その中に放り込まれたスコットランド人が、独りの敬虔なイスラム教徒として、コーランと自分自身のプライドと友人に対して忠実であることだけを拠り所にして生きた物語には、異様な迫力があります。味方だけではなくて敵にも尊敬された異邦人。スコットランドの貧しい武具職人の徒弟が、とうとうメディナ総督の地位を得ます。彼が砂漠に来てからたった8年の濃密で凝縮した人生でした。
 最後の戦いで、私は同じ著者の『落日の剣』を思います。圧倒的な敵軍に対してアルトスの少数の騎兵隊が突入していくシーンを思い出したのです。ただ、こちらのトマスはそのちょっと前に部下に向かって「諸君、この世は不公平なのだ」と言ってのけます。さらに命令ではなくて友人としてのお願いもします。ユーモアを持ち温かく勇猛で高潔……なんだか魅力的すぎる人物造型です。これはトマスの魅力であると同時にサトクリフの魅力でもあるのでしょうね。



させていただく/『血と砂 ──愛と死のアラビア(上)』

2009-02-23 18:40:28 | Weblog
 ちょっと前ですが、NHKが、受信料を人が集めるのをやめて、振り替えやクレジットカードにする、と自己宣伝していました。ところがそこで使われていたのが例の「~させていただきます」。別にそんな許可を出した覚えはありませんし、逆に「だめよ」と言っても無意味ですよね。つまり、無用の謙譲です。「自分はこう決めてこう行動する。民はそれに従え」という“通知”なのですから、事務的に言えばそれですむと思うんですけどね。

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『血と砂 ──愛と死のアラビア(上)』ローズマリ・サトクリフ 著、 山本史郎 訳、 原書房、2007年、1800円(税別)
http://www.amazon.co.jp/gp/product/4562040521?ie=UTF8&tag=m0kada-22&link_code=as3&camp=767&creative=3999&creativeASIN=4562040521
 ナポレオンとの戦争の中、スコットランド第78高地連隊はオスマン・トルコと戦うためにエジプトに派遣されました。数倍の敵に連隊は敗れ、腕の良い狙撃兵トマス・キースは負傷し捕虜となります。アスワンでベドウィン族の騎馬隊に入れられ、兵士として頭角を現しますが、トマスが悩むのは自分がこれからどこで生きるのか、です。砂漠での生活がしばらく続いた後彼は決心します。イスラムに改宗することを。
 このシーンはまるで悟りのような回心の情景として描かれます(東洋人の私にはそう読めます)。トマスが故郷を喪失していること・敗戦と捕虜体験のショック・真面目なキリスト教徒ではなかったこと・騎兵隊の“仲間”とのつながり・真面目で誠実な性格、などが改宗の要因でしょうが、彼がスコットランド人であることも、英国や国王や教会への忠誠の点で影響を与えていたのかな、と私は感じます(イングランド人だったら、彼の心の中で“国王の存在”がもうちょっと大きかったかもしれません)。
 複雑なイスラムの世界でトマスは貴重な友情を得ます。フランス人の軍事顧問、ベドウィンの隊長、太守の次男トゥスン。しかし同時に敵も。当時オスマン・トルコの圧制下のエジプトはトルコからの離脱を願い、その中にもさらに内紛を抱えているという複雑な状況下でした。いくらイスラムに改宗していてもしょせんは異邦人、ちょっとでも選択を間違えたらすぐに死が口を開けて待っているところにトマスはいます。実際に上巻では、命をかけた決闘が1回、死刑宣告が1回、闇に紛れての暗殺の試みが1回あります。剣呑な人生です。ただし、彼の命を狙う試みが少しずつ複雑化・巨大化していくのは、逆に彼が地歩を固めていることを意味しているのでしょう。

 200年前の「アラビアのロレンス」か、と最初思いました。ところが本書も実話を元にしているのだそうです。表面をなぞるだけでもはらはらどきどきの“ドラマ”ですが、さすがサトクリフ、心の中の小さな疑惑や古傷、もろいものを内包した友情などを丹念に描写することでドラマに厚みと深みを与えます。キリスト教圏の人間にとって、イスラムに改宗した人の人生を描くことにためらいはなかったのかな、とは思いますが、それは異教徒の余計なお節介なんでしょうね。



大もうけ/『中世の借金事情』

2009-02-22 17:03:44 | Weblog
 比較的楽をして大もうけをしようと思えば“略奪”が良い選択肢です。海賊がその典型ですね。リスクはもちろんありますが、少なくとも毎日毎日地道に働くという労苦はせずにすみます。大航海時代のイギリスなら、私掠船の船長になれればお上のお墨付きの合法的な略奪者です。
 資本主義の世界でも、地道に働くのでは一攫千金は望めません。でも合法的な略奪者になれば大もうけができて、六本木ヒルズあたりに住めそうです。
 毎日こつこつと「この世の富」を作り出している生産者は六本木ヒルズに住めなくて、それを動かしている人が大金持ちになるのを見ると、せめて「略奪者」という悪口くらいは言いたくなりました。

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中世の借金事情』井原今朝男 著、 吉川弘文館、2009年、1700円(税別)

 イスラム銀行やマイクロ・クレジットといった“例外”はありますが、近代債権論では利子は無限に増殖し返済義務は免除されないことになっています。(ただし、大企業の場合は、公的資金の注入や債務放棄が公的に行われることはあります。これも“例外”ですが) この自由市場原理は、中世からの普遍の原理であり、借りたものに利息を付けて返すのは弥生時代にまで遡ることができる、とされていました。
 でもそれは本当なのでしょうか? 著者は「債務史」という新しい研究分野を作り、中世を新しい切り口から眺めています。
 稲作の収量は種籾の良否に左右されます。そこで「出挙(すいこ)」と呼ばれる、農民が領主などから良い籾を借りて田植えをし収穫期に利子を付けて返す制度が古代からありました。飢饉の時にはこの出挙米の貸し借りで飢民は生き延び、領主はその貸し借りを帳消しにする「徳政」で慈悲を示しました。ただし日蓮はそれを「飢饉や疫病を撃退する社会的効果がないうわべだけの行為」と厳しく否定しています。不況の時のなんちゃら給付金も同じかな。
 平安時代には、徴税業務を委任された人が公の業務を執行していましたが、もし滞納があった場合には私財で弁済していました。公私混交システムです。そのため、破産状態になった請負人は寄進をすることで財産整理をしました。著者は、院政時代に寄進地系荘園が激増した原因は、公私の債務整理のため、としています。
 鎌倉時代に、無尽や頼母子講といった庶民レベルの「借金システム」が普及しましたが、14世紀には「合銭(あいせん)」「合力銭」といった利殖目的の貸し出し業(今の質屋のようなもの)が始まります。本書には下京という町組が出資した「下京合力銭」が紹介されています。今だったらたとえば村上ファンドみたいなものでしょうか。それは共同体の絆を深めました。荘園などの年貢を請け負う代官や地頭も、まず借金をして代納していました。寺社・公家は年貢を担保に借金して生活し、勘合貿易は借金を元手に出航していました。中世では“借金”することはごく普通のことだったようです。
 気になる利息ですが、それは自由です。ただし「契約は1年以内」「元利合計が2倍まで」の縛りが公的にありました。それ以上の利息設定をしていて裁判で貸し主が負けた記録が紹介されています。質草も債権者の元に置くとは限りませんし、質流れも慣習法があって簡単には流れないようになっています。本書には正中二年(1325)の借用状が載っていますが、月利6%という高金利ですが2貫文の借金に対して利息は800文までの定額制で、たとえ期日に返済が間に合わず質(畑2反)が流れても、何年後でも金を返せば畑は返す、という約束になってます。現代とはちょっと違って日本の中世では債務者の権利保護、というか、債務者と債権者の共存が優先しているようです。
 さらに「借物(しゃくもつ)」と呼ばれる無利子の借金制度がありました。年貢の未進分や売掛代金も無利子です。で、これらの無利子の借金には徳政令は適用されません。さらに、借用書の時効が、武家法では10年、公家法では20年と定められていました。中世の経済は、我々のとは全く違う“常識”で動いていたようです。そもそも所有権の概念が全然違う(たとえば債権者が取り上げた抵当を自由に処理できない)様子なのがちょっとショックでした。
 著者は「健全な債務者が存在してこそ、債権者が権利行使できる」と述べます。対立ではなくて共存すれば、限られた資源の中での循環型再生産経済社会ができるのではないか、と。現在禿鷹ファンドなどへの非難の声が上がっていますが、もしかしたら中世に学ぶことで21世紀の資本主義はちょっとは“良い姿”になれるのかもしれません。



ずるさ/『SAS セイバースカッド』

2009-02-21 17:02:32 | Weblog
 生きるためには「計算高さ」や「ずるさ」が必要ですが、するさが発達したら、同時にそれを抑制するために倫理観も発達します。もしそういった“抑止力”がなければその人は平気で人をだます人になってしまいます。だけど、そういった犯罪者(またはそれすれすれの人)にならずにすむ人は、ずるさと倫理観のバランスが取れた人です。社会に住むほとんどの人は、このタイプでしょう。「自分は倫理観を持っている」と安心していて、でもその倫理観が必要なのは自分にずるさがあるからだということには目を瞑ることができる幸福な人です。
 ずるさが発達しない人は、それを抑制するための倫理観を発達させる必要はありません。するとその人は「無邪気な人」になります。それはそれで“良い”ことなのでしょうが、ただ、そういった人は詐欺師の好餌となってしまいます。好餌はやっぱり“良い”ことではないですよねえ(詐欺師は嬉しいでしょうが)。

【ただいま読書中】
SAS セイバースカッド』キャメロン・スペンス 著、 長井亮祐 訳、 原書房、1998年、1800円(税別)

 著者がエベレストに登山している最中に、サダム・フセインがクエートに侵入しました。ちょっと変わったオープニングですが、これで著者がSASの山岳部隊に所属していることが紹介されます。
 湾岸戦争のとき、イギリスの特殊部隊SASはイラク領内に、車両パトロール隊4個と徒歩パトロール隊1個を送り込んで破壊活動をしました(主目標はスカッドミサイルの発射基地を発見して破壊すること)。イラク軍に発見された徒歩パトロール隊の悲劇的な結末は『ブラヴォー・ツー・ゼロ』(アンディ・マクナブ)に書いてあります。車両パトロール隊も2個はイラク軍に発見されて損害を受けました。著者もそういった部隊の一つに軍曹として参加しイラク領内で隠密活動をしました。
 著者が属したのは30人の部隊(中隊を半分に割った半個中隊)で、6台の戦闘車両、1台の支援車両(非武装)、オートバイ4台で構成されていました。しかし、無能な指揮官や隊員のミスで、侵入早々戦闘車両一台を失い、敵に発見されて戦闘になり、と散々な始まりで指揮官はさっさと更迭されてしまいます。
 厳しい生活です。砂漠地帯で人が少ないとはいえ、敵地のど真ん中。日中は偽装ネットを被ってひたすら発見されないように息を殺し、夜になって移動。敵の陣地の間をこっそりとすり抜けます。そしてついにでっかい標的を発見。ところが、守備兵はせいぜい30人のはずでこっそり忍び入って爆弾をしかければ良いだけの割と楽な任務のはずが、何百人も敵兵がわらわらと次々出てきて壮絶な撃ち合いとなってしまいます。

 不正確な情報をもたらす情報部、多国籍軍で作戦の連携が取れていないこと、手練れの兵隊をうんざりさせる“お利口”な将校……SASはエリート部隊のはずですが、必ずしも“ナイス・ガイ”ばかりで構成されているようではありません。そのへんの“リアル”な話もどんどん登場します。さらに、強力な武器をいい加減に使う政治家に対する感情も著者は隠しません。退役軍人でも守秘義務はあるはずですから、どこまでが真実でどのくらい脚色されているのかは簡単にはわかりませんが、それでも軍隊の“雰囲気”は伝わってきます。そして、その臭いも(潔癖症の人は読まない方が吉かもしれません)。



フライデー/『ロビンソン・クルーソー』

2009-02-20 17:57:45 | Weblog
 ロビンソン・クルーソーが原住民に出会って名付けたのが、会ったのが金曜日だから「フライデー」。「お前は誰だ?」とも聞かずに一方的に命名です。
 ちびくろサンボを差別用語だと狩った人は、むしろこちらのフライデーこそ狩るべきだと思います。「フライデー」そのものは“差別用語”ではありませんが、すくなくともロビンソン・クルーソーの(命名という)行為は明らかに「差別の文脈」に乗っているのですから。

【ただいま読書中】
完訳 ロビンソン・クルーソー』ダニエル・デフォー 著、 増田義郎 訳、 中央公論新社、2007年、2800円(税別)

 1632年ヨークの裕福な家に三男として生まれたロビンソンは、定職に就くことを嫌い家出して船乗りになります。まずは難破したり小さな商売に成功したり海賊に囚われたりのはらはらどきどきの冒険が語られます。ブラジルで農園経営に小さな成功を収めたロビンソンは、一攫千金の船旅に出かけます。奴隷の密貿易をしようとギニアを目指しますが、帆船はギアナ沖で遭難します。
 さて、孤島でのサバイバル生活の始まりです。といっても、帆船一隻分の資材がほとんど丸々使えます。武器とか大工道具、食料、帆布、木材、鉄、鉛……さらに難破した場所もわかっています。ギアナのオリノコ川河口です。無人島に単独で漂着した者としては、まだ恵まれた出発点と言えるでしょう。
 面白いのは当時のヨーロッパの価値観です。非白人には人権はありません。ただ、キリスト教徒になったら奴隷から解放されることもあり得ます。島はロビンソンが“発見”したものだから、所有権はロビンソンにあります。先人がいたかどうかは問題にされません。
 不思議なことに、島の高地から40マイルくらい向こうにアメリカ大陸が見えたのに、ロビンソンはなぜかそちらに向かおうとはしません。そこはスペイン領だろうし野蛮人が一杯いるに違いないから、と。
 住宅建設、野生の山羊の家畜化、農耕、島の探険、陶芸、炭焼き、料理……ロビンソンがするべきことは山ほどあります。丸木船を造りますが、最初は大きすぎて海まで運べず、二隻目は「これは小さすぎる」と大陸には渡らず島の探険に使います。孤独な生活を始めて18年、大陸からの来訪者が島にあることを知り、ロビンソンは家畜を島の奥地に匿い住処を要塞化します。
 そして、殺されて食べられるために島に連れられてきて脱走した蛮人を救います。ロビンソンが最初に彼に教えたのは、会った日にちなんで彼の名前が「フライデー」であること、そして自分は「マスター」と呼ばれることでした。ロビンソンは蛮人の中にも善良な能力があることを知ります。それは野蛮な生活の中に埋もれていますが、文明人と触れ合うことでその能力は開花するのです。この辺は当時の“常識”なのでしょう。ロビンソン・クルーソーはフライデーにキリスト教を教え、そのことで自身も学びます。
 フライデーと出会って3年後(島に来てから27年後)、蛮人のカヌーが3隻島を訪れます。ロビンソンとフライデーは銃で蛮人たちを襲い、食べられる寸前のスペイン人とフライデーの父親を救います。スペイン人は大陸にさらに14人の同胞がいることをロビンソンに伝え、彼らを連れて島に渡ることに同意します。ロビンソン・クルーソーは島の“王様”に出世します。イギリス船が漂着し、またまた立ち回りがあって、そしてついに「金持ち」として帰国。

 当時のイギリスは私掠船によって富を得、カリブ海を制圧して新大陸南部(南米)のスペインとポルトガルの支配を崩そうとしていました。デフォーの『ロビンソン・クルーソー』はその国家戦略の広告塔としての役割を持っていました(そのへんの詳しいことは、本書の解説や以前読書日記を書いた『黄金郷(エル・ドラド)伝説』に書いてあります)。本書は、単にまじめにこつこつ働いたら豊かになりました、の物語ではありません。

 子どもの時には、サバイバル技術とともに干しぶどうの話がとても印象的でしたが、今回読んでもやはり干しぶどうが印象的です。マラリア発作をたばことラム酒で治してしまったロビンソンですから、何か特別な効能を干しぶどうに認めていたのかもしれません。


きょうの料理

2009-02-20 08:20:14 | Weblog
NHK「きょうの料理」…2人前レシピに(讀賣新聞)

当初は5人分が「目安」だったが、核家族化の進行に伴い、65年4月から4人分に減らした。だが、2005年の国勢調査によると、1世帯の平均人数は2・55人に落ち込み、今後も減少が予想されること、番組テキストの読者アンケートで2人分を望む声が多かったことから、44年ぶりの変更に踏み切ったという。

 ──引用、ここまで──

 感じたのは2点。
1)核家族化は進行しているんですね。
2)割り算が苦痛な人が増えたんですね。

 わが家は全員小食なので、レシピに「4人前」とあってもそこから量を減らします。さらに薄味好きなので調味料の量もさらに加減(ほとんどは減)されます。家によってそういった工夫をするのが当然と思っていましたが、アンケートで「2人分を望む声が多かった」ということは「4人分を2で割る」ことさえしたくない人が多くなった、ということなんでしょうか。料理は事前の計画と計算と作業のダンドリと現状把握と突発事への対応が必要な非常に知的な手作業だと思っていたのですが、そこまで頭を使いたくない人が増えたのだったら、日本の将来を憂えた方が良いのかなあ。