【ただいま読書中】

おかだ 外郎という乱読家です。mixiに書いている読書日記を、こちらにも出しています。

南無

2019-08-05 06:43:33 | Weblog

 南が無いということは、東西北中央だけ、ということに?

【ただいま読書中】『念仏と流罪 ──承元の法難と親鸞聖人』梯實圓・平松令三・霊山勝海 著、 本願寺出版社、2008年、800円(税別)

 法然の教団には朝廷から「念仏停止」の勅命が下り、教団の主要な幹部は逮捕、四名は死罪、親鸞は越後に流罪になりました(当時流罪は死罪に次ぐ重罪です)。これを親鸞側からは「承元の法難」と呼んでいます。
 法然は「選択本願の念仏」を唱えました。「選択」とは「取捨選択」、そこで取られるのは「念仏」ですが、では捨てられるのは? 戒律などこれまでの仏教で重要視されていたものすべてです。これは既成仏教の立場から見たら「危険思想」です。単なる邪宗なら放置しても良さそうですが、この「念仏だけ」が人気を博して庶民の間にどんどん普及していく、これはまずい。そこで「仏教の秩序と社会秩序を乱す危険思想だ」と朝廷を動かした、ということです。
 たしかに「危険思想」と言えそうです。だけど概念的には時代は「末世」で、現実的には「乱世」。非常時には非常時の宗教が人気になるのは、仕方ないでしょう。落ちついた世の中で、優れた人がひたすら修業をすればその努力と成果に応じて御褒美(浄土へのご案内)がある、という「仏教」では間に合わなくなっている時代だったのです。
 そういえば、人々は永遠に輪廻転生を繰り返すが、身分が上の人間だけは修業をすることでその永遠ループから解脱できる、というバラモン教の教えに対して、「それでは一般大衆はあまりに救いがないではないか」と釈迦が異議申し立てをしたのが仏教の起こり、と私は理解していますが、法然の態度の根底は、釈迦のそれと相似形ではないか、と私には感じられます。
 さて、興福寺からの告発状を受け取った朝廷は、困ります。蔵人頭(今だったら官房長官?)の三条長兼は藤原氏の氏寺である興福寺を軽く扱うわけにはいきません。しかし三条家の“本家"である九条家では九条兼実が法然にぞっこん。兼実の子良経は現役の太政大臣。興福寺を敵に回すわけにはいきませんが、九条家を敵に回すわけにもいきません。そこで探られるのが「落としどころ」です。話は「政治」になってます。しかし「スキャンダル」が勃発。後鳥羽上皇が熊野詣でに出かけたとき、留守となった宮中に法然の弟子たち(特に美形の者)が上がり込んで、女房たちとなにやらよからぬことをした、その中には後鳥羽上皇のお后も混じっていた、というのです(「愚管抄」(天台座主を4回も務めた慈鎮和尚慈円の書)に書き残されています)。熊野から戻った後鳥羽上皇は激怒。4人は死罪、8人が流罪(うち二人は慈円和尚が身柄を預かっていわば執行猶予)となり、専修念仏を禁止するという太政官布告が出されました。法然は「七箇条制誡」(世間、特に天台宗には揚げ足を取られないように行動には気をつける、という誓約書。法然以下190名の署名つき(親鸞はトップから87番目に署名しています))で弟子たちに「行動の自制」を求めていたのにねえ。
 この「法難」は、宗教弾圧と不倫スキャンダルの罰とが混ざっていますが、どちらがメインだったのでしょう。
 流罪は終身刑です。ところが法然は(おそらく高齢が理由となって)途中で赦免となり、親鸞も(まさかそのついで、と言うことはないでしょうが、詳しい理由は不明のまま)赦免となります。もしかして、冤罪だった? しかし親鸞は京には戻らず、越後から関東に入ります。本書では、法然の弟子たちで京に留まった人たちは“旧仏教化"してしまっていて(また、そうしなければ弾圧下では生きていけなかったでしょう)、それを親鸞が嫌って京に戻らなかった、という推論が示されています。赦免の知らせが届いたときちょうど子どもが産まれたばかりで、京への長旅ができなかった、という理由もあるのかもしれませんが、それだったら関東への移動も難しいですよね。ともかく“中央"から離れたところで親鸞はその教えを純化させ、広めていきました。
 浄土真宗の人の話を聞いていると、一番大切なことは「人生の最後に本気で『南無阿弥陀仏』と言えること」で、そのための前提条件が「本気で生きていること」のように思えます。本気で生きていてもそれが“正しい"かどうかはわかりません。だけど、それが正しいかどうかは阿弥陀如来に完全に任せてしまって、人は人でできる最善のことをする、という態度を親鸞さんには求められているような気が私にはします。この解釈が間違っていたら、ごめんなさい、ですけどね。南無。