ある文芸評論を読んでいて、違和感を感じました。いや、内容そのものはこれまで私が読んできた評論とそう変っているわけではありません。むしろ、変っていないことに違和感を感じたのです。
どんな文化にも何らか(神話、民話、昔話、童話など)の形で「フィクション」が存在するところを見ると「人はフィクションを必要とする存在である』と言えそうです。そのフィクションの代表が、たとえば小説。しかし、もともと「フィクションと現実の関係」は微妙なものです。だってフィクションは「現実ではないこと」を「現実の中」で述べるものですから。そしてその小説(フィクション)と現実の微妙な関係について論じるのが、文芸評論の機能の一つでしょう。
「3・11」以降、私たちは強引に「過酷な現実」と向き合わされています。無視することも可能ですが、「無視する」こと自体がやはり「関係の一種」と言えます。そういった状況で「フィクション」がどんな意味を私たちに伝えるのか、それは「3・11」以前とは少し変っているはず。その「フィクションと現実」「フィクションと読者」「現実(社会)と読者」の「三角関係」は、いつかはまた元に戻っていくのかもしれませんが、少なくとも現在は幾分かでも変容しているはず。そういった「関係の変容」を無視して、今までと全く同じ態度で「ベテラン作家なのにこの小説の出来は……」などと言っている文章は、結局読者に何を伝えようとしているのでしょう? 私が書いているような「読書感想」だったらまだそれでも良いでしょうが、「単なる読書感想」なのだったら「評論」の看板はおろした方がよいとさえ私は思います。
【ただいま読書中】『孤独の海』アリステア・マクリーン 著、 高津幸枝・高岬沙世・戸塚洋子 訳、 早川書房、1987年、1500円
冒険小説で知られる著者の執筆30周年を記念して、初めて編まれた短篇集です。フィクションとノンフィクションを取り混ぜて、全14編、すべて「海」とつながりがある作品ばかりです。
巻頭は「ディリーズ号」。教師だった著者が短編小説コンテストに応募したら最優秀作に選ばれ、プロの作家になるきっかけを作った作品です(翌年発表されたのが「女王陛下のユリシーズ号」)。わずか11ページの短い作品ですが、私は打ちのめされました。その迫力に。その深さに。激しさと静謐さの両立に。これが処女作とは、すごいや。
先日読んだ「ビスマルク」も登場します。「戦艦ビスマルクの最期」ですが、感情を排した、しかし苦みを含んだ口調で、意図的に短くカットされた文章が次々積み重ねられます。長い時間をかけての準備や訓練が、ほんの一瞬の自然の気まぐれやちょっとした不運(相手にとっては僥倖)によって吹っ飛んでしまう瞬間が淡々と描写されるのですが、この手法は、感情をたっぷり込めた表現よりも効果的でした。ビスマルクについて何も知らなかった人にはちょっと不親切かもしれませんが。
「メクネス号の沈没」では、著者の感じたやりきれなさが示されます。戦争の悲惨さ、というよりも明かな人災に対して、それを起こしておきながらも「自分のせいではない」とうまく逃げる官僚の無責任ぶりにはあきれますが、それはイギリスだけの話ではないことを思うと、こちらもやりきれなくなります。
かと思うと、「聖ジョージと竜」「マキナリーとカリフラワー」「マクモリンと月長石」のような渋いユーモア作品も用意されていて、退屈しません。
著者の作品には、どこかにきらりと光る「人の行動」があります。なんの救いがない状況でも、勇気を振り絞って動く人。絶望的な状況で、他人のためにさりげなく自分の命を差し出す人。どんなに暗い物語でも、そこには人間の誇りと勇気と救いがあるのです。どんなに暗い海にも、必ずどこかにきらりと光るものがある、と著者は言っているようです。
地球は人類に、好意どころか、興味さえ持っていないと私は思います。つまり、人類にとって地球(環境)とは「良くて中立、悪ければ敵対」だと。ただ、もし「敵対」だとしてもそれをなんとか「中立」にまで持っていく、そこに人の知恵があるのでしょう。
【ただいま読書中】『地震の日本史 ──大地は何を語るのか』寒川旭 著、 中公新書1922、2007年(11年増補版)、820円(税別)
1986年、滋賀県の縄文時代の墓地で地割れに噴砂が詰まった地震による液状化現象の跡が発見されました。それを受けて1988年、著者は「地震考古学」を提唱します。
日本は記録が豊富な国で、日記などに地震や津波の記録が多く残されています。しかし、文字がない時代でも、放射性炭素測定、地割れで地層のどこまでが切断されているか、土器などがどう埋まっているか、などでその地割れを起こした地震がいつのものかわかります。そしてそれに対して、人が何をしたか(祭祀行為としてでしょう、地割れに土器を伏せて埋めたり、大きな石を埋めたり)も発掘によってわかります。
琵琶湖は数百万年前にできました。周囲から川が流れ込んでいるのに湖が堆積物で埋まってしまわないのには理由があります。琵琶湖西岸には南北に走る活断層がありますが、その東側(琵琶湖側)は地震のたびに沈降するのです。活断層側の湖底の1メートル下の地層からは、弥生時代の水田跡が発見されています。つまり、地震によって琵琶湖は“維持”されているのです。
浜名湖はかつては淡水湖でした。それが地震の津波で南岸が破壊されて海とつながってしまいました。そこを江戸時代には「今切」と呼んでいます。
話を戻します。日本で文字記録が残されるようになってからは、そのあちこちに地震や津波が登場しますたとえば『吾妻鏡』にもやたらと地震の記述が出てきますね。今回の東北大震災で有名になった869年の貞観の地震と津波は『日本三代実録』に記録がありますが、地震で死者多数、津波は多賀城城下まで押し寄せ溺死者が約千名、とあります。実際の調査でも、当時の海岸線から仙台平野の内陸部数キロメートルまで津波の堆積物が出土するそうです。「歴史に学ぶ」のは、賢者でしたっけ?
しかし日本中、どこもかしこも地震や津波の被害だらけです。元禄時代に品川が津波に襲われたって、ご存じでした? 元禄の次の宝永では、大坂が地震と津波に襲われています。明和には八重山諸島に大津波が押し寄せ12000人の死者・行方不明者。寛政には「島原大変肥後迷惑」。
本書を読むと日本が「地震列島」であると同時に「津波列島」であることもよくわかります。日本の海岸で津波を経験していないところはないのではないか、と思えるくらいです。ただ、地震があったからこそ日本列島が今の形で存在している、と言うこともできるように思えます。
残念ながら、本書は「日本史の中の地震カタログ」にはなっていますが、日本史に与えた地震の影響についてはほとんど触れられていません。関東大震災で、モラトリアムが行なわれ震災手形によって不良債権を抱える銀行や企業が温存されたため3年半後の金融恐慌がおきた、というくらい。地震が政治や社会や文化に与えた影響はけっこう大きかったのではないか(地震は、地面だけではなくて人の心も揺さぶっていたのではないか)、と思うのですが、そのへんは「考古学」ではなくて「歴史学」や「社会心理学」の担当かな?
「演技」は「本来の自分ではない存在になりきる」行為です。すると「天才子役」は恐いことをやっていることになります。まだ自我が確立していない(「本来の自分」ができていない)人が「本来の自分ではない存在」をきっちり演じるわけですから。
【ただいま読書中】『戦艦ビスマルク発見』ロバート・D・バラード 著、 高橋健次 訳、 文藝春秋、1993年、5825円(税別)
表紙カバーには、海底に横たわる戦艦ビスマルクの姿が大きく描かれています。その上には、ビスマルクの前部甲板に大きく描かれた逆卍(スワスチカ)を探照灯で照らす探査船の小さな姿が。素晴らしい絵です。
1985年に海底のタイタニック号を発見した著者のチームが次のターゲットとしたのがビスマルクでした。
話は1940年に遡ります。ドイツの最新鋭戦艦ビスマルクは、当時ドイツ海軍で最高の火力を誇る戦艦でした。新兵(ほとんどが志願兵)が集められ、厳しい訓練が始まります。
そして1988年、著者はぎりぎりの瀬戸際にいました。タイタニックで獲得した名声は危機にあります。かつてはウッズホール海洋研究所の科学者(海洋地質学者)だった著者は独立して海洋探険センターを設立し、資金集めに奔走しなければならない立場なのです。探険の母船となるスタレラ号は老朽のトロール漁船で、クレーンは油漏れがします。そのクレーンが、5000メートル下の海底を走査する無人探査機「アルゴ」をぶら下げ、海底の地形に沿って上下させているのです。もし不具合が起きてケーブルが切れたら、50万ドルがパアです。さらにスタッフに著者の19歳の息子トッドが加わっていることも事情を複雑にします。著者はことばを選んでいますが、どうも二人の間にはなにか問題がある様子です。そしてこの年の探索は、失敗に終わります。著者は言います。「第一ラウンドはビスマルクが勝った」。
1941年ライン作戦が開始されます。ヒトラーは戦艦を英米間の通商路破壊に投入します。それだったら、同じ資源をUボート、あるいは空母に投入していたら、もっと効率的に作戦が遂行できたはずなのですが、これは後知恵というものでしょう。日本も戦艦大和に夢中になっていた時代です。
チャーチルは苦悩していました。クレタ島でドイツ軍の降下作戦が始まっています。そこで大西洋の通商路が大損害を受けたら、イギリスには致命的な損害です。ただ……これがアメリカ参戦を促すという“メリット”があるかもしれない、という計算もチャーチルには働いていました。しかしそれまでは英海軍がドイツ戦隊を阻止する必要があります。巡洋艦がビスマルクを追尾し、主力艦(第一次世界大戦直後に進水した英海軍の“象徴”(実は老朽)戦艦フッドとできたての(実はまだ未完成の)プリンス・オブ・ウェールズ)の到着を待ちました。ただイギリスには新型長距離レーダーがありました。これで奇襲ができるはずですが……戦争というのは“想定外”の連続です。双方の指揮官とも予想外の形で砲撃戦が始まりますが、数回の斉射でフッドは撃沈してしまいます。1419人の乗員で助かったのは3人でした。ただ、ビスマルクも傷を負っていました。動きが鈍ったビスマルクに空母から発進したソードフィッシュ(なんと複葉機)が襲いかかり、舵を破壊します。そして英艦4隻による包囲。1時間半の戦闘で総計2876発の砲弾がビスマルクに向けて発射されました。ビスマルクはそれに耐えて浮かび続けたのです。しかし、最期の時が来ます。
そして1989年。著者がビスマルク探索に使える日数はわずかに10日間でした。資金がそれだけだったのです。虚しい探索が続き、海底の泥土を眺めるのもルーティンワークとなった日に、まずは破片、そしてもっと多くの破片、何か重いものが引き起こした地すべりの跡、海底に散らばるブーツ、そして主砲塔。一つ一つの破片に飛びつきたくなる気持ちを抑えて、著者は海底を系統立って探索し続けます。そしてついに、ビスマルクは二回目の“発見”をされたのです(ちょうどそのとき、中国の天安門広場で虐殺が行なわれた、というニュースが船に飛び込んできました)。探査チームにとって、ビスマルクは「発見するべきトロフィー」ではすでにありませんでした。海底のブーツを発見した時から、そこにはかつて生きていた人間がいたことが、実感としてわかるようになっていたのです。海底に横たわるのは錆びた鉄の塊ではなくて、生きていた(生きている)人びとの物語、歴史の断片なのです。そして著者は、巻尾で「若くして命を失った者たちすべて」に盃を捧げます。その中には著者自身の個人的な物語も入っているのですが、それについては本書をお読みください。私は痛切な思いに胸が締めつけられました。
だらだら垂れ流すようなことばは、時間と音波の無駄遣いですが、ではことばを節約すればそれでよいか、と言えば、もちろん単純にはいきません。ことばを節約して述べる方法は、とりあえず二種類あると私は思います。一つは、ジグソーパズルのピースのようにことばを圧縮したピースをいくつも相手に放り投げて「自分のことばを理解したければそれを組み立てろ。抜けたところは想像で補え」と言う方法。もう一つは詩のように語る方法。
【ただいま読書中】『友よ 弔辞という詩』サイラス・M・コープランド 編、井上一馬 訳、 河出書房新社、2007円、1600円(税別)
「弔辞」を「友に捧げる美しい詩」と捉えた着眼点が素晴らしい本です。目次からいくつか抜き出してみましょう。
ホンフリー・ボガードに捧ぐ(ジョン・ヒューストン)、スタンリー・キューブリックに捧ぐ(ヤン・ハーラン)、ジャンニ・ヴェルサーチに捧ぐ(マドンナ)、ボブ・フォッシーに捧ぐ(ニール・サイモン)、カール・ユングに捧ぐ(ローレンス・ヴァン・デル・ポスト)、アルバート・アインシュタインに捧ぐ(アーンスト・ストラウス)、トマス・エジソンに捧ぐ(J・F・オーウェンズ)、チェ・ゲバラに捧ぐ(フィデル・カストロ)、カール・マルクスに捧ぐ(フリードリヒ・エンゲルス)、ジャニス・ジョプリンに捧ぐ(ラルフ・グリーソン)……ああ、まだまだいくらでもあります。
構成は、まず弔辞を捧げられた人について簡単な紹介、そして弔辞、となっています。
本書を読んでいて、つくづく思います。弔辞というものが、自分の思いを吐露するものであるだけではなくて、死者の人生を本当に簡潔に再構成しているものだ、と。それは、本書のラスト、「チャレンジャー号の宇宙飛行士たちに捧ぐ(ロナルド・レーガン)」でも明確です。大統領が7人の宇宙飛行士すべてを個人的に知っていたはずはありませんが、それでも短い文章の中でそれぞれの人物像を少しでも立体的に描こうと努力していることは伝わります。ましてつきあいの深い人の弔辞だったら、亡くなった人も弔辞を読む人もどちらも知らない私の心にも、まっすぐことばとイメージが届いてきます。
自分が死んだ時、どんな弔辞が読まれるんだろう、とちょっと気になりました。ただ、自分で聞くことはできないんですよね。う~む、ちょっと残念。
擦られる胡麻の身になったら、なんて可哀想な行為!
【ただいま読書中】『時の旅人 ──H・G・ウエルズの生涯』ノーマン&ジーン・マッケンジー 著、 村松仙太郎 訳、 早川書房、1978年、3500円
H・G・ウエルズの父母の生い立ちから、本書はゆっくりと語られます。貧しいけれど基礎教育は受けた二人は、破産すれすれの陶磁器卸商を営んでいました。破産せずにすんだのは副業で扱っていたクリケット用の商品のおかげですが、彼ら(あるいは当時の英国国民の多く)は常に「失敗する恐怖」とともに生きていました。その恐怖心がヴィクトリア朝時代の「勤勉努力」の原動力でした。現実逃避の傾向が強い父親と常に不安に押しつぶされている権威主義の母親の間に末っ子としてバーティは生まれます。逆境に立ち向かう術を独力で学んだバーティは、14歳で世間に放り出されます。色々回り道がありましたが、ついに科学師範学校(科学の教師を養成する学校、校長は“ダーウィンのブルドッグ”T・H・ハックスリー教授)に入学することで「ウエルズの人生」がスタートします。学生時代に書いた文章にはすでに「ロマンスと諷刺と科学的観念の混淆」という後年の彼のスタイルの萌芽が見えるそうです。
喀血を繰り返し健康に不安を抱え、学校卒業後の教職や恋愛ではぎくしゃくと世慣れぬ行動をし続けていましたが、やがてウエルズは、新しい時代が求める「知的で読みやすい論文」の供給者としての地位を得ます。さらに、短編小説が大ブームとなり、ウエルズはその時流にうまく乗ります。そして、7年間温め続けていたアイデアを、1895年に連載小説の形で発表し始めます。タイトルは『タイム・トラヴェラー』。それはすぐに『タイム・マシン』という単行本となり、ウエルズは世界から注目されます。それも天才として。しかし彼は「失敗の不安」に取り憑かれ、とにかく書きまくります。その過程(わずか3年間)で『タイム・マシン』『素晴らしい訪問』『運命の輪』『モロー博士の島』『透明人間』『宇宙戦争』が生みだされているのですから、決して粗製濫造ではありません。さらに大量の短編も(半年ごとに30篇だそうです)。名声が確立しますが、ただ人びとはウエルズをどう評価するか、その方法論で悩みます。今までにないタイプの作家で、ジャンルのどこに位置づけるかも曖昧でした。ただ、それは却って幸いでした。当時流行していた「第二の○○」というレッテルを貼られずにすんだのですから。「イギリスのヴェルヌ」と呼ばれることもありましたが、それについてはウエルズもヴェルヌも明確に否定しています。類似しているのは小説で扱う題材だけで、立場も手法もまったくちがう、と。
彼の重要な小説は、この「駈出し時代~名声を確立させる時期」にその殆どが書かれています。新世紀(20世紀)を迎え、ウエルズは「人類は滅亡するのではなくて救済される、それに自分は重要な役割を果たす」と考えるようになり、政治的な論文を書くようになります。ウエルズは「人類の未来」を肯定的に見つめるようになったのです。ただ、ウエルズの態度が、最初は否定的(あるいは悲観的)、それから肯定的(楽観的)に変ったことは、ちょっと危険な香りがします。ベースに悲観論がある人が「明るい未来」を構築しようとした時、極論に走ることがあるからです。案の定(?)ウエルズは優生思想を唱え、政治的な行動をするようになりました。
SFファンからウエルズはSFの開祖扱いで、私はその見解に特に反対をする気はありませんが、本書を読んでいると「人はその時代の産物」であるとつくづく感じます。当時のイギリス社会では、ニーチェがわざわざ指摘しなくても、神はすでに「死んで」いた(あるいは瀕死の状態だった)のです。そしてそのことを当然の土台としてその“上”にウエルズの作品群は構築されていました。ですから「神が死んだ」ことに気がつかない、あるいはそれを認めたくない人にはトンデモない作品、ということになっていたはずです。(「神は死んだ」というのは直喩ではなくて、宗教が社会を支配する力を失った、ということです。今さら説明がいるとは思いませんが、実はここの理解からすでに食い違いがある場合があるので、一応書いておきます)
個人的に非常に惜しいのは、ウエルズが「社会を変えよう」としたことです。彼が書くものには力があり彼個人には名声がありました。だからそれを“道具”として直裁的に使いたくなる気持ちもわかります。しかし、だからこそそこで踏みとどまって、「社会が変るかどうか、作品を通じて問いかける」ことを続けていたら、もしかしたら本当にウエルズが望んだ方向に社会が変っていくのを目撃できたかもしれません。彼の作品にはそれだけの力があるのですから。そして、もしそうしてくれていたら、私は彼の“SF作品”をもっとたくさん読めたのになあ。
惜しいなあ。口惜しいなあ。
私にとって「ガリバー」と言えば「リリパット」なんですが(子供時代に読んだ『ガリバー旅行記』はリリパットだけしかありませんでした)、高校の時に読んだ『溺れた巨人』(J・G・バラード)で、浜辺に漂着した巨人の死体がなぜかガリバー(とリリパット)に重なってしまって、あの作品の静謐さを味わう前にまず笑いをこらえなければならなかった、という悲しい読書体験を私は持っています。
【ただいま読書中】『ガリバー旅行記』ジョナサン・スウィフト 著、 山田蘭 訳、 角川文庫、2011年、629円(税別)
診療所がはやらないために船医になったガリバーは、船が難破して……というおなじみのお話です。ただ、小人国(リリパット)は第一話で、第二話は「ブロブディンナグ渡航記」、第三話は「ラピュタ、バルニバービ、ラグナグ、グラブダブドリブ、そして日本渡航記」、第四話は「フウイヌム国渡航記」となっています。
リリパットは相変わらず面白いのですが、最初は無邪気な善人に見えていたリリパット人たち(サイズはわれわれの12分の1)が、実はわれわれとおなじ愚かしさをしっかり抱え込んでいることがわかる部分で、本書は単なるほら話でないことがわかります(しかし、リリパットと並ぶ強国ブレフスキュとの交戦理由が、「卵を割る時に、尖った方から割るか丸い方から割るか」だというのは、これは何に対する諷刺なんでしょうねえ。特定の戦争ではなくて、人類一般の行動に対して?)。それと、おしっこやうんちに対するこだわりも見えるのですが、これはガルガンチュワからの“伝統”なのかな。子供向けの本からは割愛されていますが、子供の養育についてはけっこう刺激的なことが書かれています。リリパット人の考えでは、子供は単に肉欲の結果だから親子の間の情愛は不必要。教育は国営で、生後20箇月から公営保育所での集団生活となるのです。スウィフトは名誉革命直後(17~18世紀)の人ですが、ずいぶん“先進的”です。
第二話では巨人国ですが、「巨人は粗野」というありがちな思い込みがここでは否定されます。そもそもリリパット国では、ガリバー自身が「巨人」だったのですからねえ。ただここでも問題になるのが排泄行為です。テーブルやベッドの上に上げられていると、それができる場所に移動するまでがおおごと。やがてガリバーは見せ物となり各地を旅しますが、川はナイルやガンジスよりもはるかに大きなものばかりです。昆虫をふくめた動物や植物もでかいので、つまりは地球上の一部が切り取られて拡大されそれが異次元通路で地球と接続している、ということなのかな。しかし「細部」(たとえば巨大な蝿が飛び回って食物にとまったところで何をしているか、など)が顕微鏡的な視点で見えてしまうガリバーの立場は、悲惨です。いかに自分たちがふだん細部に無頓着に生活しているか、がしつこいくらい描写されます。イギリスの法制度や議会制度の欠陥についても(巨人国の国王が示す好奇心)という形で述べられます。国王のことばが痛烈です。ガリバーの愛国的な説明からわかったたのは、「ときとして無知、怠惰、悪徳のみが立法府の議員たる資格となること、そこで作られた法律は、それをねじ曲げ、混乱させ、すり抜けることのみ長けている連中によって、説明され、解釈され、適用されるものだということだ」です。
第三話は、もちろん「ラピュタ人」。いつでもどこでもすぐに思索にふけってしまう人びと。思索は深いが、それを現実に適用するのは下手くそで、たとえば服の採寸は四分儀と定規とコンパスで厳密に行なうけれど、できあがる衣服はひどく不格好なものです。住居も、設計図は立派ですが実際の建築はお粗末。自説に反対するものにはひたすら激高し、現実が変化するのではないか、という不安に常に怯えています。しかしここでの「支配」は荒っぽいものです。地上の都市が逆らったら「その上空に島を停止させて日光と雨を奪う」「上から岩石で爆撃する」「ラピュタ自体を落として都市をぺちゃんこにする」の順で“罰”を与えるのですから。これは、国内での平民支配または国外での植民地支配への諷刺でしょうか。
ラピュタの下にあるバルニバービ大陸は「進歩」に取り憑かれていました。もっともそれは手段ではなくて目的になっていたのですが。当時のイギリスには「科学」「進歩」の観念が流行していましたが、著者はそれがお気に召さないようです。やがてガリバーはオランダ人になりすまして日本入国をします。なんと江戸のすぐ南のザモスキという港町に上陸。将軍、じゃなかった、皇帝に謁見して出国はちゃんと長崎(ナンガサク)からです。当時のヨーロッパでは、日本はリリパット国と似たような扱い? いや、なんでここに「日本」が必要なのか、意味がわからないのですが。
そして最後は、ヤフーと馬。著者は人類そのものも諷刺しようとしているようです。
そうそう、今年になってこの本が文庫本化された、というのは、やはり喜ぶべきなんでしょうね。どんな事情があったのかは知りませんが、ともかく私は喜んでいます。
恋に落ちたウィリアムは悩んでいました。夢の中に天使が現われて不思議なお告げをしていったのです。この結婚によって可愛い息子二人に恵まれるが、その子自身を的として矢を射なければならない、と。夢の中に表示された画像は、たしかに自分自身が弓を構えて小さな男の子を狙っています。なぜかその子の頭の上には小さなリンゴがちょこなんと。一体これは何の意味だろう。ウィリアムはプロポーズをするべきか否か、悩んでいます。
【ただいま読書中】『ウィリアム・テル物語』(英文世界名著全集 第九巻)フリードリッヒ・フォン・シラー 原作、H・E・マーシャル 翻案、子義亮 訳註、 英文學社、1928年
昭和三年の本です。本を開くと、左側に英文、右側に日本文、下に註、という構成ですが……正直言って、日本語より英語の方が読みやすく感じます。たとえば適当にページを開いてみますと……
「On the lakes of Switzerland storms of wind arise very quickly, The Swiss used to dread these storms so much that they gave names to the winds as if they were people.」
「瑞西の湖上では、暴風が瞬く間に捲き起る。瑞西人はかゝる暴風を非常に恐れたもので、人間のやうに、風に夫々名を付けたものである。」(この文章のあとに「最も激烈な南風をフェーンと呼ぶ」とあります。「フェーン」ってスイス発のことばだったんですね。知らなかった)
「As Werner spoke Gertrude grew pale, then her cheeks flushed red and her eyes sparkled with anger. 'Oh,' she cried, 'it is shameful, shameful! How long are we to suffer the Austrian tyrants? Oh that I were a man!'」
「ウェルネルの語るをきいて、ゲルトルードは血の氣を失つたが、やがて彼女の兩頬は紅を呈し、兩眼は怒りに燃えた。彼女は叫んだ。「あゝ、之は何たる屈辱でせう。いつ迄妾達は此オーストリアの暴君を恕してをかねばならぬのです。あゝ妾が男だつたら!」」
わずか2~3世代の差なのですが、その間にいかに日本語が変ってしまったか、よくわかります。もしかしたら英語も“古風な言い回し”なのかもしれませんが、残念ながら英語が苦手な私にはそのニュアンスはよくわかりませんでした。
ストーリーは有名なので、詳しく紹介する必要はありませんね。スイスにおけるオーストリアの圧政。悪代官ゲスレル。募る民衆の不満。「帽子にお辞儀して通れ」というゲスレルの不当な要求。抵抗するテル。リンゴの的。二の矢の意味。テルの逮捕。嵐の湖上での脱出。スイス人の一斉蜂起。
スイス傭兵のことを思えば、オーストリアが暴君でスイス人は虐げられた平和を愛好する民、と言うのは言い過ぎだろう、とは思いますが、他民族に支配されることへの怒りは、どこの国でも共通ですよね。日本人もほんの半世紀前には知っていたはず。まさかそういったことも日本人は忘れてしまった、ということはないですよね。ほんの1~2世代前の話なのですが。
落語「目黒のさんま」をこの前ひさしぶりに聞いて、殿様と魚の“縁”についてちょいと考えてみました。たとえば魚をおろすときに「大名おろし」というやり方があります。三枚おろしと比べて中骨に贅沢に身が残っている、ということからの命名だそうです。そして、料理のときには「魚は殿様に焼かせよ、餅は乞食に焼かせよ」。
まさか実際の場面で殿様が手ずから魚をおろしたり焼いたりするとは思えませんが、ことばの面では関係はある、ということになりそうですね。目黒のさんまの殿様も、せめて自分で焼いていたら、美味しいさんまが食べられたでしょうにねえ。(炭の塊になっていたかもしれませんが)
【ただいま読書中】『ミクロの決死圏2 ──目的地は脳』アイザック・アシモフ 著、 浅倉久志 訳、 早川書房、1989年、1942円(税別)
学会からは無視される異端の仮説を主張し続けて失職寸前の脳科学者モリスンは、「ミニチュア化」計画が進行しているのでソ連に訪問してそれに協力して欲しい、という誘いをソ連人科学者から受けます。ミニチュア化など不可能だとモリスンは誘いを一蹴しますが、アメリカ情報局はソ連の極秘研究に興味を持ちモリスンを送り込もうとします。それも断ったモリスンですが、結局誘拐されソ連に連れて行かれてしまいます。
前作は映画のノベライゼーションだったために著者には欲求不満が残っていたのでしょう、こんどはまっさらな理論を組み立てていますが、縮小化でキモとなるのは、なんとプランク定数を動かすという荒技です。さらにそこに「光速度」が関係してくるらしいのですが…… ここで私の知覚はむりやり拡張されてしまいます。なにしろ、科学の「最小」を規定すると言って良い量子論のプランク定数をさらに小さくすることで縮小化を実用化するためには、科学で「最大」を規定すると言って良い光速度を増大させることが必要なのですから。そして、その「プランク定数と光速度をセットで扱える理論」は、昏睡状態の科学者の脳内に存在しているのです。
前作へのさりげない言及が続いて、私は楽しくなります(たとえば本書でも「通信機」が“犠牲”になります)。といっても、ただの“続編”ではありません。「時代」はしっかり反映されていて、「ソ連」は「極悪非道」ではありませんし、「コストの制限」がやたらあちこちで科学者の邪魔をしてくれます(前作では予算も人員も潤沢でしたが、今回はあちこちでケチられています)。潜航艇は6人乗りですが、乗員が一度坐ったら身動きはほとんどできません。トイレもその座席で、です(そういえば前作ではトイレはどうしていましたっけ? 「1時間」だから省略?)。かろうじてエンジンはついていますが、逆進はできません。すべてコスト優先なのです。学問の世界で「優先権」が大きな問題になっている(学者同士で醜い争いが起きている)ことも本書には反映されています。
モリスンの研究もまた面白いものです。人の脳活動の結果である脳波を分析することで、逆に人の思考を捕まえよう、というのですから。ところが外部からではノイズが多すぎます。そこで、脳内に潜り込んだら、「思考」そのものをつかまえることができる……かもしれないのです。
と言うことで、5人の隊員を乗せた潜航艇ははじめは細胞サイズにまで縮小されて、ある人の脳に潜り込んでいきます。さらには分子サイズになり、細胞間隙に(脳が利用できるのはブドウ糖だけです。だからブドウ糖分子のふりをして潜り込んでしまうのです)。
前作の「驚異の世界」は「光学顕微鏡の世界」でした(だから映画になったわけです)。だけど本書は「電子顕微鏡レベルの世界」です。スケールダウンというかパワーアップというか。おかげで、神経繊維一本を横断するのも大冒険旅行となってしまいます。
しかし……アシモフは相変わらず「人間ドラマ」を描くのは下手です。登場人物はみなぎくしゃくと操られるマリオネットのようです……が、私はそのことには不満を持ちません。だって面白いんだもの。ただ、最後の壮大なまでにばかばかしいオチは……落語ですか? いや、落語も好きですけど。
「巨人大鵬卵焼き」の時代に、私はどうして全国にジャイアンツファンがいるのか、不思議でした。もちろんマスコミの影響ですよね。毎日テレビで観ていたら、親しみを持つのは当然ですから。ただ、野球場に観戦に行ったこともないチームのことがそんなに好きになる、という心理はやはりわかりません。ヴァーチャルとリアルの区別はつけた方が良いように思うのですが。
同様にマスコミが“後押し”をしているものと言ったら、高校野球や大相撲ですね。これもテレビであそこまで放送されなかったら、あんな人気が出たのかなあ、と私はちょっと不思議な気分で見ています。皆さん、高校野球や大相撲を実際に観戦に行ったことが、どのくらいあります?
【ただいま読書中】『アト・ランダム ──ランダム・ハウス物語』ベネット・サーフ 著、 木下秀夫 訳、 早川書房、1980年、2700円
貧しいが幸福な少年時代を過ごしていた著者は、16歳の時に母を失うことで少年時代の終りを知ります。著者は自分の考えで、進学校のハイスクールを辞め商業学校に転じます。公認会計士の事務所でバイトもし、著者は「社会」について実地に学びます。コロンビア大学では学生新聞の記者になりますが、著者のコラムは人気を呼びます。第一次世界大戦、文学との出会い、禁酒法……まるで古いミュージカル(三つ揃いを着た“スター”がタップダンスを踊りながら歌うタイプのもの)のように、著者はとても信じられない“ストーリー”を生きています。最初の就職もダブルだし、初めて就職した出版社(リヴライト社)には(祖父の遺産を投資として持ち込んだ、という事情があるにしても)最初から副社長です。そこで著者は、出版業界について多くを学びますが、一番大きかったのは「何をしてはならないか」だそうです。私から見たら、もちろんそれもあるでしょうが、様々な人とのコネクションを得たことがとても大きいのではないか、と思えます。やがて、リヴライト社の「モダン・ライブラリ」部門を買い取って独立させてしまいます。仲間と共同経営したのですが、これが大当たり。出版社は大躍進を始めます。
タイトルを見たらわかりますが、本書はランダムハウスの創始者の自叙伝です。軽妙な口調で語られるその人生は、客観的には波瀾万丈なのですが、著者は本当に楽しそうです。人生を楽しく生きる、がモットーだったのかな。たとえば戦争での用紙不足。これは出版社にとっては死活問題のはずです。ところが著者にかかるとそのトラブルでさえ抱腹絶倒のエピソードになってしまいます。なにせ紙が絶対的に足りないことで怒鳴り込まれたトラブルが、最後には「聖トマス・アクィナスは、私の守護聖人と」なってしまうのですから。
本書は「時代」(第一次世界大戦から第二次世界大戦後まで)を描いたものでもありますが、印象的なのはそこに様々な「生きた人」が登場することです。出版社ですから作家も多く登場しますが、それぞれの人のユニークな言動が活写されています。著者は、日時とか会った場所とか買ったものの値段とか、細かいデータをゆるがせにしていません。詳しい記録を大量に残していたそうですから、そういったものを参照しながら書かれているようです。私自身が自分の人生を描くとしたら、記憶が頼りになってしまうのでここまで詳しくは書けません。まあ、私の人生を書いても最初から面白いものにはなりませんけれどね。
日本から見たら、ソ連とUSAは随分遠い国だと思っていましたが、ある日地球儀を上から眺めてみて、「まるで地中海のようだ」は言い過ぎかもしれませんが、北極海をはさんでお互いがずいぶん近い存在であることに気づきました。だから「ICBM」の意味も当時の日本人とは随分違った感覚で使っていたのでしょうね。ガンジーの伝記で「イギリスで使われる世界地図はイギリスが中央に位置していてインドが中央ではなかったことにガンジーが強い印象を受けるシーン」があって、私は「世界地図で日本が真ん中とは決まっていないんだ」と驚いた記憶があるのに、それでもどうしても私は「地球」を見るときに「日本」を「中央」に置く癖がついているようです。
【ただいま読書中】『南極・北極の気象と気候』山内恭 著、 成山堂、2009年、1800円(税別)
北極海には、ユーラシア大陸や北アメリカ大陸から大量(地球上の河川水の10%)の淡水が供給されています。この淡水は北極海の表層の塩分濃度を下げ結氷しやすくします。さらに表層の密度が下がるため深層と混ざりにくくなり、海氷はますます成長しやすくなります。海氷は熱伝導が低く、海水の熱を遮断し、反射率が高いため光を高率に反射します。このことが極地を寒冷に保つ一つの要因です。
地球はその断面積分の太陽エネルギーを受け取り反射しない分を取り込みます。また、その温度に応じた放射を表面積分放出しています。そのバランスを求めた「放射平衡温度」(宇宙空間から見た地球(地表面および大気全体)からの放射に相当する温度)は摂氏マイナス18度。それに温室効果が加わることで地表面温度が決まります。大気が日射に対しては透明なのに地球からの長波放射には不透明なためその差で地表温度が上がることが温室効果です。さらに、緯度によって日射が異なり、反射率が異なります。それによって生じる熱エネルギーのアンバランスが、大気と海水の流れを生みだします。両極地は地球を冷却する領域で表面積はほぼ同じですが、北極は海抜0mなのに対し南極は標高が非常に高い、という差があります。これまた地球環境に影響を及ぼしているのだそうです。
二酸化炭素濃度は、北半球でまず増加してそれが南半球に数年後に波及するパターンで動いているそうです。となるとやはり人為ですね。そして海水の動きがそれに影響を与えます。たとえばグリーンランド海では北大西洋の海流の沈み込みが起きる海域として有名ですが、そこでは二酸化炭素も深海に取り込まれているのです。
オゾンホールは南極で確認されましたが、それに昭和基地での地道な観測が大きな貢献をしていたことは本書で初めて知りました(もうちょっと論文で頑張っていたら、「日本が発見した」となっていたはずだそうです)。みずほ、あすか、ドームふじ、といくつも基地が増えていたことも本書で知りました。日本は頑張っているじゃないですか。
雪が長年降り積もってできたものを「氷床」といいます。南極の数千メートルの分厚い氷床は、過去の情報の宝庫です。有名なのはボストーク基地で、1980年に2083メートルまでの掘削で16万年の気候を明らかにし、その後3623メートルまで掘りましたが、その下に大きな氷床下湖が発見され、100万年間地球大気と隔絶された環境の水を汚染せずにサンプリングする新技術の開発まで掘削は中断されています。日本はみずほ基地で掘削を開始しましたが、ここの氷が流れていて複雑な“地層”のため解析は断念し、新たにドームふじ基地(標高3810m、氷床の厚さは3100m)が作られました。昭和基地から1000km離れていて準備は大変ですが(1回の越冬掘削のためには2年間輸送に専念する必要があるそうです)1995年から掘削が開始され96年には2503m(約32万年分)のコア掘削に成功しています。その結果も面白い。「氷期」と「間氷期」のサイクルが10万年ずつ3回あり、前の間氷期は現在より摂氏6度も高いことがわかったり、古代の大気成分が分析できたり(温度と二酸化炭素濃度には相関があるそうです)……南極の地下、というか、氷表面の下は、情報の宝庫です。さらにグリーンランドでの深層掘削の結果と南極のコアとを照らし合わせると、“グローバル”な気候変動がわかってきます。ここでのグラフの一致ぶりには見た人は驚くはずです。ぜひ、実際に見て驚いてください。
現生人類は、アフリカを出てから1回氷期を経験しています。そして、今の間氷期が終わればまた氷期がくることはまず確実です。さて、そのとき人類はそれにどう対応するか、の前に、現在の“温暖化”に対処する必要があるんですよね。本書を読んでいて面白かったのは、生命が気象にけっこう大きな影響を与えていることでした。地球環境は、気象さえも単なる物理学のお話では終わらないのです。どうか南極での観測が「仕分け」でひどい目に遭いませんように。これは「人類の未来のための研究」なのです。