「15州司法長官、入国禁止を非難 「違憲」と連名で声明」(朝日新聞)
国の最高権力者の命令であっても「違憲」「違法」だと判断したらそれに従わないと堂々と宣言する司法の番人がいました。アメリカってまだ“健全”なのかもしれません。これが日本だったら、たとえ最高裁判所でも権力者に逆らわないための理由探しに奔走するところですが(こう判断する根拠は、これまでの行政訴訟や違憲訴訟での“実績”です)。
おっと、“国に逆らう人”として、沖縄県知事という例外もありました。もっともこれも副知事をもぎ取られたので今からじり貧でしょうけれど。
【ただいま読書中】『介護施設で何が起きているのか ──高齢者虐待をなくすために知っておきたい現場の真実』吉田輝美 著、 ぎょうせい、2016年、2200円(税別)
「高齢者虐待防止法」の問題点がまず指摘されます。この法律では、第20条〜25条が施設の問題に当てられていますが、そこでは「処罰」が前面に出ていて「予防」や「支援」の視点を欠いているのです。何より大切な「自己防衛力が弱い高齢者の尊厳をいかに守るか」の視点も。
たとえば施設の勤務者が「このままだと自分は虐待をしてしまいそうだ」と自覚したとします。ところがそれを相談するところがありません。上司に相談したら「危ない奴だ」と首になるのがオチです。だったらこの“事態”はどうなると思います? 私は「隠蔽の努力が、個人または組織で行われ、事態は行くところまで行ってしまう可能性が高くなる」と思います。
虐待を発見した施設名は公表されます。法律には「処罰が目的ではない」と明記されていますが、では何が目的なんでしょう? そもそも何をどう発表するか、厚生労働省は都道府県に丸投げしています。「上手く隠して公表にまで持ち込ませるな」という責任回避なのかな?
介護老人施設には「資格」を持った人が多くいます。資格を取るときに虐待のことなどについても学んでいるはずですが、日本では一般的に「資格を取ったらそれでおしまい」という風潮があって、仕事に就いてからの継続的な研修がなかなか行われません(実際には民間レベルでの研修はあちこちであるのですが、それを熱心に受けるのは「受けなくても安心な人」だったりします)。
施設での高齢者虐待を「虐待の加害者の個人的資質の問題」として捉えるのは、たとえばアルコール中毒やギャンブル中毒を「個人の弱さの問題」として捉えるのと通じるところがあるように私には感じられます。どちらも「再発予防」「社会防衛」「支援」の視点を欠いていて「個人を責めたらそれで満足」という点がそっくりです。どうしても「個人の問題」にするのだったら「誰か“悪い奴”だけがするのではなくて、状況が揃えば自分自身もやってしまうかもしれない」と思った方が良いでしょう。ただ、日本政府は(その「ことば」ではなくて「政策」を見る限り)高齢者を社会の邪魔者だと思っているフシがあるので、“上”がそういった態度である限り“上に従順な人”は邪魔者に対する差別や迫害のストッパーを公的に外されてしまうかもしれません。でも「上に従順」は“美徳”なんですよね。
昭和時代、「地震とナマズ」「雷とヘソ」は関連づけて語られていましたが、今はそんなことは全然言われなくなりました。地震についてはナマズのかわりに地震雲が盛んに語られていますが、雷ではヘソの代わりは何なんでしょう?
【ただいま読書中】『ナマズの博覧誌』秋篠宮文仁・緒方喜雄・森誠一 編著、 誠文堂新光社、2016年、3000円(税別)
古代エジプトでナマズは神聖視されたりタブー視されたりする「特別な魚」でした。古代中国では「めでたい魚」とされていました。
「地震とナマズ」については、夜行性のナマズが、地震の前兆で水が濁ったりしたために昼間でも目撃されるようになり「地震の前にナマズを見る」が「ナマズが地震を起こしている」に言われることが変わっていったのではないか、という推測が紹介されています。これはつまり「ナマズ」と「地震」が、かつての日本人にとっては身近な存在だった、ということです。
アメリカでは6月25日は「ナマズの日」で、国会が合同決議をし、ロナルド・レーガン大統領が布告をした公式年中行事なんだそうです。そういえば、トム・ソーヤーとハックルベリー・フィンがナマズ釣りに行ったのは『トム・ソーヤーの冒険』でしたっけ? アメリカ人にとってもナマズはとても身近な存在のようです。
メコンやオセアニアでは、ナマズは信仰の対象となっているそうです。日本でも、鯰絵や鯰絵馬や鯰信仰がありますが、どこか不思議な存在だった、ということなのでしょう。
そういえば「ウナギの味がする、ナマズの蒲焼き」を近大が開発した、というニュースがありましたが、これはどんな味なんでしょうねえ。あ、私はナマズそのものの味を知らないので、まずそちらから知る必要がありそうですが。
私は現在2足の革靴を毎日交互に履いています。購入したのは5年前、シューフィッターがいる靴屋でした。足を細かく測定され、靴ひもをきっちり絞めること教わりました。それまでの靴は、踵が片減りしていたのですが、現在どちらの靴も実に快調です。靴そのものも良いのかもしれませんが、ちょっとした調整で歩き方が変化して、靴が減らなくなっているのかもしれません。靴って、人間にとって重要なパーツであるようです。
【ただいま読書中】『柔らかヒューマノイド ──ロボットが知能の謎を解き明かす』細田耕 著、 化学同人、2016年、1600円(税別)
「ヒューマノイド」とは「人間そっくりのロボット」のことですが、では「人間そっくり」とはどういうことでしょう? 「形」?「機能」?「材質」?
本書では「柔らかさ」に注目して、これからあるべきヒューマノイドの姿を探っています。
そういえば昭和3年に造られた「學天則」は、空気圧で駆動され表情を変えることができる、という、ある意味「やわらかいロボット」でした。漫画で何か思いついた瞬間に「頭のすぐそばで電球がぴかりと光る」という表現がありますが、この學天則は装置としてこの「ライト」を持っていましたっけ。……おっと、話が逸れました。
ロボットの骨格部分は「硬い」ので、やわらかいロボットにするためには骨格の外側に柔らかいものをかぶせる必要があります。ところが「硬いもの」と「柔らかいもの」を重ねると「ずれ」が生じます。たとえば「ロボットの手」で、指先のセンサーが位置情報を発しても「ずれ」があると骨格部分の正確な動きができなくなるのです。
逆に言ったら、皮膚センサーを使って骨と筋肉を動かしている人間は、すごいことをやっていることになります。また、その「ずれ」を積極的に使って人間は環境を認知しているようです(同じ重さでも、ペンと団扇では、振ったときに腕が感じる抵抗は違いますよね。それで自分と環境の関係が認識できるわけです)。
関節が連動して動くことも重要です。たとえばノブを捻ってドアを開ける動作。これ、私たちはほぼ自動的に行っていますが、じっと観察するとドアの開く角度に応じて「肩関節・肘関節・手首の関節の連動」というとても複雑なことをやっています。ところがロボットの場合、各関節が独立して制御されるので、それを適切に連動させるのは大変です。
次は二足歩行。「歩行」とは「前に倒れ続ける動作」です。倒れないのは、身体が倒れる前に反対側の脚が振り出されて地面を踏んでくれるから。空気圧人工筋を使って安定した歩行を実現したオランダ・デルフト工科大学のヴィッセらは「歩行は難しくない、ただ前に倒れ続ければよい」というタイトルの論文を書いているそうです。歩く地面がどんな環境(傾斜、地質など)かを、「硬いロボット」は外界センサーで感じますが、「柔らかいロボット」は自己受容センサーで感じることができます。地面を調べなくてもそこを歩いて自分の身体がどう反応するかによって環境を推測できるわけです。
現在二足歩行ロボットはどんどん進歩していますが、走ったりジャンプするのはまだ難しい。動的なバランスをいかにコントロールするかと着地の衝撃をどうやって“柔らかく”逃がすかが困難なのです。しかしそれが、ハードウエアと制御技術の進歩によって可能になったら、その成果は「人体(スポーツ生理学や医学)」に還元できる可能性もあります。「柔らかさ」は実はとっても“ハード”な話題だったようです。
レオナルド・ダ・ビンチは馬の彫刻をするのに、筋肉や骨格を知らないと正確な描写はできない、と馬の解剖までした、と聞いたことがあります。
そういえば「映画」ができたのは、「馬が走るときにどの順番で4本の脚を着地しているか」の議論にけりをつけるためだった、と聞いたこともあります。
馬に対する好奇心は人類の文化を進歩させる原動力なんですね。
【ただいま読書中】『特別展 歴史コミックと馬』馬の博物館 編、公益財団法人馬事文化財団、2015年
歴史漫画の中から「馬」が登場するものを並べてみた特別展の記録です。
「3話」構成となっていますが、さすがに横山光輝だけで「第1話」がすべて占められています。水滸伝、三国志、項羽と劉邦、平家物語、徳川家康など、これだけ「馬」を描いていたのか、と感心します。
第2話は「戦国」特集で、こんどは「こんな人も戦国漫画を描いていたんだ」と感心します。
本当に個性豊かな様々な「馬」が登場していますが、所々にさりげなく江戸時代の錦絵などが挟まれているのが笑えます。「コミックに馬」というのは、昔から日本人には人気だったようです。
プロ野球のドラフト会議を報じるメディアは「即戦力」とか「将来有望」とかいろいろ褒め称える言葉を並べます。しかし、ドラフト会議全体で数十名が指名されて入団するということは、それとほぼ同じ数の選手が退団していることになります(球団の支配下選手の総数は決まっていますから)。世の中は厳しい。
で、やめていく人たちもかつては「即戦力」とか「将来有望」とか褒められたり期待されていたんですよね。やっぱり世の中は、厳しい。
【ただいま読書中】『広島東洋カープドラフト1位のその後』別冊宝島編集部 編、宝島社、2013年、619円(税別)
巻末の広告を見ると、「巨人」「阪神」「パリーグ」と並んで出版された本のようです。「パリーグ」でまとめるのかよ、と言いたくなりますが。
1980年の川口和久、81年の津田恒美、82年の西田真二……カープファンにとっては懐かしい名前が次々登場します。特に、津田、川端、佐々岡、といった名前を見ていて、この時代に、先発、複数の中継ぎ、シメのストッパー、で試合を組み立てる「投手分業」が始まったことに私は気づきました。それまでは「先発完投」が「投手のあるべき姿」だったのですが、「革命」がおきたわけです。ただ、今は「先発投手は6回まで、あるいは100球投げて、そこで中継ぎに任せる」が「当たり前」になっていますが、「当たり前」を壊すことで進歩は生まれますから、また何か変革がこれから起きるかもしれません。
86年の栗田聡選手は、故障続きで5年で引退してしまいましたが、それから理学療法士の国家資格を取り、「野球選手経験のあるトレーナー」として身を立てることになります。プロ野球にはこういった人材も必要です。
2012年の高橋大樹までが本書に掲載されていますが、実は「男気」黒田博樹はいません。なぜなら彼はドラフト2位だから。「ドラフト1位」以外にも、プロ野球ファンはあちこちを見ておく必要がありそうです。
私が子供時代には、歯科で嫌なのは削られる音と、麻酔注射の痛みでした。麻酔なのに注射針をぶすぶす刺されるときが痛かったのです。ところが最近は、針が細くなったのと、あらかじめ粘膜に薬を塗って麻痺させるためでしょう、ちっとも痛くありません。文明の進歩はありがたいものだとつくづく思います。
【ただいま読書中】『歯(ものと人間の文化史117)』大野粛英 著、 法政大学出版局、2016年、2500円(税別)
発掘調査によると縄文時代の日本人は、虫歯を平均1〜3本持っていました。この頻度は、室町時代に「4本」になるまでほぼ一定でした。縄文人の虫歯の特徴は「根の部分の虫歯が多い」ことで、植物質の摂取が多く歯の手入れをしないから根の部分が不潔域になった、という推測がされています。
古代中国では「虫歯は歯虫が歯質を食べて壊すことで発生する」と信じられていました。なんでも「頭が黒い、長さは六〜七分の虫」だそうです。誰が見たんでしょうねえ?
室町時代頃から「口中医」が仕事をするようになります。口の中の疾病を専門とする医者ですが、入れ歯製作はしていなかったようです。
江戸時代の庶民の「歯痛対策」は「願掛け」でした。奉納された絵馬にその願いが残されています。あとは、まじない・灸・様々なものを口に含む民間療法もありました。平安時代〜江戸時代に歯周病は「歯草(はくさ)」と呼ばれていました。もとは「歯瘡(はくさ)」だったのかもしれません。単に「歯が臭い」だったのかもしれませんが。
縄文時代から「抜歯」(健康な歯を抜く風習)がありましたが、弥生時代になくなっています。ただ「お歯黒」はその文化的な継承者なのかもしれない、と著者は考えています。江戸時代には、無麻酔だったりあるいは麻酔薬を歯茎に塗ってから抜歯をする人たちがいました。弓矢とか鉄棒と木槌とかで抜歯が行われていましたが、明治直前に西洋の歯科技術が導入されると、あっという間に西洋流が日本に根づきました。
お歯黒は、平安時代には上流階級の女性だけではなくて、貴族や武士の男子の成人の儀式でした。しかし江戸時代には女性だけの風俗になっています。男女以前に、「白い歯って素敵」ではなくて「黒い歯って素敵」の時代が日本にあったことが、ちょっと不思議な気分がします(戦国時代の宣教師や明治期にやってきた外国人も不思議に思って盛んに記録に残しています)。
お歯黒をする女性に虫歯が少ないことが知られていましたが、この理由は「お歯黒そのものの薬理作用」と「下処理のために房楊枝で歯全体を丁寧に磨くこと」が考えられます。逆に「お歯黒は歯の表面を傷める」という主張もありました。
インドではニーム(またはニンバ)と呼ばれる木の枝の一端を噛んで繊維状にした「歯木」で歯を磨いていましたが、これは仏教の儀式として広まったようです。日本では「房楊枝」として広まりました。要は「木の枝でできた歯ブラシ」です。日本では、ヤナギ、クロモジ、カンボクなどがよく用いられました。江戸時代後期には5本入りで五文くらいだったそうです。使い終わったら折って捨てるものでしたが、庶民は捨てずに何回も使い、房が短くなったら木槌で叩いて再生させていました。
民間で用いられていた歯磨き粉は「塩」「磨き砂」「米ぬかを焼いたもの」などで、歯木や指につけて磨いていました。江戸中期には歯磨き粉が商品として販売されるようになり、江戸・大坂・京都の小間物屋や楊枝店がはじめは扱いました。湯屋で売ったり専門の行商人もいたそうです。
柘植(つげ)は櫛の材料で有名ですが、固くて弾力性がある木質から、入れ歯にも加工されました。室町末期には木の入れ歯が作られるようになり、江戸時代には専門職としての入れ歯師が誕生します。西洋では上下を一体化して金属のスプリングで結合していましたが、日本では江戸時代初期から「上の総入れ歯を粘膜に吸着させる」ことで支えるようになっていました。一木造りのものや、人の抜けた歯を埋め込んだものもあります。顎や歯茎の型どりは、蜜蝋で行われました(精密に型を取らないと吸着してくれません)。最初の入れ歯師は、仏師や面打ちからの転向が多かったのではないか、という推測がされていますが、確証はありません。料金表がないので値段はわかりませんが、当時の日記を参照すると「1両以上」だったようです。庶民には手が出ない値段です。
部分入れ歯には石製のものもありました。糸で両脇の歯に結びつけて使用しています。
入れ歯を入れていた著名人として、本居宣長・杉田玄白・滝沢馬琴・柳生宗冬(又十郎)などが名を上げられています。
明治になってから歯科は大きく様変わりをしました。そういえば私が子供時代には歯磨きは「ローリング法」が全盛でしたが、今は歯間や歯周ポケットの掃除も重要視されています。これまた様変わりです。ということは、これからもまた歯科は変わっていくのでしょうね。
小惑星が地球に衝突したことで恐竜は絶滅した、と言われています。しかし、その大災厄で即座に恐竜がすべて死んだわけではないでしょう。やっとの思いで生き残った個体もいたはず。ただ、食糧は足りず、配偶者にも巡り会えずにそれらは少しずつ死んでいったはずです。
ところで地球の温暖化ですが、これも人類が“即死”をするわけではありません。少しずつ少しずつ「ゆでガエル」のように環境が悪くなっていって、気がついたらもうどうしようもない状況に追い込まれている、となるのではないか、と私は想像しています。
小惑星の衝突に対して恐竜は何もできませんでした。人類は、温暖化に対して同じように「何もできない」ではないですよね。手遅れになる前に、何か具体的にできないでしょうか。
【ただいま読書中】『世界の終わりの七日間』ベン・H・ウィンタース 著、 上野元美 訳、 早川書房、2015年、1600円(税別)
『地球最後の刑事』『カウントダウン・シティ』の続編、シリーズ最終作です。
小惑星が衝突して世界が終わるまで、あと7日。前作で自宅を失った元刑事ヘンリーは、警察官とその家族たちが終末を迎える(うまくいけば終末を乗り切る)ために立てこもる「警官のいえ」を出て、妹ニコを探しています。前二作で「なぜ、探す?」と尋ねられても上手く答えられなかったヘンリーですが、今回は「家族だから」と答えることができます。ただ、世界が終わろうとしている大混乱の時に? しかもニコは、国際的な陰謀(小惑星が地球に衝突することを防止するとかしないとか)に関係しているかあるいは関係しているという妄想に囚われているわけで、どちらにしても、無事発見できたとしても、ヘンリーの身柄が無事で済むかどうかの保証はありません。ニコの周囲には怪しすぎる“仲間”がたくさん群れているのです。
これまでヘンリーは、ノートに熱心にメモを取ってきていました。しかしノートはついに最後の一冊。補充はもう望めません。残りページはどんどん減ります。地球最後の日までの時間もどんどん減ります。
ついにニコのすぐそばまでヘンリーは肉薄します。場所はオハイオ州の片田舎の警察署。しかし妹は地下にこもっていて、二人の間を分厚いコンクリートの塊が遮断しています。ヘンリーは喉をざっくり切られた若い女を発見します。妹ではなかったことにまず安堵し、ついで恥じます。彼女も誰かの妹で誰かの娘なのに、と。
そして別の若い女性の他殺死体も。ヘンリーは「最後の捜査」を開始します。本当は時間をかけて悲しみをいやしたいところですが、「時間」はもうないのです。ヘンリーを含むすべての人類には。
「あとどのくらい?」少女がヘンリーに尋ねます。彼は答えます。「あと3日」。「あとどのくらい?」若い女性がヘンリーに尋ねます。「あと2日」。
殺人事件の謎は解けます。しかし「最大の謎」はついに解かれないまま、本書は終わります。だけどそれは大きな問題ではありません。本書は「最大の謎が解かれないこと」の余韻にも大きな価値がありますから。
「仏造って魂入れず」……本当に魂が入ったら、動きだすんじゃない?
「仏印」……仏のハンコ
「仏の顔も三度」……人間の顔だったら二度以下
「南無阿弥陀仏」……「ナンマイダ」と言ったら仏がどこかに行ってしまう
「仏頂面」……仏の頭頂部のような顔
「廃仏」……お払い箱となった仏
「神も仏もない」……本当の無神論者と本当の信者は言わない言葉
「対仏大同盟」……キリスト教やイスラムやユダヤ教などの大同盟
「大仏」……中仏や小仏より大きな仏
「仏文科」……理科系ではない仏
「馬の耳に念仏」……馬語で唱えるべきでした
「念仏」……仏に念を送る行為
「全仏オープン」……フランスのすべてを開放する
【ただいま読書中】『カウントダウン・シティ』ベン・H・ウィンタース 著、 上野元美 訳、 早川書房、2014年、1600円(税別)
小惑星が地球に衝突して人類が滅亡するまであと77日。
パキスタンが核ミサイルを小惑星に発射して破壊しようとして、それで「1個の小惑星」ではなくて「百万個の破片」が地球に降ってくることを危惧した勢力と戦争になった、という噂が流れています。小惑星を恐れた難民が大量にアメリカに入ろうとしています。終末期の世界は騒然としています。
警察を首になった、というか、警察そのものが解体されてしまったために失職したヘンリーは、子供時代に妹ニコと共にベビーシッターとして世話をしてもらったマーサから、失踪した夫ブレットの捜索を依頼されます。警察の力は使えず、電話もネットも使用が困難、人々の協力も望みにくい社会の状況で何ができる? それと、自分で望んで失踪したのだとしたら、もし発見してもヘンリーから何が言えます?
それでもヘンリーは動き始めます。増えつつあるストリートチルドレンの壊れた眼鏡を直す手伝いをしたり、昔の仲間と情報を交換しながら、自転車で走り回ります。
前作の『地球最後の刑事』で、ヘンリーは明け方に電話で起こされまくって、その繰り返しが独特のユーモアを生んでいました。本書では電話は使えませんから安眠できるのか、と思ったら、やはりヘンリーの安眠は妨害されてしまいます。いやもう、笑うしかありません。
それでもヘンリーはブレットを見つけ出してしまいます。まさか探す人がいるとは思わないから、行方を偽装する努力をブレットが全然していなかったことがヘンリーにとっては幸運でした。いや、幸運と言えるのかな? ともかくブレットは「たった一人の聖戦」を戦おうとしていました。しかしマーサは夫の「救済」を望んでいます。ヘンリーはブレットを説得しようとしますが……
「世界の終わり」が近づくにつれ、社会は解体していきます。しかしその中に別の形の「小さな社会」がいくつも生まれます。そのプロセスを見ていると、今私たちが安穏と生きているこの社会が、一皮剥いたらどんな実相を隠しているのかについても思索をしたくなってしまいます。
少し前までオバマに尻尾をふっていた忠犬ポチは、こんどはトランプに尻尾をふるんでしょうか。ずいぶん「ポリシー」が違うような気がするのですが。
【ただいま読書中】『敗者の日本史(6)承久の乱と後鳥羽院』関幸彦 著、 吉川弘文館、2012年、2600円(税別)
承久の乱について江戸期の頼山陽は『日本政記』で「志ありて謀なし」としました。具体的には「北条を源氏の“敵”に祭り上げたら、甲斐信濃の源氏を朝廷の味方に取り込めたはずだ」という提案をしています。実際に源実朝は文化的には朝廷サイドに立とうとしていました。後鳥羽上皇は「武士はすべて敵」と思っていたかもしれませんが、「一所懸命」の武士たちですから、内部分裂を誘えばいくらでもつけ込む隙はあったでしょう。しかし北条サイドは「朝廷が武家政権そのものを滅ぼそうとしている」と主張して御家人の結束を高めました。
明治時代、国定教科書では「承久の変」は「あってはならないこと」扱いでした。北条義時は厳しく非難され、明治18年には年表には残されたものの教科書の本文から「承久の変」は消えさります。同時に「建武中興」は明治の王政復古と重ね合わされて高く評価されました。つまり「明治維新」を高く評価するために「建武中興」と「承久の乱(変)」が利用された、とも言えます。興味深いのは、明治〜昭和初期に「歴史上の人物(新田義貞、楠正成、など「天皇の忠臣」)」にも贈位が盛んに行われていることです。「敗者」に贈位することで「歴史」に対して「国家」がメッセージを送っています。その中には承久の変(乱)の「敗者」が十数名含まれていました。
承久元年、源実朝が暗殺されます。後鳥羽院は「治天の君」として鎌倉に対し「親王将軍を送って欲しかったら地頭に関して譲歩しろ」というメッセージを送ります。鎌倉はそれを拒絶、九条道家の子(母親の血筋が頼朝につながっている)を将軍とします。面目を潰された後鳥羽院は、直属の軍(西面の武士など)を動かすことを考え始めます。
ついに宣戦布告。鎌倉武士団は「綸旨」に直面して動揺します。しかし、北条政子は「非義の綸旨」と断じることで武士団の結束を固めます。後鳥羽院は「至尊の血統ゆえに自分の言葉は正義、したがってその言葉に皆は従うべき」としました。しかし北条政子は「道理に外れたことを平気でする者は、道理に外れているがゆえにそもそも『君』ではない」との論理構成で対抗したのです。戦力はほぼ1対10。戦争そのものはあっけなく終了してしまいました。結果として、朝廷に味方した在京御家人や西国の守護は次々処分され、三人の上皇と二人の親王が流罪を得ることになります。後鳥羽院は隠岐から帰京することを許されず、隠岐で没することになります。幕府の怒りと警戒はそれほど厳しいものだったのでしょう。
「敗戦」は、公家には「武力ではなくて文化で生きる」ことを強いました。ただ、それは武家の方にもじわじわと影響を与え続けることになります。本書では「負ける」と「敗れる」を使い分けていますが、京都の公家は、敗れてはいても負けてはいなかったのかもしれません。
たとえ仕事で重大なミスをしても、それを別の人間がせっせと救済してくれる、という保証が最初からあったら、良い人は「よし、思い切って大きな仕事をするぞ」と張り切るでしょうが、ろくでもない人は「ミスしても大丈夫だもんね。よーし、平気でいい加減な仕事をするぞ」とひそかに思うでしょう。
東電救済で政府が公的に動くのは「てめえのミスを別の人間が救済してくれる」ことを保証しているわけで、さて、東電という法人がそれで「ありがたい。必死で頑張るぞ」と思うのか、それとも「ラッキー、もう何があっても大丈夫」とだけ思うのか、さて、どちらなんでしょう? 最初から堕落している会社だったら当然後者でしょうが、それほど堕落していなくてももしかしたら堕落への道を用意してしまったのではないか、という不安も私は感じています。
【ただいま読書中】『エネルギー問題の誤解いまそれをとく ──エネルギーリテラシーを高めるために』小西哲之 著、 化学同人、2013年、1800円(税別)
科学的には「エネルギー」は「総量は不変」です。したがって「なくなる」ことはありません。
まず「枯渇年数」から。これは「埋蔵量/毎年使う量」で計算されます。ところがこの「枯渇年数」を「あと○年で石油がなくなる」などと言うのは「間違い」だそうです。「埋蔵量」は、採掘技術や輸送コストおよび商品の値段によって変動します。シェールガスやシェールオイルが良い例で、新しくて安い採掘技術の導入でペイするようになると「埋蔵量」がどんと増えましたが、原油が安くなると消費量が減って「枯渇年数はぐんと延びました。つまり「枯渇」は著者にとってはそれほど重要な問題ではありません。
著者が重視するのは「エネルギーをいかに届けるか」です。かつての「石油ショック」は「原油が届かなくなるかもしれない」というパニックによって日本で発生しました。これも「エネルギー問題」が「枯渇」とは無関係である実証例だそうです。
著者は「石油がなくなれば新しいエネルギーに代替すれば良い」とか「エコ」という言葉で思考停止になる態度を警戒しています。前者は問題を生み出した社会に対して全くノータッチで問題を先送りするだけだし、後者は非科学的な態度だから、だそうです。
エネルギー自体は安価です(安価でないと燃やしてしまうなんてことはできません)。では電気代やガス代の大部分は何かといえば、ロジスティックス(またはサプライチェーン)(生産、輸送、消費、廃棄までの一連の流れ)の構築と維持のためのコストです。
ところで、私は自分が使う「エネルギーの種類」にはそれほどのこだわりはありません。私の役に立ってくれればとりあえず何でも良いです。ただ、支払いは少ない方が良いからコストは低い方が良い。
ということは,私がエネルギーについて真剣に考えるのは「エネルギーのコストが上昇したとき」なのかもしれません。「消費者」としては当然の態度とは言えますが。本書では「賢い消費者になること」が勧められています。できたら私もそうなりたいです。