【ただいま読書中】

おかだ 外郎という乱読家です。mixiに書いている読書日記を、こちらにも出しています。

富士の高嶺に降る雪/『虚数』

2009-01-31 18:01:08 | Weblog
 わが家のトイレにぶら下がっているカレンダーの1月分には「田子の浦に 打ち出でてみれば 白妙の 富士の高嶺に 雪は降りつつ(山部赤人)」とあります。中学でこの歌を覚えた時には「田子の浦ゆ」じゃなかったっけ、と思いながら眺めていて、「果たして海岸から富士の高嶺に雪が降っている様を目撃できるだろうか」ということが気になりました。「白妙」なのですから富士の高嶺に雪が積もっていることは明らかです。でも、現在「雪が降りつつ」あるかどうかはどうやって判断できます? 肉眼ではちょっと見えないと思います。これは田子の浦に現在雪が降っていて、そのことを“遠近法”を駆使して歌に詠んだのかな、と結論を出したところでトイレの用は済みました。

 トイレを出てちょっと調べてみると、山部赤人の元歌(万葉集)は「田子の浦ゆ 打ち出でてみれば 真白にぞ 富士の高嶺に 雪は降りける」だそうです。「ゆ」は経由を示すので「田子の浦を通って富士が見えるところに出たら、あら、お山は雪で真っ白だ」となって、あらら、百人一首とは別の意味ですね。やっぱり「つつ」よりは元歌の「ける」の方が収まりは良いと私は感じます。
 もしかしたら、藤原定家の時代にはすでに「ゆ」は人気がなくなっていて「これを使ったら人々に理解してもらえない」という判断から「に」に変更し、それでは歌のダイナミズムが失われるから最後の「けり」を「つつ」にすることでダイナミズムを復活させる、という判断が選者の定家にあったのかな、なんていろいろ想像は膨らみます。

【ただいま読書中】
虚数』スタニスワフ・レム 著、 長谷見一雄・沼野充義・西成彦 訳、 国書刊行会(文学の冒険シリーズ)、1998年、2400円(税別)

 ふざけた本です。「序文」だけ集めたアンソロジーなのですが、その序文はすべて「まだ書かれていない本」のためのものなのです。さらにごていねいにこの作品集にはそれ自体の「序文」までくっついていて「序文」について熱く語ってくれています。そこではこんなことが語られます。「本を書くことはいわば“罪”だから、私はじっと我慢して罪そのもの(本を書くこと)は冒さないつもりなのだが、その罪の予告だけはこういった序文の形で示そう」……ナンデスカコレハ。さらに「序文作家」なるものまで登場します。
 それぞれの(架空の)作品もぶっ飛んでいます。トップの「ネクロビア」は、レントゲン撮影されたポルノグラムです。「序文」を読むだけでいろいろな「絵」が頭に浮かびますが、たしかにここに書いてあるように妊婦のヌードレントゲングラムを想像すると、それはたしかに「生と死」でありかつ「性と死」です。
 「エルンティク」は、細菌にことば(モールス信号)を教えようとする学者の話です。ところが言葉を覚えた大腸菌が語り始めたものは……いや、抱腹絶倒。本当に“この本”を読みたくなります。たとえ学術書ではなくてファンタジーの書棚に並べられたとしても。
 「ビット文学の歴史(全5巻)」は、コンピュータが製作した文学作品に関する学術書です。ちなみに、本書の発表は1973年ですが、すでに人工無能に関する記述が見えます。さらに、人工知能に知性があるかどうかをテストするためのチューリングテストをやっていると、コンピューターの方も「今自分の相手をしている人間に知性があるのだろうか」という疑いを持つ、というとんでもない指摘も登場します。

 ページ数は、本書の頁とそれぞれの序文の頁が入り乱れ、フォントや段組もそれぞれの序文で異なり、未来予測コンピューターによって執筆された百科事典の見本は左開き、と、レムは内容だけではなくて形式でも遊びまくっています。頁を開くと文字が勝手に立ち上がってきて、目の前にそれぞれの世界を構築してくれます。
 そうそう、強いて各作品の共通点を探すなら、どれも「人間が人間を対象に書いた文学作品では“ない”」こと。
 「消しゴムで書く」と言ったのは安部公房ですが、スタニスワフ・レムは「頭の中にある構想を本にせず、その序文だけを書くことだけにする」ことで読者にその「構想」を伝えようとしたようです。いやあ、面白く時間を過ごせました。


涙を止めるスイッチ/『武器よさらば(下)』

2009-01-30 18:05:59 | Weblog
 涙を止めるスイッチがあるのなら押してあげたい、と思うことがあります。でも、そんなスイッチがどこにあるのかはわかりませんし、スイッチをいじっても、涙の原因がなくなるわけでもないのですが。

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武器よさらば(下)』ヘミングウェイ 著、 金原瑞人 訳、 光文社古典新訳文庫、2007年、571円(税別)

 フレデリックは前線に戻ります。待っていたのは親友の外科医リナルディ(もしかしたら彼はフレデリックに同性愛的感情を抱いているのではないかと思えます)。将校食堂での食事は、スープに始まりデザートに終わるフルコース。ここは前線ですよ、と言いたくなります。
 フレデリックは最前線に配属され負傷兵の運搬業務に復帰します。しかし戦況は悪く、イタリア軍は退却を始めます。それでなくても厭戦気分が蔓延していたのが、ますますひどくなり、イタリア軍の士気は最低となります。部隊からはぐれてしまった将校は軍法会議抜きで容赦なく射殺され、フレデリックはスパイ容疑(なまったイタリア語をしゃべるから)で射殺されそうになり、脱走します。
 休暇を過ごしていたキャサリンと再会したフレデリックは、まるっきり行き当たりばったりにスイスへの逃避を決行します。冬のスイス。少しずつ膨らんでくるキャサリンのお腹。二人はただひたすら残り少なくなっていく“二人の日々”を楽しみます。表向きは「もうすぐ三人になるから“二人の日々”でなくなる」ですが、実際には「将来への展望や希望を全く欠いた日々」です。ちょうどロミオとジュリエットが「どこかここではない場所」を夢見ながら死に向かっていくように。そして、一人称で短くぽきぽきと“現実”を折り取ってならべたような文章の向こう側に、悲劇的な結末が現れます。
 本書は、上巻では「死」を基礎としてその上で“コメディ”が演じられていました。ところが下巻にはいるとコメディは後景に退き「死」が前面に座り続けています。さて、フレデリックはそこからどうやって生きていくのか、そもそも彼はそれまでも本当に生きていたのか、疑問に思いながら私は本を閉じることになります。


美しい日本語/『武器よさらば(上)』

2009-01-29 18:43:35 | Weblog
 私は美しい日本語にあこがれを持っていますが、その代表(の一人)が泉鏡花です。あくまで「あこがれ(の代表)」で、全然真似はできませんが。ところが最近、夏目漱石を見直しています。この人の文章、「美しい」とか「端正」という表現は私には言えませんが、そうですね、一番ふさわしく感じるのは「好ましい」です。気取らずしかし野卑に落ちず、私にとって「好ましい文章・文体」。若い頃には全然違った評価をしていたんですけれどね。
 ところで皆さんには「これが文章のお手本(あこがれ)」としている“先人”はありますか?

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武器よさらば(上)』ヘミングウェイ 著、 金原瑞人 訳、 光文社古典新訳文庫、2007年、533円(税別)

 第一次世界大戦。イタリア軍に志願したアメリカ人フレデリック・ヘンリーはオーストリアとの戦線にいました。任務は負傷兵の運搬。身分は中尉。ヘンリーは救急ボランティアのミス・キャサリン・バークリと出会います。二人は愛し合っているふりの“ゲーム”を始めます。
 ヘンリーは迫撃砲弾を膝に喰らって負傷。ミラノのアメリカ軍病院に後送されて手術を受けます。そこにキャサリンが配属され、二人はこんどは本当の恋に落ちます。しかし、回復休暇のあと前線に戻れとの命令が届いた時、キャサリンの妊娠がわかります。二人は夜の町をさ迷い、駅前で別れます。

 とてもみずみずしく、スピーディーに場面展開を繰り返す文体です。でも“息”の長い文章となるところもあります。著者(あるいは語り手)が言いたいことがこんがらがっていて途中でほぐすことができず、そのままとにかくいけるところまで一気に喋ってしまう、といった感じの文章です。また、会話だけで終わる章がいくつもあります。きっと本作が発表された当時には、それは斬新なスタイルだったことでしょう。
 さらにここに描かれている雰囲気が妙に明るいのが特徴です。クレージーな野戦病院を舞台とした『マッシュ』を私は思い出していました。あそこまでブラックではありませんが、『武器よさらば』は、戦場での青春コメディなのかな。


正倉院展/『正倉院』

2009-01-28 19:00:49 | Weblog
 私は今までに3回奈良を訪れたことがありますが、そのうち2回は偶然正倉院展とぶつかっています。
 たまたま大阪に出張で出かけて1日ぽっかり空いたので「じゃあ奈良まで行ってみるか」と電車に乗って、駅で降りたら人並みがそのままぞろぞろと同じ方向へ。一体何だ、とそのまま流れに乗っていたら国立博物館へ。「本当にラッキー」と思いました。それが正倉院展とのはじめての出会いです。それから10年くらいあとにこんどは職場旅行でやはり大阪に行ったら、新大阪駅のポスターに正倉院展の文字が。何も考えずに自由行動の時間を生かしてそのまま奈良に直行しました。
 また“その時期”に奈良・大阪・京都・名古屋あたりで学会でも開かれないか、と思っていますが、強く期待しているとなかなかものごとは上手くいかないものです。

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正倉院 ──歴史と宝物』杉本一樹 著、 中公新書1967、2008年、800円(税別)

 東大寺が建立されたとき、他の寺と同じく「正倉」(重要な物品を収める倉庫)が作られました。倉庫はどんどん増やされすべてを含めて「正倉院」と呼ばれています。著者は、その中身(宝物)の重要性はもちろん、それらを「保存しようとした」人の意志と行動を重要視しています。
 東大寺を創建した聖武天皇の没後、光明皇后は天皇愛用の品々などを東大寺に奉献しました。それが正倉院宝物の中核となっています。さらに寺の資材(大仏開眼会で用いられたものなど貴重なものから、消耗物資であまったものまで)が倉庫に運び込まれていました。
 特に重要な北倉は普段は勅封(天皇のサインまたは花押が押された紙による封印)によって封じられています。曝涼と呼ばれる、人の手による空気の入れ換えと総点検も行われます。(この点検記録も実は貴重な“財産”です)
 正倉院は何度か危機を迎えています。近くの大仏殿は二回焼けました。治承四年(1180)の平重衡の南都焼討と永禄十年(1567)の三好・松永合戦。しかし正倉院は幸い焼失しませんでした。
 明治になって宮内庁の管轄となり曝涼を毎年行うことが制度化されました。戦後は正倉院も宝持も国有財産となりましたが、管轄はやはり宮内庁が行っています。
 宝物の奉献には目録(献物帳)が付けられていますが、この目録自体が一級の史料です。その形式や内容についての考察は読み応えがあり、とくに「奉献」という行為の方が「奉献された宝物」よりも重要だった、という考察には説得力があります。
 記録はさらにあります。正倉院は公的な“倉”ですから、そこからのものの出し入れには必ず記録が残されます。出納帳です。さらに出入りがあれば当然誤差が生じますから、定期的に棚卸しが行われます。特に、大量の薬は使われることが前提で納められたようで、けっこう大量に京都に出されています。麝香や胡椒は全部使われてしまいました。人参(薬用人参)も主根部はほとんど消費されてしまっています。さらには武器の出庫もあります。藤原仲麻呂(恵美押勝)の乱の時に、いち早く孝謙上皇方は奈良を掌握し、正倉院から武器を洗いざらい持ちだしているのです。持ち出すと言えば、盗難も何回かありました。しかもその犯人が東大寺の僧や元僧だったりして。落雷もあります。1200年を正倉院はのんびりと過ごしたわけではありません。
 明治になってからの修復の話もあり、そこはもっと具体的に詳しく聞きたいと思いますし、戦後の科学的調査の話も駆け足です。もっと紙幅が欲しかったなあ。というか、それはまた別の本を読め、と著者は言っているのかもしれません。



農林業は甘い商売?/『ゴンベッサよ、永遠に』

2009-01-27 18:44:16 | Weblog
 職を失った人の行き先として「農林業」が候補に挙げられているそうです。片方に「職がない人」、もう片方に「人が足りない職業」があるからちょうど良い、ということなのでしょうが、農林業ってそんなに簡単に始められる(素人が始めて明日からそれで食っていける)商売なんでしょうか? 私にはとてもそうは思えません。明治時代の北海道開拓で、開拓民がどんな苦労をしてどのくらいの犠牲が出たか、まで持ち出す必要はないでしょうが、たとえば農業だったら、まず必要な知識は、土壌(利水・施肥・草取りを含む)・育てる作物の性質・収穫のタイミング・換金方法。必要な読みは、向こう1年の気候・商品相場(何が収穫期に高くなっているか)など。農業技術者でかつ相場師でかつ経営者でないと上手くやっていけないはずです。さらに、すべてが上手くいっても金が入ってくるのは収穫後。それまでどうやって食いつなぎます? 「農奴になる」のなら、少なくとも食わしてはもらえますが、ではこんどは誰が食わせるんでしょう。

 そもそも農林業で人が減ったのは、「それで食えない」とか「住む環境が魅力的ではない」などの理由があったからのはずです。その根本原因を放置したまま人だけ放り込めば解決、とは私には思えません。風呂桶の栓を抜いたままそこに桶で水を入れるようなもの(しかもその桶も底が抜けている)と思えます。

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ゴンベッサよ、永遠に ──幻の化石魚シーラカンス物語』末広陽子 著、 末広恭雄 監修、小学館、1988年、1194円(税別)

 1938年、南アフリカ共和国の東海岸イーストロンドンにトロール漁船が奇妙な魚を水揚げしました。イーストロンドンの博物館館長ラティマーは、保存手段がないため剥製にすると同時に、イギリスのスミス教授に連絡します。スミス教授は、3億年前に現れ7000万年前に絶滅したと考えられているシーラカンスであると確信します。1952年に二匹目のシーラカンスがコモロ諸島(マダガスカル島の近傍で当時仏領)で捕獲されます。
 日本にシーラカンスの標本がやってきたのは1967年、フランスと良好な関係を持っていた正力松太郎氏にフランス政府から寄贈されました。(アポロの月面到着はその2年後です) ちなみにこの標本は、解剖後よみうりランド海水水族館に展示されているそうです。1972年、日本にシーラカンス学術調査隊が誕生します。メンバーは著者の父(本書の監修者)と映画の篠之井公平の二人だけ。(ちなみにワシントン条約が発効したのもそのころです) スポンサーは見つからず日本と国交がないコモロでは政変が起きライバル(他のシーラカンス調査隊)が名乗りを上げ……調査隊が出発できたのはやっと1981年のことでした。慣れない環境での1ヶ月が過ぎ、明日は帰国するという最終日になって大物が釣り糸にかかります。漁師の親子は8時間の格闘の末、体長1m77cm体重85kgのゴンベッサ(シーラカンスの現地名)を引き上げます。
 日本に持ち帰った冷凍標本をX線CTで検査したところ、背骨は軟骨で椎体や肋骨はなく、それらの機能は分厚く三重になったウロコが担当していることや、まるで手足になりかけているかのように見えるひれが両生類の手足に骨格が類似していることもわかりました。解剖では、脳神経組織が魚より両生類に似ていることも。
 後日談として不愉快な話も紹介されていますが(“世間で目立つ人間”が嫌いなんだろう、としか解釈できない訳のわからない行動や“ただ乗り”をしようとする人間はいつの時代にもいるものです)、愉快な話もあります。特にシーラカンスの試食会で結論は「不味い魚の代表」だったとは。さらに1986年第3次調査隊のときに、ついに生きているシーラカンスが泳ぐシーンがビデオに収録されます。
 ただ残念なのは、せっかく得た知見を「人類全体で共有する」ことができていないことです。本書で紹介されているドイツの調査隊の態度とはずいぶん違って、日本隊の態度は、好意的に言うなら引っ込み思案、悪く言うなら内向きで、全世界に向けての発信をしようとはしません。もったいないなあ。


1年後/『丘の上の牧師館』

2009-01-26 18:28:38 | Weblog
 私が就職を考えていた時代には、“就職活動解禁”は大学4年のたしか春か初夏の頃でした。ところが今では大学3年の冬あるいは秋にすでに就活が始まっているのだそうですね。で、大体きちんと決まるのが4年の春頃。
 ということは、企業は1年後の景気を睨みながら採用計画を立てなければならないわけですが、今のようなご時世ではそれはとっても難しい決断ですねえ。学生の方も、こんなに早く決めてしまって、それから卒論を書くわけですか。
 なんだか、もうちょっと双方によい方法はないかしら。

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丘の上の牧師館』シルヴィア・ウォー 著、 こだまともこ 訳、 佐竹美保 絵、1997年、1553円(税別)

 等身大の生きている人形メニム一家の物語は、基本的に「いかに人間たちに知られずに人形たちが自分たちの生活を維持するか」がテーマとなっていました。しかし、第4巻で一家は全員“死”に、そして復活したらこんどは話が逆転気味となってしまいました。こんどは人間がメニム一家をどうやって受け入れるか、が重大なテーマとなってしまうのです。
 しかし、生きている人形が死んだら(あるい死んだふりをしたら)ただの人形にしか見えない、というところで私は大笑いをしてしまいました。いや、実に当たり前のことなんですけどね。
 生き別れというか死に別れになっていたスービーも一家に合流し、一家は“再出発”のため活動を開始します。まずは自分たちが生きていることを人間に悟られないようにして、それから自分たちの新しい屋敷探しです。
 他方、メニムたちの存在を受け入れようと苦闘する人たちの物語も同時に展開されます。魔法と現実が交差します。ここでも「ごっこ」や「ふり」が重要な役割を果たします。第1巻から続いていた「人形が行うごっこ遊び」は、本巻では人間も自分の世界を壊さないために真剣に行わなければならない行為へと変質しています。ちょっとこのへんは子どもには難しいんじゃないか、と思いながらも私は引き込まれていきました。イギリスの児童文学者はこの辺を描くのが上手い人が多いな、と思いながら。
 特筆するべきは、「家族の愛情」を脳天気に賛美しないことでしょう。愛情は愛情、しかし、嫌なところは嫌なところ。その感情の機微を著者はストレートに、あるいは細やかに描写します。
 そして最後。「それからいつまでも幸せに暮らしました」というおとぎ話の決まり文句が、新しい意味を持って読者の心に響き続けます。このシリーズも拾いものでした。強くおすすめ。


たいむかぷせる

2009-01-25 16:52:50 | Weblog
 ひょんなことで臨時収入が数万円あったので、それをはたいてAppleのTimeCapsuleを購入しました。無線LANのベース(+有線ルータ)とバックアップ用の外付けハードディスク(私が買ったのは500GBのモデル)が合体している変な機器ですが、ちょうど今の私には必要なものだったものですから。
 Apple製品の特徴ですが、電源やらケーブルをつないだらとにかく何も考えずに立ち上げてみたくなります。それで上手くいかなかったらマニュアルを読もう、という作戦です。それでとりあえずネットに接続したらあっさりつながって、モデムは同じなのに、前の有線ルータの時には大体8Mbpsの速度だったのが無線にしたら11~13Mbps出ています。TimeCapsuleは一階でMacBookは二階にあってこの速度ですから、同じ部屋に置けばもっと速いのかな。AirMacをオンにしてみてご近所に何軒も無線を使っている人がいることに気づきました。おやおや、一軒なんかパスワードで保護していませんぜ。別に接続しようとは思いませんが、良いのかなあ。
 で、早速TimeMachineというソフトを起動してTimeCapsuleにMacBookの中身をフルバックアップです。バーのTimeMachineのアイコンはアナログ時計なのですが、その針がバックアップ中は逆回りをしていてなかなかキュートです。ネットで見ると「一晩かかった」とか「2日かかった」とかの声がありますが、たしかにそんなスピードでした。ま、たかだか55GBですし、「焦る旅」ではありませんから良いのですが。今使っている環境を丸ごと再現できるそうなので、楽しみです……あ、楽しみじゃないか、マシンの買い換え以外で過去の再現が丸々必要になるのはマシンのクラッシュですから。まあその場合でも“被害”(データの移行だけではなくて、各ソフトのインストールや各種設定を全部やり直す)をしなくて良い、というのはとっても魅力です。で、TimeMachineに入ってとりあえず1日過去に戻ってみたら、削除したはずのファイルがちゃんと残ってます。ちょっとした感動ものでした。
 で、バックアップが無事終了していろいろいじっていたら、あらら、AirMacをオンにしてもTimeCapsuleが見つからなくなってしまいました。設定をいろいろ変えても駄目だったのでリセットかけたらあっさりつながりましたが、いろいろ遊びがいのある機器です。



「あなたのためのおべんとう」コンクール/『北岸通りの骨董屋』

2009-01-24 18:26:05 | Weblog
ajgika.ne.jp/fair/8/doc/fair-youkou1201.pdf
 中学生の「ものづくり」のためのコンクールだそうです。正式には「全国中学生創造ものづくり教育フェア」というものすごい名称ですが。おや、1月24日と25日だったんですね。興味のある方、つくばに走っていくか、来年参加されたらいかがでしょう。

【ただいま読書中】
北岸通りの骨董屋』シルヴィア・ウォー 著、 こだまともこ 訳、 佐竹美保 絵、1997年、1553円(税別)

 アップルビーの“死”から1年、一家はなんとか生きていましたが、マグナス卿はそこで“啓示”を受けます。自分たちの命は、来年の10月1日までのあと1年、と。
 クリスマスが近づき、ヴィネッタは、いつもの「ケーキを焼くふり」ではなくて、本物のケーキを焼くことにします。ジョシュアは、本物のもみの木を買ってきます。プレゼントの交換が盛大に行われます。「これが最後のクリスマス」と、誰も口に出しては云いませんが、わかっているからメニム一家は一瞬一瞬をいとおしみます。そしてその大切な時間をマグナス卿がぶちこわします。
 まったくこの一家は、シリーズのこれまでの、どの大事な瞬間でも、必ず誰かが“ぶちこわし役”になるのです。まるでそれが“運命”であるかのように。そして人形一家は、自分たちが死ぬ日のための準備を始めます。

 正式な相続人が屋敷を訪れますが、彼らが発見したのは、つい先ほどまで人が住んでいた気配がする、空っぽではない屋敷でした。なにしろ家具調度衣類が全部そろっているのです。第2巻で登場したアルバート・ボンドも再登場しブロックルハースト・グローブの屋敷に足を踏み入れます。そこで見かけた動かない人形たちにアルバートは衝撃を覚えます。
 いやあ、なんというか、とんでもない展開です。一家が全滅してしまいました。しかし「人形」とはいっても等身大でしかも(見た人は知らないにしても)魂がつい最近まであった抜け殻ですから、人間はその処置に困ります。どうみてもうっかり捨ててしまって良いものではないのです。どこでも良いから適当にとはせずに家財などを処理しようとするボンド夫妻は、北岸通りの骨董屋を思いつきます。そしてそこには別の方角からも思いがけない来訪者が。

 人形も人間も、中年あるいは老齢の女性のキャラクターが鮮烈です。男も結構魅力的なのですが、若くない女性の方がはるかに魅力的で生き生きと生きています。また、人形の子どもが遊ぶ人形のアクションマンのところでは「クレヨンしんちゃん」のアクション仮面を連想しますし。タクシーだけど専用運転手を持っている老人デイジーが登場するところでは「ドライビング・ミス・デイジー」を思い出します。連想回路のスイッチが入りっぱなしです。読んでいてずいぶん忙しい思いをする作品です。


心の傷/『屋敷の中のとらわれびと』

2009-01-23 17:46:39 | Weblog
 数年前に数針縫わなきゃいけない傷を負ったのですが、この冬になってそこがちくちく痛むようになりました。見た感じ傷跡が薄く残っているだけで腫れもないし赤くもなっていません。「古傷が痛む、とはこのことか」と実感しましたが、そこで連想が飛びます。
 「昔の心の傷がざっくりとまた開いた」なんて表現がありますが、心の傷は「古傷」にはならないんですかね。いつまでも傷は癒えずに生々しい傷のまま。それとも、古傷にはなるんだけど、心の場合には「古傷が痛む」が強烈に起きる、ということなのかしら。

【ただいま読書中】
屋敷の中のとらわれびと』シルヴィア・ウォー 著、 こだまともこ 訳、 佐竹美保 絵、1996年、1553円(税別)

 等身大の生きている人形メニム一家の物語の第3巻です。

 ブロックルハースト・グローブを取り壊そうとする動きが中止されて2ヶ月。その中心となって活躍したアンシア・フライヤーは、あらためて「5番地の隠棲者たち」に注目します。隠棲者というのに彼らはけっこう活発に外出しています。どこか奇妙です。
 見張られていることに気づいたメニム一家は、屋敷に閉じ籠って注目をやり過ごすことにします。そのうち興味を失うだろう、というわけです。しかしその“包囲網”に閉じこめられた生活の中で、またまたお騒がせ娘のアップルビーがこんどは「人間のボーイフレンド」をこさえてしまいます。彼女はディスコでデートをし、自分が「布の人形」であることを初めて悲しく思います。
 閉じ籠っているはずの一家ですが、どうしても出なければならない用があったり、あるいはどうしても出たくなったり、で、メニム一家の一同は次々外出をします。すると世間の方も一家に関わりを持とうとします。近所の人・保健婦・警官、の姿で。一家の長老マグナス卿は、籠城宣言をします。一家はもう誰も外に出てはならない、と。アップルビーは、屋根裏部屋で開けてはならないドアを開けてしまいます。その結果は……魔法の力で生きている人形の死でした。
 死なないはずの家族の死に、ヴィネッタは衝撃を受けます。耐えきれない衝撃を。そんなときにできるのは「ごっこ」です。現実が耐えきれない時には、その現実を閉め出してしまうのです。まずヴィネッタがするのは「自分が生きているふり」です。本当に悲しむことができる準備ができるまで、心の底から悲しむことができる日までの「ごっこ」です。
 私にとっては予想外の展開です。私も衝撃を受けますが、それと同時に「生きている人形が死んだことに衝撃を受ける自分」に対しても驚きを感じます。完全にこの物語世界に私は連れ込まれていたようです。
 ただ、本当に悲しむ「その日」を迎えたヴィネッタが、そこから少しずつ癒されていくことが、読者にとっての救いでしょう。それと、人形たちの成長には目を瞠るものがあります。40年間安定して屋敷の中で繰り返されてきた「ごっこ」や「ふり」の体系(制度)が、トラブルによって崩され、それまで頼りない夫でしかなかったジョシュアが最後にはみごとな行動を見せます。もしかしたら著者は「知恵とは、座り込んで口だけ動かすことではなくて、体を動かす人(人形)と共にある」と言いたいのかな。


わかっちゃいるけど/『クリスマスの猫』

2009-01-22 19:05:17 | Weblog
 「わかってはいるけれど、できない」は「わからない」よりもタチが悪いと私は考えます。だって「わからないからできない」は「わかるように努力」すればできるようになる可能性がありますが、「わかっているけれど、できない」のはつまりは「やる気(意思)がない」わけですから。でもその場合には「できない」ではなくて「わかってはいるのだが、やらない」と正直に言って欲しいなあ。

【ただいま読書中】
クリスマスの猫』ロバート・ウェストール 著、 ジョン・ロレンス 絵、坂崎麻子 訳、 徳間書店、1994年、1100円(税別)

 1934年(日本では東北で飢饉、満州国では溥儀が皇帝に、アメリカでは「ボニーとクライド」、ドイツではヒトラーが大統領に、ソ連ではスターリンの粛清開始、といった年)に11歳の少女キャロラインは両親が外国に行ってしまったためクリスマス休暇を教区牧師をしているおじさんのところで過ごすことになります。上流階級育ちだがお転婆で腰まである赤毛が自慢の少女は、おじさんの教会が治安の悪い労働者階級の街の真ん中で、信者がほとんど寄りつかないところであるのに驚きます。そこは性悪の家政婦が牛耳っていたのでした。
 荒れ果てた庭の隅で身重の猫を発見したキャロラインは、同時に街のガキ大将ボビーとも知り合います。家政婦の目を盗み、キャロラインはボビーの案内で街の内情と教会が置かれた立場を理解していきます。
 ずいぶんストレートな話だなあ、と思いながら読んでいて最後のあたりで得心がいきました。これは新約聖書の物語なのです。猫は聖母マリア。家政婦はヘロデかな。だから猫はクリスマス(のちょっと前に)馬屋で子どもを出産するのです。そしてその“奇跡”によって、おじさんは救われあの二人は結ばれることになるのです。
 「おばあさんが孫娘に語る物語」という枠組みを生かした、ちょっと洒落たクリスマス物語です。