【ただいま読書中】

おかだ 外郎という乱読家です。mixiに書いている読書日記を、こちらにも出しています。

日本の伝統

2018-03-31 06:41:24 | Weblog

 「日本の伝統への回帰」を主張する人がいますが、そういった方は「五箇条のご誓文」をどう捉えているのでしょう。明治天皇はあれで「過去への決別」を明確に宣言しています。ということは、「日本の伝統への回帰」とは、「日本の伝統は明治時代以降に限定」か、あるいは「明治天皇の否定」のどちらか?

【ただいま読書中】『歴史の場 ──史跡・記念碑・記憶』若尾祐司・和田光弘 編著、 ミネルヴァ書房、2010年、6500円(税別)

 「歴史とは記憶が層となって積み重なったもの」で「モニュメントはその層を切り開くための“入り口"」という観点から、欧米を中心に世界各地のモニュメントを約20取り上げその多様性を論じた論文集です。
 アメリカ独立戦争はUSAにとっては重要で、だからジョージ・ワシントン一族の墓もまたモニュメントとして重要です。死者に対してはふつう「安らかに眠ってください」ですが、「公的な死者は眠ることを許されない」のだそうです。
 ニューヨーク州がまだ奴隷制を維持していた時代、黒人は(白人のための)教会墓地に埋葬されることを許されず、黒人専用の墓地に葬られました。発掘されたこれらの死者もまた「公的な死者」となっています。ところで、黒人専用墓地はつまりは黒人差別の具現化ですが、その発掘でも妙に不自然な人為的破壊などが行われています。黒人差別はまだまだ残っていることがこのモニュメントに関してわかってしまったようです。
 欧米中心の本ですが、最後に「ヒロシマ」が登場します。ただし「ヨーロッパにおけるヒロシマ」。「ヒロシマ」が「歴史」の文脈の中で新しい解釈をされ、それに伴って百科事典の記述が深化し「モニュメント」として機能していることが示されます。本家の日本では「ヒロシマ」は「忘却するべき対象」扱いになっているようですが、ヨーロッパではむしろ「新しい意味」を与えられているようです。そういえばICANも本部はスイスでしたね。「ヒロシマ」というか、「歴史」の価値と意味が、日本と西洋ではずいぶん違うのかもしれません。



食レポの真実性

2018-03-30 06:40:41 | Weblog

 最近の食レポはなんだか表現力の全力勝負、といった感じになっていますが、あまりに言葉を工夫ばかりしていて、本当の味がどんなものかが伝わってこないような気がします。ある種の政治家やマスコミ人のような、「真実」よりも「ことばによる表現」の方を重視している態度。
 というか、そもそも食レポをしている人たち、まともな味覚を持っているんです? 確認のために、「芸能人格付けランキング」のような“予選会"でもしてみてもらえませんかねえ。彼らは、本当に美味いものを美味いとわかっているのかしら?

【ただいま読書中】『進撃の巨人(3)(4)』諫山創 作、講談社、2010年(3)、2011年(4)、各419円(税別)
 兵士になり立てのエレンは巨人に食われたはずなのに、巨人の体内から復活して出てきました。
 実は3月26日に読書した『「進撃の巨人」と解剖学』に「人から発生する巨人がいる」とあって、そこで私はこのネタの秘密を先に知らされてしまっていました。しまった。4巻、せめて3巻まで読んでから『「進撃の巨人」と解剖学』を読むべきでした。
 ともかく街は非常事態です。人類の限られた版図が巨人たちに蹂躙されているだけでも大変な事態なのに、その巨人の中に「人類」が混じっているのですから。するとその「人類」は「巨人のスパイ」? エレンもわけがわかりません。巨人を殺すために兵士になったはずなのに、巨人に腕を食われそれから丸呑みされ、巨人の胃袋の中で意識を失って目が覚めたら「お前は巨人だ」と言われるのですから。
 これまで人類は巨人に負け続けてきました。しかしエレンは自分自身を「巨大兵器」として活用してもらうことによって、巨人に対する「初めての勝利(の第一歩)」を記そうとします。
 そこでエレンたちが訓練生になったときに時は巻き戻されます。喧嘩をしたり協力をしたり、ともに訓練をしてそれなりの絆ができていた仲間たちは、今回の巨人の襲撃で大勢があっさり殺されてしまっていました。生き残った者は、今何を自分がするべきかを考え、自分の未来を決定しようとします。
 ここで大きな疑問が発生します。第1巻で登場した超巨大巨人、明らかに知能を持ち突然姿を現したり消えたりする、という特徴は、エレンと同様に超巨大巨人が「人から発生した巨人」であることを示しているようです。だとしたらなぜ「それ」は人類を敵視しているのでしょう? そもそもその「人」は、誰?



許さないを許さない

2018-03-29 07:12:04 | Weblog

 「許すことが大切だ」と主張する人は「過去の恨みを忘れない人」のことは許さない、と主張しているようです。

【ただいま読書中】『大いなる失墜 ──甦る悲劇の人、ペタン元帥』ジュール・ロワ 著、 三輪秀彦 訳、 早川書房、1967年、450円

 フランスがナチスドイツに降伏した後、著者を含むフランス軍人は、「フランス」の一部を支配して(ドイツに協力して)いた“英雄"ペタン元帥の指揮下に入るか、それともイギリスに脱出したドゴールという無名の若い少将のもとにはせ参じるかの選択を迫られました。著者はまずペタン元帥を選択、しかし後日イギリスに脱出して、自由フランス軍としてドイツ空襲に参加しています。
 本書は、そういったやや複雑な著者の経験と、官報に詳細に記録されたペタンの裁判記録とをもとにして、終戦から20年後に「あの時のフランス」を再構成した“ルポルタージュ"です。
 「わが国の軍首脳のなかで最も高貴にして最も人間的な人物」と呼ばれたペタン元帥は、フランスが敗色濃厚となったときに大使をしていたスペインから呼び戻され八十代半ばで内閣首班に任命されました。しかし軍隊はもう戦闘不能状態。ペタンはドイツと休戦協定を結びます。
 これが「裏切り」だと、裁判では主張されます。というか、すでに「ペタンは裏切り者だ」という結論は用意されていて、そのための論理だけを組み立てることがこの裁判の目的だったように、私には見えます。終戦後に生まれたドイツの子供たちが成長してから親に「戦前は何をしていた(なぜナチスに抵抗しなかった)の?」と質問したときに親たちが狼狽した、という話を私は思い起こします。休戦協定が締結されたとき、多くのフランス人はほっとした気分だったはずで、それを「裏切り」だと言われたら、多くの人は狼狽を感じたはずだったでしょう。だからこそ「戦後体制を是としペタンを罰するための論理」が必要になったのでしょう。
 次々登場する証言者のことばは、ペタンに対して容赦ありません。「敵」はもちろんペタンを攻撃しますが、ペタンに協力したり宣誓をしてペタンのために働いた過去を持つ者はまるでその過去がなかったものであるかのようにペタンを激しく攻撃します。官報にはその言葉が詳細に記録されています。その「雰囲気」までもが。
 重要なのは、フランスが「降伏」したのではなくて「休戦」したことです。そのため「フランス政府とフランス軍」が(たとえ形だけではあっても)存続できました。そして著者は「職業軍人」であり続けることができたのです。問題はその軍人が仕える先ですが、一度宣誓をしたら武器を取って命令に従って「敵」と戦うのが職業軍人の仕事です。「敵」や「フランス」を定義するのは軍人ではなくて政治家の仕事なのです。ではナチスと休戦したフランスは「フランス」だったのでしょうか?
 ペタン(あるいはその弁護人)は「ドゴールは矛、ペタンは盾」という“理論"をひねり出します。国外のドゴールが活動しやすいように国内を整備しておくのがペタンの仕事だったのだ、と。1945年7月23日から裁判が始まりましたが、日本で「戦争」がまだ行われている同じ時期に、フランスでは言葉による「戦争」が展開していたのです。8月6日に裁判所に「広島の原子爆弾」のニュースが駆け巡ります。そして8月14日深夜、陪審員は評議を開始、15日午前四時に判決の言い渡しが始まります。
 本当にペタンを責めることができる人間がいるとしたら、占領軍であるナチスに対してレジスタンス・マキ・パルチザンなどとなって戦った人たちくらいでしょう。ペタンが有罪なら、「ナチスに負けた現実」を受け入れてしまった人間は、すべて「有罪」だったはず。
 そういえば、日本で「占領軍に対する武装抵抗運動」ってどのくらいありましたっけ? 「押しつけられた憲法は否定」と主張する人は、占領軍に対してどのくらい激しく戦っています?



セイを変える

2018-03-28 06:50:43 | Weblog

 「結婚したら女の方が姓を変えるのが当然」と主張する人は、「女が(男も)性を変えること」には否定的なことが多いようです。

【ただいま読書中】『宮中のシェフ、鶴をさばく ──江戸時代の朝廷と包丁道』西村慎太郎 著、 吉川弘文館、2012年、1700円(税別)

 朝廷に仕える「公家」は「堂上公家」と「地下官人」に分けられます(内裏の清涼殿に上がることが許されるか許されないか、が“境界線"です)。江戸時代末期、堂上公家は摂関家以下百三十七家ありましたが、その仕事は主に「禁裏小番(禁中への出仕と宿直)」「朝廷儀式の運営と参仕」「家職」の三つでした。「家職」としては「儒道」「文章博士」「陰陽道」「和歌」「蹴鞠」「琵琶」など様々ありますが、本書で扱われる「包丁道」も「家職」に含まれます。
 宮中の「シェフ」は「口向役人(くちむきやくにん)」という集団に属する板元たちでした。幕末で十五家が世襲で板元を勤めていましたが、十二歳くらいから見習いとなって天皇の口に合う料理を徒弟制度でたたき込まれていました。腕前は相当のものだったらしく、明治になって女学校・師範学校・料理屋などに料理の“指導"に出かけて相当な高給取りとなっています。ただ江戸時代には地下官人の生活は苦しかったらしく、株を町人に売ったりした家もあったようです。
 公家の“存在価値"は「有職故実の知識」にありました。朝廷儀式を滞りなく執行できるかどうか、が重要だったのです。すると、儀式に伴って出される「膳(コース料理)」も儀式の一部として重要になります。さらに「料理そのもの」が儀式となっている場合もありました。たとえば「鶴包丁」。朝廷・幕府・大名などで、「鶴」を主君の前でさばく儀式は、「めでたい鳥」をさばき献上あるいは下賜することで主従関係を確認するものとして重要でした。さばき方は特殊で、真魚箸(まなばし)という長い箸と包丁を使い、鶴には直接手を触れません。この鶴包丁を担当していたのは、高橋家・大隅家の地下官人で江戸時代初めには隔年で勤めていました。普段は清涼殿には上がれない身分のものが、天皇の御前で“鶴の解体ショー"をおこなうのですから、日記から見ると相当なプレッシャーを感じていたようです。
 堂上公家である四条家の家職は、江戸時代初めは「笙」でした。公式の家職に料理関係は含まれていません。ところが文化年間頃(十九世紀初め)から「御献(ごこん:料理・座敷の飾り付け・配膳など)」が四条家の家職となっています。ちょうどこの頃、多くの家の家職にも変更があり、その前の時代になんらかの“大変動"が公家の中にあったようです。ともかく十九世紀には「(鶴包丁などの)包丁道と言ったら四条家」が世間の常識になりました。これには、安芸国で「浮鯛抄」という、四条家の先祖がかかわった料理の史料が発見されたことも大きな影響をしているのではないか、と著者は推測しています。生活が苦しくなって、のんびり笙を鳴らしている場合ではなくなったのかもしれません。
 こうしてみると「伝統」というのは一体何だろう、とも思えます。江戸時代の中だけでも「公家の家職」はころころ変わっていますから。
 余談ですが、鶴って、美味しいんですかね? 江戸時代にはすでに乱獲によって「鶴包丁」のためにさえ入手がけっこう困難になっています。手に入らないからこそ「貴重な鳥」として殺され続けたのかな。



ジェノサイドはなかった

2018-03-27 06:34:14 | Weblog

 という主張をする人がいることは知っていますが、「あった(自分はそれを生き延びた)」という証言があるのにそれを真っ向から否定できる「根拠」って、何なんでしょう。これはつまり、証言者を「お前は嘘つきだ」と言っているわけですが、これは相当な根拠がないと断言できないセリフだと私には思えるのです。で、「断言の強さ」ではなくて「否定の根拠」を検討したいな、というのが私の望みです。必要なのは、丁寧なインタビューかな。

【ただいま読書中】『私はガス室の「特殊任務」をしていた ──知られざるアウシュヴィッツの悪夢』シュロモ・ヴェネツィア 著、 鳥取絹子 訳、 河出書房新社、2008年、2000円(税別)

 著者は1923年にギリシアで生まれたユダヤ人ですが、一家はイタリア国籍を持っていました。ユダヤ人を嫌う人びとはいましたが、迫害と言えるまでの差別は受けなかったそうです。戦争が起き、イタリア軍の侵攻には抵抗していたギリシアも、ドイツ軍にはほとんど無抵抗で占領され、ユダヤ人迫害が始まりました。それでもイタリア国籍の者は強制収容は免れていました。しかしナチスはギリシア系ユダヤ人を強制収容し終えると、次はイタリア系ユダヤ人に目をつけます。このとき、少しでも多くのユダヤ人を救おうとイタリア領事官のグエルフォ・ザンボーニが活動しています(日本の杉原千畝さんを思い出します)。イタリア大使館はユダヤ人を保護しようと、シチリアか(イタリア行政下の)アテネに避難することを提案、ほとんどのユダヤ人は近いアテネを選択しました。しかし1943年9月8日にイタリアは降伏、イタリア兵はドイツに送られて強制労働、アテネはドイツ軍支配となります。上手く逃げ回っていた著者ですが、44年についに捕まり、乗せられた列車が4月11日に到着したのは、アウシュヴィッツでした。
 ここまでに著者はいくつも「運命の分岐点」を知らずに通過しています。そのたびに著者は「アウシュヴィッツへの道」を選択しているのですが、それは後になってから言えること。そして、アウシュヴィッツに入ってからはもう「選択肢」はありません。あ、いや、あります。「ドイツ兵の命令に従ってその日を生き延びる」か「命令に従わず即座に殺される」か。そして著者が命じられたのは(兄や従兄弟と一緒に)「特殊任務部隊」に入ることでした。
 特殊任務部隊の仕事は、死体の焼却でした。列車で強制収容所に到着したユダヤ人にはまず「選別」が行われ、過半数の者はそのままシャワー室(ガス室)に送られます。まず裸にされ、ガス室にぎっしりとユダヤ人が詰め込まれると、SSが毒ガスが入った容器を持ってきます。特殊任務部隊の囚人が二人掛かりでセメント性の重たい揚げ戸を開けるとそこにチクロンBが注ぎ込まれます。ガスは「シャワー」を通ってガス室に充満。10〜12分後に室内が静かになると換気をしてドイツ人はさっさと立ち去ります。中は悲惨な状況です。もがき苦しみ少しでも吸える空気を求めて人びとはぎっしりと山をつくっています。特殊任務部隊は、血液・尿・便・汗・涙・吐物などがまとわりついた死体を素手で引き出し焼却棟に運びます。「理髪師」として登録された著者は、鋏で女性の死体の髪の毛を切る“仕事"をしなければなりませんでした(同様に「歯科医」と登録された者は、金歯の回収をさせられます)。
 列車は次々到着するので、特殊任務部隊は12時間交替の2班編制でした。著者が配属されたのは焼却棟Ⅲで焼却炉が順調に稼働していましたが、著者の兄が配属された焼却棟Ⅳ(またはⅤ)では焼却炉が故障がちで死体は巨大な墓穴で焼かれていました。
 ユダヤ人たちはほとんど無気力に日々を過ごしていましたが、そんな収容所にも反乱計画がありました。首謀者は、焼却棟の看守長。ハンガリーからの最後の編制列車が到着したのですが、それはつまり「仕事」の終わりを意味します。すると次に抹殺されるのは、特殊任務部隊そのもののはず。どうせ殺されるのなら、せめて何かして殺されよう、と決心した人びとが集結します。しかし密告で焼却棟Ⅳは爆破されます。焼却棟Ⅱの特殊任務部隊の人びとは逃亡を試みますが全員捕まって殺されます。焼却棟Ⅲの著者らはⅡに移動させられ、Ⅲは解体されました(解体をしたのも特殊任務部隊です。内部を知っているのは彼らだけで、ドイツ軍は「目撃者」をこれ以上増やしたくなかったのでしょう)。「解体」の目的はもちろん証拠隠滅です。「アウシュヴィッツ(での虐殺)など存在しませんでした」と主張するための行為。その仕上げは特殊任務部隊の抹殺のはずでしたが、隔離されていた彼らは「撤退」のどさくさに紛れて一般収容者の中に紛れ込み「死の行進」を始めます。撤退の経路に死体をいくつも残しながら著者らが着いたのはオーストリアの強制収容所でした。そこで強制労働をさせられながらアウシュヴィッツを出て4箇月、ついに著者はアメリカ軍によって「解放」されます。
 著者が「語り」始めたのは、解放から47年後のことでした。それまでも勇気を出して自身の体験を語ろうとしたことはありましたが、それで出くわしたのは「拒絶」だけだったため、語ることに臆病になってしまったのです(話の内容は相当違いますが戦後に「日本本土で米軍の艦載機に銃撃を受けた」と体験談を語ったら「そんなことは信じられない」と頭から否定された、という経験を持っている人がいることを私は知っています)。ただ、語ることを始めても、著者の心は傷つき続けています。「焼却棟からは永遠に出られないのです」と著者は言っています。ただ、私たちは、「焼却棟の中からの言葉」を聞くことならできます。



読んで字の如し〈人偏−3〉「倍」

2018-03-26 06:50:10 | Weblog

「倍」……二をかける
「等倍」……一をかける
「倍増」……二をかける
「一倍」……一をかける
「人一倍」……人の二倍
「倍率」……一倍二倍三倍……
「倍々ゲーム」……すぐに指が足りなくなる
「倍返し」……利息制限法違反
「四倍体」……身長が4倍なら体重は64倍
「一粒万倍」……大豊作だがおそらく豊作貧乏
「薬九層倍」……「坊主丸儲け」がそのあとに控えている
「安倍」……安心安全が倍
「所得倍増計画」……物価については言わないのが素敵

【ただいま読書中】『「進撃の巨人」と解剖学 ──その筋肉はいかに描かれたのか』布施英利 著、 講談社ブルーバックスB1892、2014年、900円(税別)

 『進撃の巨人』には様々な「巨人」が登場しますが、それを著者は「人間型の巨人」「奇行種」「通常種」などと分類します。そしてそれぞれの「骨格」や「筋肉の付き方」などを「美術解剖学」の立場から論じています。
 医学に解剖学はつきものですが、美術の世界でも解剖学は重要です。そういえばレオナルド・ダ・ヴィンチも動物や人体の解剖をおこない、それをもとにして絵画や彫刻を製作していましたっけ。
 日本では、ベルリン帰りの森鴎外が、東京美術学校校長の岡倉天心に頼まれて、明治24年に「美術解剖学」の講義を担当しました。美術解剖学の歴史は古いようです。著者もいくつかの大学で美術解剖学の講義をしているそうですが、そのはじめは「脊柱」だそうです。これは「体の軸」で、ここを理解したら「骨格」が理解でき、他の関節や筋肉の付き方も理解できるようになるそうです。そういえば漫画などで、絶対に曲がらない方向に関節が曲がっている絵を見せられることがありますが、そういった漫画の作者は骨格を理解していない、ということなのでしょうね。
 筋肉がどことどこについているかで、関節の動きが決まります。また、筋肉の塊によって体の表面の凸凹が形作られます。また、骨と皮膚を結びつけている筋肉もあります。表情筋です。
 さて、『進撃の巨人』では「筋肉がむき出しの巨人」が多数登場します。ここの著者は大喜びで“突撃"していきます。「巨人」の筋肉は人間のものとよく似ていますが、作者の想像力によってあちこちが変えられています。そこを一々指摘して(「ユミルの巨人の前鋸筋は実際の人体より下に位置している」など)その筋肉の位置と機能を解説、さらに巨人の特性についても想像をする、というなかなか「一粒で何度も美味しい」本となっています。「巨人の腹筋が割れている」と喜ぶ読者がどのくらいいるのかはわかりませんが、著者は喜んでいます。そして美術解剖学の立場から、「かたちの必然性」と「マンガ家の想像力」の混合を読み解こうとしています。非常に真面目に面白がっています。
 漫画で「骨や筋肉」を描いたものはあまりありません。ところが『進撃の巨人』では、骨と筋肉が満ちあふれています。これは解剖に詳しい人にとっては大喜びの題材なのでしょう。
 私は『進撃の巨人』はまだ2巻までしか読んでいませんが、先を読むのが楽しみになってきました。本書によると、筋肉の質感などの描写は、連載を重ねるにつれてどんどん上手になっているのだそうですから。“そういった方面"を楽しむ、というのは“邪道"かもしれませんけれどね。



2018-03-25 06:59:44 | Weblog

 「登校」「下校」「母校」「校庭」「校長」などを見ると、「校」だけで「まなびや」の意味があることがわかります。すると「学校」の「学」は絶対に必要ですか?

【ただいま読書中】『不思議の扉 ──午後の教室』大森望 編、角川書店(角川文庫)、2011年、514円(税別)

目次:「インコ先生」湊かなえ、「三時間目のまどか」古橋秀之、「迷走恋の裏路地」森見登美彦、「S理論」有川浩、「お召し」小松左京、「テロルの創世」平山夢明、「ポップ・アート」ジョー・ヒル(大森望 訳)、「保吉の手帳から」芥川龍之介

 「学校」を舞台にした短編ばかりを集めた本です。しかし編者が編者ですから、ちょいと(あるいは盛大に)捻った作品選びがされています。私が読んだことがあるのは、つい先日読んだ「三時間目のまどか」と高校の時に読んだ「お召し」だけですが、この二つを読んだ“時間差"は45年以上。しかし「お召し」は今読んでも全然古くなっていないのが本当にコワイ作品です。ところがこの“古い"作品どころか、芥川龍之介まで加えてあるのが、編者の“たくらみ"でしょう。「この世には、まだまだ面白い作品があるんだよ」と若い読者にちらっとサインを見せている、といった雰囲気です。
 「テロルの創世」はカズオ・イシグロの「わたしを離さないで」と一見似た舞台設定ですが、「わたしを離さないで」が東洋的な諦念が底流となっているのに対し「テロルの創世」は疑いや怒りなどの否定的な感情が主人公を駆動しています(ついでですが、「テロルの創世」の方が5年早く発表されているそうです)。「ポップ・アート」の著者は、父がスティーヴン・キング、母はタビサ・キング。だけど「キング」じゃなくて「ヒル」を名乗るんですね。ものすごくぶっ飛んだ発想で、でも心にじんとくる作品です。この人の他の作品も読みたくなりました。



適材適所

2018-03-24 07:11:16 | Weblog

 「書き換えを指示する者」にふさわしいのは「国税庁長官」。

【ただいま読書中】『山月記』中島敦 著、 小前亮 訳、 理論社、2014年、1400円(税別)

 目次:「山月記」「名人伝」「李陵」
 「山月記」は非常に有名な作品で、高校の国語の教科書にも載っているそうです。私は教科書ではお目にかかった覚えがありませんので、まっさらな気持ちで読むことができました。
 詩人として成功することを夢見て、せっかく科挙に合格して任官した仕事を投げ捨ててしまった李徴は、詩人としても成功できずまた地方役人として復職しますが、かつての同僚たちはすでに出世して上司となっており、ますますストレスをため込んだ李徴はとうとう「虎」になってしまいました。李徴のかつての友人袁惨はたまたま「虎(=李徴)」と出会い、その苦しみの告白を聞くことになります。
 李徴は天才詩人です。しかし「自己評価」と「他人からの評価」にはギャップがあります。「孤高の天才」と自認して「他人の存在」が煩わしいだけ、の李徴ですから、いくら素晴らしい言葉を並べた詩を作ってもそれが(自分が無視している)「他人」の心に届くことはなかったのでしょう。さらに「自分がしたいこと」「自分ができること」「自分がするべきこと」を常に(おそらく意図的に)一致させていないことが、李徴が「虎」になってしまった原因だ、と私には思えます。本人は「こんな醜い姿になってしまった」と嘆いていますが、「自分がしたいこと」「自分ができること」「自分がするべきこと」が常に一致している「虎」は「美しい」のではないでしょうか。残念ながら本人にはその「自己評価」はできないのですが。


「生活保護」の目的

2018-03-23 07:08:12 | Weblog

 「保護」が目的ならごちゃごちゃ言わずに「健康で文化的な最低限度の生活」を保証すれば良いし、「自立」が目的なら生活保護費の支給が不要になるまできちんと自立のための面倒を見れば良いでしょう。どちらが目的なのか、で支給する態度は全然違うはずです。

【ただいま読書中】『社会学者がニューヨークの地下経済に潜入してみた』スディール・ヴェンカテッシュ 著、 望月衛 訳、 東洋経済新報社、2017年、2200円(税別)

 『ヤバい社会学』でシカゴの裏社会を社会学者としてみごとなレポをした著者は、こんどはニューヨークに出てきています。こちらでも裏社会(特にアングラ経済)をターゲットとして調査しようという目論見ですが、シカゴで有効だった「縄張り」「地域」「コミュニティー」というキーワードが、ニューヨークでは一切機能しません。シカゴと違ってこちらでは「境界線を乗り越える動きと変化」が重要なのです。そして「コミュニティー」とは「その人が持っている付き合いの範囲全て」を意味しています。
 著者は、これまでに築き上げた社会学の方法原理をすべて捨てることを強制されます。でなければ「なぜヤクの売人が画廊にやって来るのか」「裕福な銀行マンの高学歴の娘がなぜ売春の仲介をやっているか」などが説明できません。そこで著者が使うキーワードは「ネットワーク」。「起業家精神に満ちた人たち」が普通はそこにあるはずの「境界」を軽々と越えての偶然の出会い、それこそが「チャンス」なのです。それは同時に、著者が自身の回りにめぐらした「境界」を自ら破壊し、ニューヨークで過ごした5年間での出会いをどのように読み解くかを解明する必要があることを意味しました。著者は「ニューヨークのアングラ経済の物語」と同時に「自分自身の物語」を理解しなければならなくなったのです。
 現実を論じる「学問」では「n(調査集団の母数)」が重要です。社会学の場合も一人や二人を深く知っただけで「社会」を論じることはできません。しかし、著者はシカゴの時と同じく「現場」を重んじます。単にアンケート用紙を配ってその回答を統計学的に処理するだけでは「社会」特に「アングラ社会」は見えない、と信じているからです。しかし、たまたま知り合った人や紹介された人はその社会の「典型例」でしょうか? ともかく著者はニューヨークを「たゆたい」始めます。
 「法律の裏をかいてシノギに精を出し、警察と税務署の目を逃れ続ける」のは下層階級のアングラ経済のように見えます。しかし著者は、それをまるで「スポーツ」の様にやっている上流階級のぼんぼんたちがいることを知ります。どん底では「生きるため」「のしあがるため」にやっていることは、てっぺんでは「スポーツみたいなもの」ですが、ことの本質はほぼ同じです。ついでですが、どん底の人は(表の)仕事が手に入らず、てっぺんの人は仕事をする必要が無いのですが、どちらも「仕事をしていない」点もまた同じだったりします。
 そういえば、日本文化は酔っ払いに寛大で、だから欧米とは違って日本の酔っ払いは平気で人前で小間物屋を展開する、なんて話を以前聞いたことがありますが、本書では「上流階級に属するニューヨーカー」も平気で嘔吐をしまくっています。おやおや、「社会学」ですね。
 「境界」を本気で越えようとするラテン系の春売り娘は、お金持ちで白人の買春客を相手にするためには「シロい話し方」「シロい振る舞い」さらには「シロいセックスのやり方」を学ぶ必要があります。境界を越える勇気と行動力があり、さらに学ぶことができれば、彼女は自身の「アメリカン・ドリーム」を掴むことができるかもしれません。
 さらに著者は「新しい切り口」を得ます。「社会階層や人種を越えた新しい結び付き」が生じたら、そこには当然トラブルも発生します。それを誰が迅速に円満に解決するか、という問題です。司法をアテにしている人などほとんどいない社会で、解決能力を持つ人は、それだけで一種の「権力者」なのです。では著者の「立場」は? シカゴでは著者は「貧乏な大学院生が研究テーマに困ってうろうろしている」という立場で動きました。ではニューヨークでは、どうしたら「てっぺん」にも「どん底」にも白人にもラテン系にも黒人にも「そこにいても良いよ」と言ってもらえる「立場」になれるでしょう?
 そこで著者が見つけた「自分の立場」は……いや、たしかにこれまで散々「伏線」は張ってありましたよ。それにしても「コロンビア大学の終身職の教授」としては「イカガナモノカ」と権威筋には言われることが必至のものです。それでも「研究」は上手く転がり始めます。ストリップ小屋のマネージャー、デートクラブのマネージャー、高級売春婦、さらには買春客にまでインタビューのネットワークは広がっていきます(本当はそこに「著者自身」も入っているのですが、その時著者はそのことに気づいていません)。
 セックスと金と暴力、著者はどこにインタビューに行ってもそれに出会います。ニューヨークの社会は、表も裏もこの3つだけで成立しているのか、と思うくらいです。そして、著者は燃え尽きてしまいます。「ぼくは終わった」。この言葉が繰り返されます。深淵を覗く者は深淵に覗かれる、なのかもしれません。だけど、その時に「ぼくは終わった」が「ぼくは変わった」に変換されます。この変換の場面は、けっこう感動的です。使われる言葉はスラングばかりでとっても汚いんですけどね。
 「境界を越える」は「ニューヨークのアングラ経済の物語」と「著者自身の物語」の「境界」を越えることも同時に意味していました。そして、「グローバリズムの世界」では、あなたも私も同じような体験をしなければならなくなるのかもしれません。



寝たら起きる

2018-03-22 07:13:09 | Weblog

 言い回しとして「二人で寝る」はありますが「二人で起きる」はあまり言いませんね。

【ただいま読書中】『応天の門(7)』灰原薬 作、新潮社、2017年、580円(税別)

 清和帝への入内をめぐって、藤原家の内紛が起きます。藤原北家の筆頭藤原良房は姪の高子を入内させようとしきりに画策していましたが、右大臣藤原良相(よしみ)は自身の娘の多美子を入内させる勅許をちゃっかり得てしまいます。良房からの横やり(たとえば暗殺)を恐れる藤原常行(ときつら、多美子の異母兄)は、身辺警護のために検非違使である在原業平を頼ろうとします。しかし、業平はかつて藤原高子と駆け落ち未遂を起こした“前歴"がある人間です。それぞれの人の「過去」と現在の権力のせめぎ合いとが複雑に絡み合います。
 さて、多美子“争奪戦"が始まります。入内を首尾良く妨害できるか、その妨害から多美子を守り通して入内できるか、多美子という“トロフィー"をめぐって、人を使い捨ての「駒」のように扱う「ゲーム」が始まったのです。そしてそこに、菅原道真も(また例によって本人の意に反して)巻き込まれてしまっていました。藤原家にかかわればかかわるほど「敵」が増えることがわかっているのに。
 そして、がちりと大きな音を立てて「歴史の歯車」がまた一つ回転をします。