【ただいま読書中】

おかだ 外郎という乱読家です。mixiに書いている読書日記を、こちらにも出しています。

ゴーンさん逮捕

2018-11-30 07:56:15 | Weblog

 フランス政府はずいぶんゴーンさんの肩を持っている印象ですが、もしもゴーンさんが日産ではなくてルノーの金をがんがん使っていたり「ルノーを日産の子会社にする」なんて言い出していたらまったく違う対応になっていたのではないでしょうか。

【ただいま読書中】『悲劇と脱出 一飛行士の回想』アーネスト・ガン 著、 小野寺健 訳、 河出書房新社、1962年、380円

 「ライト」という言葉がまだ“現役"で、「定期便」が空を飛び始めた時代。複葉機でサーカス飛行をすることが得意な「パイロット」たちが学校でその牙を抜かれて「定期便のパイロット」になっていった時代。「トウモロコシ畑」で飛行機の操縦を覚えた著者は、念願かなって定期便の補助パイロットになれましたが、そこは厳しい徒弟制度の世界でした。著者の厳しい教官ロスは、高度5000フィートで飛ぶときは50フィートの誤差でも許容しませんでした(これで後に著者は命を拾うことになります)。
 結氷がひどく、プロペラまで凍りついてしまいそこから氷の塊が剥がれて機体にがんがんぶつかってくる、なんて信じ難い事態もあります。窓ガラスも凍っているので、パイロットは横の窓を開けてそこから前を見る、なんて芸当をしなくちゃいけません。
 やっと機長になって南米に行くと、ブラジルからボリビア・ペルーの東西の航空路を、信頼できる地図なしで飛ぶことを求められます(地図はあるのですが、山の位置はでたらめだし頂上の高さは未記入、河はなんとなく点線で描いてある、という代物なのです)。しかも著者が乗った飛行機には酸素吸入装置が未搭載で18500フィートを酸素なしで飛ぶことが求められました。
 真珠湾攻撃により「空」は激変します。著者は身分が不明確なまま軍に協力することを求められます。もっとも、非常時だから協力しろ、と言っておいて、規定がないから給与はない、と最初は無給を強いられるのですから、ひどい話ですが(そう言えば私も似たこと(仕事はしろ、でも規定が明確に作ってないから支払いはなし)を要求された経験を持っています。空ではなくて地面、戦時ではなくて平時でしたけれどね)。
 極寒の北大西洋、高空のヒマラヤ越え、救援物資や軍需物資を輸送し、担架機で負傷者たちを大量に運び、ドイツが降伏し、そして日本が降伏。著者は新しくできた民間航空会社に新天地を求めます。
 まるで滑空をしているかのような気分を味わえる文体です。リンドバーグ夫妻の著作でもそれぞれ似た気分が味わえましたが、空を飛ぶ人は脳の中に常に「飛んでいる部分」を持っているのかもしれません。



酔っ払い操縦

2018-11-29 07:21:35 | Weblog

 最近日本の航空業界ではパイロットの酔っ払いあるいは酒気帯びが問題になっています。ところで、アルコールが入っていても平気で操縦しようとするパイロットって、日常生活では酔っていても酒気帯びでも平気で車の運転をしているんじゃないです?

【ただいま読書中】『福島安正と単騎シベリヤ横断(下)』島貫重節 著、 原書房、1979年、1400円

 ベルリンを出発して、ロシア占領下のポーランドを経由してロシアの首都ペテルブルグまでは45日の旅でした。ここまでは足慣らしです。下巻は、福島がペテルブルグを出発するところから始まりますが、1万4000km440日の冒険の始まりなのです。
 ペテルブルグから旧都モスクワまでは720km、雪解けの悪路に悩まされて16日かかりました。二つの都をつなぐ(鉄道に平行して走る)主要街道なのに、あまりに寂しい光景に福島は強い印象を得ています。日本だったら、東海道がずっと原野の中、といった感じなのでしょう。
 福島が出会ったロシア人は、盗賊のたぐいもいましたが、基本的には「良い人」ばかりでした。ただ、「シベリヤ鉄道建設のスパイ目的ではないか」という疑いも浮上したため、福島はモスクワからの東進ルートを鉄道から十分離れたところに設定します。
 愛馬凱旋号が斃れ、福島はすぐ次の馬を手配します。二番目のウラル号は去勢していない雄馬のため6月になると発情問題が発生します。さらに、蚊・虻・蜂・蝿などが大発生。
 明治25年7月、福島はウラル山脈を越え「シベリヤ」に入ります。当時のシベリヤは軍政下にあり、開発のために、罪人や反乱に参加したポーランド人、ウラルの西側各地の食い詰めた貧民などが強制移住をさせられていました。福島は悲惨な状況を直視せざるを得なくなりますが、そこにさらにコレラの流行が。住民は衛生知識が皆無で、無知が死を大量に発生させていました。ただ、衛生知識を欠いた人たちを「低級」と評価する福島自身、「生水を飲まない」以外は、コレラに有効だと当時言われていた阿片と精神論で乗り切っているのですから、私の目には「低級」は言いすぎではないか、と見えます。
 馬一頭ではどうも心許ないので,キルギスからは二頭体制で進むことになります。外蒙古では泊まれる町はなく、貨幣経済もまだ行き届いていないため、物々交換が必要です。荷物はどんどん増えます。9月になると、冬支度も始めなければなりません。防寒具なども増えます。道案内をそれも二人雇ったのでそのための資材も必要です(道案内が一人だと、彼が帰る道中が危険なのでもう一人連れが必要、ということでした)。福島が踏み込んだ外蒙古は「国境」のはずですが、ロシアも清もその地をきちんと把握できている様子はありませんでした。ただ、清朝のあまりの無策ぶりと清の役人の高慢ぶりを見て福島は「外蒙古はロシアにつくのではないか」と予感しています。
 11月のバイカル湖は氷点下25度。これでもまだ湖は結氷しておらず、汽船の往来があります。しかし福島は騎乗で周囲を見て回ります。将来シベリア鉄道が敷設される場所の偵察ですが、バイカル湖南は地形が悪く鉄道建設には時間がかかることを掴みます(これが日露戦争開戦時期決定に重要なデータとなりました)。イルクーツクでは人口統計も見せてもらい、ロシアによるシベリア移住が20年で100万人の規模であることも福島は知ります。
 氷点下30度以下の極寒のシベリアは、真っ白で道などわかりません。そこで旅人は「河」の上を移動します。結氷した河はわかりやすいし平坦で、町の多くは河沿いですから迷う心配が少ないのです。道中福島は氷点下40度を連日記録していますが、彼が持参した寒暖計は氷点下40度までしか測定できないものだったため、彼が経験した最低気温はそれ以下だった可能性が大です。ちなみにこんな真冬にも「井戸」が機能しています。住民は結氷した河の氷に穴を開けそこから下の水を汲んでいたのです。落馬事故で頭に重傷を負いますが、親切な人のおかげで無事回復。アムール河の上を進むことになりますが、820km(東京から広島手前まで)の間に村落はわずかに8つだけ。日本とは全く違うスケールでものを見なければなりません。
 春になると進路を南に変え、満州を旅行します。これも軍事偵察です。シベリヤでは、大津事件で日本に対して反感を持つ人々の間をいかに上手く通過するか、も問題でしたが、満州では、無知で頑固で汚職まみれの(しかも阿片中毒者も多い)清国の役人の間をいかに上手く通過するか、が問題となってきます。6月にまた清露国境を越え、ついに終着のウラジオストクに。虻の大発生で「ああ、また夏が来た」と実感しながら福島は旅を終えます。



「欲しがりません、勝つまでは」

2018-11-28 07:23:08 | Weblog

 この言葉は第二次世界大戦下の日本でのスローガンだと思っていたのですが、実は、第一次世界大戦下のドイツで言われたそうです。(出典:『日本人記者の観た赤いロシア』富田武)

【ただいま読書中】『福島安正と単騎シベリヤ横断(上)』島貫重節 著、 原書房、1979年、1500円

 明治9年、西郷隆盛が辞職して薩摩に帰って2年半、西南戦争前夜のきな臭さが漂っていたとき、政府は西郷従道を紛争から「隔離」するために、アメリカフィラデルフィアの博覧会視察団の総裁に任命して派遣しました。その視察団に「陸軍省十等出仕(任務は英語の通訳官)」として福島安正の名前があります。4箇月の米国出張を終えて帰国した一同を迎えたのが、秋月と萩の反乱の知らせ。そして翌明治10年2月に西南戦争が始まりました。
 明治政府は征韓論を否定しましたが、その翌年台湾征討をおこないました。言ってることとやってることの不整合に福島は首を傾げ、さらに、外国の事情を全く知らないまま行動していることにさらに首を傾げていました。
 初期の明治政府は内部対立の重層構造でした。「公家と武家」「藩と藩」「旧藩主と下克上の藩士たち」などの対立が複雑で、さらに禄を離れた武士や戦死者とその家族への配慮も必要です。西郷隆盛は体調を崩していてフルの活動はできない状態です(この「西郷隆盛の体調問題」が本書では重視されています)。ともかく西南戦争で福島は長崎方面で情報収集の功があり、書記(文官)から陸軍中尉に抜擢されます。彼が明治十二年に参謀本部長に提出した報告は、世界の情勢(南北戦争、普仏戦争、露土戦争など)を俯瞰した上で「日本は欧米にばかり注意しているが、アジアを軽視するべきではない」と警鐘を鳴らすものでした。
 明治十二年に福島は単身中国に潜入しますが、これは彼にとっては「スパイとして使い物になるかどうか」の実地テストでした。ついうっかり英語を使うと「中国人で英語がしゃべれる人はあまりいない」と怪しまれたりしますが「中国人に見えているんだ」と安心したり「そう英語で返すあんたはどこのスパイなんだ?」と逆に怪しんだりのエピソードもあります。
 当時ロシアは極東進出を盛んに画策していて、イギリスはそれを牽制しようとしていました。清は朝鮮支配を強めようとしています。それらが最終的には日本にも影響を与えるはずです。そこで福島は、清・インドの長期調査を行い、ついでベルリン駐在となって欧州探題を行います。結婚はしていましたが、家で過ごしたことはほとんどなかったそうです。
 ロシアは北京条約で得た清国の集落をウラジオストクと名付けて港湾都市を建設しましたが、その名前は「ヴラジ(東)」+「ヴォストーク(領有する、支配する)」とロシアの意図を明確にしていました。また、福島はロシアがシベリア鉄道を建設しようとしているという情報をキャッチします。そこで福島はロシアに入ることを考え始めます。ロシアの実情をきちんと知りたかったのです。その頃日本は、ニコライ皇太子の来日と大津事件で揺れに揺れていました。
 福島は「ヨーロッパからシベリアを単騎横断する」という大冒険を思いつきます。「日本軍のための軍事偵察」という目的がありますがそれを秘匿するために「大冒険旅行」というカヴァーをかけます。ただしこちらには「黄色人種を理由なく馬鹿にする白色人種に対して、彼らがやっていない大冒険をやって見せて鼻を明かしたい」という望みもあったようです。
 しかし、ベルリンを出発してからの旅程は当初の予定では450日。シベリアの冬を必ず1回は越さなければなりません。しかし馬に乗せられる荷物は40kgまで。これは相当厳しい旅になります。ロシアは福島の旅を「冒険」とみなし、各地の騎兵部隊に援助するように命令しました。おかげで福島はロシア軍の配置状況や弱点を探ることもできました。ただ、ポーランド国境の町で事故のため前歯を折ってしまったのはさい先が悪い感じもしますが。
 独露国境についての「偵察」(ロシアから見たら単騎での雪中行軍)で福島はタンネンベルヒに特に注目しています。第一次世界大戦でここで独露軍による一大会戦が行われたことから“逆算"すると、福島の慧眼には驚きます。



先輩後輩

2018-11-27 07:13:32 | Weblog

 もしスポーツ界で「先輩は絶対的にエラい」のだったら、どうして最年長者がつねに世界チャンピオンではないのでしょう? というか、最初から試合も不要ですね。生年月日を比較して「勝ち負け」を競えば良い。

【ただいま読書中】『空中写真に遺された昭和の日本 戦災から復興へ 東日本編』一般財団法人日本地図センター 編集、創元社、2017年、8000円(税別)

 同じ都市の同じ地域を、何年かごとの空中写真あるいは地図を並べて比較できるようにしています。
 札幌市は、市の中心部です(テレビ塔が大体ページの真ん中に位置しています)。1930年(昭和5年)と1937年(昭和12年)は地図ですが、1945年6月29日は米軍の空中写真です。札幌市も空襲の対象として見なされていたということかな。私は札幌・名古屋・広島の幅100mの道路は、建物疎開によって造られた、と思っていたのですが、戦前の地図には札幌にはすでに「大通」が存在しています。おやおや、自分の想像を更新しなくては。名古屋はどうかな、と思いましたが、これは「西日本編」かな、この本にはありません。
 東京は、上野、秋葉原、銀座・丸の内、新宿、渋谷が選択されています。上野や秋葉原は昭和20年4月2日の空中写真では駅周囲は焼け野原ですが、22年には一面建物に埋め尽くされています。復興のエネルギーはすごいものです。
 横浜も同様で、昭和20年は焼け野原ですが、22年は建物がぎっしりになっています。
 新宿では、浄水場があったところに超高層ビルが建つにつれ「長い影」がどんどん増えていくのが印象的です。
 渋谷では、昭和20年の写真でずいぶん広い空き地があるので「ここも焼けたのかな?」と一瞬思って「代々木練兵場だ」とあとから気づきました。22年にここは「ワシントン・ハイツ」となり(周囲とは全然違う、実にゆとりのあるゲーテッド・シティーです)、1963年にはオリンピックの競技場の建設が行われています。都市の経過と共に写真面が少しずつ黒っぽくなっているのは、建物の高さが高くなって影が長くなったことの影響でしょう。
 米国立公文書館や国土地理院から各種資料は入手可能でしょうから、「地域興し」の一環として「我が町の変遷(空中の視点から)」といったパンフレットをそれぞれの地域が作製したら、愛郷心のある人には意味のあるものになるかもしれません。私だったら、自分の故郷のものは、欲しいな。



数字をごまかすと

2018-11-26 07:21:45 | Weblog

 民間企業(障害者雇用)やゴーンは罰せられます。国家公務員や政治家はおとがめなしです。

【ただいま読書中】『太平洋 その深層で起こっていること』蒲生俊敬 著、 講談社(ブルーバックスB-2063)、2018年、1000円(税別)

 表層の海水は貿易風によって動きが生じ、黒潮などの潮流になります。北大西洋の海水は冷やされて密度が増し結氷したら塩分濃度が増してさらに密度が高くなって深部に沈み、深層海流を起こします。この海流は南下して南極周囲でやはり沈んできた海水が加わり、インド洋や太平洋を北上します。海水に含まれる炭素同位体などの研究で、北大西洋を出発した海水が北太平洋に到達するまで2000年かかることがわかったそうです。
 地球温暖化によって気温だけではなくて海水の平均温度も緩やかに上昇していますが、それに伴って北大西洋での沈み込みがゆっくりとなり、深層海流の速度も遅くなりつつあります。さらに二酸化炭素の溶けこみが増え、海水が酸性化しつつあります。もともと海水は弱アルカリ性ですが、この150年でpHが0.1下がったそうです。数字は大したことないように感じられますが、地球規模での変化ですから、重大に取った方が良いのではないかな。
 最近「マイクロプラスチックによる海洋汚染」が話題になっていますが、困ったことにこのマイクロプラスチックには海洋投棄されたPCBを吸着する性質があります。そしてそれを海洋生物が食べると、PCBの生物濃縮が起きます。そしてそれを私たちが食べることに…… つまりマイクロプラスチックは“他人ごと"ではないのです。
 東太平洋の海底には南北に「海嶺」が走っています。マントルからマグマが噴き出て新しい海底を作り、東西に少しずつ広がっていく、がプレートテクトニクスの基本的な考え方です。ハワイ島の真下にもホットスポット(マントルからのマグマの供給源)があります。ちなみにハワイ島のマウナケア山は海抜4200mですが、海底から海面までは5000mもあり、つまりは9000m以上の「高山」なのです。ハワイ島はプレートに乗って少しずつ日本に近づいていますが、「過去のホットスポット上の島」がその西側に点々と存在しています。低くなって海面下の「海山」として、ですが。ある程度西に並ぶとそこから先はなぜか「くの字」型に曲がって海山の列は北に向かっています。この部分が「天皇海山群(または海山列)」と呼ばれて、日本の古代の天皇の名前がそれぞれの海山につけられています。このあたりの海底地形を最初にきちんと調査したのは、1942年の貨物船「陽光丸」でした。当時最新の音響測探機で海底を地道に調査したのですが、非武装で日本海軍の制圧下の海域から出て東経170度あたりをうろうろさせられたのですから、無事で良かった、とつくづく思います。苦労して得た海底の地形データですが、海軍は「軍機である」と秘匿。その貴重なデータに光を当てたのが、戦後来日した海洋地質学者ロバート・ディーツでした。北西太平洋の地形を研究していたディーツは陽光丸の調査の噂を聞き、そのデータを見るためにフルブライト奨学金に応募、第1回派遣研究員に採択され1952年に来日しました。54年にディーツは海底地形に関する論文を発表、その中で「Emperor Seamounts」として9つの海山に古代の天皇(と神功皇后)の名前をつけました。なぜ天皇? ディーツ自身は95年に亡くなるまでこのことについては口を閉ざし続けていましたが、「日本に対する敬意や好意」と考える関係者は多いそうです。なお「神功皇后」にディーツは「Jingo」とルビをふっています。今の日本では「じんぐうこうごう」なのですが、ここから著者は古い『古事記』の英訳本や日本語の本をめくり、明治時代半ばまでは「じんぐう」と「じんごう」が混在していて、明治末期(20世紀初頭)ころから「じんぐう」に統一された、ということを調べ上げてしまいます。「寄り道」のエピソードですが、私にはとても面白い話でした。
 日本列島の東側で太平洋のプレートは沈み込みますが、その時大量の海水も道連れになります。この水分がカンラン石に付加されるとカンラン石の融点が下がってマグマとなり噴火しやすくなります。だから日本海溝の西側、つまり日本列島に火山がたくさんあるわけです。日本近海には明神礁などの海底火山がたくさんあり、それがいつ噴火するかはわかりません。実際に噴火に巻き込まれて犠牲となった人たちやギリギリのところで難を逃れた人たちの話があります(著者自身が、海底火山の噴火から8kmの地点(というか、海上の位置)にいたことがあるそうです)。
 超深海は「地球最後のフロンティア」と呼ばれることもありますが(宇宙飛行士はすでに550名以上いますが、1万m以上の深海に到達した人間はまだ3名だそうです)、まだまだ謎がたっぷり残されています。というか、超深海はまだ「探検の対象」であって「学術研究の対象」にはなっていません。行って生きて帰るだけで大変な世界なのです。だけどもうすぐそこも「学術研究の対象」になることでしょう。今のところ、海溝の中にも流れがあって5年くらいで海水が入れ替わっていることがわかっています。海水はよく混ぜられていて、海溝の底にもけっこう酸素や栄養分(ケイ酸塩など)が豊富にあって「死の世界」ではないのです。恐ろしいことに、1万メートル以上の深海に住む生物がPCBで汚染されていることもわかりました。それも、工業地帯からの廃液で汚染された沿岸堆積物に含まれるのよりもはるかな高濃度に。やはり「プラスチックごみ」については、早くできることをしておいた方が良さそうです。



ゲームAI

2018-11-25 07:39:21 | Weblog

 オセロ・チェス・囲碁・将棋……人類が楽しむ「ゲーム」が次々AIに席巻されています。だったらそういったゲームはもう顧みられないのか、と言えば違うでしょう。エンジン付きの乗り物に速度で負けても、人類はかけっこを続けています。それと似ているのではないかな。

【ただいま読書中】『「次の一手」はどう決まるか ──棋士の直感と脳科学』中田裕教・伊藤毅志・勝又清和・川妻庸男・大熊健司 著、 勁草書房、2018年、2500円(税別)

 2007年4月「将棋を題材として、人の思考の仕組みを脳科学的に理解しよう」という「将棋思考プロセス研究プロジェクト」が日本将棋連盟・富士通・理化学研究所の協力で発足しました。
 同様の実験がチェスを対象に20世紀から行われています。面白いのは「グランドマスターとアマチュア上級者で、読みの精度や深さにはそれほど差はない。ただ、最初に思いついた候補手が最善手である確率がグランドマスターではとても高い」とか「チェスのある局面を記憶する力は、チェスの強さに比例する。ただし、アトランダムに駒を配置した場合にはチェスが強い人でも記憶できなくなる(ある種のパターン認識をしている)」といった研究結果です。局所的な駒の配置は「チャンク」と名付けられ、数万のチャンクを脳に保有している人はエキスパートレベルであることがわかりました。ただチャンクは文章で言えば「単語」に相当するもので、それらを結びつける「文法」にあたるものが「テンプレート」と呼ばれています。盤面の全体的な駒の配置で、将棋だったら「矢倉」とか「向かい飛車」とかの戦法がテンプレートに相当します。
 「小脳仮説」という面白いアイデアが登場します。小脳は運動の無意識的な細かい調整などの司令所ですが、私たちが経験を色々積んで「メンタルモデル(外の世界についての知識)」を形成してそれを使ってくり返し世界を認識していると、そのコピーが小脳にも作られ、いわば「無意識に運動をする」ように思考をするのではないか、という仮説です。小脳を使う利点は「無意識」「自動的」「高速」であることです。そのためトレーニングを積んだ熟練者の思考は直感的になっていくのではないかと言うのです。
 そういえば私も、将棋ではそのレベルには到達できませんでしたが、自分の商売の領域でだったら、直感的に正解を出してしまって自分も周囲も驚く、という経験を何度かしています。これが「何度か」ではなくて「常に」だったら「この商売の名人」になれたかもしれないんですけどね。
 動物実験では「合図をしたら考えてください」と言っても無理です。人間でも実は難しい。しかし棋士は「合図をしたら集中的に考える」ことに慣れています。そこで棋士をMRIに閉じ込めて合図と共に詰め将棋を解いてもらう、なんて研究が始まります。研究のメインテーマは「直感の解明」。1940年代のチェスでの研究で、エキスパートとアマチュア上級者の決定的な差は(局面の論理的な分析や読みの量ではなくて)「直感の精度(最善手が第一感で浮かぶ確率が高い)」だとわかっていたので、そこを深掘りしていこう、というわけです。
 チェスの「チャンク」に相当するものが将棋では「空間的チャンク」と「時間的チャンク」に区別できそうだ、という研究は読んでいてなかなかスリリングです。そういえば私も人生で一番将棋が強かった時期には、頭の中の将棋盤に並べられた駒が早送りで勝手に移動して局面がどんどん変化する、なんてことを経験できています。あれは時間的チャンクの把握だったのかな?
 ゲームAIの進化は、将棋と囲碁で違っているそうです。将棋では総当たり的にゲームの進行を「読ん」でいくことで強くなりましたが、囲碁(特に「アルファ碁」)はディープラーニングによって熟達者の視覚的イメージの直感的判断力を手に入れることで飛躍的な棋力の向上を果たしました。将棋は「読み」のウエートが強く、囲碁は視覚的イメージのウエートが強いゲームだ、と言えるのかもしれません。将棋AIは現在「強くなること」は一段落して、「人を楽しませる」とか「学習支援」といった「人との関り」を重視したものの開発が始まっているそうです。将棋の対局でも「攻めの棋風のAI」を相手に守りの練習をしたり、なんてのは楽しそうです。
 本書の著者の一人は「奨励会の年齢制限ぎりぎりの26歳で四段昇格ができた人」です。最近『奨励会』『サラの柔らかな香車』で棋士になれなかった人の厳しい人生について続けて読んでいたので、「プロになれて良かったね」ではあるのですが、ぎりぎりでなれた人にはまた別の苦労があるようで、その本音が文章からにじみ出てきます。
 「コンピューターがどのように次の一手を決めているか」の研究も興味深いものです。何より特徴的なのは「感情が入らない」こと。コンピューターだから当然だとは言えますが、「わかりやすい」とか「こわい」とかの感情を入れずに「読む」コンピューターを見て「我々は将棋をまだ本当には理解していなかったのかもしれない」と呟くプロ棋士の言葉が印象的です。



よき募金

2018-11-24 07:28:31 | Weblog

 大災害のあとに募金が広く行われます。私もなるべく応じることにしていますが、これ、「先」にできません? 「災害は忘れた頃にやって来る」とは言いますが、必ず何らかの大災害はやって来るわけですから、その「未来のための募金」をあらかじめやっておくの。そうしたら迅速で機動的な対応が可能になるでしょう。こういったことは本当は行政にやって欲しいのですが、今の日本でそれを望むのは(法律的にも能力的にも志的にも)どうも無理っぽいから、日赤あたりで「未来のための募金」をやってくれないかなあ。
 ちなみに今日のタイトルの「よき」は「良き」ではなくて「予期」です。

【ただいま読書中】『キリンの一撃 ──サヴァンナの動物たちが見せる進化のスゴ技』レオ・グラッセ 著、 鈴木光太郎 訳、 化学同人、2018年、1600円(税別)

 「キリンの首はなぜ長い?」に対する標準的な回答は「首が長い方が高い木の上の葉を食べることができて生存に有利だから」とされていました。私は「水を飲むときには不利になるぞ」「首が短い子供時代のキリンは生きにくいの?」などと思っていました。同じような疑問を持つ人がいたようで、サヴァンナで観察した結果は「キリンは首を水平にして食べている(高いところを食べていない)」でした。ではなぜキリンの首は長くなったのでしょう? その答えは本書をどうぞ。    科学に大切なものは、観察と仮説の構築、そしてフェアな態度だ、ということがわかります。
 フンコロガシは糞の球を一直線に押して移動しますが、その道標として「天の川」を使っているそうです。その研究がまた面白い。フンコロガシに目隠しをしたり、プラネタリウムに持ち込んで様々な星を写しておいて移動の方向などを観察したりしています。研究者も楽しんでいたのではないかな。
 “間奏曲"ではないでしょうが「ライオン・キング 7つの誤り」という章があります。もし「純粋なライオン・キングのファン」だったら、ここは読まない方が吉かもしれません。
 ゾウの研究も私には印象的でした。ゾウが発する音声の音域は人間より4オクターブ広く、人が使えない超低周波音でもコミュニケーションを取っています。ゾウが低周波の唸り(10〜40ヘルツ)を発すると、一部は空中を伝わりますが、それ以外は地震波となって地中を伝わります。ゾウはそれを足底の脂肪球でキャッチし増幅して感じています(3トンのゾウの足の衝撃音は36km先まで伝わるそうです)。
 「すごい動物」がたくさん存在することが本書ではわかりますが、それは同時に「動物のすごさを知らしめるすごい研究がたくさんこの世に存在すること」もこちらに知らしめてくれます。まだまだ世界には私が知らないことがたくさん満ちているようです。



儒医や僧医

2018-11-23 14:28:23 | Weblog

 古代中国では儒学者が医者を兼ねることもありました。奈良時代の日本には僧医がいました。中世のヨーロッパでは、修道院が病院も兼ねていました。だったら、デカルトが医学についていろいろやっても、不思議ではないのかもしれません。

【ただいま読書中】『デカルト医学論集』ルネ・デカルト 著、 山田弘明・安西なつめ・澤井直・坂井建雄・香川知晶・竹田扇 訳、 法政大学出版局、2017年、4800円(税別)

 デカルトの「医学」に関する5つの論文「解剖学摘要」「治療法と薬の効能」「動物の発生についての最初の思索」「味覚について」「人体の記述」が集められた本です。デカルトが生きた17世紀は、西洋医学が大きく変わりつつあった時代でした。古代ローマ時代のガレノスが立てた医学が中世全体を通じてヨーロッパを支配していましたが、そのうち、解剖学はヴェサリウスによって否定され(1543年『ファブリカ』)、生理学はハーヴェイの「血液循環論」(1628年)によって否定されました。そんな時代に生きていたデカルトは33歳の1629年に友人に「解剖学の勉強を始めたいと思っています」と手紙に書いています。実際に彼は「哲学者」であると同時に、毎日のように動物の解剖実験などを行う人でもありました。そういえば『方法序説』にも血液と心臓の運動の話が取り上げられていましたね。ただ、私の記憶では、あの本ではハーヴェイの考え方にデカルトは否定的だったようですが。
 「解剖学摘要」は仔牛の解剖です。心臓や血管、食道などの解剖について詳細に述べられますが、デカルトはスケッチが下手です。言葉は実に精細に使っていますが、心臓内部や脳の構造などのスケッチは、まるでデカルト座標の上に展開された数学的な図形のようです。鶏の卵が受精後1日ごとにどのようにヒナが育つか、の解剖記録は労作です。2日目には心臓が出現、10日目には肝臓、12日目には脾臓、と記録されていますが、ニワトリの脾臓ってどんなのでしょうねえ。
 デカルトの時代にはまだ顕微鏡は「物珍しい道具」であって「学術的な器具」ではありません。だからでしょう、動物の発生については「精液」が重視されています(卵細胞は見えないから「存在しないもの」だったのでしょう)。おっと「母胎(今のことばだったら「子宮」)」ももちろん大切だとされていますが。あとは奔放な想像力が駆使されます。「精細な精液」「粗大な精液」「両親の精液」……あら、母親からも精液がやって来るようです。
 デカルトの意見では、人体には「3つの炉」があり火が燃えているそうです。炉があるのは「心臓」「脳」「胃」。「熱いハート」で火が燃えているのは直感的にわかりますが(というか、ガレノス以前の古代ギリシアの医学でもこれは言っていたはず)、胃の炉とは? おそらく食物を胃が熱処理して吸収している、ということでしょう。「消化酵素を使えば炉は不要だよ」と教えてあげたら、デカルトさんは喜んでくれるかなあ?
 本書は非常に面白いのですが、この面白さを私と同じレベルで楽しむためには、ガレノス医学・ヴェサリウス・ハーヴェイについては知っておいた方が良いでしょう。でないと「昔の人は変なことを言っていたものだ」で片付けられて、もったいないことになりそうです。ただし私自身はデカルトについてはあまり詳しくないので、“そちらの方の面白さ"は味わえていないでしょうから、あまりエラそうなことは言えませんが。



美しい所作

2018-11-22 07:23:25 | Weblog

 襖を開ける前にきちんと両膝をつくとか、和室を歩くときに畳の縁を踏まないとかを見ると、所作の美しさを感じることがあります。そういえば野球場で、守備につく選手やマウンドに向かう投手がラインを踏まずに跨いでいるのをよく見るのですが、これも日本的な「所作」に入るのでしょうか。それともグローバルスタンダード?

【ただいま読書中】『サラの柔らかな香車』橋本長道 著、 集英社、2012年、1200円(税別)
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 数ページ読んだところで、著者が書いた『奨励会』を先に読むのではなかった、と私は思います。この小説、著者の略歴なんかむしろ知らない方が、絶対に面白く作品世界に突入できます。
 主人公の「橋元」は、著者の分身、というか、完全にクローンです。将棋の奨励会に数年在籍で自分の才能に見切りをつけて辞め、大学に行ってあとはなんとなくぶらぶら。将棋雑誌にちょっと記事を書いていて、女流名人戦の観戦記を書こうとしている、ここからはフィクションです。
 ブラジルからやって来た金髪碧眼の少女サラは、将棋の「才能」を持っていました(英語だったらこの「才能」は、ゴシック体ですべて大文字で書かれるところです)。回りの人間たち(将棋のプロやセミプロたち)には、彼女の差し手は非合理的で意味がわからないものです。しかし、将棋を覚えて3年で、女流名人のタイトルに挑戦できるところまで昇ってしまったのです。まだ13歳なのに。
 おや、いつの間にか小説の語り手が、瀬尾という人になってしまいました。サラについて語る前に女流名人の萩原塔子について語ろうとして、いつのまにか誰がメインの語り手かが曖昧になってしまったようです。
 香車は「柔らかい」ものではありません。俗に「槍」というあだ名をつけられた駒で、一直線に相手を刺しにいく駒です。ただ、そこに「ウィトゲンシュタイン」の「(柔らかい構造を持つ)言語ゲーム」が加味されることで、香車が、あるいは将棋そのものが“柔らかく"なってしまうようです。ともかく、公園で登校拒否をしていたサラに、ふつうの言語コミュニケーションが取れない瀬尾は、まず五目並べを、ついで将棋を言語ゲームとして教えようとしたのです。
 おっと、語り手がまた橋元に戻ってきました。なんだか枠構造になっていたようです。さらに
サラの魔術的な過去が軽く語られ(ここにはマジックリアリズムの影響が?)、小学生のサラは将棋に関して共感覚で対峙しているのではないか、というへんてこりんな仮説がサラに将棋を教えている人たちによって立てられます。
 天才少女サラは将棋盤に「世界」を見ているようです。様々な駒の配置や微妙な動きによってその「世界」はざわめき流れ変貌します。その世界にサラは介入しているようです。
 「才能」や「天才」について言葉と常識で述べることは、なかなか難しいものです。本書もそれに成功しているとは言えません。ただ、その難行に挑み、雰囲気だけでも伝えることには成功しています。私が同じことに挑んだとしてもここまではできなかったでしょう。というか、最初から挑んではいないのですが。



働かざる者食うべからず

2018-11-21 07:30:16 | Weblog

 だけど、食ってないとろくな働きはできません。

【ただいま読書中】『写真で見る日本陸軍兵営の食事』藤田昌雄 著、 光人社、2009年、1800円(税別)

 江戸時代末期、幕府は旗本や御家人だけではなくて民間からの徴兵によって構成された「親衛常備軍」と呼ばれる直轄軍構想を持っていました。将兵は1万3625人ですが、その食事は「毎日白米6合を支給、副食や薪炭紙などの日用品代として銀2匁5分を支給」で、かかる経費は一人あたり年間50両。明治元年には「諸藩兵給与規則」が制定されましたがここでも「米6合」の現物支給は同じで、副食代は「菜代」として金1朱が給与されました。ここでも兵はおかずは自分で何とかするわけです。なお「白米6合」は「陸軍」の給与規定がいろいろ改定されても残され、大正2年に脚気予防のため米麦飯が正式に規定されるまで維持されました。
 昭和18年の「大東亜戦争陸軍給与令」では「基本糧食」が「精米600グラム、精麦186グラム(または乾パン690グラムまたは圧搾口糧690グラム)」となっています。賄料は内地・台湾が30.0銭、朝鮮38.4銭、樺太50.4銭、営倉に入っている者に関する規定もきちんとあります。
 興味深いのは屯田兵にも給与規定があることです。防人のように自給自足か、と思いましたが、「屯田兵例則」(明治7年)では「扶助米・塩菜料支給」が定められています(年齢区分が「15歳以上」「7歳以上14歳以下」「6歳以下」となっています)。しかし、6歳以下でも米が1日3合とは、昔の日本人は本当に米が「主食」だったんですね。
 「兵食」のメニューは、各部隊の本部にいる経理主任(主計将校の長)が軍医の意見を聞きながら1週間ごとに決定していました。ただ、主任が有能なら平時には上手くいくでしょうが、戦時には上手くいかなかったでしょうね。補給が上手くいくかどうか、戦場がどんな状態かを本部がわかっているかどうか、そういった要素で「机上の空論」が現場に押しつけられるだけになるおそれがあります。以前読んだ陣中日記でも、補給がちゃんとある状態でさえ、飯ごうの容量を超えた飯を炊くことを命じられた兵士が困ってしまうシーンがありましたっけ。
 大正時代後半から蒸気煮炊釜(ボイラーで発生させたスチームで、主食・汁物・副食まで調理可能な万能調理器)が陸軍の各兵営で使われるようになりました。戦艦大和の調理場でも似た器具が使われている写真を見た覚えがあるようなないような気がしますが、海軍では何を使っていたのかな?
 今NHKでやっている朝ドラに「根菜切断機を軍に納入する」なんて話がありましたが、本書にも「フードプロセッサー」「根菜の切断も肉挽きもできる万能調理器」などの写真がいくつも載っています。大人数ですから手作業ではやってられませんよねえ。
 兵士たちが食事している写真では……丼に山盛りのご飯がインパクトあります。1食2合ですからそうなるのはわかるのですが、おかずは一皿だけです。なんかバランスが悪いように感じます。あ、テーブル上に汁桶か薬缶があるから、湯呑みで汁を飲んだあとにお茶も同じ湯呑みで飲むようです。具体的な献立ではハレとケがしっかり区別されていて、普段は粗食だけど陸軍記念日とか元日とかは特別メニューになってます。
 また、内地の陸軍では昭和5年からパン食を本格的に導入しましたが、パンに合うおかずの研究も行われていました。鰯と大豆のトマト煮やシチューなどは合いそうですが、漬け物や味噌汁、あるいは肉うどんは「パン食のおかず」としてどうなんでしょうねえ。そういえば私も学校給食で「コッペパンと和風の煮物」とかを食べさせられていましたっけ。
 戦争末期になると食糧不足がひどく、陸軍経理学校の代用食では「米麦に高梁を混合」どころか「雑草を混入した高梁粥」まで提供されました。食糧が最優先されるはずの軍隊でさえこれなら、一般国民が食えないわけです。
 将校の食事は、兵隊のものとは“別物"です。写真を見ただけでわかります。これを調理する兵士たちは、どう思っていたんでしょうねえ。
 面白いのは「陸軍のカレー」もあったこと。そのレシピがありますが、昭和の初めから戦争末期にかけて「肉」が「豚肉、鶏肉」から「兎、鯨」に変わっていくことが見えます。というか、昭和19年に鯨をどうやって捕っていたんでしょう?