【ただいま読書中】

おかだ 外郎という乱読家です。mixiに書いている読書日記を、こちらにも出しています。

読んで字の如し〈草冠ー12〉「芥」

2015-04-30 06:32:04 | Weblog

「芥川賞」……芥が流れる川を記念した賞
「草芥」……草はゴミである
「荊芥」……荊もゴミである
「芥虫」……ゴミから生命が発生するという主張
「大海は芥を選ばず」……プラスチックは勘弁して欲しい(by海の代弁者)
「芥子」……ゴミの子供
「芥子和え」……ゴミの子供まみれ
「獅子唐芥子」……一味をまぶされたライオン

【ただいま読書中】『戦国の日本語 ──五百年前の読む・書く・話す』今野真二 著、 河出書房新社(河出ブックス)、2015年、1600円(税別)

 日本語は、平安時代までの「古代語(「係り結び(文中の係助詞が末尾の活用形を決める)」が保たれている)」と江戸時代以降の「近代語(「係り結び」が破壊されている)に二分できるそうです。なるほど、だから江戸時代の本は平安時代のものに比べてはるかに読みやすいんだ、と私は納得です。そしてその間の鎌倉・室町時代は移行期です。となると、鎌倉~室町の日本語を調べることは、古代語と近代語の関係を知ることになります。
 公家の日記は漢文で書かれていました。日記とは文字通り「日々の記録」であり、公家の日々とは公的なものですからそういった記録は公性を持つ漢文で、ということだったそうです。その「公性」は現代の漢字かな交じりの書き言葉にも受け継がれています。この公家の日記から「ことば」に関する記述が拾い上げられていますが、読書・書写・校合(書写した本を原本と付き合わせる)・創作(連歌、和歌、漢詩など)とかなり多彩です。こういった日々の活動によって「ことば」は少しずつ変容していたはずです。
 室町時代の辞書「節用集」は、現在の辞書とは違って「集めたことばのデータベースを使いやすいように検索のキーで分類した」といった体裁で編纂されています。ことばはまずは「いろは」順に分類されますが、その次に「天地」「時節」「草木」「人倫」などの「門」による分類があります。「雲」はまず「ク」の部のページを開いて次に「天地」の門を見たらそこに載っている、という感じです。面白いのは「狐」が「クの部」の「畜類門」に載っていること。つまり室町時代には「狐」は「キツネ」ではなくて「クツネ」だったのです。ほかにも「サザエ」が「サザイ」だったり「カタツムリ」が「カタツブリ」だったり、現代とはちょっと違うことばが使われていたことがいろいろわかります。
 キリスト宣教師にも感謝をする必要があります。彼らが発行したローマ字本や日葡辞書から、戦国時代の日本語がある程度わかるのです。たとえば「蛙」は、書き言葉では「Cayeru」ですが話し言葉では「Cairu」だそうです。
 秀吉の手紙も登場しますが、漢字よりもかなが圧倒的に多く、紙に書ききれなかったら最初に戻って行間に追加の文章を(字を小さくして)押し込んだ紙面からは、秀吉の肉声が響いてくるように感じられます。当時の人はもしかしたらこんな感じの話し言葉を実際に使っていたのではないか、と思えます。
 今から数百年後の人が「21世紀の日本人はどんなことばを実際に話していたのだろう」と思って、残された映像作品やツィッターの文字情報から「こんな会話をしていたんだ」と断じる、という光景を想像してしまいました。しかし、資料は豊富にあるでしょうが、あれが「スタンダードの日本語」かしら?


限界集落の解決法

2015-04-29 12:02:14 | Weblog

 昭和の頃に「無医村」問題を解決するのに、人口を減らして「村を消滅」させたらそれとともに「無医村」も消滅する、という解決策が(半分ジョークで、半分本気で)言われていたことがありました。現在日本中に存在する「限界集落」問題は、それでは解決しないようです。だったら大合併かな。一県すべてを一市にまで合併させたら、少なくとも「その市」が“限界”に直面する日は、先延ばしができそうです。

【ただいま読書中】『縮小都市の挑戦』矢作弘 著、 岩波新書1514、2014年、820円(税別)

 「人口減に悩む都市の問題」は実は日本だけではなくて、世界的な問題です。本書では著者がおこなったデトロイトとトリノを対象とした「縮小都市研究」が紹介されています。
 最近日本政府は「コンパクト・シティ」を政策として打ち出していますが、著者から見たらこれは理念先行で現実軽視・空間軸ばかり見て時間軸を無視という問題点を持っているそうです。特に各省庁の縦割り行政のために「地方都市政府がどのように機能するか」を総合的に扱えないところが問題。対して「縮小都市論」は、「コンパクト・シティ」と同じ目標「持続可能な都市」を持ちますが、こちらは「現実」を出発点とし、時間軸と空間軸をトータルに学際的に扱う、という特徴があるのだそうです。
 さて、まず登場するのはデトロイト。かつては「モーター・シティ」として発展しましたが、郊外にスプロール化がおき、さらに郊外の外側(外郊外)も発展することで、シティの中央部は寂れ税収は落ちサービスは低下し税金は高くなり、すると嫌気がさした人(特に収入が上の層)は外に逃げ出す、という悪循環から財政が破綻してしまいました。デトロイトでは、この半世紀で100万以上の人口が減少して半分以下になってしまい、市域の1/3は「空き(空き地、空き店舗、空きテナント……)」となってしまいました。
 その「空き」を「廃墟」と見るか、「資産」と見るかでその後の態度が変わってきます。デトロイトでは(行政ではなくて)民間企業やNPOが「空き」をいかに生かすかで協働的に都市の再生を始めています。様々な取り組みが本書で紹介されていますが、どれもまだ始めたばかりとは言え、将来性はけっこう豊かなものに見えます。
 もちろんデトロイト市当局が座して死を待っていたわけではありません。「プロスポーツ」「カジノ」による再生を試みました。タイガース(野球)ライオンズ(アメフト)ピストンズ(バスケットボール)レッド・ウィングス(アイスホッケー)とアメリカでも珍しい4つのプロスポーツ球団の本拠地となっています。「スポーツによる都市再生」の謳い文句は景気の良いものでしたが、実体は淋しいものでした。「経済効果」ほとんどなし、「都市イメージの向上」なし、「住民の生活の質の向上」なし、です。「カジノ」は20世紀末に3軒開業しました。これまた「カジノによる都市再生」の謳い文句は景気の良いものでした。ところが、他の消費に向かっていたお金がカジノに流れただけだったのです。
 トリノもまた「フィアットの城下町」として栄えました。しかしフィアットが衰退するのと二人三脚でトリノも衰退してしまったのです。しかし、逆に、フィアットの支配力が弱まることによってトリノでは新しい試みを試すことができるようになりました。ただ、デトロイトとは違ってトリノでは、州政府・都市政府・EUなどの公共セクターが重要な役割を果たしています(その分、民間は元気がありません)。ただ、トリノは歴史的に「発展→衰退→再生→衰退」を繰り返していて、少々のことには驚かないのかもしれません。ともかくトリノは21世紀になって人口は増加しています(ただしそれは移民に負う部分が非常に大きいのですが)。戦略的に「都市ブランディング」をおこないますが、そこで重要なのは「起源」です。「トリノがトリノである理由」。そのイメージを情報としてメディアに発信し、都市環境を改善して生活の質を上げるようにしています。デトロイトとはずいぶん違うやり口です。
 逆に言えば、都市によってやり口はすべて違うのかもしれません。それは日本でも同じはず。
 そうそう、デトロイトとトリノで共通の要素もあります。大学や文化機関が重要な役割を果たしているのです。これは日本の「コンパクトシティ」には欠けている視点ではないでしょうか。日本の行政に欠けているのは、この視点だけではないようですが。
 ここで欲しいのは「日本での成功例」です。それもできたらまったく別の発想による複数の成功例。こういった成功例を集積していったら、もしかしたら「縮小都市」だけではなくて「日本」の再生ができるかもしれません。


読んで字の如し〈草冠ー11〉「英」

2015-04-28 06:25:11 | Weblog

「英国」……英明な国
「英明」……英国人は明るい
「俊英」……俊敏な英国人
「英雄」……イギリス紳士
「英文学部」……卒業生は全員英文学者になる学部
「英和」……イギリスは平和
「石英」……石化した英国
「英語」……米語とは違う言語
「英霊」……なぜか最近「ご」をつける人が増えている
「育英会」……優れていない人は育たない集まり

【ただいま読書中】『完璧な夏の日(下)』ラヴィ・ティドハー 著、 創元SF文庫、2015年、1000円(税別)

 第二次世界大戦後の世界は、フォッグ抜きで動いています。ナチスに参加していたユーバーメンシュたちは、戦犯として追われ裁かれ、あるいは貴重な人材として秘密裏にスカウトされます(ちょうどフォン・ブラウンがスカウトされたように)。ベトナム、ラオス、アフガニスタン……世界各地での紛争や戦争などでも、各地のユーバーメンシュたちが“活躍”します。そして、ある国際会議で「波動はまだ続いている」という目立たないがそれが本当だったらとんでもない発表が。そして9・11。ここでは「ヒーロー」(困難なときにさっそうと登場して人々を危機から救う存在)は現れませんでした。「ヒーロー」とは何か?という問いは本書の上巻からずっと継続的に問われ続けていますが、9・11で「ヒーロー」は死んだのです。
 それにしても、「ヒーロー」って、何でしょう? 本書にはユーバーメンシュは多数登場しますが、「ヒーロー」らしい人(超人)はいません。もちろんメディアを通せば彼らも「ヒーロー」になるのですが。望んだわけでもないのに超人的な力を発現させられ、老化をしなくなった永遠の「ヒーロー」たちですが、彼らの心は確実に老い続けています。
 そして時代は「現代」にたどり着き、フォッグが再登場します。第二次世界大戦直後のある一日に、フォッグがなにやら不明瞭な動きをしていたことが今さらながら問いただされます。もちろんそれには理由があります。「完璧な夏の日」を終わらせなければならない、という理由が。
 本書でずっと採用されていたカットバックの手法が、ここでじわじわと効いてきます。それと、本書の語り手「われわれ」が一体誰なのか、ということもまたあらためて疑問として浮上してきます。
 イギリス人流のちょっとひねくれたアメコミの読み方が披露され、「ヒーロー」の恋愛事情が腫れ物に触るように描かれます。そして最後にフォッグは選択をしなければなりません。「夏への扉」をくぐるかどうかの決断です。もし私だったらどうするだろうか、と考えてしまいます。ヒーローどころか、ヒーローもどきのような者にさえなれない私が考えても仕方ないことではあるのですが。


権力者のエラさ

2015-04-27 06:50:04 | Weblog

 ラヴォアジェの頭をギロチンで切り落とした人間の方が、ラヴォアジェよりエライとは限りません。

【ただいま読書中】『完璧な夏の日(上)』ラヴィ・ティドハー 著、 創元SF文庫、2015年、1000円(税別)

 《ブックマン秘史》があまりに面白かったものですから、その流れで同じ著者の本を図書館から借りてきました。
 冒頭から変わった語り口と変わった登場人物で、その違和感のためにこの小説の舞台がとってもヘンテコであることに私は最初は気がつきません。物語の語り手は「われわれ」で時制は現在形、登場する「フォッグ」は霧を自在に操り「スピット」が痰を吐けばそれは銃弾となり「オブリヴィオン(忘却)」は物質を消滅させてしまいます。とってもヘンテコな世界です。
 このような超人が出現したわけは「フォーマフトの波動」のせいだそうです。この波動を浴びた人間の中に、特殊な能力を発現した者(英米ではオーヴァーマン(超人)、ドイツではユーバーメンシュ(同じく超人))は政府によって集められます。アメリカでは「タイガーマン」「つむじかぜ」などの超人チームがノルマンディー上陸作戦で“敵”をばったばったと倒すところが映画となります(アメコミの実写版ですね)。イギリスではもっとひっそりとした形で諜報作戦に超人たちが使われます。
 戦争で「超人部隊」がいたら、戦局は一変しそうに思えます。しかし、敵にも味方にも同じバランスで超人部隊がいたら、結局超人部隊同士がつぶし合うことで“戦局のバランス”は取れてしまうのです。結果、超人部隊がいなかった私たちの世界の戦争の進行と同じような歴史が残されることになります。
 そういった世界で、「観察者」として鍛えられて優秀な資質を開花させたフォッグは「観測をしたら事象は変わってしまう」ことに気づきます。まるで量子論の世界です。そういえば「フォーマフトの波動」は量子レベルで遺伝子に干渉することで特殊な能力を目覚めさせてしまったのだそうです。
 1943年ドイツ占領下のパリ、フォーマフト博士が現れるという情報を得たフォッグたちはパリに潜入します。しかしそこでフォッグが見つけたのは、フォーマフト博士の娘“ゾマーターク(夏の日)”でした。彼女はフォーマフト博士が世界を変えた波動現象を起こしたとき、そのすぐそばにいて、不思議な変化を受けていました。そしてフォッグとゾマータークは、磁石が引かれるよう、あるいは光と影が寄り添うように、恋に落ちます。でも、夏の日の強い光はフォッグの霧を晴らしてしまうのです。そこを読むだけでこれが“悲しい恋”であることがわかります。
 さらにここで私は『夏への扉』(ハインライン)を想起します。二人が出会っている間、パリには「夏」に通じる扉があちこちに出現するのです。本書は著者のハインラインに対する「夏への扉」を探すことへの“返歌(捧げ物)”かもしれません。


不審者

2015-04-26 08:01:05 | Weblog

 これはフィクションです。
 警察に電話がありました。
「男が下半身をもろに露出させていました」
「どこですか?」
「その男の自宅のトイレの中です」
「それを目撃したんですか?」
「はい、しっかりと」

【ただいま読書中】『バルバラ異界(2)』萩尾望都 作、小学館、2004年、505円(税別)

 渡会はまた青羽の夢に潜ります。しかしそのバルバラ島を支える世界観は、とても9才の少女のものとは思えないシニカルで複雑なものでした。さらにバルバラ島の住民が“現実世界”ににじみ出てきます。この世界に住むキリヤ(渡会が、赤ん坊の時に捨てた息子)もまたバルバラ島と何らかのコネクションを持っています。さらに、かつては水の星、今は砂の星となってしまった火星のイメージがこの世界に重ね合わされます。そして、戦争も。
 さらに「豚を食べても臓器移植のような拒絶反応は出ないのに、食品アレルギーは出るのは、なぜ?」という素朴な疑問も隠し味として登場します。
 夢と現実が循環します。どちらが夢で、どちらが現実なのか、だんだんわからなくなってしまいます。謎が謎を呼びますが、しかし登場人物は皆「謎を解きたい」とそれほど熱心に思っている様子ではありません。これもまた伏線なのでしょうか。


これからの日本経済

2015-04-25 06:32:42 | Weblog

 経済成長ばかりを目指すのではなくて、経済成熟を目指す、というのは、ナシですか? 人だったら「成長」だけではなくて「成熟」も“良いこと”なのですが。

【ただいま読書中】『原子力・核・放射線事故の世界史』西尾漠 著、 七つ森書館、2015年、4000円(税別)

 よくもまあ集めたものです。1945年6月6日ロスアラモスでの臨界事故(3人が最大0.6シーベルトの被曝)から始まって、2014年9月ノースアナ原発(米ヴァージニア州)での燃料棒破損事故まで、世界各国での「事故」をどっさり300ページ近く収集しています。
 忘れてはならないのは、これらはすべて「公開されたもの」であること。当然のことですが、隠蔽に成功したものは本書には載せられていません。鹿児島の鬼界島の南150kmで水爆1発を装着した飛行機を空母タイコンデロガが海に落っことしてしまった事故では、水爆は回収されなかったのですが、81年に発表されたときには「太平洋の海上(陸地から800km)」とあるだけで、正確な場所が明らかになった(隠蔽がばれた)のは89年になってから。日本のもっとそばでもっとすごい事故があったのを隠蔽しているのではないか、なんてことも想像してしまいます。
 「人はミスをするものである」ということばがありますが、本当に人は様々なミスをするものです。これは原子力分野に限定したものではありませんが、あまりに重大なミスをされたら原発の場合損害が大きすぎるのが問題です。大問題です。
 さらに問題なのは「隠蔽」。「ミスをするもの」であっても人はそこから学んで「同じミスを繰り返さない」こともできます。しかしミスを隠蔽されたら学ぶチャンスがなくなってしまう(同じミスが繰り返される可能性がしっかり残る)んですよね。


2015-04-24 06:41:48 | Weblog

 この世には頭の良い人と悪い人がいます。頭を使う人と使わない人がいます。頭を良い方向に使う人と悪い方向に使う人がいます。だけど、どの組み合わせがその人にとって一番幸せかは、わかりません。周りの環境も関係しますから。

【ただいま読書中】『チャーメインと魔法の家 ──ハウルの動く城3』ダイアナ・ウィン・ジョーンズ 著、 市田泉 訳、 徳間書店、2013年、1700円(税別)

 国王付きの魔法使いが病気となり、エルフの治療を受けることになりました。問題は「家」です。呪文が充満した家を放置したら何が起きるかわかりません。そこで留守番に指名されたのが、魔法使いの遠縁の娘、チャーメイン。しかしチャーメインは、あまりに“上品”に育てられたために、できること(したいこと)は本を読むことだけ。家事も魔法もかけらも知りません。そんな少女が魔術書でいっぱいの家で好き放題できるのですから、これはもう事件が起きないわけがありません。私は楽しい予感でわくわくします。
 しかし、さすが手練れの著者です。こちらの予感をはるかに上回る予想外の展開が。ともかく「間違った状況における間違った呪文」によってとんでもない魔法が発動してしまったようなのです。でも、それに全然気がつかないチャーメイン。
 洗うべき食器と洗濯するべき洗濯物の袋と石鹸の泡で充満した魔法の家で、チャーメインは“宿なし”という名前の犬と、弟子入りを志願して押しかけてきたピーターという少年との同居生活を始めます。いやもう、伏線満載の魔法の家で、どれが重要でどれはどうでもよいのか、私は途方に暮れてしまいます(たとえば“宿なし”はオスのはずだったのにチャーメインとピーターが確認したらメスだったのです。これも立派な伏線なのです)。
 さらにチャーメインは宮殿に招待されます。なぜか財政がとっても苦しそうです。図書館で夢のようなお仕事をした後招待されたお茶会で、ソフィーとハウルと火の悪魔が登場します。それにしてもハウルの姿はあまりに意外なものです。これはもう読んで(そして笑って)もらうしかありません。
 「魔法の世界」ですから基本的には「何でもあり」なのですが、それでも「魔法の世界なりの論理と秩序と限界」はきちんと存在しています。たとえば「どこでもドア」に相当するものがあるのですが、これが実は「どこでも迷路」で……って、これのことを想起するだけで私は笑い出してしまいます。
 しっちゃかめっちゃかで高層ビルくらいの大きさのおもちゃ箱をぶちまけたような贅沢に楽しく混乱したお話ですが、その中にはちょいとシリアスなテーマ(人に必要な生きる力は何か、とか、健全な親子関係はどんなものか、とか)もこっそり隠れています。ダイアナ・ウィン・ジョーンズはやっぱりすごい作家です。亡くなったのが本当に残念です。


2015-04-24 06:41:48 | Weblog

 この世には頭の良い人と悪い人がいます。頭を使う人と使わない人がいます。頭を良い方向に使う人と悪い方向に使う人がいます。だけど、どの組み合わせがその人にとって一番幸せかは、わかりません。周りの環境も関係しますから。

【ただいま読書中】『チャーメインと魔法の家 ──ハウルの動く城3』ダイアナ・ウィン・ジョーンズ 著、 市田泉 訳、 徳間書店、2013年、1700円(税別)

 国王付きの魔法使いが病気となり、エルフの治療を受けることになりました。問題は「家」です。呪文が充満した家を放置したら何が起きるかわかりません。そこで留守番に指名されたのが、魔法使いの遠縁の娘、チャーメイン。しかしチャーメインは、あまりに“上品”に育てられたために、できること(したいこと)は本を読むことだけ。家事も魔法もかけらも知りません。そんな少女が魔術書でいっぱいの家で好き放題できるのですから、これはもう事件が起きないわけがありません。私は楽しい予感でわくわくします。
 しかし、さすが手練れの著者です。こちらの予感をはるかに上回る予想外の展開が。ともかく「間違った状況における間違った呪文」によってとんでもない魔法が発動してしまったようなのです。でも、それに全然気がつかないチャーメイン。
 洗うべき食器と洗濯するべき洗濯物の袋と石鹸の泡で充満した魔法の家で、チャーメインは“宿なし”という名前の犬と、弟子入りを志願して押しかけてきたピーターという少年との同居生活を始めます。いやもう、伏線満載の魔法の家で、どれが重要でどれはどうでもよいのか、私は途方に暮れてしまいます(たとえば“宿なし”はオスのはずだったのにチャーメインとピーターが確認したらメスだったのです。これも立派な伏線なのです)。
 さらにチャーメインは宮殿に招待されます。なぜか財政がとっても苦しそうです。図書館で夢のようなお仕事をした後招待されたお茶会で、ソフィーとハウルと火の悪魔が登場します。それにしてもハウルの姿はあまりに意外なものです。これはもう読んで(そして笑って)もらうしかありません。
 「魔法の世界」ですから基本的には「何でもあり」なのですが、それでも「魔法の世界なりの論理と秩序と限界」はきちんと存在しています。たとえば「どこでもドア」に相当するものがあるのですが、これが実は「どこでも迷路」で……って、これのことを想起するだけで私は笑い出してしまいます。
 しっちゃかめっちゃかで高層ビルくらいの大きさのおもちゃ箱をぶちまけたような贅沢に楽しく混乱したお話ですが、その中にはちょいとシリアスなテーマ(人に必要な生きる力は何か、とか、健全な親子関係はどんなものか、とか)もこっそり隠れています。ダイアナ・ウィン・ジョーンズはやっぱりすごい作家です。亡くなったのが本当に残念です。


ドローンでテロ(?)

2015-04-23 06:30:26 | Weblog

 テロというか、テロの予告のつもりなのかもしれません。あるいは「爆弾を積んでいつでも襲えるんだぞ」の示威。もっとも、本気でテロをするつもりだったら、あからさまな手段の誇示はしないでしょうけれどね。
 もしかして「汚染水はコントロールされている」に対する皮肉の表明のつもりかな?(「ほら、コントロールされてないじゃないか」) だけどこんなことをしたら、汚染水に関して首相や官邸を批判する人間が批判しづらくなる(「テロリストの仲間だ!」)になるのがオチではないかしら。

【ただいま読書中】『影のミレディ(ブックマン秘史2)』ラヴィ・ティドハー 著、 小川隆 訳、 早川書房(ハヤカワ文庫SF1932)、2013年、1040円(税別)

 『革命の倫敦』の続編です……と思って本を開くと、最初に登場するのは、武侠小説とミスター・ウー。おやおや、と思ううちに舞台はさっと変わって、パリのモルグ街。そこで密室殺人が行われ、窓からは変なものがやって来ます。
 「その後のオーファンの物語が読めるのかな」なんて思っていた私はみごとに肩すかしを食って、苦笑するしかありません。著者は本好きを“もてなす”のが、本当にお上手です。
 『革命の倫敦』で起きた事件の余波が、パリにも及んでいます。しかしヴィクトリア時代のことですから、その多くは噂レベルの情報でしかありません。ただ、この3年間ブックマンのテロが止んでいることが、何か意味ありげです。
 さて、颯爽と登場したのは「ミレディ」。貴族との結婚歴がある女性、身長185cm、漆黒の肌、格闘技に優れ、腰にはコルト・ピースメーカー(知らない人のために。古いタイプのでかい拳銃(リヴォルヴァー)です)。そんな人がパリの町を堂々と闊歩しているのですから、とんでもなく目立ちます。実際、かつてはサーカスにいたこともあるようです。彼女は自動人形で構成された議会の命令を受け、殺人事件の捜査をします。最初の犠牲者は、腹の中に何かを手術で埋め込まれてそれを運んでいたアジア人。彼は密室で殺され、解体されて腹の中から「何か」を抜き取られていました。そして次の犠牲者は、そのアジア人に隠れ家(密室となった部屋)を提供していたご婦人。
 アジア人と言えば、「ぼくを銃にして」と願う少年カイも登場します。私は思わずウフコック(『マルドゥック・スクランブル』に登場する、人語を解する万能武器)を想起します。もっともウフコックは人型ではなくてネズミ型でしたが。そして、カイはメコン河の水を飲んでいます。どう考えてもパリのミレディと出会うべきなのに、二人はあまりに遠すぎます。
 ミレディの“捜査”は、闇の中で両眼を閉じて広い部屋の中を手探りしている感じで、しかも何を探しているのかわからないままなのです。しかし、探しに訪れる先で、次々死者が発生します。中国や英国を代表とする各国の秘密情報部、複数の秘密結社、さらに蜥蜴族が「何か」を探し回っていて、ミレディは常にその“捜索の焦点”に位置しているようなのです。というか「釣りの餌」です。彼女が動くことで、様々なエージェントが彼女の回りに集結します。そして、極めて暴力的で荒っぽい方法で、ミレディは「歩く銃」に作り替えられてしまいます。そして、カイもまた、こちらは“ソフトな侵略”とでも言いたくなる方法でやはり「銃」になりつつあります。
 面白い小説のガジェット(の変形)が次々登場します。フランケンシュタイン、ハイド氏、鉄仮面、三銃士、モロー博士、そしてなぜかリングワールドやゲイトウェイも。
 そして、ヴェスプッチア(この世界ではアメリカ)万国博に“役者”が終結します。人間と、自動人形と、蜥蜴と、異世界の産物と、そして苦痛も。そう、本書の影の主役は「苦痛」です。人が人であることの苦痛、そして、人が人でなくなることの苦痛。自動人形も蜥蜴も異世界の産物も知らない苦痛を、人だけが感じています。これほど苦痛に満ちた改変世界は珍しいと感じます。だけど、その中に私は希望を探します。観覧車の心棒に宇宙を見つめるミレディのように。


肉食獣と草食獣

2015-04-22 07:00:45 | Weblog

 生命の誕生が実際にどのようなものだったのかはまだ謎ですが、最初の単細胞生物はおそらく化学エネルギーか太陽エネルギーを“栄養”としていたはずです。で、そのうちに、他の生命が持っている資産を乗っ取って生きていく「肉食」生命体が登場したのでしょう。では、多細胞動物で「肉食系」と「草食系」のどちらが先に出現したのだろう、と想像してみました。たとえば陸上の動物で考えてみます。海から地面への生命の上陸は、植物が動物に先行していたはずです。で、それを餌にする草食動物が上陸してさらにそれを餌にする肉食動物が進化で出てきた、というのが素直なストーリーに思えますが、餌として「陸上の未知の植物」よりも「タンパク質の塊」である動物の方が価値は高いようにも思えます。また、パンダのように肉食獣が草食に“進化”することはほかにもありそうですが、その逆はけっこう難しそうです。つまり陸上において「肉食→草食」は進化の過程であるでしょうが、「草食→肉食」はないのではないか、というのが私の想像です。
 ということは、「草食性男子」は「進化の頂点」に位置している、ということに?

【ただいま読書中】『高崎山のベンツ』江口絵里 著、 ポプラ社、2014年、1200円(税別)

 大分県高崎山には1300匹以上のニホンザルが生息しています。そのB群でこれまで最年少の9才でボスザルとなったベンツは、C群のメスザルとの恋がきっかけで群れから追われ、C群で最低位の雄として再出発をします。オスの序列はけっこう保守的に定められているのです。“クーデター”をしない限り、上が抜けないと基本的に“出世”はありません。
 群れを移動、ということは“敗残”のイメージがありますが、実は必ずしもそうではありません。メスは群れを移動しませんが、彼女らが気を惹かれるのは、新参のオスや他の群れのオスである傾向が強いのです(おそらく遺伝子をシャッフルするためでしょう)。つまり、長く同じ群れにいて権力階梯を順調に上昇していたら、モテなくなってしまうのです。
 ともかくベンツはC群でも順調に出世します。
 高崎山では、観光と周囲の畑への被害防止のために、餌付けが行われていました。えさ場を占有する時間がいちばん長いのは、最大の群れであるA群。次がC群で、最弱がB群でした。ところが気性の荒いベンツはそれが気に入らず、A群にずっと喧嘩をふっかけ続けます。その闘争は2年間に及び、ついに800匹もいたA群は消滅してしまったのです。“伝説”の誕生です。
 そこまで気が荒く喧嘩っ早いベンツですが、群れの中の序列はずっと尊重し、年老いたボスのゾロにきちんと従っていました。そしてゾロが姿を消したとき、その後を継ぎます。高崎山で二つの群れのボスザルになった、唯一のサルです。しかしベンツも35歳を越え(人なら100歳以上)、ついに最後の日を迎えようとしている、と観察者の目には見えました。しかしそこからベンツは新しい「伝説」を書いていったのです。高崎山から一時離れて街中で捕獲され、山に戻されましたがそこで(これまでの前例に反して)群れに復帰、さらにはボスザルの地位に復帰したのです。
 ニホンザルの群れの中の序列は、なかなか複雑です。特にオスの場合、そのオスの“力の強さ”だけではなくて、他のオスとの仲の良さとか義理堅さとか、メスからの支持とか、人間関係、じゃなかった、サル関係によって微妙な調整が行われます。そのへんが面白いから、研究者は熱心に研究し続けるのでしょうね。