【ただいま読書中】

おかだ 外郎という乱読家です。mixiに書いている読書日記を、こちらにも出しています。

世論調査

2010-06-30 18:42:19 | Weblog
選挙が近づき、マスコミがさかんに世論調査を発表しています。「選挙に行きますか」「どの党に勝って欲しいですか」とかの質問を並べてその回答の%をずらずら並べて「はい、記事が一本できあがり」と言った風情ですが、なんでこんな下らないことをやっているんですかねえ。そもそもそのアンケート、どこまで信頼性があるのでしょう?(たとえば「選挙に行く」と答えた人の%と実際の投票率とがきわめて近い数字だった世論調査はどれくらい?) 信頼性がないのだったら無意味なページふさぎだし、信頼性があるのだったらそれを発表することにどんな意味を付加しているのでしょう。なんだか「自分の意見を言う」かわりに「誰かの意見を代理として発表している」だけの態度に見えるのですが、それは言論の府の人間としてはずいぶん無責任な態度に思えます。

【ただいま読書中】『シンメトリーの地図帳』マーカス・デュ・ソートイ 著、 冨永星 訳、 新潮社、2010年、2500円(税別)

著者の前作『素数の音楽』は数論でしたが、こんどは群論(シンメトリー)です。自然界にはシンメトリーが溢れているが、それには意味があることから話がゆったりと始められます。また、著者が12歳の時にシンメトリーに夢中になり、それで一生が決まったことも。オックスフォードを卒業した著者は数学(群論の研究)で身を立てようとケンブリッジを訪問します。そこで会った数学者のコンウェイは群論の䧺でした。そこで一転、場面転換です。
古代ギリシア時代、完璧にシンメトリーな正多面体は5つしか存在しないことがすでにわかっており、それ以外が存在しないことも証明されていました。中世イスラムでは、床や壁のモザイク模様のシンメトリーが17種類しかないことがわかっていました。ただし、それ以外がないことが証明されたのは19世紀になってからです。で、その17種類を見たければ、たとえばアルハンブラ宮殿に行けばよいそうです。というか、著者は実際に行ってしまいます。「シンメトリーの巡礼者」として。
著者はシンメトリーの研究に(リーマンの)ゼータ関数を使っていました。なんでまた素数の研究に有用なツールがシンメトリーに、と思いますが、たとえば辺の数が素数である正多角形のシンメトリーの群で構成されたシンメトリーの総数にゼータ関数が深く関与しているのだそうです(私は意味がわからずに書いています)。
著者の半生(シンメトリーの追究)とあちこちへの世界旅行(と各地での数学者との出会い)と重ねて、数学の歴史がゆったりと語られます。19世紀の五次方程式に解の公式が存在しない、という証明の過程で、方程式の一つ一つに何らかのシンメトリーな図形が付随しているらしい、とノルウェーの不遇の天才アーベルが気づきます。アーベルは早世しますがその跡を継いだのがガロアでした。これまた“不遇の天才”ですが、ガロアの“遺産”からシンメトリーを動的に眺めその全体を一つの集まり「群」として理解する考え方が育ちました。そこで素数が登場します。正15角形のコインの回転は正三角形と正五角形の回転を組み合わせてつくることができますが(シンメトリー群をさらに小さなシンメトリー群に分けられる)、正17角形の回転はそれ以上分割できません。「素数」ならぬ「素なシンメトリー群」です。
本書はその内容だけではなくて、構成がシンメトリーを意識しているようです。第9章で話は数学の抽象世界からまた現実世界に戻ってきます。こんどは音楽です。音楽のシンメトリーを解き明かす著者の手つきを見ていると、前作『素数の音楽』のルーツを感じます。あるいはウイルスの構造解析をするとそこに浮かび上がるのもシンメトリーです。さらに「ミラー・ニューロン(目の前の動作を真似するニューロン)」。メッセージのエラー訂正。著者はいろんな場所のシンメトリーを紹介してくれます。
そして「数学の旅」で最後に登場する数学者は(最初の章に登場した)コンウェイ。415京7771兆8065億4363万個のシンメトリーがある群を見つけますが、それは出発点にすぎませんでした。後日みつかった「モンスター」と呼ばれる群は、10進法で54桁の数(太陽に含まれる原子の数の1000分の1)のシンメトリーからなるのです。ちなみにモンスターの“姿”をちらりとでも“見る”ためには、最低19万6883次元に飛ぶ必要があるそうです。そんなものを追究して何が楽しいのか、と私は思いますが、数学者たちは、苦しみながら楽しんでいます。きわめて人間的に。さらにそういったシンメトリーと数論のモジュラー関数が結びつくだけではなくて、理論物理学の「ひも理論」までそこに繋がって登場します。この宇宙には魅力的なシンメトリーがあちこちに存在しているのです。人類がそれに気づくかどうかは気にしないままで。


尊敬

2010-06-29 18:52:30 | Weblog
選挙の演説で「10年後に日本が世界から尊敬される国にする」とぶっている人がいました。なんだか日本に対して失礼なことを言うなあ(今は軽蔑されている、と言うのか?)、と反射的に思いましたが、まあたしかに「世界から尊敬されているか?」と言えば肯定的な返事は返せません。
ただ、世界でどんな国が「世界から尊敬されて」いましたっけ? 超大国ですぐ思うのはUSAですが、ここは軍事力の点では“尊敬”されているかもしれませんが「軍事力での解決を好まない」人たちには尊敬されてはいないでしょう。
しかしあの立候補者さん、一体どんな点で日本を伸ばし世界のどんな人たちに“尊敬”されることを夢見ているのでしょう。ただ、子どもが「将来人に尊敬される人になりたい」と公言するのは無邪気でよろしいものですが、大人が同じことを公言するのはちょっとどうかと思います。「何か世界に貢献できることをやりたい。その結果尊敬されるのならそれはそれでけっこうなこと」ならよいのですが、最初から「尊敬されたい」が目的だと、大事な行動の選択を間違えそうな危うさを感じます。ちょっと(相当)意地悪な見方かもしれませんが。でも、「自分の行動の目的は他人に嫌われること」を単にひっくり返しただけの言動は、やっぱり危うくありません?

【ただいま読書中】『宇宙でトイレにはいる法』ウィリアム・R・ボーグ 著、 楠田枝里子 編訳、 筑摩書房、1987年、1200円

著者は、スカイラブ4号で84日間過ごした経験があります。本書は、宇宙生活のあれこれについての一問一答がまとめられたものですが、質問は多岐にわたっています。「体型の変化」「宇宙での体重のはかり方」「宇宙服を着ていて鼻が痒くなったらどうするか」「どんな娯楽があるのか」「食事のメニューは」……食事はフリーズドライとかカンヅメとかで、時代を感じさせます。運動で汗をかくと汗は体に付着して水たまりとなります。飛び散らかさないように気をつける必要があります(もし飛ばしたら、辺り一面に自分の汗の水滴が付着して、悲劇となります)。もっと悲劇はゲップです。無重力だと気体は液体の“上”に分離してくれません。ですから本人はゲップのつもりでも、実際には嘔吐になってしまいます。これまたあたりに飛び散らかすと、悲劇が。
ただ、微少重力と表面張力を上手く使うと「入浴」もできます。要するに濡らしたスポンジで体を拭うのですが、地上とはまた違った雰囲気になっています。なお、石鹸には鉄片が埋め込んであって浴室の磁石面にくっつくようになっていたそうです。
トイレも大変です。おむつ、おむつのようなズボン、ペニスに尿袋をしばりつける、お尻に便袋をはりつける、おまる……で、採取に失敗すると大便がそのへんをぷかぷかと……
セックスができなくて時につまらなかったけれど、愛さえあれば宇宙でのセックスは可能だろう、と「希望」を持たせる発言もあります。
毛利衛さん、向井千秋さん、土井隆雄さんが宇宙飛行士に選抜されたのは1985年。毛利さんがエンデバーに乗ったのが1992年のことでした。もうそんなに時が流れたのですね。本書の内容は今となっては“古い”もので(スペースシャトルは飛び始めていましたが、著者はアポロ型の宇宙船でスカイラブと地球を往復しています)、今さらこれを読んでわくわくするとか大きな参考になるとかのものではありませんが、ただ、宇宙開発が着実に行なわれ続けていることはわかります。ちょうどこの時期に「人類が宇宙に出る」だけではなくて「人類が宇宙に出て何をするか」が大きなテーマとして見えてきた時代だったことも思い出しました。
そして、これからも人類は宇宙に出続けて欲しいものだ、とも私は願います。たとえ自分は地表に縛られていても、夢は天翔るものであってほしいのです。



施し

2010-06-28 19:13:54 | Weblog
いつ返せるかあてのない人に「いつでも良いから」と喜んで金を貸す人は、もしかしたら「施す喜び」を無意識にでも感じているのかもしれません。

【ただいま読書中】『図書館の死体』ジェフ・アボット 著、 佐藤耕士 訳、 早川書房(ミステリアス・プレス文庫110)、1997年

ちょっと複雑な家庭の事情で生まれ故郷のテキサスの田舎町ミラボーに帰って、そこで図書館長をやっているジョーダン・ポティート(愛称ジョーディ、30歳)は、職場で死体を発見します。殺されたのは、前日ジョーディと図書館に置く本のことで派手に口論をやったベータでした。ジョーディは殺人の容疑者になってしまいます。取り調べに当たる警察署長は決してしっくり行っているとは言えない仲の幼なじみ。地方検事補は頭が帽子の台以外に機能しない極めつけの阿呆。ジョーディは自分の潔白を証明するために独自の調査を開始します。
テキサスの田舎町を、田舎育ちだがボストンの雰囲気をたっぷり身につけてしまった独身の図書館長が素人探偵としてうろうろしますが、当然のように、調査ははかどりません。素人探偵だから仕方ありません。しかし、その過程で少しずつ掘り起こされてくるのは、眠っているような田舎町のそのまどろみの底に沈殿した腐臭です。過去の壊されてしまった人間関係や封じ込められたスキャンダルのにおいが、かすかにかすかに立ち上ってきます。
ベータは妙な人物リストを残していました。そこに並べられた町の住人の列は、一見でたらめに選ばれたかのようで選考基準が全然わからない上に、それぞれに聖書からの引用がつけられているのです。ジョーディはその引用の文章から、ベータが強請をやっていたのではないか、と想像します。しかし、それが本当だとしたら誰をどんなネタで強請っていたのでしょうか。
そして、こんどはベータの家で第二の殺人(未遂)が。それをきっかけとして、一つのスキャンダルが浮上してきます。しかしそれに続いてジョーディが発見したのは、自分の人生が「一つの大きな醜い、嘘だった」ことでした。ジョーディにはショックな出来事ですが、こちらもショックを受けてしまいます。いつのまにかこの明るくて前向きでユーモアを忘れない繊細な男に感情移入していたものですから(ただし、美女たちにモテモテなのにそのことに無自覚な点にはちょっといらっときますが)。ドンデンがあり活劇もあり、この話は一体どうなるんだろう、とはらはらしながら読んでいたら、彼の最後の一言が泣かせます。表面上はありがちな人情話ですが、それまでのジョーディの心の軌跡が丹念に描かれているのが最後に効いてくるのです。
本書はミステリーに分類される作品です。しかし、本書の主軸(の一つ)は「人間関係の修復」でしょう。壊れてしまった友情、壊れてしまった愛情、壊れてしまった家族のきずな、それらをなんとか修復しようと、おずおずと模索する人たちの動きが、細やかに描写されます。声高な議論が大好きで相手をいかに傷つけるかに熱中しているかのような人びとが、実は非常に傷つきやすい存在だったと描かれているところも興味深いものでした。ただ単に「殺人犯は誰だ」だけでも十分楽しめますが(犯人は……ああ、ネタバレしたい!)、田舎町のけだるい雰囲気やそういった人間関係の描写を読み取る楽しみも大きな本です。シリーズ化されているそうですが、他の本も探して読んでみる気になりました。



繰り返し

2010-06-27 17:27:56 | Weblog
先日の「マンマ・ミーア」でアバの曲を続けて聞いていて、あらためて歌詞に繰り返しが多いことを感じました。「I do,I do,I do,I do,I do」「tiger,tiger,tiger」「money money money」など3回以上繰り返すことで、音の響きを頭にたたき込んでくれます。
こういったテクニックで私が思い出すのはシェークスピアの……『リア王』だったかな……「never,never,never,never」というせりふです。シェークスピアはシニフィエとかシニフィアンとかは知らなかったでしょうが、「ことばが持つのは意味だけではない」ことは承知していて、熟練の言葉職人として縦横無尽に言葉を操っていたように私には思えます。

【ただいま読書中】『ロミオとジュリエット』シェイクスピア 著、 大山敏子 訳、 旺文社文庫、1968年、220円

あまりに有名なお話ですからストーリーは改めて紹介するまでもないでしょうが、でもこの脚本をちゃんと読んでいる人はどのくらいいるのでしょうね。読んでいる人でも、本書が猥談のやり取り(「女の大事なところ」とか「おれがピンと立っている」とか)で始まったこととか、ロミオが初登場の時にすでに「恋に恋するロミオ」(相手は、キャピュレット家の美貌が世評に高いローザライン)だったこととか、覚えていますか?(恥ずかしながら私は忘れていました)
本書の元ネタはアーサー・ブルックの物語詩「ロミウスとジュリエットの悲しい物語」。ここではジュリエットは16歳なのだそうですが、シェークスピアは13歳に設定しています。おう、これは大変だ。東京都ではこの本は出版禁止になるのではないだろうか。(ちなみに、ブルックでは9ヶ月の物語でしたが、シェークスピアはなんと5日間。非凡な着想だと感じます)
で、ジュリエットの乳母が剽軽者です。出だしのセリフがジュリエットを捜しながら「あれまあ、私の処女(おとめ)心にかけて──と申しましても十二歳のときのでございますが──ちゃんといらっしゃるように申し上げましたのに。もし、子羊さん! もし、テントウ虫さん! まあ、とんでもないこと! お嬢様はどこへいらしたんだろう。ジュリエット様!」ですからねえ。ここは劇場が笑いに包まれるところだったんじゃないでしょうか。喜劇と活劇で始まって、悲劇となり、最後に未来への希望を……いや、これはすごい作品だわ。
キャピュレットの当主の描き方も面白い。明らかに彼は若者同士の対立を好んではいません。当主としての立場だけではなくて、都市国家内部の政治と外部との外交についても考慮した上で自分の態度を決めているフシがあります。
そうそう、内容とは関係ない話ですが、私が読んだ旺文社文庫特装版は、ハードカバーの文庫本ですが、40年以上前の本なのに中の紙が全然焼けていません。中性紙なのかと思ったら和紙の手触りです。ずいぶん凝った作りです。今こんな文庫本を出すという“贅沢”は、とてもできないでしょうねえ。時代は、あるいは日本の文化は、数十年前に比べて貧しくなったのかもしれません。



○実

2010-06-26 17:55:05 | Weblog
「史実とか真実は一つ」と言わんばかりの人が時におられます。しかし、社会に「○実」が一つだけなら、そもそも民事訴訟など発生しないでしょうし歴史の解釈で論争が起きることもないでしょう。
社会や歴史は“関係者”が多すぎるから事態が複雑になるのかもしれません。科学だったら「真実は一つ」と言え……ないんですよねえ。たとえば古典的なニュートン力学の世界を見ても「三体問題」という難問があります。量子論だと「位置」と「運動」が両立しないし、光が粒子か波動かもややこしい。さらに光の干渉実験では、スリットを通過する光子を一つに限定してもそこに干渉縞が現われる(一つの光子が二つのスリットを同時に通過した、ということ)。「観測問題」も忘れてはいけません。
ああ、世界はややこしい。だから世界は面白い。

【ただいま読書中】『世界でもっとも美しい10の科学実験』ロバート・P・クリース 著、 青木薫 訳、 日経BP社、2006年(07年5刷)、2000円(税別)

そもそも「美」について語るだけで難儀な作業ですが、それが「科学実験の美」について語ろうというのですから、ある意味“無謀”な本ではあります。あいにく私はそういった試みが大好きな人種なので、喜んで読むことにしました。
「(燃える)ロウソクは美しい」とファラデーは述べました。「燃える炎の熱でロウが溶け上昇気流が生じる。その気流でロウソクの外側が冷やされロウソクの上部にカップ状のくぼみができる。そこを溶けたロウが満たし重力や表面張力で表面を保つ。ロウは毛細管現象で吸い上げられ、炎の中心で化学反応を起す」これらすべてがコンパクトにまとめられた姿が“美しい”のだそうです。
本書ではこのファラデーやハーディのことばから「美しい実験」として「自然について深い事柄を明らかにする」「実験を構成する個々の要素は効率的に組み合わされている」「実験だけで結果がはっきりと示される」の三要素を抽出します。
本書に並べられるのは、以下の十の実験です。「エラトステネスによる地球の外周の測定」「斜塔の伝説」「ガリレオと斜面」「ニュートンのプリズムを使った太陽光の分解」「キャヴェンディッシュによる地球の重さの測定」「ヤングの光の干渉」「フーコーの振り子」「ミリカンの油滴実験」「ラザフォードの原子核の発見」「一個の電子の量子干渉」……大体、目次を見ただけで「ああ、これなら」と思い当たるものばかりです。ただ、著者がラストに「個人的にもっとも美しい科学実験」として挙げた「ミュー粒子のg−2実験」は、私にはちょいと専門的すぎましたけれど。
古代ギリシアの時代から「この世界は球形である」ことは知られていました。エラトステネスの1世紀前の『天について』(アリストテレス)にもその根拠として「月蝕で地球が月に投げかける影は湾曲している」「北と南で見える星座が違う」「北でいつも見える星が南では昇ったり沈んだりする」ことが上げられていますし、他の人はさらに「国ごとに日の出と日の入りの時刻が違う」「遠ざかる船は先に船体が、それから帆が見えなくなる」ことも地球が丸いことの根拠としていました。どれも「地球が平面」だったらあり得ない現象です。
では地球の大きさは? ここで必要なのは、技術論の前に概念論です。エラトステネスは「太陽は非常に遠い」「地球はそれほど大きくない」ことを前提としました。何を言いたいのかと言えば「太陽光線は平行光線として扱える」です(実際には太陽は視角0.5度ですから点光源としては扱えないのですが、それは“誤差”の範囲内です)。さて、当時から(今で言うところの北回帰線上にほぼ位置する)シエネでは、夏至の日には日時計の針(グノモン)の影は正午には消え、井戸の中は光に満たされることが知られていました。そこで、シエネからの距離がわかっていてシエネからほぼ真南にあるアレクサンドリアで夏至の正午にグノモンの影がどのくらいの長さになるかを測定したら、あとは幾何学の問題です。地球の中心から見たシエネとアレクサンドリアの角度とアレクサンドリアでグノモンと影が作る角度は同じですから、単純な計算で地球の周長が出てくるのです。その結果は4万キロメートルに数パーセントの誤差でした。
著者は述べます。「息を飲むばかりにシンプルでエレガントなこの実験」「この実験の美しさは、小さな影の長さを測定することにより、宇宙スケールのサイズが分かるという、まさにその点にあるのだ」と。
科学には論理が必要です。しかし科学も人の営為である以上、「科学の喜び」も必要でしょう。そしてその喜びとは「知的な喜び」「感情的な喜び」だけではなくて「美的な喜び」もあって良い、いや、あるべきだ、と私は感じています。
著者は「もしも実験が美しいと言えるなら、それは実験にとって何を意味するのだろうか? もしも実験に美があるなら、それは美にとって何を意味するのだろうか?」と言っています。本書はその問いに答えようとして、「美しい科学実験」について解説するだけではなくて、一風変わった「美を追究する本」にもなっています。
科学が好きな人にも嫌いな人にも、本書は薦めたいと私は思います。



賭博

2010-06-25 18:10:07 | Weblog
相撲界の野球賭博が問題になっていますが、その逆、プロ野球界では相撲賭博はやってないんですかねえ。でも、それよりも気になるのは、相撲界で相撲賭博もやってたりしないのか、ということです。暴力団が「国技は聖域にしよう」なんて言うとは思えないものですから。

【ただいま読書中】『とろける鉄工所(3)』野村宗弘 作、講談社(イブニングKC)、2009年、580円(税別)

ちょっと中だるみ傾向というのか、加速が終わって定速運転というか、あるいはこちらが「のろ鉄工の世界」に慣れてしまったのか、のどかなペースでするするとページがめくれていきます。
今回よく出てくるのは「若かった頃」。小島さんの15歳の頃とか、社長の奥さんの若かりし頃とか、北さん夫婦の結婚前の姿とか。みんなそれぞれの人生を歩んできたんだね、と言いたくなる姿が次々と登場します。北さんの奥さんはほとんど変わっていませんが。
第4巻への布石というか伏線の仕込みなのかな、それとももしかしてネタ出しが苦しくなってきたのかな、なんて心配をしながら読んでしまいました。まあ第4巻もおとなしく読む気ではいますが。私は作者を応援したいのです。こんなへんてこりんな漫画(「へんてこりん」はほめことばとして使っています)、なるべく長く続いて欲しいものですから。



高給

2010-06-24 19:37:10 | Weblog
カルロス・ゴーン社長の年俸がニュースで大々的に取り上げられていますが、では私がもしも日産の社長だったらいくら欲しいか、と考えていて、それ以前に会社が私にいくら払いたいか、に気がついて考えるのをやめました。だって「給料以上の働き」はどう考えてもできそうにありませんもの。
それと、もしも億以上なんて年俸をもらうようになったら(しかも世間にそれを公表されたら)、窃盗・強盗・誘拐対策を真剣に考えなければならないでしょう。家には厳重なセキュリティ、家族が出かけるときには各自にガードマンが必要かな? なんだか、生活が贅沢だけれど窮屈になりそうな予感がします。
しかし、今回の「億以上は公表」の目的は何なんでしょう? 暗黒街の人たちに「でかいターゲットがここにあるよ」と知らせるためかな。それともセキュリティ産業の振興策?

【ただいま読書中】『仮面の大富豪(下) サリー・ロックハートの冒険2』フィリップ・プルマン 著、 山田順子 訳、 東京創元社、2008年、1800円(税別)

先日読んだばかりの『機関銃の社会史』にちょこっと登場する「蒸気力を使った連発銃」が突然登場して、私を驚かせます。(史実では1854年にヘンリー・ベッセマー卿が特許を取っていますが) さらにあの本にもあった「平和をもたらす大量殺戮兵器」という概念まで本書に登場するのですが……
「自分が自立した人間であること」に執着するサリーは、そのために無用の危険を招きます。たとえ自立した人間でも他人の援助や協力を必要とする場合もあるのになあ、と私はため息をつきます。
しかし、データが揃えば形勢は逆転する……場合もあります。そのデータをどう使うか、によりますが。やっと悪漢(本人は「善意」を強調していますが、どうしても「善」を使いたければせいぜい「独善」。そして行為は明らかに「悪」そのものです)ベルマンは官憲にまで影響力を持っています。何かをしかけるにしてもベストのタイミングを見つける必要があります。
しかし、筋金入りの悪意は強力です。タイミングをはかる必要などありません。攻撃によってついに犠牲者が……
サリーは涙とともに北に向かって旅立ちます。敵の本拠に、単独で乗り込むために。
そして最後のドンデン、かと思ったら、もう一回のドンデン。
やめてくれ、と私は呟きます。こんなラストって、あり?



木酢

2010-06-23 18:01:43 | Weblog
お隣が庭に木酢液を撒いていました。匂いですぐにわかります。本当に庭の手入れがきちんとできていて、丹精をされているんだなあと思いながら私はわが家の庭の惨状からは目を逸らします。
で子どもに「これが木酢(もくす)の匂いだ」と教えると「それは木酢(もくさく)」と訂正されてしまいました。あとで国語辞書を調べると、両方言うようですが、「木を焼いたら取れる酢酸」だからたしかに「もくさく」の方が第一候補のようには感じます。ところでこれを「きず」と読むと、食い物になります。日本語って、面白い。

【ただいま読書中】『仮面の大富豪(上) サリー・ロックハートの冒険2』フィリップ・プルマン 著、 山田順子 訳、 東京創元社、2008年、1800円(税別)

1878年、「マハラジャのルビー」事件から6年が経ち、サリーは才能を生かして財政コンサルタントとして活躍しています。えっと、ヴィクトリア朝時代ですよね。ヨーロッパでは女性の権利拡張(フェミニズム)が盛んになった時期ですが、さすがにまだ「自立した女性」には早かったのではないかな。
サリーが顧客に投資を勧めた海運会社が、奇妙な“悪運”に続けて見舞われて突然倒産します。何か裏があるのではないか? サリーは調査を始めます。顧客に金を失わせることは、自分の評判(つまりは自分の生活)にかかわるのですから。
写真家のフレデリックは私立探偵の仕事も始めています。前作で大活躍だった少年ジムは、ミュージックホールの裏方や小説書きをやりながらその私立探偵を手伝ったりもしています。皆それぞれの人生を模索中のようです。二人は奇妙な脅迫事件(事件未満?)の話を聞き、その流れで降霊会に参加することになります。
サリーの調査と、フレデリックたちの調査、その両方に登場する「ベルマン」という名前が手がかりとなります。社会の裏でのし上がってきた大立て者ですが、本人にもその周囲にも暴力のきな臭さが充満しているのです。そして自分のまわりをかぎ回る人間に苛立ちを感じた者によって、サリーに殺し屋が向けられます。



世襲

2010-06-22 18:50:59 | Weblog
もうすぐ選挙ですね。また世襲候補がたんと立候補するのでしょう。ところで議員の「世襲」とは、才能や財産の受け継ぎのことではなくて「コネ」の受け継ぎでしょう。すると、その「コネのネットワーク」の中心に誰が座っているかではなくて、「コネのネットワーク」そのものの方が世襲の本質と言うことになりそうです。封建制度の場合には家臣団の引き継ぎでしたが、選挙制度で選ばれる場合には、選挙前はもちろん選挙後も、世の中に広がったコネが重要でしょうから。

【ただいま読書中】『「最長片道切符の旅」取材ノート』宮脇俊三 著、 新潮社、2008年、1500円(税別)

タイトル通り、『最長片道切符の旅』で著者が綿密にとっていた取材ノートそのものの出版です。これだけ読んでも面白いものではありませんが、『最長片道切符の旅』と並べて読んだら面白さは倍になるでしょう。
名前が伏せられていた旅館などもすべて実名が書いてあります。けっこうホンネの評価がしてありますが、30年経ったら“時効”ということでしょう。
「植物の知識がほしい。しかし、名称だけ知ってみても意味はない。(人間にしても同じだし)」なんてことも書いてあります。そうそう、『最長片道切符の旅』では紅葉の描写がすぐに消えてしまったことを感想で書きましたが、本書では、最初は楽しみにしていたのにちょっと出遅れてしまって盛りを過ぎた紅葉を見ることになってその描写をあきらめたフシがうかがえます。この「わざわざ出かけていった先で、盛りを過ぎた紅葉を見るちょっとした悲しさ」には、私も共鳴します。似た経験は持っていますから。
出会った人との会話も盛りだくさんです。ただ、方言をそのまま再現はしてありません。まあ、聞き書きのノートではありませんからね。
早朝から夕方まで乗り続けるから、当然通勤・通学ラッシュとも出会い続けます。そこで目立つのは高校生の集団。もちろん社会人も多く乗っていますが、同じ服を着た集団はやはり目立つのでしょう(これまたローカル線によく乗っていた頃、私も経験しています)。女子高校生と男子高校生との行動パターンの違い、ローカル色などを著者はまめに記述していますが、もし現代にまた著者が同じ旅をしたら何を書くでしょう。スカートが短くなったこと、携帯電話、ポータブル音楽プレイヤーの使用などに注目するかな?
著者は沿線の瓦についても強く注目をしています。各地域で見られる屋根の傾向がまるっきり違うことに興味が引かれているようです。途中下車した津和野でも屋根瓦に関する記述があります(本編ではそのへんは大きく省略されていますが)。
いやあ、こうやって「プロのもの書きとして鉄道に乗る」のは、大変な作業です。本一冊分の取材ノートを書いて、その上でそれを「作品」に昇華しなければならないのですから。私にはとてもできません。と言っても、もし私が同じ旅をしたら、やはり自分なりの備忘録は作ってしまうでしょうね。おそらく紙のノートではなくてパソコンの系統に、でしょうが。



マンマ・ミーア

2010-06-21 18:53:53 | Weblog
アバの曲ばかりで構成されたミュージカル「マンマ・ミーア」は、見ているととにかくほっこりと幸せになるものですが、あそこで示される“時代の価値観”は私の年代からは非常に興味深いものです。だって「過去の全否定」だった全共闘世代の価値観とその子どもたちの「保守への回帰」の対立も見えるものですから。それが1970年代後半に一世を風靡したアバの曲で語られるとは、一見お手軽などたばたミュージカルなのですが、実は手が込んでいます。
ふっと思いつきました。もうちょっとシリアスな内容のミュージカルを、こんどはクイーンの曲だけで構成できないでしょうか。日本だと、日本語直訳の「女王様」の“先例”もありますから、これはこれで面白い作品になりそうです。誰かやってくれないかなあ。

【ただいま読書中】『最長片道切符の旅』宮脇俊三 著、 新潮社、2008年、1600円(税別)

1979年版の復刻版です。
一読「懐かしい~」の連発ですが、30年前に読んだときには知的な興奮が主だったのが、現在はむしろ時間との戦いや体力面に注目してしまいました。自分自身の境遇(時間がない、体力は落ちている)が読書感想にもろに反映していることが興味深く思えます。
それまでは金曜の夜から月曜の朝までの日程でいそがしく日本中の国鉄に乗っていた著者は、会社を辞めて時間がいくらでも使える状況に呆然とします。何をしたら良いんだ、と。選んだのは「一筆書き切符」。最長距離になるように連絡船と新幹線を含む国鉄を片道切符で乗ろう、という一部鉄道ファンの間では人気の試みです。さすがに国鉄バスは除くそうですが。
計画の段階から大変です。日本地図に国鉄線と距離を書き込み「一筆書き(同じ駅は通らない)が可能か」「どのルートが最長か」を検討しなければならないのですから。しかも新線が開通したら(あるいはどこかの線が廃止されたら)その計算は最初からやり直しです。最終案は、北海道の広尾から九州の枕崎まで13,319.4キロ(国鉄全線の営業キロの63%)となりました。なおこの経路は最短なら2,764.2キロだそうです。
さて、次は切符の購入。著者はレポート用紙三枚に、経由線区・乗換駅・運賃計算用の区間キロ数をぎっしり書いて窓口に持ち込みます。発行されたのは、乗換駅がぎっしりと手書きされた、有効期限68日間(最終期限は12月19日)、お値段は65,000円のとんでもない乗車券でした。
北海道の広尾を振り出しに北海道をぐるりと回り青函連絡船で青森に渡って東北をジグザグに南下して東京へ。そこで「いつでも乗れる」というダイヤにちょっとだらけてしまいますが、また気を取り直して著者は西に向かいます。しかし豊橋まで行ったところでまた北上。会津若松まで戻るというとんでもないルートなのです。そうそう、会津若松を出発して少し行ったところがこの「最長片道」の中間地点なのですが、カレンダーはすでに11月26日。実はもうあまり余裕はありません(途中で仕事が入って旅が中断されたり風で1週間寝込んだり、が効いています)。
12月18日(最終日の前日)、日向駅の看板は「21世紀の鉄道、浮上式実験線、当駅より16キロ、タクシー20分」。そう言えばリニアの実験をこのころからやっていたんですね。そして19日(最終日)、著者は寝坊をしてしまいます。

著者は「自分は一体何をやっているのだ」と自問しながらも、車窓の風景を愛で、地名や駅名からその土地の歴史に思いをはせ、その地の名物を食べようとするという「鉄」として“豊かな旅”を送っています。弱点は、植物の名前に弱いこと(私と同じ)と物忘れが多いこと(これまた私と同じ)。
旅に出る前は「日本を北から南に旅するのだから、ずっと紅葉がきれいだろう」などと著者はのんびり構えていたのですが、実際に出発すると、葉っぱの色に注目していたのは初めの数日だけです。そのかわり「におい」には敏感なタイプのようで、各地に特有のにおいを車内に嗅ぎつけ続けています。「日本匂いの旅」なんて企画は……売れそうにありませんね。
そういえば本書には「特急の食堂車」と「しばらく駅弁を売っている駅はない」は何回も登場しますが、朝早く旅館を発ったので朝食抜きだから駅前でちょっとコンビニに寄って弁当を仕入れる、というシーンが登場しません。著者が旅をした頃は、県庁所在地には少数のコンビニがあったけれど、地方都市ではまだその姿は見えない、という時代だったからでしょう。今著者と同様の一人旅をしたら、駅弁の登場は激減してその代わりをコンビニ弁当が占めるかもしれません。
……影響されやすい私は、ちょっとこういった旅行をしてみたくなりました。それも一気に最初から最後まで中断抜きで。ただ、路線が変わっているので最長ルートの開拓からやらなきゃいけませんね。面倒だし、体力面での不安が大だなあ。でも“老後の楽しみ”にすると、ますます体力が落ちてしまうなあ。