【ただいま読書中】

おかだ 外郎という乱読家です。mixiに書いている読書日記を、こちらにも出しています。

2009-10-31 17:27:08 | Weblog
 日本人の平均的なグルメ度では、魚は養殖よりも天然物が好まれます。ところが畜肉では「柔らかさ」「脂肪の味」が好まれ、それは明らかに野生のもの(たとえば、おフランスのジビエ)よりは養殖、じゃなくて、家畜の肉を好む、ということです。
 ただ、最近は魚の方にも脂の味を望む動きがどんどん出てきて(回転ずしでも「○○トロ」が増えていません?)、もしかしたらその内に魚も「やっぱり養殖の方が美味しい」が“常識”となるのかもしれません。

【ただいま読書中】
『クラゲの光に魅せられて ──ノーベル化学賞の原点』下村脩 著、 朝日新聞出版、2009年、1000円(税別)
http://www.amazon.co.jp/gp/product/4022599553?ie=UTF8&tag=m0kada-22&link_code=as3&camp=767&creative=3999&creativeASIN=4022599553
 厳密には下村さんは本書の「著者」ではありません。講演に加筆したものや対談やパネルディスカッション(に加筆されたもの)によって本書は構成されていますので。ただ、下村さんの研究の概略だけではなくてその人となりについて本人の“肉声”で知ることができる点では良い本です。
 終戦直後、名古屋大学の研究生としてたまたまウミホタルの研究を下村さんは始めます。与えられたテーマは「ウミホタルの発光物質(ルシフェリン)の結晶化」。ところがそれはまだ世界で誰も成功したことが無く、下村さんも10ヶ月間失敗を続けます。しかし、ある日溶液を別のことに使おうと濃塩酸を加え、普通ならそこで加熱するのにたまたまオーブンが用意されていなかったので冬の実験室に一夜放置しておくと翌朝色が変わっているのを下村さんは見つけました。捨てようとしてよく見ると底に小さな沈殿が。念のために顕微鏡で見るとそれがルシフェリンの結晶でした。
 考えつくありとあらゆることをやってみて、失敗だと思っても細かい変化を見逃さないこと、科学における「成功の法則」がここでも生きています。結局その結晶をほかの人が分析して構造式を決定するのですが、それが後の下村さんの研究にも大きな意味を持つようになります。
 ルシフェリンの業績により、プリンストン大学からの誘いで下村さんはフルブライト奨学生として渡米します。与えられたテーマはオワンクラゲ。指導教授はオワンクラゲが発光するのはルシフェリンによると信じていましたが、下村さんはその意見に賛成できませんでした。結局1万匹のオワンクラゲから数mgの発光タンパクを精製し「イクオリン」と名付けます。イクオリンに微量のカルシウムイオンを加えると青く発光しました。ところがその過程で、緑色の蛍光を発する物質も微量発見し、下村さんは“ついでに”精製します(後にGFPと名付けられました)。イクオリンはカルシウムイオンの検出に有用でした。さらにその構造にはルシフェリンと共通の部分がありそれが発光の中核であることがわかりました。GFPは他の多くの蛍光蛋白質(別々の蛋白質と発光団が組み合わさっている)とは異なって、自分自身の蛋白質構造の中に発光団を持っていました。つまり遺伝操作によってまるごとクローニングが可能です。その研究の結果、細胞内に蛍光タンパクを入れて細胞内小器官を観察したりガン細胞だけを光らせたり、ができるようになったそうです。

 ちなみに1990年頃から、下村さんたちが採集していたときには海いっぱいにいたオワンクラゲは姿を消したそうです。ただ、発光する生物はほかにもたくさんいるそうです。トビイカ、ウミエラ、発光ミミズ、発光ゴカイ、ツキヨタケ、アミヒカリタケ、発光カタツムリ、発光ヤスデ……研究対象はたくさんあります。そしてその応用も。ただ、ノーベル賞が下村さんに与えられたのは「基礎研究を高く評価するぞ」というノーベル賞選考委員会からのメッセージでしょう。


寓話

2009-10-30 17:55:13 | Weblog
 「美女と野獣」はおとぎ話などでもよくあるパターンですが、その逆「イケメンと雌の野獣」ははたして面白いあるいはなんらかの寓意を含んだ話として成立するでしょうか?

【ただいま読書中】
時の彼方の王冠』(デイルマーク王国史4) ダイアナ・ウィン・ジョーンズ 著、 田村美佐子 訳、 東京創元社(創元推理文庫)、2004年、円(税別)

 まずは復習。第1巻と第2巻は中世を思わせる時代が舞台でした。第3巻は古代の神話の世界。
 本書はまた2巻から1年後が舞台です。ミットは北部に亡命し、そこで女伯爵の親衛隊に入っています。そこで突然与えられたのは、殺人指令。「唯一の者」の娘であることを根拠に王権を主張するノレスを暗殺せよ、と言うのです。
 話は変わって、現代。父母が離婚して7年ぶりに父親に会いに来た少女メイウェンは、突然過去に送り込まれてしまいます。突然行方不明になってしまったノレスとそっくりであることから、その身代わりとして。戸惑いながらノリスがしようとしていた王権を求める旅を続けようとする彼女のところに、彼女を暗殺するためにミットがやって来ます。第1巻の詩人モリルも旅の一行に合流します。懐かしの面々に会えて嬉しいと思っていたら、ミットとモリルが同じ少女に恋をしてさや当てをしてそこに魔法が絡んでとんでもないことに、なんて“サービスシーン”も登場します。
 さらに第3巻が意外な形で関係してきます。それもストーリー展開に深く関与する形で。
 相変わらず、DWJは人々の性格描写が達者です。書き分けが上手いだけではなくて、それぞれの変化(成長)もしっかり書き込まれます。私は法律学校に進学したヒルダの変貌ぶりには参ってしまいました(DWJで初めて読んだ『わたしが幽霊だったとき』で、「ヤな少女」を書かせたら天下一品で容赦ないな、と思ったのを思い出しました(この感想を書いたのは、今年3月19日に書いた『バビロンまでは何マイル(上)』への読書感想))が、本当にこの迫真の描写力には「もう勘弁してください」と言いたくなります。
 おっと、少年の描写も精細です。それぞれ心に“重荷”を背負っているミットとモリルが、それを背負っているときとそれを一時的にでも下ろしたときと、そのときの行動を描き分けることで重荷の重さを読者に知らせてくれます。
 さらに「描かないこと」によっても著者は世界を描写します。重層的に一つの世界の一部をいくつか描くと当然その“隙間”が生じます。ところが、描かれた部分があまりにリアルなものですから、読者は描かれたものと描かれたものの間の描かれていない部分も同じようにリアルに存在していることが感覚的にわかるのです。まるでジグソーパズルでいくつか欠落した部分にどんなピースが来るかわかるように。

 本シリーズは、王国がいかに成立したかの王国史であると同時に、いくつものラブストーリーと家族愛の物語でもあります。一言で「ラブストーリー」「家族愛」と言っても、本シリーズでは本当に様々な形が描写されます。DWJの“ポケット”には「多くの人によって構成されたひとつ丸ごとの世界」が入っているようです。
 しかし、215歳と13歳の間にどんなラブストーリーが成立すると思います? 少なくともDWJは成立させちゃいました。それもとびっきり素敵で切ない恋物語を。

 私が利用しやすい3つの図書館にあるDWJの著作は、この一冊でほとんど読み尽くしたはずです。これから私は一体何を読んで生きていけば良いんだろう、と軽い絶望感に浸ってしまいます。
 そうだ、この4部作をもう一回読めば良いんだ。この面白さは何回でも読み直すに価しますから。というか、あまりに著者の仕掛けが複雑で一回では読み尽くせていないことは確実ですし。いっそ買ってしまおうかな。それだけの価値はある本(たち)です。
 なお、これから読もうと思う人にアドバイス。一挙に4冊読んだ方がよいです。できたら休みを取って邪魔が入らない環境を確保して。


油断

2009-10-29 18:40:37 | Weblog
 バイクのオイル切れの警告ランプが2日前からちらちらつくようになりその朝ついにしっかり点いて消えなくなりました。同時にガソリンも底をつきました。通勤路で職場の手前、道路の左側に普段使うセルフのガソリンスタンドがあり、右側には自動車用品店があります。車の流れに従い、まずは出勤時にガソリン補給をすると、残っていたガソリンは計算上わずか0.1リットルでした。あぶないあぶない。で、帰宅途中に自動車用品店に寄って2サイクル用のエンジンオイルを買います。「レジ袋はお入り用ですか?」の質問に「いりません」と明るく答え、店の前でオイルを補給したらとって返して「すみませんが、この空き缶を処分してください」と頼みました。普段はいったん帰宅してからオイル補給をするのですが、こちらももう底をつきそうだったので、その場でオイル補給をしたのです。ただ、必要なのは中身のオイルであって、入れ物は要らないのですから、ある意味合理的な行動とは言えます。
 で、店を出てしばらくしてからちょっと気になりました。あの空き缶、持って帰って自宅で捨てたら、それは家庭ゴミです。だけどあの店で処分するとそれは産業廃棄物扱いになるはず。つまり店の負担が生じることになるわけです。あらら、500円ちょっとの商品では、ちと拙かったかな。
 ガソリンスタンドでのガソリンのように、ホースで量り売りをしてくれたら、入れ物の無駄はなくなるから、私はこういうことで悩まずにすむことになりますが、小さなバイクで1リットルとか2リットルずつでは、商売にはならないでしょうねえ。

【ただいま読書中】
呪文の織り手』(デイルマーク王国史3) ダイアナ・ウィン・ジョーンズ 著、 田村美佐子 訳、 東京創元社(創元推理文庫)、2004年、円(税別)

 本書は二部構成です。普通だったら「第一部/第二部」とか「第1章/第2章」と目次はなるはずですが、本書は「第一のローブ/第二のローブ」。実はこの物語は、語り手のタナクィという少女がローブに織り込んだものなのです。ローブに織り込まれた模様がすべて「ことば」になっていて、それを一目一目一行ずつ読んでいくと長い物語になっている、という趣向です。
 タナクィたち5人兄弟姉妹は村ではよそ者でした。母親はいません。父親は戦争に狩り出されて死亡。一緒に徴兵された長男は魂を抜かれたようになって帰宅します。戦争の相手は海の向こうから国を侵略してきたヒーザン。鉄器を使い、女子どもも同行していることから「新しい土地」に定着する気のようです。土着の民は黒髪ですが、ヒーザンは金髪碧眼ですぐ区別できます。そして、タナクィたちは金髪碧眼でした。村人たちに追われタナクィたちは「川」をボートで下ります。殺されかけたり途中で魔術師に会ったり、不思議な旅をした五人(途中から四人?)はついに河口の島にたどり着きます。そこはヒーザンの王の居留地でした。
 実はヒーザンも苦戦をしていました。海は理解していますが川についてはまるっきり無知、同族の魔術師との仲もしっくりいっておらず、人的損害は多く食料は乏しくなっていたのです。ヒーザンの王のもとから脱出できたタナクィたちはこんどはヒーザンの魔術師の手に落ちます。そこからも命辛々脱出すると、こんどは「わが民」の王の軍勢に……もう次から次へと苦難の連続です。「川」もまた源へと遡らなければなりません。さらにタナクィには「ローブを織る」作業が待っています。これは絶対に必要なのです。それはなぜかというと……
 川の源流を尋ねる冒険物語と言って思い出すのは最近読んだ(まだシリーズの最終巻が残っている)「崖の国物語』(ポール・スチュワート)を思い出します。ただし崖の国は世界そのものが魔法的存在で魔法使いなどは登場しませんでしたが、本書にはもろに魔術師が登場します。それも団体様で。もちろんDWJですから「素直」な魔法使いではありませんが。
 やがて、たくさんの犠牲の上に、かつての敵同士は手を結びます。もっと強大な、人類そのものの敵と戦うために。そして戦いの有様をタナクィはことばとして織り込み続けます。それは彼女の戦いでもあるのです。
 この「織り込まれた物語」という設定は秀逸です。文字で書かれた物語とは違い、一直線には進めません。さらに織り間違えてほどいたりまた織り直したり、さらに表と裏で別の模様が出現したり……編み物や織物をやった人にはこのへんの“手触り”が具体的にわかるかもしれません。まあ、わからなくてもこの「物語」自体の面白さが減じるわけではないのですが。ただ、本書のタイトルは……原題の「THE SPELLCOATS」に多重的に含まれた意味を日本語訳するのは困難ではありますが、ちょっとネタバレ気味ではないかしら。
 このシリーズ、初めの二冊は中世が舞台でしたが、ここでは古代になってしまいました。さて、第四巻ではどんなことになるのやら。読むのが楽しみですが、シリーズが終わってしまうのは悲しいからちょっと先に延ばしたいような……


危地

2009-10-28 17:26:08 | Weblog
 日本のお茶の間で人気の“ヒーロー”は、あまり危地に陥りません。まるでディズニーランドでの「絶対に傷つかないことが保証されている“冒険”」のようで、水戸黄門とか桃太郎侍とか暴れん坊将軍とか必殺仕事人とか遠山の金さんとか○○レンジャーが敵にとっつかまって拷問を受けたり殺されかけて病院で手術を受けているなんて姿は、あまりイメージが生き生きとは湧いてきません。殺陣で斬り殺される専門の人間がいるように、悪人にひどい目に遭うのはひどい目に遭う専門の人間の役割です。007などとは違って、日本の勧善懲悪は分業体制なのかな。

【ただいま読書中】
聖なる島々へ』(デイルマーク王国史2) ダイアナ・ウィン・ジョーンズ 著、 田村美佐子 訳、 東京創元社(創元推理文庫)、2004年、860円(税別)

 南部デイルマークのホーランドで小作農としてそれなりに豊かに暮らしていたミット一家は、残虐な伯爵の農地囲い込みによって追い出されてしまいます。一家は町に出、不潔な共同住宅に住みその日暮らしとなります。かつて生活に満ちていた笑いは消えます。ミットの父は革命運動に身を投じ、仲間に裏切られ、ハッド伯爵の兵士に襲われてそのまま姿を消してしまいます。長ずるにつれミットは父の仇討ちとホーランドの社会を正すことを人生の目標とします。ミットは、生活能力を欠いた母親を助けるため漁師の見習いとなり、さらに父がかつて属していた非合法組織〈ホーランドの自由の民〉の一員となります。「こんな世の中はおかしい」と思いながら。
 ハッド伯爵の孫娘ヒルドリダもかんかんになっていました。まだ9歳なのに政略結婚をさせられるのですから。
 第1巻『詩人たちの旅』で描写された(山が動いた)北部と南部の戦いの噂がホーランドに伝わり、反伯爵の気運が高まります。ミットは爆弾を準備します。ハッド伯爵に投げつけるために。しかし企みは失敗、いや、成功? ともかくミットは指名手配犯となり港のヨットに逃げ込みます(中世の世界にヨット?といぶかしんではいけません。この世界には蒸気機関もあるはずで、テクノロジーの進歩はちょっと奇妙なことになっているのです)。そこにそのヨットの持ち主ヒルドリダと弟のイネンもある事情から逃げ込んできて、呉越同舟、三人(6連発の短銃で武装した下層階級の爆弾少年と、彼に祖父の命を狙われた二人の貴族階級の姉弟)は一緒に航海をすることになってしまいます。目指すはまだ魔法が息づいていると噂される「聖なる島々」。

 突然親が姿を消してしまった子どもがどう感じるかが手を抜かずに丁寧に描写され、ミットがなぜ爆弾犯になったか(ならざるを得なかったか)の理由とその過程が説得力豊かに読者の前に提示されます。しかし、生まれも育ちも「逃げる理由」もミットとはまったく異なるヒルドリダとイネンには、ミットの行動が理解できません。そもそもこの三人は本来なら出会うはずがなかったのです。それが出会ってしまったのでお互いを理解しようと苦闘します。そもそもそれ以前に彼らは「自分の動機」もきちんと理解していません。ですから船上での重苦しいやり取りは「異質なものを理解しようとするプロセス」であると同時に「自分を理解しようとするプロセス」にもなっているのです。
 そういった重さを乗せて、でも船は軽やかに洋上を滑ります。嵐と不気味な漂流者と魔法の島を目指して。

 こちらも第1巻と同様ほぼ一直線の物語進行ですが、伏線は『詩人たちの旅』よりはるかに豊富です。「どうせ異世界の風習」と軽く読み流していた行事が実は非常に意味のあるものだったり、「嵐の時の海面の描写」と思っていた「海を走る馬」が後になって……おっとっと、これは内緒だ。デイルマーク王国史は全4巻、この先が本当に楽しみです。


足あと

2009-10-27 17:04:44 | Weblog
 2進法ではキリの良い65,536アクセスめは****さんでした。いつもご来訪ありがとうございます。なお、マイミクでその前後賞は****さんと***さんでした。みなさん、おめでとうございます。

【ただいま読書中】
詩人たちの旅』(デイルマーク王国史1) ダイアナ・ウィン・ジョーンズ 著、 田村美佐子 訳、 東京創元社(創元推理文庫)、2004年、660円(税別)

 デイルマークの地から王が去って久しく、各地に独立する伯爵領はそれぞれ反目しあい、さらに北部と南部の対立は人の力ではもうどうしようもないところまで行っているようでした。人々は密告を恐れ、反乱を企んでいると難癖をつけられないために歌う歌にまで気をつけなければなりません。
 そんな地を、派手な馬車に乗って旅する一行がありました。詩人(うたびと)クレネンの一家です。彼らは各地に歌や演奏を披露し、うわさ話を伝え次の町への手紙を言付かります。
 一家の末っ子モリルは11歳(または10歳)、すぐにぼんやりしてしまう欠点をもっていますが、クィダー(描写からするとリュートのような楽器)の腕は大人以上です。父のクレネンはモリルに厳しい練習を強います。一家に先祖から伝わる大クィダーを弾きこなす腕があると見込んでいるようです。
 しかし旅の途中、謎の乗客(キアランという少年)を馬車に乗せたことから、彼らの運命は激変します。刺客に襲われクレネンは殺されます。母親は再婚し子どもたちは馬車で逃げ出して自分たちだけで一座の興行を続けようとしますが長男のダグナーは逮捕されます(おそらく縛り首です)。モリルたち3人は一時は逃亡に成功しますが、結局父親を殺したソーリアンの手に落ちます。ソーリアンは谷間いっぱいに兵隊を集め、北部に攻め込もうとしているのです。
 大クィダーには魔力があります。クレネンは一生に1回だけその魔力を引き出せましたがあとは上手くいきませんでした。しかしモリルにはその魔力を引き出す能力があります。クレネンにはそのことがわかっていました。そして今、囚われの身から脱出するためには、大クィダーを奏でることしか手段はありません。しかし、どうやるのが“正しい”やり方なのかモリルにはわかりません。失敗したら死が待っています。かつて伝説の吟遊詩人はその演奏で山を動かしたとこの国では伝えられています。そして、モリルが手にしている大クィダーはまさにその楽器なのです。

 この作品はDWJの初期の作品だそうです。そのせいか、物語は複雑にならず張り巡らされた伏線が一挙にはじけるということもありません。そのかわりと言って良いかどうか、ぐいぐいとほぼ一直線にドライブされます。「おっと、意外な展開」と言いたくなるのは最後のあたりだけ。ただ、さすがDWJ、このドライブ感は半端ではありません。
 しかし東京創元社は、どうして本シリーズを創元推理文庫で出したのでしょう。これまでの本はすべて図書館の児童図書の書架に並べられるものばかりだったのに。もしかしてこれから、お子様向けではない展開があるのかな。


広告

2009-10-26 18:54:11 | Weblog
 最近「新聞の押し紙」が話題になっています。「新聞の広告費は、発行部数によって決まる」→「部数が多い方が宣伝効果が高いから、広告費も高い」→「ところが新聞がその部数をごまかしているらしい(で、その余剰の新聞紙は販売店に押しつけられている)」、という流れでキモは「広告費」と「発行部数」が連動していることらしい、と私は理解しています。で、発行部数を一々スポンサーが数えるわけにはいきませんから、そういったゴマカシがあってもそれを指摘するのは困難ですよねえ。
 そういえば昔は本の裏に印紙が貼ってあって、そこに一々著者がハンコを押していました。その印紙の数によって出版社から著者に印税が払われていたわけです。それがいつのまにか奥付に「著者との取り決めで、検印は省略」と記載されるようになり、最近ではその記述さえ省略されるようになりました。悪く考えたら、これも発行部数を(つまりは印税を)誤魔化すことは可能、と言うことになります。
 最近あちこちの懸賞サイトなどで「ネット検索を一日○回したら、×ポイント」というのが目立つようになりました。多くはYahoo!ですが、これもおそらく広告費絡みなんでしょうね。ヒット数が多い方が広告費を高くふっかけることができますから、現物でネットユーザーを釣ってクリック数を稼ごうとしているのではないでしょうか。さらに“親切”に検索ウインドウの下に「検索する単語」のセットが準備されていることがあります。これはあわよくば狙いのスポンサーのところに少しでも短い距離で誘導しようということかな。
 お金がからむと皆さんいろいろな“工夫”をされるものです。

【ただいま読書中】
「食い逃げされてもバイトは雇うな」なんて大間違い ──禁じられた数字〈下〉』山田真哉 著、 光文社新書336、2007年、700円(税別)

 『食い逃げされてもバイトは雇うな』の続きです。もうタイトルを見ただけで笑っちゃいます。ここまで意図的にされたら笑って許してしまって、本を開きましょう。
 こちらでは「禁じられた数字」について論じられます。ただし、「禁じられた」は、スポーツなどでの禁じ手(反則)と同じように、やろうと思えば誰でもやれる、でも誤った数字の使い方のことです。著者はちょっと言葉に自分の思いを込めすぎる傾向があるので、その思いを共有するためには読むときに注意が必要です。
 上巻では、生活で用いられる数字には感情が込められるが、会計の数字は「感情」ではなくて「勘定」である、と述べられました。得に気をつけるべきは金額である、とも。下巻ではそれがひっくり返されます。
 「禁じられた数字」は4つに大別されます。
1)作られた数字。先に結果がありそれに合わせて導き出された数字です。
2)無関係な数字。数字の持つインパクトを利用して、本来無関係なものを並べるテクニック。一例として、政治家が述べる「この空港計画にはすでに800億円が投じられたのだから、いまさら中止するわけにはいかない」が本書では一蹴されます(著者が八ッ場ダムのことなどを予見していたわけではないでしょうが)。「800億円」と「いまさら」とは無関係です。「800億円」は「埋没原価(サンクコスト)」であり、関係するとしたらこれからの損失額が800億円より大きくなるか小さくなるかだけです。つまり中止か継続かの判断に使うべき数字は「800億円」ではなくて「これからの損失額(あるいは利益額)」ですから、ここでの「800億円」は無関係な数字なのです。
3)根拠のない数字。成長予測とか「○○が優勝したら経済効果はン百億円」など。
4)机上の数字。計算上はうまく行くけれど、実際にはうまく行かない数字。夏休みに毎日ドリルを○ページやろう、の計画が例としてあげられています。

 これら「禁じられた数字」は実社会にはびこっています。そのことに著者は苛立ちを感じているようです。そういった数字を使って他人をだます人に対しても、そして容易にだまされてしまう数字に弱い人たちにも。さらに、ビジネスの世界は「数字(会計)」と「非数字(人間関係、経験、信用……)」とで成り立っていて、経営者がするべきことはこの相容れない両者を同時に成り立たせる“妙手”を打つこと……なのにそれができない経営者が多すぎる、と嘆いているようでもあります。
 さらに、そういった数字がはびこるこの社会の土壌についても著者は異議を申し立てます。具体的には……ネタバレはやめておきましょう。実際に読んでみてください。著者はこの2冊を「1時間で読める本を目指した」と言っています。実際私はどちらも数十分で読めました。普通の人でも1時間で読めるでしょう。


一位

2009-10-25 17:10:25 | Weblog
 ゴルフ関係のマスコミが「賞金ランキングを池田が逆転」と言っています。
 う~ん、池田選手の悪口を言うつもりはありません。ただマスコミの態度が不思議に思えます。
 石川選手は、3月はアメリカのトーナメントに3回出た後マスターズ、7月には全英オープン、8月に全米プロ、9月に韓国オープン、10月にはザ・プレジデンツカップ、と忙しく世界で戦っています。どこで戦おうとそれは彼の勝手ですが、もしも「日本の賞金ランキング1位=日本でトップのプロ」とマスコミが主張するのなら、「日本を代表して世界で戦っている選手は実は日本では2位」ということになっちゃいます。「じゃあ、なんで“一位の選手”を日本代表として世界に出さないんだ?」と思いません?

【ただいま読書中】
食い逃げされてもバイトは雇うな ──禁じられた数字〈上〉』山田真哉 著、 光文社新書300、2007年、700円(税別)

 「ピアノがうまくなる」とか「野球が上手くなる」のと同様に、「数字が苦手」な人が「数字がうまくなる」ことが目的の本、だそうです。
 テレビで紹介された、親父が一人でやっているラーメン屋。親父が出前に行っているとき客は食べ終えたら金をテーブルに置いて帰るが、ときに食い逃げが発生する。スタジオでは「食い逃げを防止するためにバイトを雇えばいいのに」という意見が圧倒的だったけれど、著者は「この親父さんは正しい判断をしている」と述べます。それはなぜか?
 もちろんコストの問題です。「食い逃げで発生する金銭的損失」と「バイトを雇うことで発生するコスト増」とを比較して前者の方が小さい場合、「バイトを雇わない」ことが正解となるわけです。
 このへんは著者の『さおだけ屋はなぜ潰れないか』を読んでいればすぐ見当がつきます。
 もちろん本書はそれで終わるものではありません。「数字がうまくなる」ために手を替え品を替えいろんなトレーニングをしてくれます。「数字から感情を排する」のはけっこう一般人には困難です。たとえば「一生に一度のお願い」なんて言われたらついほろっときてしまう(こともある)。そういった態度がいかに感情的なものか、本書では容赦なく追及されます。(例題として、A「1,000円を500円に値引き」とB「11,000円を10,000円に値引き」とではどちらが得か。答えはB。なんてものが次々登場します)
 そして最後は「企業の決算書の読み方」。「そんなもの、素人が簡単に読めるか」と毒づくと著者は絶妙のタイミングで返します。「読まなくて良い」と。読むのではなくて「探す」のだそうです。何を探すのかは本書を読んでもらいたいのですが(というか、私の能力では簡単に説明することができません)、ちゃんと決算書を見たらそれだけで「この企業は潰れそう」とか「粉飾決算の可能性」とかもわかるのだそうです。

 ということで本書では「使うべき数字」について書かれています。数字がいかなるものか、それをどう活用するか、がキモです。ところが数字には「禁じられた数字」もあるののだそうです。それについては下巻に続く、なのですが、この下巻のタイトル、笑っちゃいますよ。



消印

2009-10-24 17:47:23 | Weblog
 消印に投函局と日付・受付時間帯が書いてあるのは常識、と私は思って育ちました。そういえば、自身の手紙に日付が入っていないとの指摘に対して「小生の手紙に日付が脱落していた旨のご指摘拝誦つかまつりました。莫大な税金に対する見返りとして、わが国の政府は、封筒の表面に小さな円形の印またはスタンプをおして投函の日付を示す習慣があることを留意していただきたい。もしこの印が脱落または識別不可能なる場合は、差出人ではなく郵便局に対して苦情を申し出るべきものです」なんて返信をチャレンジャー教授は書いています(『地球の叫び』アーサー・コナン・ドイル)。
 ところが先日わが家にきた郵便物(DMなどではない、個人から個人宛の普通の郵便です)、消印に「局」の名前しかありませんでした。もしかして民営化による省力化?

【ただいま読書中】
文字の考古学II』(世界の考古学22) 菊池徹夫 編、同成社、2003年、2500円(税別)

〈目次〉第6章「古代中国の文字」(後藤健)、第7章「古代日本の文字世界」(平川南)、第8章「北東アジア ──文字から遠い世界」(菊池徹夫)、第9章「マヤ文明の絵文字」第10章「南米の無文字文化」(寺崎秀一郎)、終章「人類史と文字」(菊池徹夫)

 中国最古の文字は殷の甲骨文字ですが、それに先立つ新石器時代の土器に記号が刻まれたものがあります。意味は不明ですが、製作者を示す/壺の中身の分類、などの解釈が行なわれています。甲骨文字は亀の甲羅や動物の骨に主に占いについて刻み込まれた文字です。材質が固いので基本的に縦横斜めの短い線で構成されています。「王」を示す文字は殷の末期には漢字の「王」とそっくりになっていますが、他の文字は全然似ていません。青銅器に鋳込まれた「金文」もありますが、こちらは粘土の型に文字が刻まれているので、甲骨文字よりも線が太く曲線も多く使われています。
 殷を滅ぼした周の時代に甲骨文字は使われなくなり、金文が盛んになりました。もともと文字は「神聖文字」として王の独占物でしたが、王の権勢が衰え諸侯の力が増すことで諸侯も青銅器をどんどん作りそこに自分たちの“私文書”を刻むようになったのです。戦国時代には各国でそれぞれ文字は独自に発展します。文字を書く対象も増加し(貨幣、印章、行政文書(木簡や竹簡)など)、人々が文字を目にする機会も増えます。
 そして、秦の始皇帝登場。彼は道幅・貨幣・度量衡・文字も統一します。漢の時代に木簡・竹簡が大幅に増加し、文字は簡略化・草書化していきます。さらに、筆や墨の発展の影響か「美しい文字」が出現します。

 「古事記」がもともと稗田阿礼の口誦を太安万侶が中国渡来の漢字で書き留めた、ということからも日本が無文字文化社会であったことがわかりますが、北方の少数民族も文字を持ちませんでした。その原因として「王」を中心とするような大きな社会構造を持たなかったことが挙げられています。
 ただ、「古代文字」ではないかと言われたものもあります。北海道小樽市の手宮洞窟および余市町のフゴッペ洞窟の刻画です。手宮が発見されたのは1866年、お雇い外国人イギリス人ミルンはこれを「ルーン文字および甲骨文字に似ている」としました。1950年にはフゴッペが発見され、続縄文期のものとされました。文字かどうか、文字ならそれは何語で内容は何か、について長い論争が行なわれましたが、現在では、文字と言うより記号(シャーマンや先祖を人型として描いたもの)であるという解釈が主流となっているそうです。

 マヤ文字解読のきっかけは、暦の解読でした。実在する王の業績を刻んだ石碑には日付がありますが、それを読み解くことでマヤ文明について多くのことがわかるようになりました。たとえばマヤの数学は20進法で「ゼロ」が存在していました。暦は複数を使い分けていました。
 しかし本書に紹介されているマヤ文字は、見ているとだんだん妙な気分になってきます。それぞれが絵文字ですが、数字はすべて横顔です。それが余白を嫌うようにぎっちり石碑に刻みつけられているのですから、眺めているうちに気分はだんだんハイになって、数字列を見ているのか模様を見ているのかわからなくなってしまいます。
 対してインカは無文字文化でした。しかし「国家」としての徴税システム(被征服地に対する物納及び労働義務)は持っていました。そこで使われたのは「キープ(またはキプ)」と呼ばれる、縄(毛糸)に結び目を作って数字を記録するシステムです。キープの色がその対象物の種類を示し(たとえば黄色は金、白は銀、赤は兵士)、結び目の位置や結び方で数量が示されます。倉庫に備蓄される資材などは当然きちんと数えられ記録されましたが、王が行なった演説や座談の回数まで記録されているそうです。キープを読むための専門家はキープカマヨック(またはキープカマーヨ)と呼ばれましたが、彼らは単なる統計官ではなくて年代記編者でもありました。たとえ文字が無くても、国家がきちんとしたシステムで運営され、(口誦を併用することで)記録(歴史)を残すことも可能な例もあるということです。
 今私たちが生きているのは「文字が満ちあふれている世界」です。しかしそれは「文字が豊かに生き生きと機能している社会」なのか、私はちょっと疑問を感じてしまいました。こうやって文字を書きながらそんな疑問を持つのは、自己否定になりそうではありますが。



開閉

2009-10-23 18:14:48 | Weblog
 閉じたカーテンを開くとき、見慣れた風景ではなくて予想外のものが待ちかまえていたら、と一瞬期待するときがあります。雪の朝などを除いてまずその期待は裏切られるのですが、もしも本当に異世界の風景などが広がっていたら、私は自分がどんな反応をするのか、予想ができません。やっぱり喜ぶのかな?

【ただいま読書中】
数学的にありえない(下)』アダム・ファウアー 著、 矢口誠 訳、 文藝春秋、2006年、2095円(税別)

 ケインは自分が統合失調症になったと信じます。命を救ってくれた女性ナヴァも幻覚に過ぎない、と。しかし兄のジャスパーのアドバイス「たとえ自分が創りだした世界がどんなものだろうと、その世界で賢い判断を下せ。そうすれば最後には現実に戻る方法が見つかるはずだ」に従います。そこで、自分が創った幻影であるはずのナヴァに対して「ラプラスの魔」についての“講義”を行ないます(実際には読者向けなのですが)。ケインとナヴァは逃亡します。二人の“武器”は、ナヴァの卓越した殺人技能とケインの確率計算力、そして予知能力。しかし追手は……FBI、国家安全保障局、北朝鮮の海外反探局、元FBIで今はフリーの腕利きのハンター……さらにケインの片膝は砕けてしまっています。
 しかしこの「予知能力」、とんでもないアイデアです。人間はラプラスの魔にはなれません。「決定論」が正しいとしても、すべての情報を処理する能力が人間の脳には圧倒的に不足しています。しかしそこで驚天動地の“真実”が……
 しかし……統合失調症の患者が立て板に水で述べ立てる妄想のような話(理論)が、いつのまにか現実に浸食してきてなにやら説得力を持ち始める(たとえばE=MC^2の公式やクオークとレプトンの話からエネルギーでできているあるものへと話が異様にスムーズにつながってしまう)と、こちらは「それは理論的にあり得ないだろ?」と弱々しく疑問形で言いたくなってしまいます。「それはあり得ない!」と断定できにくくなってしまうので。いや、無茶な話なのですが、面白い。確率、統計、量子力学、観測問題、選択……様々なアイデアが本書の「未来」に詰め込まれています。
 殺し屋たちを相手にした立ち回りでも、確率論によって「失敗する可能性が一番少ない」道が選択される、というなんともインテリジェントな暴力シーンが用意されています。ここはちょっと映画化が困難かな。
 下巻では数学と物理法則とがアクションシーンで狂喜乱舞をする中、上巻からずっと仕込まれていた伏線が次々立ち上がってきます。いや、これはすごい大サービスです。
 しかし、残りが100ページを切った頃から私は不安を感じ始めます。未来がわかるということはいわば人間社会では全能とほぼ同義です。しかも本書のは普通のSFで登場する未来予知とはひと味違った能力です。だとしたらこの物語にはきちんとした結末を与えることができるのだろうか、と思ってしまったのですが……

 これはどうでもよいことかもしれませんが、著者は6歳の時に両目の病気で視力を失い、以後10年間は入退院と手術を繰り返していたそうです。幸い視力は回復したのですが、それを知ってから本書でのケインが目を閉じて“世界”を見るシーンを読み返すと、ちょっと感傷にふけりたくなります。「未来を知る」とは、人間にとっては何なのだろう、と。


2009-10-22 18:45:40 | Weblog
 妻を亡くしたばかりでその報告をしている長門さんの姿をテレビ画面で見かけて、気の毒だと思うと同時に、なぜ取材に応じなければならないのだろう、と思いました。今さら自己宣伝して名前を売る必要もないでしょうから、芸能人としての義務感からでしょうか。だとしたらまことにお気の毒です。だけど、もしかして、ああやってしゃべることで何らかの救いを感じているのだとしたら、それはせめてもの慰めということになります。取材記者もその方向に質問をすれば良い。あまりそういったことに配慮している人はいないようなのが残念ですが。

【ただいま読書中】
数学的にありえない(上)』アダム・ファウアー 著、 矢口誠 訳、 文藝春秋、2006年、2095円(税別)

 〈目次〉第一部 偶発的事件の犠牲者たち  第二部 誤差を最小化せよ
  (下巻 第二部 誤差を最小化せよ(承前)  第三部 ラプラスの魔  エピローグ)

 タイトルや目次を見たら、何の本だろう?と思います。まるで数学の本のようですが、実は冒険小説です。
 ほとんどどんな確率でも暗算できる数学者ケインは、破滅寸前でした。ギャンブル依存症を克服して得た大学教師の仕事を失い、ポーカーで確率的にあり得ない敗北を喫して巨額の借金を背負い、同時に癲癇の発作で入院、選択の余地なく選んだ新薬は副作用として統合失調症を起こす可能性があるものです。
 CIAに潜り込んだスパイのナヴァは、北朝鮮に情報を売るところでトラブルとなり、命を狙われることになります。
 ケインの双子の兄ジャスパーは統合失調症ですが、「弟を守れ」という“声”にしたがい、動き始めます。
 新薬の副作用か、ケインは幻覚を見るようになります。とてもリアルな幻覚。時には未来の光景を。未来を見る? つまり、予知能力です。
 国家安全保障局は盗聴する範囲を広げ、科学技術の分野で新しい発見をあさってその成果を横取りしていました。なんともはやの発想ですが、ケインの“能力”を知り、その成果を自分たちのものにしようとして捕獲チームを差し向けます。
 夢で見た数字で1億2000万分の1の確率を当てたトミーは、パワーボール(アメリカのロトくじ)で2億ドル以上の賞金を得ます。

 なんというか、いったいどうやってこれだけの登場人物と未来予知というアイデアを制御して一本のストーリーにまとめるんだ、と思いますが、著者は巧みにやってのけます。途中で有名な統計の授業(一つのクラスに同じ誕生日の人間がいる確率がどのくらいか、など)まで入れてくれる大サービスぶり。アクションも盛り込まれています。最初はピックアップトラックがガラスを破って飛び込む程度ですが、上巻の最後では爆発炎上シーンに生身の人間が飛び込んでいきます。完全に映画向きですが、予知シーンは……これは読んでもらうのが一番でしょう。詳しくは内緒ですが、とにかくとても多重的で映像的です。頭の中に映像を複数展開することが苦手な人にはちょっとつらいかもしれません。