多くの大学ではリモート授業をやっていて、その(大学に行けないことと孤独な生活を強いられている)ストレスで参ってしまっている大学生がたくさんいるそうです。そのことも心配ですが、「全然ストレスを感じていない」人の中に、過剰適応している人がいるのではないか、と、私はそちらも心配です。
【ただいま読書中】『「戦場のピアニスト」を救ったドイツ国防軍将校 ──ヴィルム・ホーゼンフェルトの生涯』ヘルマン・フィンケ 著、 高田ゆみ子 訳、 白水社、2019年、2800円(税別)
『戦場のピアニスト』の最後のあたりに登場してシュピルマンを救うドイツ国防軍の将校の意外な行動は非常に印象的でした。そのヴィルム・ホーゼンフェルトが戦場で書き残した妻との往復書簡や詳細な日記をもとにし、さらに彼が“救った”人たちの証言を加えて構成されたのが本書です。
ヴィルム・ホーゼンフェルトは1935年からナチス党員で、40年には妻への手紙に「ヒトラーは天才だ」と絶賛をしていました。ところが43年の日記には「今日この体制をわずかでも支持していることを、皆恥じるべきである」と書くようになっています。一体この間に何が彼をこんなに変えてしまったのでしょう?
1895年に生まれたヴィルム・ホーゼンフェルトは、カトリック教徒で教師である父親に、家庭でも学校でも厳しく躾けられ、自身も教師を志すようになりました。ただし彼が目指したのは、体罰無しでの教育でした。第一次世界大戦、19歳のホーゼンフェルトは、他の青年たちと同様、熱狂的に志願します。負傷、叙勲、負傷、そして除隊。戦後は教師として働き、結婚。妻となった人は、プロテスタントで平和主義。ヴィルムとはずいぶんタイプが違いますが、芸術・文学・音楽・自然愛好の趣味が一致していたことがそれらの障害を乗り越えさせます。
1933年ヒトラーが政権を掌握。政治的立場は全然違いますが、ホーゼンフェルトはヒトラーがドイツ経済を立ちなおらせてくれるかもしれない、と期待し、戦友たちと突撃隊に入隊しました。そして開戦。ホーゼンフェルトは軍曹としてポーランドに向かいます。任務は捕虜収容所の管理。ホーゼンフェルトはポーランド人と交流し、一緒にミサに参加もします。さらにホーゼンフェルトがすごいのは「ヒトラーが説く悪の道」に進まず、自身の倫理的指針をぶらすことがなかったことです。「不敗神話」を信じるドイツ軍人は、占領地で高慢・傲慢な態度をとるようになりました。ホーゼンフェルトも「不敗神話」を信じていましたが、ポーランド人を「人間」扱いしていたのです。ポーランド人も人間で愛国者で、さらにそのほとんどはホーゼンフェルトと同じカトリック信者だったのです。
ホーゼンフェルトの組織運営能力と行動力を評価したドイツ軍は、少尉に昇進させ、ポーランドでのスポーツ学校運営・毒ガス防御・警備・防空など様々な任務を与えます(最終的に大尉になっています)。ホーゼンフェルトは、前線から戻った負傷兵たちから聞いた話や自身がワルシャワなどで目撃した事実から、「ドイツのプロパガンダ」と「戦争の実相」の救いがたい乖離に気づきます。ソ連への侵攻、アメリカの参戦……ホーゼンフェルトはその意味を理解します。戦争がドイツに大損害をもたらす、と。
ポーランドで、ドイツ軍によるポーランド人への暴力は公然と行われていました。対してユダヤ人への迫害のもっとも醜悪な部分は秘密にされていました。ただしそれは「公然の秘密」で、ホーゼンフェルトも絶滅収容所に関する伝聞などを日記にさまざま記録できています。知る気があれば、知ることができる「秘密」だったのです。そしてホーゼンフェルトは「たったひとりの抵抗運動」を始めます。「救済」という形で。
そのころワルシャワ・ゲットーでは、シュピルマンというピアニストが運命に翻弄されながらも、その運命に抗っていました。
ゲットー蜂起。ドイツ保安部隊は、戦車・砲兵隊・火炎放射器などの重武装だったのに、ろくな武装がないユダヤ人レジスタンスを鎮圧するのに4週間もかかりました。ポーランド国民はドイツに弱点があることを知ります。それでもホーゼンフェルトとポーランドの人々との関係に大きな変化はありませんでした。自らポーランド語を学び、人々に親切であろうとするドイツ軍将校の“価値”を人々はわかっていたのです。
ホーゼンフェルトの「知性」はピカイチです。ポーランドにいながら、大西洋でドイツ海軍の潜水艦の活動が低下していることに気づき、イギリス軍が潜水艦に対して何らかの効果的な対策を立てているという結論を導き出しています(実際に「エニグマ暗号の解読」がされていました)。膠着状態に見える東部戦線でもすでに主導権がソ連に移っていることに気づきます。また、陸軍兵力では、英米軍は優秀で、イタリア軍はアテにならないことも正しく指摘しています。
ホーゼンフェルトは「救済による抵抗運動」を続けます。
ソ連軍が迫ってきて、まずドイツ人の子供たちがワルシャワを脱出させられます。ホーゼンフェルトは私物を自宅に送ります。上空を敵機が通過し、やがて砲声が聞こえるようになります。ポーランド地下部隊はワルシャワ蜂起。ソ連軍はそれを援助せず座視します。ドイツ軍の将校たちは空元気で沸き立っていましたが、ホーゼンフェルトは「脱出は無理。死か、良くて捕虜」と見極めます。それでもホーゼンフェルトは「救済による抵抗運動」を続けます。
そして、おそらく「最後の救済」が、「戦場のピアニスト」。シュピルマンは「これまで出会った軍服を着たドイツ人の中で唯一人間と呼べる人」とホーゼンフェルトを表現します。
ホーゼンフェルトはソ連軍の捕虜となりました。しかし、彼に対する「救済」はありませんでした。「ソヴィエト」の興味は「悪いドイツ人を罰すること」だけで、そこに「良心を持ったドイツ人が存在するかもしれない」という「仮定」は存在しなかったのです。