【ただいま読書中】

おかだ 外郎という乱読家です。mixiに書いている読書日記を、こちらにも出しています。

ストレスを感じない心

2021-02-28 09:29:32 | Weblog

 多くの大学ではリモート授業をやっていて、その(大学に行けないことと孤独な生活を強いられている)ストレスで参ってしまっている大学生がたくさんいるそうです。そのことも心配ですが、「全然ストレスを感じていない」人の中に、過剰適応している人がいるのではないか、と、私はそちらも心配です。

【ただいま読書中】『「戦場のピアニスト」を救ったドイツ国防軍将校 ──ヴィルム・ホーゼンフェルトの生涯』ヘルマン・フィンケ 著、 高田ゆみ子 訳、 白水社、2019年、2800円(税別)

 『戦場のピアニスト』の最後のあたりに登場してシュピルマンを救うドイツ国防軍の将校の意外な行動は非常に印象的でした。そのヴィルム・ホーゼンフェルトが戦場で書き残した妻との往復書簡や詳細な日記をもとにし、さらに彼が“救った”人たちの証言を加えて構成されたのが本書です。
 ヴィルム・ホーゼンフェルトは1935年からナチス党員で、40年には妻への手紙に「ヒトラーは天才だ」と絶賛をしていました。ところが43年の日記には「今日この体制をわずかでも支持していることを、皆恥じるべきである」と書くようになっています。一体この間に何が彼をこんなに変えてしまったのでしょう?
 1895年に生まれたヴィルム・ホーゼンフェルトは、カトリック教徒で教師である父親に、家庭でも学校でも厳しく躾けられ、自身も教師を志すようになりました。ただし彼が目指したのは、体罰無しでの教育でした。第一次世界大戦、19歳のホーゼンフェルトは、他の青年たちと同様、熱狂的に志願します。負傷、叙勲、負傷、そして除隊。戦後は教師として働き、結婚。妻となった人は、プロテスタントで平和主義。ヴィルムとはずいぶんタイプが違いますが、芸術・文学・音楽・自然愛好の趣味が一致していたことがそれらの障害を乗り越えさせます。
 1933年ヒトラーが政権を掌握。政治的立場は全然違いますが、ホーゼンフェルトはヒトラーがドイツ経済を立ちなおらせてくれるかもしれない、と期待し、戦友たちと突撃隊に入隊しました。そして開戦。ホーゼンフェルトは軍曹としてポーランドに向かいます。任務は捕虜収容所の管理。ホーゼンフェルトはポーランド人と交流し、一緒にミサに参加もします。さらにホーゼンフェルトがすごいのは「ヒトラーが説く悪の道」に進まず、自身の倫理的指針をぶらすことがなかったことです。「不敗神話」を信じるドイツ軍人は、占領地で高慢・傲慢な態度をとるようになりました。ホーゼンフェルトも「不敗神話」を信じていましたが、ポーランド人を「人間」扱いしていたのです。ポーランド人も人間で愛国者で、さらにそのほとんどはホーゼンフェルトと同じカトリック信者だったのです。
 ホーゼンフェルトの組織運営能力と行動力を評価したドイツ軍は、少尉に昇進させ、ポーランドでのスポーツ学校運営・毒ガス防御・警備・防空など様々な任務を与えます(最終的に大尉になっています)。ホーゼンフェルトは、前線から戻った負傷兵たちから聞いた話や自身がワルシャワなどで目撃した事実から、「ドイツのプロパガンダ」と「戦争の実相」の救いがたい乖離に気づきます。ソ連への侵攻、アメリカの参戦……ホーゼンフェルトはその意味を理解します。戦争がドイツに大損害をもたらす、と。
 ポーランドで、ドイツ軍によるポーランド人への暴力は公然と行われていました。対してユダヤ人への迫害のもっとも醜悪な部分は秘密にされていました。ただしそれは「公然の秘密」で、ホーゼンフェルトも絶滅収容所に関する伝聞などを日記にさまざま記録できています。知る気があれば、知ることができる「秘密」だったのです。そしてホーゼンフェルトは「たったひとりの抵抗運動」を始めます。「救済」という形で。
 そのころワルシャワ・ゲットーでは、シュピルマンというピアニストが運命に翻弄されながらも、その運命に抗っていました。
 ゲットー蜂起。ドイツ保安部隊は、戦車・砲兵隊・火炎放射器などの重武装だったのに、ろくな武装がないユダヤ人レジスタンスを鎮圧するのに4週間もかかりました。ポーランド国民はドイツに弱点があることを知ります。それでもホーゼンフェルトとポーランドの人々との関係に大きな変化はありませんでした。自らポーランド語を学び、人々に親切であろうとするドイツ軍将校の“価値”を人々はわかっていたのです。
 ホーゼンフェルトの「知性」はピカイチです。ポーランドにいながら、大西洋でドイツ海軍の潜水艦の活動が低下していることに気づき、イギリス軍が潜水艦に対して何らかの効果的な対策を立てているという結論を導き出しています(実際に「エニグマ暗号の解読」がされていました)。膠着状態に見える東部戦線でもすでに主導権がソ連に移っていることに気づきます。また、陸軍兵力では、英米軍は優秀で、イタリア軍はアテにならないことも正しく指摘しています。
 ホーゼンフェルトは「救済による抵抗運動」を続けます。
 ソ連軍が迫ってきて、まずドイツ人の子供たちがワルシャワを脱出させられます。ホーゼンフェルトは私物を自宅に送ります。上空を敵機が通過し、やがて砲声が聞こえるようになります。ポーランド地下部隊はワルシャワ蜂起。ソ連軍はそれを援助せず座視します。ドイツ軍の将校たちは空元気で沸き立っていましたが、ホーゼンフェルトは「脱出は無理。死か、良くて捕虜」と見極めます。それでもホーゼンフェルトは「救済による抵抗運動」を続けます。
 そして、おそらく「最後の救済」が、「戦場のピアニスト」。シュピルマンは「これまで出会った軍服を着たドイツ人の中で唯一人間と呼べる人」とホーゼンフェルトを表現します。
 ホーゼンフェルトはソ連軍の捕虜となりました。しかし、彼に対する「救済」はありませんでした。「ソヴィエト」の興味は「悪いドイツ人を罰すること」だけで、そこに「良心を持ったドイツ人が存在するかもしれない」という「仮定」は存在しなかったのです。

 


戦争と平和の道具

2021-02-24 06:54:32 | Weblog

 私にとって「トラクター」は、農業のための機械ですが、同時に、第一次世界大戦でトラクターが「砲弾で耕された荒れ地となった戦場」で物資輸送に大活躍したことや無限軌道のトラクターをヒントに戦車が生まれたことも思い出します。トラクターは平和なときも戦争でも活躍できたわけですが、トラクター自身がその“活躍”を喜んでいたかどうかは、わかりません。できたら平和時の活躍だけを喜んでいて欲しいものですが、これは私個人の願望です。

【ただいま読書中】『トラクターの世界史 ──人類の歴史を変えた「鉄の馬」たち』藤原辰史 著、 中央公論新社(中公新書2451)、2017年、860円(税別)

 トラクターには、農業・工業・軍事・林業の四種類がありますが、本書で扱われるのは農業用トラクターです。各国別の農業の歴史の中でトラクターはそれぞれ扱われていますが、著者は「20世紀の世界」にトラクターが大きな変革をもたらした、という観点から本書を書き始めました。
 蒸気機関を搭載したトラクターはイギリスで1859年に発明されていましたがあまり普及しませんでした。1892年にアメリカでガソリン機関を搭載したトラクターが発明され、これが世界中に普及することになります。最初は様々なタイプが登場しましたが、最終的に勝者となったのは大量生産のフォードでした。フォードはT型で都市生活を変えただけではなくて、トラクターで農村も大きく変えてしまったのです。フォード社のベストセラートラクター「フォードソン」は、アメリカ国内で販売されるだけではなくて、ソ連やイギリスにも多数輸出されました。第一次世界大戦で男が兵隊に駆り出されてしまった農村で、トラクターはその代わりとして“働”いたのです。
 第一次世界大戦後、ある程度「量」の問題が解決すると、次は「質」です。乗り心地とか作業効率などを農民は問題にするようになり、ゴムタイヤを採用し扱いやすいトラクターを製造するアリス=チャルマーズ社が人気を得ます。アメリカらしいと私が思うのは、「トラクターのレース」も同時期に始まっていることです。トラクターはレーシングカーじゃないんですけど。
 トラクターは家畜の代替として導入されました。「飼料の購入や栽培が不要」「疲れない」「病気にならない」といった利点はありますが、「燃料の購入が必要」「故障する」「糞便を肥料として農地に還元できない」「事故が家畜よりも多い」という欠点もありました。しかし、トラクターを導入した農家では、もうそれを手放せなくなります。生産量が確実に増えるのですから。しかしそれは「農産物の世界的な価格下落」ももたらしました。また、「自前の有機肥料」を失った農民は化学肥料を購入することになります。つまり「トラクター」と「化学肥料」は「セット」だったのです。
 民生用トラクターは容易に軍用トラクターに転用でき、さらに戦車製造にもその技術は活かせました。なるほど、だからスターリングラードやレニングラードの攻防戦で「トラクター工場」をめぐる争奪戦がよくクローズアップされるんだ。今気づきました。
 各国でそれぞれトラクターには特徴があります。それは、国土や農業のやり方の違いを反映しているからでしょう。日本では「歩行型トラクター(乗用ではなくて、二輪で人が押して歩くタイプ)」が普及しました。これは、大きくて重い乗用型が、季節によってかちかちに硬いこともどろどろに軟弱なこともある日本の狭い水田に向いていなかったからです。私はこのタイプを「耕耘機」と呼ぶものだと思っていました。ただ「耕耘」だけではなくて他の様々な農作業にも対応できるのが「歩行型トラクター」の特徴だそうです。
 たぶん世界の農業は「昔(人力、家畜、自前の有機肥料)」には戻れません。戻したら農業生産量は激減して、餓死者が大量発生するでしょう。しかし、現在の大量生産・大量消費・土地からの大量収奪スタイルの農業が「持続可能」なものとも思えません。「マルサスの警告」を私たちは農業の進歩によってなんとか乗り切ったように思っていたのですが、実は少し時間を稼いでいただけだったのかもしれません。

 


色々なものが色々なものの夢を見る

2021-02-24 06:54:32 | Weblog

 最初に本日の本のタイトルを見たとき私が思ったのは『アンドロイドは電気羊の夢を見るか?』(P・K・ディック)でした。ところが最初の数ページで、全く違う話であることを私は知ります。違うものは違う夢を見るのです。

【ただいま読書中】『潜水服は蝶の夢を見る』ジャン=ドミニク・ボービー 著、 河野万里子 訳、 講談社、1998年、1600円(税別)

 著者は、バリバリと仕事をしている編集者でしたが、43歳の時脳出血に襲われ、脳幹部が機能不全となり、知性は保たれているが身体で唯一動かせるのは左眼の瞼だけ、という「ロックトイン・シンドローム(閉じ込め症候群)」になってしまいます。しかし左眼の瞬きだけで「イエス/ノー」を伝達するだけではなくて「文字」を選択することで「執筆」ができるようになりました。本書は20万回以上の瞬きで“書かれた”本です。
 見えない潜水服に閉じ込められたようになって、自力では動くことができない著者にとって「世界」は病室、訪室する介護士・医師・リハビリの療法士たち、訪問する友人、そして「思い出」です。ただ過去を詳細に思い出すと、それが現在は「自分がいない世界」であることに著者は否応なく気づかされてしまいます。著者は(瞬きで)呟きます。「何も変わってはいない。ただ僕だけが、いない。僕だけが、ここに、いない」。
 著者はよく夢を見ます。しかしそれは本当に「夢」なのでしょうか、それとも「現実」が脳で妙に認識されてしまった姿? もしかしたら夢と現実の境界線が著者の場合少し以前とずれてしまっているのかもしれません。
 ところで私の場合も、もしかして夢と現実の境界線は、本当にきっちりとしているものなのでしょうか? 私は「自分」の中に閉じ込められていたりしないのかな?
 SF的な話ですが、「自分の脳の中身」をすべてコンピューターやネットにアップロードしたら不死の存在になれる、というアイデアがあります。だけどそれは別の形での「ロックトイン・シンドローム」を作るだけになるかもしれない、と私は嫌な予感がしています。

 


死後の相談

2021-02-23 09:33:29 | Weblog

 父親が死ぬ前に私は“その後”のことについてざっくりとではありましたが話ができていたので、死亡後にも特にトラブルなく遺産相続などができました。そこまでもめるほどの財産の大きさではありませんでしたが、それでもきょうだいの間で露骨な不公平があったらいけませんから、父親の遺志をベースにしてから不動産や動産を客観的に評価してもらってあとは「大体こんなものだろう」でざっくり分けました。
 ただ、個人の場合に、相続人の間で争いがなければ「ざっくり」でも大丈夫でしょうが、法的な立場にある「法人」の場合にはこれは大変でしょうね。社長に対して「あなたが死んだ後、会社はどうしましょうか」なんて言うのは「会社乗っ取り」でも画策しているようだし「社長のあなたはもうすぐ死ぬんだよね」と言っているようでもあるし、これは言われる方は気分が良くありません。
 ということで、こんな本があります。

【ただいま読書中】『社長に事業継承の話を切り出すための本』半田道 著、 中央経済社、2019年、2300円(税別)

 そもそも「事業継承」とは何か、から話が始まります。社長から後継者に「社長の椅子」と「自社株」を渡すことですが、前者は「経営理念・会社の状況・社内外からの信用を引き継ぎ経営を任せる」、後者は「会社の財産を引き継ぎ、株主総会で会社の経営方針を決定できるようにすること」です。そこで必要なのが「事業継承対策」。バトンタッチをしたらおしまい、ではなくて、話はそこから始まるのです。ここで多くの人は「株価対策」「税務対策」のことを思うのだそうですが、それは話の一部に過ぎません。社長が死亡によっての事業継承では相続の問題が発生し、相続税の資金繰りで会社の経営が苦しくなることもあり得ます。だからこそあらかじめ資金計画を作っておく必要があり、だからどのように継承するかのプランを確定しておく必要があります。
 ここで著者は「具体的な方法」だけではなくて「社長の心情」にも目配りをしています。「継承」の話を切り出された社長がどのように思うか、の問題です。また、「後継者」に指名された人だけではなくて「指名されなかった人(社長の子供で事業に直接タッチしていない人など)」についての配慮も必要、と細やかです。
 昭和の時代の「会社」は主に「株式会社」と「有限会社」でしたが、最近は「株式会社」でも資本金1円でも制度上は可能になり、「有限会社」のかわりに「合同会社」「合名会社」「合資会社」が登場しています。株式会社の場合には株主対策も必要ですが、それ以外だと出資社員と後継者に範囲を限定できるので、少しは楽でしょうね。それでもいろいろなトラブルが発生しそうですが。
 個人の相続でも大変なのに、法人の相続はそこに個人の相続も含まれるのでもっと話が大変になる、ということはわかりました。もしも私が起業をするなら、最初から事業継承についても念頭に置いてから仕事を始めた方が良さそうだ、ということは理解できました。具体的には信頼できる税理士などと相談しながら、かな。

 


勤労の喜び

2021-02-19 16:46:24 | Weblog

 もし本当に「勤労」が「喜び」なら、なんでそれを強調したり強制したりするのでしょう?

【ただいま読書中】『「働く喜び」の喪失 ──ヴェーバー「プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神」を読み直す』荒川敏彦 著、 現代書館、2020年、2200円(税別)

 ヴェーバーの『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』は「キリスト教が資本主義を生んだ」と主張していると読まれることが多いのですが、そうではなくて「近代資本主義の精神および近代文化の合理的生活態度は、キリスト教的禁欲の精神から生まれた」と主張しているのだ、が著者の主張です。なんだか似ているように見えますが、「キリスト教が資本主義を生んだ」では無視されている「個人」や「天職という理念」をヴェーバーは重視していたのだそうです。
 「宗教改革によって資本主義が生まれた」という論調に対して、ヴェーバーは否定的です。彼にとって宗教改革は「家庭生活と公的生活の全領域に侵入してきて、果てしなく煩瑣でかつ生真面目な、生活態度全体の規則化へと置き換えた」しろものなのです。それによって「個人の多様な人格」は無視され、人々の多様なライフスタイルは均質化されることになります。
 ヴェーバーは「宗教的救済」と「経済的成功」の結合にも注目しています。これは「貧しい者」に対して「神に救われていない者」の烙印を押し社会から排除する態度を生み出すからです。そしてその態度は「神」が力を失った20世紀以降の世界でも、そのまま保存されています。「貧乏であること」だけで「有罪」とされ、社会から排除される、という形で。
 さらにヴェーバーは「知や科学への信仰」を100年前にすでに危惧しています。ここで注意が必要なのは、ヴェーバーが危惧しているのは「知や科学」ではなくて「それらへの信仰心」の方だ、ということ。ヴェーバーは常に「もの」ではなくて「人」の方に注目をする人のようです。あ、だから宗教にも突き放した態度が取れるんですね。「神」がいかなるものか、ではなくて「神をいかなるものと考え、それに従って人間が取る態度や行動」によって世界は動いていくのですから。
 すると「勤労の喜び」もまた、「勤労」自体に何か本質的なものがあるのではなくて「勤労をいかなるものと考えるか、の人間の態度と行動」の方に「本質」がある、ということになるわけです。
 ふうむ、これはなんとか時間を捻出し、集中力を貯めてから『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』を読む必要がありそうです。

 


動く静止画

2021-02-17 07:25:40 | Weblog

 昭和の時代、白黒テレビで観ていたNHKの天気予報ではよく「明日は、晴れのち曇り、所により一時にわか雨」なんてとってもアバウトなことを平気で言っていました。ただその画面で、「晴れ」のマークが本当に太陽が照っているかのように回りにぴかぴかと線が点滅したり「雨」マークで雨が降っているように線が流れたりの特殊効果があったことを私は不思議な気分で眺めていたことを思い出します。当時はまだCGなんかありません。アニメのはめ込みもまだできません(というか、クロマキーブルーを使ったりして画面での合成ができたとしても、天気予報にそこまでのコストはかけられなかったでしょう)。あれ、スタジオでは静止画だけど、それを当時のカメラで撮影して当時のブラウン管受像器で走査線上に載せたら点滅しているように見える特殊効果の工夫がしてあったのではないか、と私は想像しています。アナログでも工夫すればいろんな効果が出せるのでしょうね。

【ただいま読書中】『世界一不思議な錯視アート』北岡明佳 著、 カンゼン、2019年、1800円(税別)

 静止画なのに、見ているとぐるぐる渦を巻いたりゆらゆら揺れたり、本来そこに無いものが見えたり、の錯視アートが集まっています。
 ただ私は弱視ギリギリの視力しかないせいか、昔から立体視の能力が弱く、そのためか錯視アートも十分には楽しめない状態です。ゆらゆら動くのはしっかりわかりますが、渦を巻いて動くのは注視せずに周辺視野を使わないと確認できません。それでもじっと見ていると、少しずつ気持ちが良くなったら逆に悪くなったり、不思議な気分を味わえる本です。

 


呪術師

2021-02-16 07:02:32 | Weblog

 私は子供時代に後進国(当時の呼び方)の奥地に呪術師が現存している、と聞いて「遅れているなあ」とあきれました。当時の日本に「おまじない」「こっくりさん」「星座占い」「姓名判断」「手相占い」「おまもり」などが現存していることは無視してそんなことを言っていたのですから、「遅れていた」のは私の感覚の方だったのかもしれません。

【ただいま読書中】『まじないの文化史 ──日本の呪術を読み解く』新潟県立歴史博物館 監修、河出書房新社、2020年、1650円(税別)

 新潟県立歴史博物館で2016年に「おふだにねがいを──呪符」という企画展が開催されました。県内で出土する呪符木簡を現代のおふだと関連づけての企画でしたが、展示は「人々を幸福にする」ものに限定されていました。それに「人を不幸にする(呪いをかける)」行為やものについても加えてまとめられたのが本書です。
 年中行事には、元は呪術というものが多くあります。たとえば「七夕」は、中国の習俗が日本の盆の信仰と習合したもので、短冊に願い事を書くのはおふだで願をかける行為です。中国の陰陽五行思想は日本では独自の陰陽道に発展しましたが、日本古来の土着信仰や神仏習合により、実に様々な呪術的行為が発生しています。
 「呪う」は「まじなう」とも「のろう」とも読みます。つまり「よいこと」と「悪いこと」の両方がこの言葉には同時に含まれているのです。
 古代日本の律令(賊盗律)には「厭魅蠱毒(えんみこどく)」を罰する規定があります。「蠱毒」は毒虫からの毒物製造(と使用)、「厭魅」は「のろい」です。「蠱毒」は、当事者は絞首刑ですが、犯人と同居していた者は事情を知らなくても遠流。「厭魅」は、予備や未遂であっても罰せられる、と規定されていて、どちらもすごい重罪でした。それだけその威力が恐れられていたのでしょう。
 奈良時代や平安時代にはいくつか実際に「厭魅」事件が発生していますが、その記録を読む限り、冤罪(政敵を葬るために“犯罪”をでっち上げる)が多い印象です。さらにこの「呪詛」が「実は冤罪だった」と噂が立つと同時に「祟り(を皆が恐れる)」を引き起こすことになるのですから、昔の日本人はどこまで迷信深かったんだ、と言いたくなって、あ、これは今の日本でも(迷信深い、噂やフェイクニュースやデマにすぐ踊らされる、といった点で)それほど変わりはない、とオチをつけて私はページをめくることにします。
 呪詛には様々な道具が使われました。重要なのは、形と言葉のようです。人型に削られた木簡とか、人の顔が描かれた土器とか、いかにも何らかの“効果”がありそうな代物が並んでいます。平城京では「木釘を打ち込まれた人形(ひとがた)」なんて剣呑なものも見つかっているそうです。
 そういえば、今のSNSにも「人をのろう言葉」が満ちあふれていますね。「のろう」よりも「言祝ぐ」方が、言う側の健康状態にも良い効果があるのではないか、なんてことは思うのですが。

 


フェアな謎解き

2021-02-15 07:18:11 | Weblog

 推理小説では、読者にはきちんと手がかりが与えられる、という「フェア」さが重視されます。でも犯罪って、もともと「アンフェア」なものですよね。

【ただいま読書中】『名探偵夢水清志郎事件ノート vol.1そして五人がいなくなる』はやみねかおる 原作、えぬえけい 漫画、講談社、2004年(2008年12刷)、429円(税別)

 自称「名探偵」の漫画です。
 なんともへんてこな人で、目立ちたがりで記憶力が悲しいくらいなくて、でも「みんなが幸せになれるように事件を解決してみせますよ」ときっぱり言い切る名探偵の造形です。
 漫画の絵柄は……かわいらしい。「少女漫画」だから当然なのかもしれませんが。
 事件は……第一巻では、いろいろ裏がありそうな子供の連続誘拐。さて、これを「みんなが幸せになれるよう」に解決できるのだろうか、と私は変な方向の期待をしてしまいます。
 私がなんでこの漫画を読む気になったのか、謎です。誰か「名探偵」が解いてくれるかな?

 


トップだけ交換?

2021-02-12 18:38:45 | Weblog

 森さんが会長を辞めても、その言動を支持していた人たちがそっくり理事会に残っているのだったら、結局「上」の体質は何も変わらないことになりません?

【ただいま読書中】『カメハメハ大王 ──今へとつながる英傑の軌跡』小林素文 著、 風媒社、2019年、1300円(税別)

 今から1500年くらい前、マルケサス諸島から4000km離れたハワイに移住が行われました。移民だったのか難民だったのかはわかりません。ともかく、太平洋の真ん中で隔絶された世界で生きることになった人びとは「見返りを求めない助け合い」を基礎とする「アロハスピリッツ」で生きるようになります。ハワイ語に文字はありませんが、メレ(詠唱)で「歴史」は語り継がれました。「メレ」には、言葉だけの「メレ・オリ」と踊りとともに唱える「メレ・フラ」があります。
 1778年に北極海探検の途上でキャプテン・クックがハワイを“発見”したとき、カメハメハは20歳でした。当時のハワイは、4つの島(ハワイ、マウイ、オアフ、カウアイ)の王たちが大王の座を争う“戦国時代”で、戦国時代の日本が南蛮に武器と知識を求めたのと同様、王たちは西洋の武器と知識を他の王に対しての優位を得るために使おうと必死で戦いました。その過程で、石器時代だったハワイは急速に近代化していきます。ハワイの人たちは決して「純朴で無知な野蛮人」ではなかったのです。そして、英国人船員の中で、ハワイに定住してカメハメハのために尽くす人が現れました(三浦按針のことを私は思います)。カメハメハは、西洋の銃と西洋式の訓練を受けた軍隊とでハワイ島の内戦状態を1791年に終わらせます。
 その頃栄えていたのはオアフ島で、ホノルルが天然の良港であることがアメリカに知れ渡り、毛皮商人(ラッコや狐の毛皮を中国に持ち込む貿易商)が中継基地としてホノルルを頻繁に訪れていました。アメリカ人がオアフ島に肩入れすると、ハワイを英国領にしたい英国海軍はカメハメハへの働きかけを強めます。ただ、フランス革命の余波で英国にはハワイに手を出す余裕がありませんでした。
 1795年にカメハメハはハワイ・マウイ・オアフを支配するハワイ最大の王になりますが、残るカウアイを支配するためにはさらに15年かかりました。まずは3島の王国の内政を安定させることを優先させたのです。ハワイの社会は血筋ですべてが決まる階層社会でしたが、カメハメハは政府上層部では能力主義を優先させます。そして、カウアイのカウムアリイ王に和解をもちかけ、形式的にはカウムアリイはカメハメハの部下となるが実質的にはカウアイ島の支配者であり続けることで話をまとめます。なんだか、日本の戦国時代とやっていることはそう変わらないですね。
 1812年に米英戦争が起き、その余波はハワイにも押し寄せます。英国海軍に襲撃されることを恐れた米国商人は、なんとロシア国旗を掲げて航行しました。そういえば、第二次世界大戦時にアメリカ商船がソ連に軍需物資を運ぶのにソ連国旗を掲げて日本近海(どころか津軽海峡)を堂々と航行していた、なんてことも私は思い出します。
 貿易商人が扱う商品は毛皮からハワイに自生するサンダルウッド(白檀)に変わり、カメハメハ大王の取り分は飛躍的に増えます。さらに、牧場ではアメリカ人が持ち込んだ牛が増え、そこで製造されるビーフ・ジャーキーが外国船によく売れます。豊かな財政で安定した国を残してカメハメハは亡くなりますが、その後、サンダルウッドの乱伐、西洋から持ち込まれた病気による人口減少、内政の乱れなどでハワイの経済状態は悪化、それを救ったのが捕鯨船団でした。その次が大規模サトウキビ農業。しかし少しずつ米国の支配力が王国内で増し、王国は衰亡していきました。
 カメハメハの「年老いた者や女性や子供が道端で寝ていても安心であるようにしなくてはならない」という布告は、現在でもハワイ州憲法に残っているそうです。

 


感謝する相手

2021-02-09 07:03:32 | Weblog

 スポーツ関連のニュースで、選手が「感謝の気持ちを持って」とよく言っていますが、その感謝する相手って、具体的に誰かも言った方が良いのではないです? 少なくともそれが私ではないことは確実なのですが、では誰を念頭に置いているのだろう、とちょっと気になったもので。

【ただいま読書中】『美術は地域をひらく ──大地の芸術祭10の思想』北川フラム 著、 現代企画室、2014年、2500円(税別)

 1999年「平成の大合併」が行われました。その5年前から新潟県では「ニューにいがた里創プラン」を立ち上げていました。これは県を16の広域行政圏に分けて、それぞれの区域独自の魅力を発信するプロジェクトを県が後援するものです。「県が出す金」に様々な業者が群がってきましたが、「アートでの地域作りは可能か?」と新潟県が著者に声をかけます。
 十日町広域行政権(十日町市+津南町)でのプロジェクトを著者は始めますが、名称を決めるだけで事態は紛糾。すったもんだの末「越後妻有アートネックレス構想」で名称は落ちつきます。次は「何」を「どこ」で「誰」がおこなうか。そして、住民参加型の「大地の芸術祭」が始まります。
 この過程で著者が見たのは、地域の現状でした。若者が都市に集中し、村は高齢化。空き家が増えますがそれはすぐに雪に負けて廃屋となり、所有者不明の棚田が増え、若手がいないため無理して雪下ろしをする高齢者が転落事故に見舞われます。その地域の「特性」を「美術」とどう結びつけたら?
 作品を田圃に展示しようとしても所有者が嫌がったらできません。所有者が行方不明でも、できません。批判や反対も声高です。その雰囲気が変わったのが、國安孝昌の作品からでした。木を組み煉瓦を積む作業に難渋していた作家を遠巻きにしていた地元の老人たちが、ちょっと手伝うか、と手を出したらそのチームワークの見事なこと。「協働」の始まりです。その時作品は「地域の人たちの作品」になったのです。だからでしょう、はじめは「50日だけの展示」の約束だったのに、地元の人は誰も撤去を求めず、何年も経って作品が傷んできたら自分たちで補修(というか、さらに大規模なものへの作り直し)を行っています。
 著者は「美術家と一般の人との共犯関係」と刺激的な物言いをします。アートは美術館に閉じ込めておけば良いものではない、とも言い換えることが可能でしょう。さらに「個人の所有物」に留めるのではなくて、「地域」に置くことで美術にはさらに新しい命が生まれるのかもしれません。本書の写真を見ていて、私はこういった作品が、地域の神への捧げ物でもあるように見えました。自然と人の営みとを美術でつなぐこともまた、一種宗教的な行為なのかもしれません。