人食いサメとか人食い熊とか人食い虎のニュースに接すると、私たちはショックを受けます。これは「殺人事件」のショックと同時に「食物連鎖の頂点の位置している」という「人類のプライド」が傷ついているからかもしれません。
【ただいま読書中】『ヒトは食べられて進化した』ドナ・ハート、ロバート・W・サスマン 著、 伊藤伸子 訳、 化学同人、2007年(12年7刷)、2200円(税別)
ヒトの御先祖様に対しては「焚き火を囲んで猛獣の接近に怯える被食者」と「勇猛な狩人(捕食者)」の二つの相反するイメージが現代通用しています。ところが、食物連鎖での位置は、その種の進化に大きな影響を与えるはずです。では、実際に私たちの祖先は被食者と捕食者、どちらの要素の方が大きかったのでしょうか。まずは仮説を立てましょうか。しかしその仮説は、現在の人類のあり方、および化石の証拠とも合致していなければなりません。それが科学です。
現生人類が登場する前、100万年以上にわたって「二足歩行をする霊長類」は実に様々なバリエーションが世界に登場しては消えさっていました。著者はそれを「複雑な茂み」にたとえます。そして、その中の細い一本の枝が、その一本だけが現生人類につながっているのだ、と。
霊長類が被食者である例は多くあります。ヒョウがマウンテンゴリラを食ったり(観察記録だけではなくて、証拠としてヒョウの糞から出てきたゴリラの足の指の写真も掲載されています)、トラやウンピョウ(アジアの猫科)に食われるオランウータン、ヒョウやライオンに食われるチンパンジー(ライオンの糞の中にチンパンジーの黒い毛が大量に含まれていることを発見したのは日本のチームだそうです。この日本チームによると、タンザニアのマハレ山では毎年チンパンジー総数の6%がライオンに食われているそうです)…… ところが多くの動物行動学者は「霊長類が食われているなんて、見たこともない」と言います。著者は言います。「当然でしょう。銃で武装した人間が観察している霊長類の群れを、誰が襲う?」。
進化の過程で、捕食者と被食者はともに変化します。防御側が新しい戦略を編み出せば攻撃側はそれに対応するし攻撃側が新しい戦略を採用したら防御側もそれに対応します(対応できない種は絶滅します)。そういった変化は、現在の形態・機能・行動様式に明白に残されているはず。そこで著者は“証拠集め”を始めます。データを積み重ねると「霊長類研究者は霊長類が食われていることを無視する傾向があるが、捕食者研究者は捕食者が霊長類を食っていることをたくさん報告している」という興味深い知見が得られました。もちろんチンパンジーやヒヒが肉を食うこともあるので一方的な被食者ではありませんが、傾向としては霊長類は被食者です。では、ヒトは? ヒトは特別な存在、でしょうか?
現在の世界でヒトを食う動物はけっこういます。大型ネコ科、クマ、イヌ科。そうそう、イヌ科で有名なのは狼ですが、北米では人を襲わないのに、ヨーロッパやインドでは現在でも狼による殺人は続いているそうです。そして、爬虫類。大型のニシキヘビだったら、ヒトを丸呑みすることは可能です。ヒトがヘビの食料だったかどうかは化石の証拠はありませんが、小型の霊長類は現在でもヘビに食べられています。オオトカゲやワニは“現役”の人食いです。
海にはサメがいます。人食い鮫は有名な存在ですね。そして空には猛禽類が。カンムリクマタカは大型霊長類を捕食します。だったら初期人類は? 実は初期のヒトの化石の頭蓋骨に、カンムリクマタカの爪にぴったり合う穴が開いたものがあるのです。
防御戦略は様々です。著者は「二足歩行と言語によるコミュニケーションは、捕食から逃れるために人類が発達させた」と述べていますが、進化論的に言うなら「二足歩行と言語のセットを持った種が、捕食者に全滅させられずに生き延びることができた」の方が正確でしょうね。妊娠・出産に長い時間がかかる上に生まれる子は基本的に一人だけですから、次々食われたら種の存続にかかわりますもの。「狩るサル(ヒトは暴力性を本性とする捕食者)」説は、科学的根拠よりはむしろ「ヒトが食われるなんて考えたくない」という感情や「原罪(ヒトは悪いものである)」という宗教的信念を根拠にしているのではないか、と著者は想像しています。科学なら科学的エビデンスをベースにするべきだ、と。化石記録や現在生きている狩猟採集民族の生活などを参照しつつ、著者は捕食者から逃げ延びる戦略を7つあげ、それが現在の我々の基礎になっていることを示します。
想像力を刺激してくれる刺激的な本です。実際の所はどうだったんでしょうねえ。本書を読んでいると、タイムマシンが切実に欲しくなります。
地球が寒冷化していたときに、氷河などに水を取られるから海面は今よりぐっと下がっていたそうです。すると、当時の浜辺の集落の遺跡は、当然今は海の底。昔について正確に知りたかったら、海底をどうやって発掘するか、の方法論を検討する必要がありますが、これから温暖化が進んで海面上昇が来たら、発掘はさらに困難になりそうですね。また氷河期になるのを気長に待ちます?
そういえば、竜宮城の位置はわかっていましたっけ? ここの発掘結果も詳しく知りたいのですが。
【ただいま読書中】『沈没船が教える世界史』ランドール・ササキ 著、 メディアファクトリー新書016、2010年、740円(税別)
潜水漁師やスキューバダイバーが海底で“お宝”を拾う、ということはそれほど珍しいことではありませんでした。それを知った考古学者が彼らから昔の遺物を入手することもありました。しかしそれは「考古学」ではありませんでした。考古学者が自ら潜る「水中考古学」を確立したのは、ジョージ・バス。ダイバーを考古学者に育てることよりも、考古学者が潜水を覚える方が簡単です。1960年に彼は初めてトルコ西南部で潜水を行います。紀元前1200年に沈没したと推定される船の調査で、様々な遺物とともに、縄が「もやい結び」をされていることが発見されました。『オデュッセイア』で描写される「船内の荷の下に枝木を敷く」もそのまま見つかりました。
ポルトガルに大航海時代の証拠は、実はあまり残っていません。正式な記録文書はリスボンの大火でほとんど失われ、船も現物はほとんど残っていません。例外が海底です。リスボン河口で発見された沈没船の調査では、船の形がわかり積み荷では胡椒も腐らずに残されていました。酸素が断たれた状況では、地上よりも遺物が残りやすい場合があるのです。スペインも大航海時代に発展しましたが、ポルトガルと同様貿易を「国家の専売事業」とする(著者に言わせれば)「古いビジネスモデル」で行っていました。そこに登場したライバルが、イギリスやオランダです。「大航海時代」「宗教改革」「ルネサンス」は密接に関係していることを世界史では見逃すな、と著者はまるで教師のような口ぶりです。
オランダの東インド会社は詳細な記録を残しています。1602年の会社設立から解散した1799年までに8190回の航海を実行し、うち305隻が座礁または沈没しています。けっこうな確率です。その中で有名なのが、1629年オーストリア請願の珊瑚礁に座礁した「バタヴィア号」。積み荷で目立つのは、石のブロック。これはバタヴィア要塞の建設資材です。また、積んでいたオランダやドイツの銀貨は古いタイプで本国ではすでに使われなくなったものでした。それでもアジアでの交易には使えるからと“リサイクル”使用をしていたようです。
1511年イギリスが世界で最初に建造した巨大軍艦「メリー・ローズ号」はフランスとの戦いで1545年に沈没しました。1836年に一度発見されましたが、また位置がわからなくなり1966年に再発見されています。発見された遺物はすべて正確に位置を記録してから引き揚げ、最後に頑丈な囲みを船体に設置して丸ごと引き揚げる、という手法が採られました。発見された武器は様々です。青銅製あるいは鉄製の大砲。大量の弓矢もあります。当時の海戦の基本が白兵戦だったことを示しています。船尾付近(位の高い軍人の居住スペース)ではチェスが、大砲のそばではサイコロが見つかりました。櫛もありましたが、これはおしゃれ用ではなくてシラミ取りのためでしょう(元寇の船からも櫛が見つかっているそうです)。
スペイン無敵艦隊の沈没船に対する考古学的調査でも興味深い知見が続々見つかっています。「無敵艦隊」とは言いますが、明らかに地中海用に作られた船を大西洋で使っていたり、自分が撃った大砲の振動で船体に隙間が開いたり、という「無理」が目立ちます。また、装備もバラバラで、大砲の弾も大きさがバラバラです。無敵艦隊の敗北以降、海戦は長距離からの砲撃戦、という新しい常識が生まれたのですが、これは無敵艦隊からの“世界への教訓”だったのかもしれません。
アジアでは「船に関する書類」があまりしっかり残っていません。だから水中考古学が大活躍することになります。日本を目指していて沈没した中国船から大量の銅銭が出土(出水?)したのですが、これは単なる「銭」の輸入ではありません。当時の中国では時の王朝が発行した貨幣にしか「価値」はありません。しかし前王朝の銅銭でも日本では喜んで受け取ります。だから船にバラスト代わりに大量に積み込んで高く売り、それで(当時の中国より)相対的に安い「金」を買い付けて中国に帰る、という貿易が成立していました。その動きを知ったマルコ・ポーロが「ジパングは黄金の国」と言った可能性も考えられます。
水中考古学では「沈没」という擾乱要素がありますが、水底は「保存」には向いていることから、調査の御利益は大変大きいようです。潜る学者は大変ですけどね。だけど日常生活の断片から“生きた歴史”がわかるのはとても楽しいことです。ますます各地で新発見があると良いのですが……って、これは「難破していれば良いのに」と言っているのと同義になっちゃいますか?
昨夜久しぶりに街に出たのですが、道はすごい車の量、街も人の波でした。会話を聞くと、御用納めで今日は楽しもう、ということだったようです。
うらやましいなあ。私は今日もお仕事です。ま、毎年のことですから慣れっこではあるのですが。仕事があるのはありがたいことですし。
【ただいま読書中】『調律師、至高の音をつくる ──知られざるピアノの世界』高木裕 著、 朝日新聞出版(朝日新書)、2010年、700円(税別)
ピアノ(の御先祖様)が生まれたのは1709年、メディチ家お抱えの楽器職人クリストフォリが「グラヴィチェンバロ・コル・ピアノ・エ・フォルテ(ピアノからフォルテまで出るチェンバロ)」を発明しました。当時の音楽は「サロン」で演奏されるものでした。ところがアメリカで1891年に2800人も収容できるカーネギーホールができて、クラシック音楽は大きな影響を受けることになります。「サロン」ではなくて「ホール」にふさわしい楽器が求められたのです。オーケストラは人数を増やすことで対応します。もう一つの手段は、楽器の改良で音量アップ。1850年にドイツから移民をし、53年にニューヨークで「スタインウェイ&サンズ」というピアノ制作会社を作っていたスタインウェイは、大きく遠くに届く音を出すピアノを開発します。スタインウェイのピアノとカーネギーホールを目指して才能あるピアニストが集結、様々な注文をつけることでピアノはさらに進化、という好循環が生まれ、30年かからずに現在のピアノの原型が完成しました。
コンサート前の調律師は大忙しです。多くのピアニストは“そのホール”にあるピアノを使います。つまり個性は千差万別。それを限られた時間(多くは2時間以内)で、整調(ピアノの部品の動きを揃える)・整音(ピアノの音色を作る)・調律(音程合わせ)を行うのは困難です。普通は調律しかできないそうです。著者は自分の工房で完全に近い形に仕上げたピアノを各ホールに持ち込む、というやり方を採っています(そのための専用運搬車(愛称ごぶちゃん)も著者が開発して特許を取っています)。ただしその場合でも、各ホールの環境(温度や湿度、ホールの響き、客の入り、など)、演奏家の個性、演奏曲目、演奏によるピアノのコンディションの変化、などを考えると、現地での調律は大変そうです。
そうそう「ピアノを運搬したら振動で調律が狂ってしまう」というのは迷信だそうです。19世紀後半から20世紀にかけてスタインウェイ社は巨匠の演奏のために馬車や列車でピアノを運搬していましたが、ピアノは振動には強い楽器なのだそうです(温度や湿気の変化には弱いそうです)。著者も東京から大坂までトラックでピアノを運搬したら全然狂いが生じなくて、現場で調律のための時間を持てあましてしまった経験を持っているそうです。
調律師は、ピアノだけではなくて、ピアニストもじっと見つめています。一見上手そうに見えても実は下手なピアニストがいるそうですが、腕の善し悪しを見分けるコツの一つは「弱い音」がきれいにコントロールできているかどうか。つまりピアノで「ピアノ」がきれいに出せる人が上手いピアニストだそうです。強い音には楽器の制限がありますからそれほど人による差は出ませんが、弱い音を上手く出せたら音量の幅が広がってその分曲のダイナミクスが拡大することになる、という理屈です。おっと、著者は「ただのピアノ弾き」と「アーティストとしてのピアニスト」も区別しています。「ピアノ弾き」にとってピアノは「単なる音の出る道具」で、「ピアニスト」にとっては「自分を表現する道具」だそうです。
本書では随所に「F1カー」のたとえが登場します。もちろん調律師は「F1の整備士」に相当する立場で、彼らがきちんと車を仕上げなければどんなに腕の良いドライバーでも車を速く走らせることはできません。さらに「そのドライバー」に合わせたチューニングをしなければ、「その車とそのドライバー」のセットは速く走れないわけです。調律師の仕事は「音程合わせ」くらいに思っていましたが、いやあ、奥が深い。なんだか修業をしたくなりました。
「つべこべ言うな」と言われたら「こべつべ」と言い返すのはどうでしょう。少なくとも「つべこべ」とは言っていません。ただ、続けて言うといつの間にか「つべこべ」に戻ってしまう可能性があるのが、難点です。
【ただいま読書中】『高速道路の謎 ──雑学から知る日本の道路事情』清水草一 著、 扶桑社新書058、2009年、740円(税別)
2009年に「週末休日高速道路1000円で乗り放題」が始まり、高速道路で遠出する人が増加しました。それに伴って渋滞の発生状況もそれまでと変化しました。
「渋滞の名所」は日本の各地にありますが、その多くは「サグ渋滞」です。「サグ」とは「窪地」のことで、下ってきた道路が登りに転じる地点ですが、そこでは多くのドライバーが無意識にアクセルを緩めてしまいます。「サグ」はカーブやトンネル、車線が減少する地点にも存在していて、ちょっとしたことで自然渋滞が発生してしまいます。
事故渋滞もあります。車線が減る影響もありますし、(見物のため速度を緩める)「見物渋滞」も発生します。事故渋滞は自然渋滞に比較して抜けるのにの2~3倍時間がかかります。
渋滞に出くわしたとき、高速道路から下りた方が良いかどうか、ですが、「だらだらと少しずつでも動いている渋滞」だったらそのままの方が有利だそうです。もっとも「動かない渋滞」だったら高速から下りることはできませんけど。著者は、自身の体験や同じ渋滞で二台の車で高速と下道での比較試験をしたりしていますが、他人ごとだと笑えます。ただ、5時間の渋滞とか6時間とか言われると、聞いただけでうんざりしてしまいますが。
東名高速道路は最初は中央道の位置に計画されていました。名神はその延長に位置づけられていました。だから名神高速道路の法定路線名は「中央自動車道西宮線」なのだそうです。
高速道路(網)に関して、東京は長男・大坂は次男・名古屋は三男によくたとえられるそうです。で、その評価は「愚兄賢弟」。都内の一般道がパンクしてから泥縄で建設された首都高は、ポリシーはなく用地は不足していて、非常に悲惨な「愚兄」です。
ドイツのアウトバーン、イタリアのアウトストラーダ、アメリカ、中国、韓国などの紹介もありますが、ユニークなのが北朝鮮の高速道路。著者はバスに乗って移動していますが(外国人は運転禁止です)、ガソリン不足で共産党の幹部しか運転できない国で、なぜ高速道路?という疑問を持っています。そうそう、日本の高速道路も国際的に見てひどく謎の現象があるそうです。それは、号線番号が振られていないこと。路線やインターチェンジに番号がないと、漢字が読めない外国人にはとんでもない不便なことになるそうです。
そうそう、2001年に高速道路民営化論が出てきて、石原大臣はイタリアのアウトストラーダ社を視察して「イタリアのサービスエリアは日本よりすばらしい。やはり民営化しかない」と言ったそうですが、著者は自身の体験から「イタリアのサービスエリアがそんなに良いか? 日本のサービスエリアの90年代はたしかに悪かったが、石原大臣は最近の現状を知らずに言っているのでは?」と思っています(著者がイタリアで食べた最悪のパスタは、サービスエリアの食堂だったそうです)。たしかに以前よりサービスエリアの“サービス”はずいぶん良くなっています。私は残念ながら国際比較ができる体験がないのですが。
「塩蔵」……塩の保存庫
「腹蔵ない」……内蔵がなくて腹は空っぽ
「私蔵」……私の蔵です
「蔵書」……蔵が必要なくらい本を持ちたい……私の個人的夢です
「死蔵」……死体置き場
「地蔵」……地下の保管所
「大蔵省」……大きな蔵を誇りとするお役所
「蔵王」……蔵の王様
【ただいま読書中】『シャルダムサーカス』ダニイル・ハルムス 著、 田中隆 訳、 未知谷、2010年、1600円(税別)
ロシア・アヴァンギャルドの作家の子供向け雑誌に連載された作品の短編集だそうです。27も作品が収載されているので目次は省略しますが、その内12編のタイトルが「×××」。ふざけているのかな?
「子供の家(孤児院? 保護施設?)」でなぜか毎晩ヒューズが切れるのを、ドラゴエモンという子供が立派に修理する話とか、ロシアの子供たちが飛行場に出かけて飛行機に乗せてもらってブラジルまで行ってしまうが帰ってきてその話をしても誰も信じてくれない、とか、なんだか不思議な味わいの作品が並んでいます。「月から落ちてきたおばあさん」がインクを求めて街をさ迷うシーンでは、「月から落ちてきた人の視線」ですから、見慣れた街の風景が異化されてしまいます。私までエイリアンになった気分。それでもきちんと物語はハッピーエンドになるのですから、不思議です。
作品が発表されたのは1920年代末~30年代なのですが、当時のソ連の子供たちはこんな小説を読んで育っていたのでしょうか。そのまま“素直”に育っていたら、冷戦はもうちょっと違った姿になっていたかもしれません。
各個人はまったく別の人間ですから、結果として格差が生じるのは仕方ないと私は思っています。ただ、格差が固定する(金持ちの子は金持ちになるだけ、貧乏人の子は貧乏になるだけ)はよろしくないでしょう。これでは格差が「結果」ではなくて「原因」ですから。ということで、金持ちには「贅沢をする義務」を課したらどうでしょう。じゃんじゃん消費してもらうわけです。そうすれば富が一箇所に固定されず、社会の中をずんずん流れてくれます。つまり「売り家と唐様で書く三代目」を金持ちの責務とするわけ。どうせあの世には持って行けないのですから、この世でどんどん使ってくれませんかねえ。
【ただいま読書中】『じゃんけん学 ──起源から勝ち方・世界のじゃんけんまで』稲葉茂勝 著、 今人舎、2015年、1800円(税別)
平安時代にあったのは「虫拳」と呼ばれる三すくみです。握り拳から小指を立てたら「蛞蝓」・親指が「蛙」・人さし指が「蛇」で、蛙は蛞蝓に勝ち、蛞蝓は蛇に勝ち、蛇は蛙に勝ちます。なんだかわかりにくく感じます。
江戸時代には「本拳」が中国から伝わりました。二人が向かい合い、同時に片手の指で数(0~5)を出すと同時に口では二人の数の合計数を予測して言い合い、当てた方が勝ち、という遊びで、「数拳」とも呼ばれます。
日本オリジナルのものでは「狐拳(庄屋拳)」があります。体全体を使って「鉄砲・庄屋・狐」を示します。これは日本軍によってアジアに広められ、ミャンマーでは「鉄砲・上官・虎」だそうです。
江戸時代に「石拳」が流行します。虫拳はわかりにくいし、本拳は面倒、ということで、本拳の「0、2、5」だけを使う三すくみ……ほとんど今のジャンケンと同じです。なお「じゃんけん」は中国の「両拳(二人でおこなう拳遊び)」がなまったもの、という説が有力だそうです。「石拳(じゃくけん)」がなまった、という説もありますが、さて、何が本当なのでしょう。各地で方言もあります(関西では「いんじゃん」、九州では「しゃりけん」)。
明治時代に「じゃんけん」はイギリスに伝わり、そこから世界中に広がったそうです。ところが「何でも韓国起源」と言いたがる韓国は、当然のように「じゃんけんも韓国起源で世界に広がった」と主張しているそうです。ともかくじゃんけんは世界に広まり、2002年にカナダでWorld Rock Paper Scissors Society(WRPS)という国際組織が結成され、世界じゃんけん大会も行われています。
「最初はグー」が始まったのは1960年代の終わり頃。私は「最初はグー」ではなくて「じゃんけんぽん」で育った口です。私の子供時代は「後出しだ!」でもめることが多かったのですが、タイミングが取りやすい「最初はグー」が広まってからはあまりこのトラブルは発生しなくなったそうです。これを始めた、あるいは少なくとも全国に広めたのが「8時だョ!全員集合」で、ドリフターズのコントの中に「最初はグー」があったそうです。
延べ725人にジャンケン勝負をトータルで1万回以上してもらった調査では、「グー」35%「チョキ」33.3%「パー」31.7%だったそうです。心理学的には、人間は緊張するとグーを出しやすくなるのだそうですが、本当かな? なんだか本当そうな気もしますね。ちなみにAKB48のじゃんけん大会でもグーが一番多いそうです。
世界各地のじゃんけんの紹介もありますが、私が心引かれたのはマレーシアの「ワン・ツー・ズーム」のじゃんけん。手の形は5種類あり(水、岩、拳銃、板、小鳥)それぞれにすべて勝ち負けが決まっています。五行の「相生・相剋」を思わせる図が載っているのが、本当に魅力的。よくよく見たら矢印の向きが五行とは微妙に違うのですが、これは細かい違いなので気にする人はあまりいないでしょう。私も気にしないことにします。
世界平和が実現したとして、喜んで世界中の軍備を撤廃したら、大いに喜ぶ人がいます。テロリスト集団です。武器商人や軍需産業が“失業”したらテロリストの装備も貧弱になっては行くでしょうが、それまでに手持ちの武器や手製爆弾などで大いに暴れることができます。しかもそれを押さえる「軍」が撤廃されている。すると、テロリスト対策部隊を国連の下にでも残しておく必要があります。あらら、これで「世界平和が実現できた」と言えるのかな?
【ただいま読書中】『大統領になる方法(下)』T・H・ホワイト 著、 渡辺恒雄・小野瀬嘉慈 訳、 弘文堂、1964年、650円
1960年、国勢調査を見る限り、アメリカ社会は変容していました。全体の人口はどんどん増えているのに、大都市と郡部の人口は減少し始めています。ではどこで増えているのかと言えば「郊外」です。ライフスタイルも変わってきています。郊外の生活は必然的に自動車を必要とし、長時間の通勤にも車を使います。個人はクレジットに頼るようになりますが、それは政府の財政行動にも影響を与えます。職業構造も変わります(たとえば石炭産業は凋落しつつありますし、農民や自営が減って被雇用者が増えています)。
アメリカには「対立」が多数あります。たとえば(移民国家だから)各人種ごとのコロニーがありそれぞれに“ボス”がいます。最も大きな対立は「白人/黒人」「新教/旧教」。黒人は南部から北部に流入し続けていました。この黒人票をどう掴むか、が白人候補者の課題です。かつて新教は共和党/旧教は民主党という区分けが厳然とありました。しかしカトリックが大量に共和党に流れていました。このながれをどうやって逆転させるか、が民主党の課題です。
「ケネディ・マシーン」は斬新な働きをしました。若い世代に働きかけ、ボランティアを募ったのです。複雑な選挙運動の推進力になったのが、J・Fの弟ロバート・ケネディでした。まず民主党でケネディが勝ちます。全国世論調査ではケネディが優勢となります。ついで共和党大会でニクソンが勝ちます。すると世論調査はニクソン優勢となります。二人の目的は「南部の白人と北部の黒人の両方を獲得すること」。それができたら全国で勝利できるのです。
全国を遊説して回る内に、ケネディは「自分のテーマ」を発見します。演説は少しずつ洗練され、しゃがれ声で早口だった演説は、響きの良い声でゆっくりと話す話し方に変化していきました。対してニクソンは、最初はきれいな声でゆっくりと自信に満ちて喋っていたのが、だんだん早口で憂鬱げなしゃべり方に変わっていきます(著者はその両方を実際に見守っています)。
ニクソンは車のドアに膝をぶつけ、その傷が化膿して8月29日~9月9日の間入院します。ニクソンは焦燥します。失われた時間を取り戻そうと、退院直後に強行軍。風邪を引き枯草熱を発症し、声は嗄れます。強行軍でニクソンは疲れますが、同行する記者たちも疲れてしまいます。ニクソンと腹心は、テレビで大衆に直接訴えることの方を重視していたので、記者へのケアを怠りました。ところがニクソンは、テレビ映りが悪かったのです。著者はポータブルテレビを演説会場に持ち込んで見た、「実際に目の前で見る快活なニクソン」と「テレビに映っている陰鬱なニクソン」とのイメージの落差の大きさに驚きます。
アメリカはテレビ時代になっていました。1950年には全世帯の11%がテレビを所有していましたが、60年には88%。そこで全く新しい企画「テレビ討論会」が登場したのです。9月26日第一回のテレビ討論会が開催されました。ケネディはその日はゆっくりホテルで過ごし、腹心と原稿や想定問答集に手を入れます。ニクソンは自分に敵対する大工・指物師同業組合で忙しく演説を行い、あとは部屋に閉じこもって協力者たちから隔絶されて過ごします。
一般に「ニクソンはメイキャップをしなかった」と言われていますが、実は軽いメイキャップ(「レイジー・シェイブ」という、無精髭を目立たなくするための白粉)はしていました。対してケネディは自信満々。カメラテストで白いシャツの反射が、という指摘があると、即座にホテルから青いシャツを取り寄せて本番直前に悠々と着替えています。7000万人の前での討論会で、二人の態度は対照的でした。ニクソンはケネディを相手として発言を繰り返します。しかしケネディは「全国民」を相手として発言を続けました。だから、ニクソンはケネディを論破しても、それは視聴者の心には届きにくかったのです。さらにテレビ映りの悪さと病み上がりのコンディションの悪さ(精気の無さ)により、テレビではニクソンは惨敗となります(ラジオでは聴取者の評価は五分五分だったそうです)。
ケネディに同行する記者たちは、第一回討論の翌朝、オハイオ州でケネディが「熱狂」に迎えられたことを印象的に覚えています。このテレビ討論によって、ケネディは200万票を稼いだ、という推計があるそうです。本選挙でケネディはニクソンに11万2000票の差をつけて勝ったのですが、するとこの200万はとんでもない価値があることになります。
ニクソンに同行する内に著者はニクソンの弱みというか、人間味を知っていきます。本当は繊細で傷つきやすい人間だったのです。そうそう、著者は面白いことを言っています。「ニクソンはケネディが好きだったが、ケネディはニクソンが好きではなかった」。本当にそうなんでしょうか?
大統領選挙が最後の3週間に突入したとき、マーチン・ルーサー・キングの逮捕事件が起きます。ケネディはすぐにキング夫人に支持を約束する電話をし、ボビー・ケネディはジョージア州の判事に電話して仮釈放をさせます(刑務所内でリンチにあって殺される恐れがあったのです。それは全米規模の暴動になったでしょう。)。うっかり「キング牧師支持」を口走ったら、黒人票を得るかわりに南部の白人票をまとめて失う恐れがありました。しかし「キング釈放」のニュースは、黒人社会でだけ評判となります。瞬間的なケネディの決断が、幸運を招いたのでした。
著者は、両方の候補者に代わる代わる同行取材をしていて、二人が記者と付き合う態度があまりに違うことに驚いています。私は記者たちの朝から晩までのドタバタ生活の方が驚きでしたが。
投票と開票の長い一日が過ぎます。ただしこの描写は実は上巻の先頭に置かれています。そして当確が出た瞬間「秘密警察(シークレットサービスのことですよね?)」が次期大統領護衛のために即座に動き出します。ギリギリまで待たされて、結果が出た瞬間「急げ急げ」ですから、彼らも大変です。
本書は大統領選挙の熱気がまだ収まる前に執筆されました。非常に優れた選挙運動のドキュメンタリーであり選挙制度の解説書にもなっていますが、同時に「アメリカ」という国の豊かな分析記録でもあります。古い本ですが、今でも面白く読めます。いやあ、これは意外な拾いものでした。
もし確実に「世界平和」が実現できる手段が見つかったとしても、話は簡単には進まないでしょう。妨害者が出現しますから。まずは武器商人や軍需産業。彼らは失業を望まないはずです。特に軍需産業は多くの国で政権と密接な関係を持っていますから、自分たちのためなら何でもやるでしょう。となると、そういった人たちの失業対策を考えてからでないと、世界平和は実現しないことになります。
【ただいま読書中】『大統領になる方法(上)』T・H・ホワイト 著、 渡辺恒雄・小野瀬嘉慈 訳、 弘文堂、1964年、650円
1960年の大統領選挙の熱気が冷めないうちに、と書かれた本です。つまり「歴史」ではなくて「ドキュメント」を志向しているのでしょう。私から見たらもうしっかり「歴史」なんですが。この年の民主党の候補はケネディ、共和党はニクソンでした。しかし「選挙運動」は選挙の1年以上前から始まっていました。
著者は「国のリーダーを選ぶのに、他の国と全く違う アメリカの特徴は『少人数のグループが大衆を動員する』ところにある」と述べます。59年、早い候補では58年にすでに数人(多くてせいぜい十数人まで)がひそかに会合を持ちます。彼らが「クライマックス」とするのは「大統領選挙に勝つこと」ではなくて「大統領候補者の指名を受けること」です。この二つは政治的には全く別の問題なのです。
まず登場するのは、民主党のハンフリー。ああ、この人の名前は記憶にあります。彼は副大統領候補を熱望していましたが2回続けてそのチャンスを逸していました。しかし、フルシチョフとの会談などで政治的な存在感を増していました。これがラストチャンス、とハンフリーは大統領選への出馬を決意します。ハンフリーはミネソタ州で政治的に成功し、そのやり方を全国に敷衍しようと考えていました。ただ、大統領候補になれる確率は10%程度とハンフリーは踏み、それなら自分の主張を派手にぶち上げてそれを大統領候補に採用させよう、と考えます。ミズーリ州からはサイミントン。資金はなくミズーリ以外では知られていません。しかし民主党大会がデッドロックに乗り上げるのなら(南部の政治プロ、東部の労働組合、人種、宗教などがばらばらで候補指名がひどく難航したら)どことも強い繋がりがないことがかえってメリットになる、と考えます。リンドン・B・ジョンソンは古くさい南部流の選挙運動をすると思われていました。しかし彼とそのブレーンはもうちょっと全国レベルのことを考えていました。民主党大会がデッドロックに乗り上げても、自分たちに有利な解決策があると思っていたのです。このリンドン・ジョンソンを描写する中で、著者はもう一つの対立構図を見つけます。世代間の対立です。リンドン・ジョンソンは「ニュー・ディール世代」でした。しかしJ・F・ケネディはもっと若い世代に属しているのです。1959年10月28日(水)朝、マサチューセッツ州ハイアニス、ロバート・ケネディの家の居間で重要な会合がもたれました。「ケネディ・マシーン」の誕生です。そうそう、ケネディに限りませんが、アメリカでは大統領候補のブレーンに、必ずと言って良いほど「弁護士」が含まれていることが目を引きます。アメリカ社会では弁護士が様々な分野で“活躍”しているようです。
共和党は本書執筆時にすでに「右翼的」と見なされていました。しかし共和党はかつては自由主義・進歩主義の政党でした。奴隷制度廃止・文官制度の開始・独占禁止法・鉄道統制法・消費者保護法などは共和党がアメリカにもたらしたものです。しかし1912年にシオドア・ルーズヴェルトとタフトの対立でタフト派の「党人」が勝利して以来、進歩的で知的な市民グループは4年に1回の党大会の時だけ影響力を行使できるようになってしまいました。……ということは、「選挙の年」とそれ以外の年では、共和党は別の顔を見せる、ということです?
1952年の大統領選挙で共和党は地滑り的な大勝利を得ました。しかしアイゼンハワーの任期中に共和党の勢力は減退、58年の中間選挙では共和党は惨敗しました。共和党で大統領選に出馬を考える人たちは、この情勢の中でどうするか、をまず考える必要がありました。副大統領のニクソンもその例外ではありません。
中産階級から自力でのし上がり、他人を信頼するよりも何もかも自分でやろうとするニクソンに対照的なのが、金持ちのネルソン・ロックフェラーでした。ロックフェラーはニクソンを嫌っていました。そしてロックフェラーは共和党の党人派に嫌われていました。
予備選挙(本書では「プライマリ」)も党人派には嫌われています。大統領候補を決定する手続きが、党の指導者ではなくて党員たちの手に託されているのですから。プライマリが始まったのは20世紀になってから(1903年ウィスコンシン州)。多くの州でこの制度は採用されたり廃止されたりしましたが、1960年には16の州でプライマリが行われていました。ハンフリーは5つの州でプライマリにエントリーし、ケネディは7つの州を選択しました。そして二人は4月5日にウィスコンシン州で対決することになります。
予備選挙は複雑なものです。それぞれの州に特殊事情があり、複雑な支持基盤があります。そこで戦うことは、代議員を獲得したり全国に名を売る、というメリットもありますが、“内戦”で(金も名誉も)消耗するというデメリットもあります。本書にはその過程が実に詳しく描写されて、部外者は無責任に楽しむことができます。当事者たちは大変なんですけどね。
そして「U2撃墜事件」が発生します。フルシチョフはこれを最大限に活用します。もちろん事件の影響は、次期大統領にも及ぶことになります。
寒くなると私の楽しみは駅伝の鑑賞です。先日は高校駅伝があったのですが、いやあ、あの躍動感と疾走感はすばらしいものです。青春時代の思い出が心の中に蘇ります。ただ、ちょっと気になったのが、多くの選手が時計を気にしていること。いや、途中のペースを確認するためならわかるのですが、ほとんど走り終えてたすきを渡す直前に時計を見ている選手がいたのが私には「?」でした。そのコースを自分が何分で走り抜いたのかはたすきを渡した後、誰かに教えてもらえば良いことです。たすき渡しでは“事故”もあり得るので、時計を見るよりも一番大事なことに集中した方が良いのではないか、と思えてならないのです。心配性の年寄りの繰り言かもしれませんが、時計を見たって、それで遅れが取り戻せたりするわけではないでしょう?
【ただいま読書中】『散歩する侵略者』前川知大 著、 メディアファクトリー、2007年、1333円(税別)
ストレスからしょっちゅう“幽体離脱”する妻。突然人格が“リセット”されてしまった夫。リセットされた夫は妻を「ガイド」として雇います。ファミリーレストランでは宇宙人の地球侵略会議が開催されます。その宇宙人は仲間とはぐれてしまったのです。おばあちゃんは人体内部の構造を研究しようとして自分自身を解体してしまいます。
宇宙人の仕事は「概念の収集」です。そのためには質問をして回らなければならないのですが、言葉を正確に使い嘘とか意味のない挨拶を知らない宇宙人には、コミュニケーションは困難です。というか、こういった観点から日本での日常会話を見ると、たしかに無意味なやり取りがやたらと多いですねえ。「侵略」されているのに、笑えます。
おっと、事態は笑い事ではなくなりました。「概念の収集」をされた人間は、その「概念」を喪失してしまうのです。たとえば「時間」の概念を失った人は、動けなくなります。「死」の概念を失った人は「生死」がわからなくなります。「家族」の概念を失った人は……
侵略者たちは散歩を続けます。散歩して会話をして言葉の裏付けとなる概念を明確化して、「それを、もらうよ」。まるで夏休みに小学生が昆虫採集をするように、宇宙人は散歩を続けます。一歩ずつ戦争が近づく日常世界の中で。
そうそう、ある一つの概念を奪われた人々の行動を見ていて不思議な気分になります。もしかしたら「何か大事な概念」を、奪われたのではなくて最初から持っていない人もけっこうたくさんこの世に存在しているのではないか、と。で、そういった人たちによってこの世は動いているのかもしれない、と。たとえば(言葉は知っていても)「平和」とか「愛」とかの概念を欠いた人が政権にいたら、その国はどんな行動を取るだろうか、なんてことを思ってしまいました。ちょっとぞっとする想像ですが。
夫婦別姓反対派の主張の一つとして「少数派は黙ってろ」というものがあります。しかし私はこの主張には反対です。だってそれが“正しい”のだとしたら、もしも「夫婦別姓(事実婚)」が“多数派”になったら、こんどはすべての人に「夫婦別姓」が強制されることになっちゃいません? 私自身は夫婦同姓ですが、それに対して別姓を強制されることはイヤです。だから、現在の夫婦別姓を望む少数派の人にも同姓を強制しようとは思いません。自分が強制されてイヤなことは他人に強制したくない。
生命に関わらないことでは、「強制」よりは「共生」の方が、良いのでは?
【ただいま読書中】『「日本は降伏していない」 ──ブラジル日系人社会を揺るがせた十年抗争』太田恒夫 著、 文藝春秋、1995年、1456円(税別)
ブラジル時間で1945年8月14日(日本時間では8月15日)、東京からの短波放送「ラジオ・トウキョウ」が日本の敗戦を伝えます。日本人社会は動揺します。しかし数時間後「あれは誤報。実は日本は勝った」という大ニュースが次々に伝えられました。日本上陸寸前の米軍、満州のソ連軍、中国軍などはどれも全滅または大損害を受けた、というのです。これは「快報」「快ニュース」と呼ばれ、日本が降伏したという「デマ・ニュース」を顧みる人はほとんどいませんでした。さらに日本勝利を信じる人たちは戦争中に結成された「臣道聯盟」に集結、負け組の人たちに「敗希派(敗北を希望する輩)」との蔑称を与えます。ブラジル警察は「日本人社会で解決するように」と事態を静観します。
敗戦当時、ブラジルにいた日本人は30万人。臣道聯盟の最盛期にはその内10万人が臣道聯盟に属しました。負け組は圧倒されます。大使館は何をやっていたんだ、と思いますが、41年に国交断絶、大使たちには帰朝命令が出ていたのでした。
やがて、「デマ・ニュース」を流す奴は売国奴・国賊、天誅を下すべき、という強硬意見が出始め、実際に地方では負け組に対して脅迫が始まります。敗戦の記事が載った新聞は入手困難で(日本からの送付には米軍の許可が必要でした)、たとえ到着しても「これは敵の謀略」と一蹴されました。そして、1946年3月7日、最初のテロが実行されます。背後からピストルによる「天誅」が下されたのです。臣道聯盟では「実行部隊」が結成されていました。メンバーは臣道聯盟を脱退した青年たちで、数班に分かれて射撃訓練も行っていました。3月のテロの犯人は不明のままですが、4月1日の襲撃では警官隊と撃ち合いになり二人が逮捕されています。その口から暗殺対象の日本人が23人であることを警察は知りますが、結局41年4~8月に三十数件の襲撃事件が発生します。日本政府もさすがにこれはまずいと思ったのでしょう、日本の検疫を代表しているスウェーデン公使館経由でブラジルにメッセージを送りますが、この言葉遣いがどうも歯切れが悪いもので、勝ち組は「勝利によって、迎えの船がやっている」という解釈を日本人社会に広め、混乱はさらに増すばかりでした。サンパウロ州政府は日本人の代表(ほとんどが勝ち組)600人を役所に集めて説明会を行いますが、ここも大混乱。会場での勝ち組の狂態を見て新聞は勝ち組どころか、日本人移民全体に対する嫌悪感を表明、とうとう国会で日本移民禁止論議まで始まってしまいます。(イスラムのテロリストに対する嫌悪感があっさりイスラム全体に対する嫌悪感に発展したのと似た動き、と私は感じました) サンパウロ州の地方都市オズワルド・クルスでは、臣道聯盟の暴虐(暴力や放火など)に対する反感が高まっているところに、日本人によるブラジル人殺害事件が発生。あっというまに日本人(負け組を含む)をターゲットとしたブラジル人による暴動がはじまり、鎮圧のために軍隊が出動しています。
46年8月。さすがの勝ち組にも「あれ? おかしいぞ」と思う者が出始めました。しかしここでやめたら今までやったことが無駄になります。それに逮捕されて罰せられるのなら、負け組を道連れに、ということで、負け組に対するテロはやみません。ただ、殺人は47年1月が最後、となりました。47年2月11日臣道聯盟は解散し、メンバーの一部は詐欺師とその被害者に、一部は忠臣愛国をひたすら守る守旧派に、一部は敗戦の事実を認識するグループに、と分裂してしまいました。
「詐欺師」の話は、うら悲しいものです。敗戦だけでも大問題なのに、「勝った」「負けた」で混乱に輪がかけられ、さらに「固い信念を持つ人」はその信念につけ込まれやすいようです。人の悲劇を食い物にする詐欺師は、個人ではなくて社会倫理に対する犯罪者でもありますね。
戦前にブラジル移民となった日本人は「日本は一等国、ブラジルは三等国」と軽蔑をしていました。しかしブラジルでの生活は苦しく、差別もあり、さらに戦争が起きて立場は苦しくなります。さらに二世たちはブラジルに同化し始め「日本人」でなくなろうとしています。そういった状況での「敗戦」ですから、それが受けいれられなかったことに、ある程度の同情はできます。テロを容認しませんけどね。そしてほとんどの騒ぎが終わった1950年代、かつての勝ち組はこう言っていました。「テロは一部の跳ね上がり分子がやったことで自分たちは無関係」「あの戦争はアジアを解放するという正しい目的のためだったから、負けを認めたら目的が間違っていたことになる」。なんか、最近もよく聞く意見ですねえ。