【ただいま読書中】

おかだ 外郎という乱読家です。mixiに書いている読書日記を、こちらにも出しています。

偏った創出

2020-07-31 07:52:46 | Weblog

 地方創生に関してよく「雇用創出」と言いますが、人は雇われるだけなのでしょうか? 「起業創出」は?

【ただいま読書中】『地下鉄の駅はものすごい』渡部史絵 著、 平凡社、2020年、960円(税別)

 「東洋初の地下鉄」(浅草駅〜上野駅(2.2km))は昭和2年12月30日に開業しました。シールドマシンなどありませんから、人力での素掘り(開削工法)です。10銭入れてバーを手で押すターンスタイルの自動改札機も新しい物好きの江戸っ子に受けたそうです。ベルリンの地下鉄をお手本としていて、車両も同じ黄色とされました。ところが色が褪せてきて何度も塗り重ねると少しずつ赤みが増してきて、そのせいかシンボルカラーはオレンジ色となったそうです。これは本当の話かな?(ちなみに現在の1000系ではまた黄色に戻されているそうです)
 銀座線開業から日比谷線までは開削工法が用いられましたが、これは周辺住民には不評でした。そこで東西線の工事あたりからシールド工法が用いられるようになり、駅もシールドマシンが掘ったチューブ状の形状を活かしたデザインとなりました。
 東京の地下鉄は皇居の下を避けていますが、これは「憚っている」からというよりは、テロ対策だそうです。地下鉄に換気口はつきものですが、それを皇居に設置すると、テロリストが地下鉄から皇居に侵入しやすくなります。造ってから警備を厳重にするよりは、最初からそういった設備を造らない方が話がシンプル、ということでした。
 本書では「東京メトロ編」と「営団地下鉄編」に分けて、それぞれの駅の歴史や特徴が紹介されています。ただ、たまにしか上京しない人間には、メトロも営団も区別はつかないので、正直言ってこの分類は大きな意味を持っていません。というか、なんで統一しないんだろう?と以前から不思議に思ってます。
 時代や工法の違い、かけることができるコスト、環境の条件(地層、深さ、地表のビルの基礎がどこまで伸びているか、など)、設計者の思想、駅のコンセプト、などによって、地下鉄の駅には、私が予想したよりもはるかに「個性」が与えられていました。こんど上京して地下鉄を使うときには、ちょっと「駅」そのものを眺めてみることにします。

 


劇団四季

2020-07-30 07:31:30 | Weblog

 この劇団は私にとってはミュージカル劇団なのですが、地方公演で「アプローズ」だったか「コーラスライン」だったかを観たとき、最後の舞台挨拶で「来年はこちらに『エレファント・マン』でお邪魔します」と言われたとき、会場のあちこちで「おー」という歓声が上がって、私は面食らいました。ストレートプレイもやるんだ、と。1980年代前半、私が現在よりもはるかに無知だった時代の、ある種幸福な思い出です。

【ただいま読書中】『浅利慶太 ──反逆と正統──劇団四季をつくった男』梅津齊 著、 日之出出版、2020年、2200円(税別)

 著者は1962年に劇団四季の演出部員に採用されました。劇団は十周年記念特別公演の練習中でしたが、アヌイとジロドゥの4作品を交互公演で2回繰り返す、というとんでもない内容でした(役者も大変ですが、裏方も大変なことになるのです。舞台は一つですから)。さらに工事中の日生劇場では、オーナーの夢(子供に夢を与える)を叶えるためにミュージカル仕立てという手法を採用することにもしていました。これがのちに「キャッツ」のロングラン公演など、日本にミュージカルが根づくことにつながります。
 浅利慶太さんは敵が多い人らしく、著者は「毀誉褒貶は優れた人物には常について回る」とか「第二国立劇場の奇々怪々は、錚々たる著名人が恥ずかしげもなく浅利落としの穴をあちこちに掘って、結局自分たちがその穴に落ちたという寂しい話なのである」とか書いています。そういえば平成のはじめ頃だったかな、雑誌などで非常に熱心に浅利さんの悪口を言っている人がいて「この熱心さは何なんだろう?」と不思議に感じたことを思い出しました。
 浅利さんがまだ学生の頃、新劇に新しい潮流が現れましたが、それを潰そうとする勢力がすごい“批評”を書いていたことの実例が挙げられています。いやあ、感情むき出しで、すごい文章です。そういった世界に「新しい演劇を」と飛び込んでいったのですから、肝が据わっていないとすぐに潰されてしまうでしょうね。観客としては「悪口」を言っている人にも「面白い芝居」を出して見せてほしい。もしかしたら両方とも面白い、なんてことがあるかもしれませんしね。ともかく「自分の気に入らないものは、どの観客も気に入らないはずだ」と潰しにかかるのはやめてほしいな。それにしても、戦後すぐの新劇が、自然主義リアリズム・形式主義・政治主義に支配されていた、というのは、一体どんな芝居をしていたんでしょうねえ。
 1961年、日生劇場設立が発表されたとき、人々は、代表取締役に東急電鉄社長五島昇・営業担当取締役に浅利慶太・企画担当取締役に石原慎太郎、というラインナップに驚きました。取締役二人はともに28歳。付き合いは数年前の「若い日本の会」という若手文化人のグループ結成からです。この緣で、浅利はかねて念願だった創作劇の上演(従来の新劇の否定)にとり組むことができるようになります。1960年に法人化した劇団四季の第一作は「狼生きろ豚は死ね」(石原慎太郎)、第二作「血は立ったまま眠っている」(寺山修司)、第三作「お芝居はおしまい」(谷川俊太郎)。みんな「若手」だったんですね。
 日生劇場のこけら落としは、ベルリン・ドイツ・オペラの引っ越し公演。とんでもないお金がかかりますが、ドイツ政府は20万マルク(7000万円以上)の援助を決定。日本政府は……権力や金に無縁の文化なんてものに興味を示しません(これは今でも基本は同じですね)。協賛してくれたのはシオノギ製薬。ドイツ政府はこの決定を重いものと受け取り、後日リュプケ・ドイツ大統領はシオノギ製薬を表敬訪問しています。訪日した一団の中で私が名前がわかるのは、ディートリッヒ・フィッシャー=ディスカウやロリン・マゼール。浅利と3歳年長のマゼールとは意気投合し「いつかまともな『蝶々夫人』の上演を」と約束します(これが20年後にミラノ・スカラ座で実現します)。国賓として来日したドイツ大統領は、主立った皇族を招待する特別公演を希望し、実現します。
 東宝専属のスター越路吹雪が日生に異動した(さらにひと皮剥けて観客動員がうなぎのぼりになった)ことも“反浅利”運動に燃料を投下します。こうなると浅利は演劇で成功し続けるしかありませんが、成功すればするほど反発は強まります。
 越路吹雪以外の全役をオーディション、の「アプローズ」は72年、大成功。しかし反浅利の圧力は高まり、劇団四季は日生劇場から離れることになります。つまりは、全国展開です。「ピンチはチャンス」と言うのは簡単ですが、やるのは大変だったことでしょう。
 劇団四季の「母音法」は有名ですが、その陰に「小澤征爾(とN響とのトラブル)」の存在があったとは初めて知りました。この時、衆寡敵せずで感情的な大多数の攻撃に負けそうだった小澤征爾を「契約通り」に無人の舞台に立たせる、という“演出”をしたのが浅利慶太だったんですね。その小澤征爾との会話や議論、さらに、武満徹との議論もまた「劇場で響くことば(音)」について浅利に大きな影響を与えます。レトリックや技術ではなくて、まず「発音」だ、と。
 「キャッツ」も新機軸てんこ盛りでした。劇場に芝居を合わせるのではなくて、芝居に劇場を合わせたテント小屋。チケットのコンピューター販売。私は新宿のテント小屋で2回、大阪のには1回、他の都市でもテント小屋ではなくて常設劇場で何回か「キャッツ」を観ています。毎回違った工夫があるのに感心しましたっけ。
 本書は「親浅利慶太派」の人が書いているから、当然そういった内容となっています。「反浅利慶太派」の人の著作はないのかな? 彼がいかにくだらない人間か、とか彼が作り出したものがいかにくだらないか、とか、しっかり書いてくれたら、人物についてはわかりませんが、少なくとも彼が作り出したものに関しては私なりの評価ができるので「反浅利慶太の主張」の正しさもある程度は評価可能です。

 


ことばの言い換え

2020-07-29 06:49:56 | Weblog

 「『盲』の字を使う人間は、視力障害者を差別している」と主張する人にネットで出くわしたことがあります。ふうん、すると「盲導犬」も「盲学校」も視力障害者を差別しているんだ、と思いましたが、たまたま私は自分の実名がわかる環境だったので、そういった頑なな主張をする人を刺激しても良いことがないと判断してスルーしました。
 そういえば最近「エッセンシャル・ワーカー」と言い換えられている職業の人たちがいます。するとその“前”の職名を呼んだら、「差別主義者」扱いされちゃうのかな? でも「言葉さえ言い換えたら、それで差別はなかったことになる」という思い込みは、結局差別を隠蔽・温存するだけじゃないのかな?

【ただいま読書中】『清掃は「いのち」を守る仕事です ──清掃に取り憑かれた男、30年の闘い』松本忠男 著、 辰巳出版、2020年、1400円(税別)

 今回のコロナ禍で、医療従事者は社会から差別されていることはよくわかりました(コロナ患者を受け入れる病院に勤務しているだけで、「子供を保育園では預からない」とか「店に来るな」とか「子供を登校させるな」とか言われちゃうんですよね。しかもそれでボーナスはカットされる)。そういった病院勤務者の中でも社会的に“下”に扱われているのが清掃担当者でしょう。本書は、病院や施設で清掃を行っている人が書いたものです。
 「目に見える汚れは、全体の2%」と本書は始まります。さらに、日本では掃除に関する間違った思い込みや勘違いがやたらと多い、と。たとえば学校で昔(今も?)よく行われていた雑巾掛け、あれは床の汚れを塗り広げているだけです。体幹トレーニングとしては有効かもしれませんが。
 著者は、ディズニーランドで働いていて、たまたま目にしたダスキンヘルスケアの募集広告になぜか興味を持ち応募、清掃の仕事は初めてでしたが、著者は「病院のために何ができるか」を考えながら仕事をすることをたたきこまれます。1980年代後半、日本の大病院では医療以外を外部に委託する動きが始まっていました。ダスキンヘルスケアは、清掃だけではなくて設備管理や給食までマネジメントしようとしていました。
 著者は横浜市民病院に配属され、次いで千葉県の亀田総合病院に。そこで亀田総合病院で清掃以外を担当していたケイテイエスという会社に転職。「清掃の基準作り」から著者は仕事を始めます。「拭いたからきれいになっているはずだ」ではなくて「清潔度を点数化」すれば、清潔の質と従業員のモチベーションは上がり、コストは下がるはず、という読みでした。なかなか思うように話は進みませんが、「ビルクリーニングではなくてヘルスケアクリーニング」「看護業務の一環としての清掃」を著者は追求します。
 「看護業務の一環としての清掃」と言うと「看護師が清掃をする」と考える人がいるかもしれませんが、著者は「ナイチンゲールの時代から、看護業務の中には環境整備が入っていて、その中の清掃を担当する者も自分が看護業務をしている、という自覚が必要だ」と考えているのです。
 病院の清掃でまず意識が必要なのは「ゾーニング」(コロナ禍のクルーズ船で、全然実現できていなかったもの)です。汚染されている場所ときれいな場所をきちんと区分して、混じらないようにする。モップなども当然使い分ける必要があります。ここをケチって同じものを使い回すと、院内感染が起きたりします。また、汚れの種類によってどのような清掃がベストか、の専門知識。ところが清掃スタッフを見下している病院職員からは「この汚れをすぐにきれいにしろ」と命令したのに「これは落ちませんよ」と“口答え”されるのはとっても不愉快なことのようです。で、双方のストレスが高まった末に、無理やり擦られた設備の表面が不必要にひどく傷んでしまったり。
 そこで著者が重視するのが「エビデンス」です。たとえば院内感染防止の会議に清掃担当者が参加して、何かを述べるにしてもその学問的な根拠が必要だ、と。室内のホコリがどこに貯まるかは、部屋の構造や寝具の種類や扱い方、さらにはエアコンを使っているかどうか(と出てくる空気の温度)で決まってきます。つまり、物理と化学で対応可能(風の動きは流体力学、汚れの種類と洗剤の選択は化学)。清掃のテクニックという技術面だけの話ではありません。著者は管理職として人のマネジメントもします。広報も。さらにコスト計算も。
 病院に限らず、介護施設や学校の清掃も、「どんな汚れに対してどんな手段を用いるか」が重要です。何でもかんでもモップで擦ればよいとか雑巾で拭けばよいとか、の態度では、きちんとした清掃はできません。そして、きちんと清掃ができた環境では、健康が守られやすくなります。
 「清掃」を「下」に見るのではなく、きちんとした知識を持ってきちんととり組んだ方が、結局みんなが得をすることになりそうです。少なくとも私はそう思いました。著者は「清掃を“下”に見る人間」によって相当不愉快な思いをしていますが、そういった「他人を“下”に見る行為」に熱中している人間って、結局自分も“損”をしているんじゃないかな。

 


性格類型

2020-07-27 07:22:27 | Weblog

 私は「血液型性格占い」を信じていません。たとえば学校や職場などで人の集団を見ていて「4つの性格」にグループ分類できる、とは思えないからです。人は人の数だけそれぞれの「個性」がありません? さらにその個性は、成長と共に変化していません? それとも血液型も人の成長と共に変化するのかな?

【ただいま読書中】『まとまりがない動物たち ──個性と進化の謎を解く』ジョン・A・シヴィック 著、 染田屋茂・鍋倉亮介 訳、 原書房、2020年、2400円(税別)

 「動物の個性」は、経験的には確かなことのようですが、科学的に扱おうとすると突然困難な課題になってしまいます。特に怖いのが「安易な擬人化」。親しい者同士の間でさえお互いのサインを読み誤っているのに、動物が示すサインを自分の経験を元に解釈することは“正しい”のか? また「人間は他の動物とは違う特別な存在」という思い込みもまた「動物の個性」を認識する大きな邪魔になります。
 「実験動物」の場合、「個性」は不要です。どれも「同じ動物」でないと、実験結果が揺らいでしまいますから。しかし、野外で観察をする学者たちは、群れのメンバーがそれぞれ違うことに否が応でも気づかされてしまいます。各動物にはそれぞれの「個性」があるのです。
 群れの研究をする人たちは各動物に「名前」をつけます。これは、識別のためだったのでしょうが、それと同時に「個性」を認識するために有用な手段だった、ということなのでしょう。なるほど、これはヒトにも同じことが言えそうです。たとえば、無名の存在でまとめて「敵」と認識したらまとめて殺せるでしょうが、各人の名前を知ってしまったら殺しにくくなるでしょう。
 台風に襲われた水族館でのイルカの研究では、個体によっては「トラウマ」によって性格が変容するものがいることがわかりました。「個性」があるのだったら「PTSD」があってもおかしくない、ということです。
 「性格テスト」には、いくつも限界があります。まず「ヒトのためのもの」であること。「被験者の協力が必要」「“個人”ではなくて“類型”に分類する」ことも。すると、動物の個性を見るために必要なものは? まずは長期間の観察、そして「物語」なのかもしれません。
 ここでやっと本書の本題の「進化」が登場します。「種の多様性」によって、環境の激変があってもどれかが生き残るように、「性格の多様性」によって「セックスの成功率」が左右されそれが「環境の変化」と組み合わさることによって「種の生存確率」を上げることに役立つのです。著者は、アメンボやトカゲなど、さまざまな例を挙げてくれますが、生態系の複雑さは本当に“複雑”です。動物の個体がすべて「同じ」で、機械のように同じ刺激に同じ反応をするだけ、という“思想”は、動物に対する差別意識の表れかな、なんてことも思えてきます。
 ジェノサイドや優生学は、多くの場合「倫理的に間違っている」と言われます。しかし本書では「倫理的だけではなくて生物学的にも間違っている」と論証されます。「進化論」や「生物学」だけではなくて「人の社会」についても新しい視点からの見方を獲得できる、一粒で何度も美味しい良書です。

 


家を出る

2020-07-27 07:22:27 | Weblog

 「家出」だとあまりよろしいイメージではないのに「出家」だとなんだかありがたくなります。ただ、どちらにしても「家に残された者」の感情は似たようなものになりそうですが。

【ただいま読書中】『阿・吽(1)』おかざき真里 作、小学館、2014年、648円(税別)

 最澄と空海、ともに遣唐使として中国に渡り、帰国し、それぞれが「巨人」として日本仏教界だけではなくて「時代」を変えた二人を描いた漫画です。ただ、同じ時代に生きてはいますが、その生き方はずいぶん違っていました。歴史の教科書で見ただけでも、比叡山で「権威」となった最澄に対し、日本中を回って自分自身が信仰の対象となった空海は、ずいぶん違った存在であるように見えます。
 さて、そこでタイトル。「阿・吽」です。山門の仁王像や神社の狛犬のペアが示している「阿」と「吽」。
 陰陽、アルファとオメガ、そして阿吽。どれも単独では成立しません。それぞれがお互いに依存することで自身の根拠を確保しています。心理学には共依存という言葉がありますが、こういった「ペア」の場合にも「存在根拠の共依存状態」と言っても良いのかもしれません。そしてこの漫画でも、最澄と空海は「阿」と「吽」だったのではないか、という発想から描かれているのではないか、と私は感じました。だからタイトルに「・」が入っているのではないかな。
 泣き虫の広野、過激な行動が目立つ真魚。最澄と空海の子供時代から話は始まり、人がたくさん死に、話は怒濤のようにがんがん進んで行きます。民衆の視点からは、最澄は空海の陰に隠れがちですが、本書ではまず最澄がどのくらいすごい人間であったか、を描きます。泣き虫だからと言って、弱虫とは限らない、ということもよくわかります。いやあ、実はこの二人はどちらも同じくらい“アナーキー”だったんじゃないかな、というか、「普通の人」はおろか「普通の天才」程度では、時代を変えることはできない、ということなのでしょうね。

 


花を食べる

2020-07-26 08:36:20 | Weblog

 私がすぐに思いつくのは「菊の花」。食べるではなくて飲むになりますが、桜の花(桜茶)。そういえば「無花果」は花を食べていることになるんでしたっけ? ちなみに、「野菜として一番食べられている『花』」は、ブロッコリー・カリフラワー・芽キャベツだそうです。しかし、あれで花束を作りたいかな?(クイズのネタとしては面白そうですが)

【ただいま読書中】『食用花の歴史』コンスタンス・L・カーカー/メアリー・ニューマン 著、 佐々木紀子 訳、 原書房、2019年、2200円(税別)

 人類は古くから花を食べていました。旧訳聖書にはタンポポやサフランが登場します。古代エジプト「エーベルス・パピルス」にもサフランやハスの花が薬や食材として登場します。古代ギリシアや古代ローマではもっと様々な花を食べました。「カエルの脚のフライ」では付け合わせはフェンネルの花です。古代中国では、食用花として甘草や菊、ハスがあり、薔薇酒も古代から現代まで人気があります。北ベトナムのスン・ジン族は数百年前から地域の花などで染めた米料理「ソイ・バイ・マウ(七色のおこわ)」を食べています。古代インドでは「アーユル・ヴェーダ」の治療の一部として食用花が扱われています。アメリカ先住民は花の香りを愛し、食べてもいました。
 中世ヨーロッパの修道院には薬草園がありましたが、そこでは「花」も薬草やスパイスなどとして育てられていました。15世紀のイングランドでは、ハーブや花を入れたミックスサラダが日常的に食べられていました。唐・モンゴル帝国・ムガール帝国のレシピにも食用花があります。
 ヴィクトリア朝のイギリスでは「花柄」が人気でした。布地や食器、食卓の飾り、花言葉、そして花で飾ったペストリーやサラダ、砂糖漬けの花。「美」というものを重視した時代のようです。
 20世紀〜21世紀には、「自然食」のシンボルとして食用花は扱われることがありました。そして分子ガストロノミーでも花は重要な要素となっているそうです。
 バブルの頃だったかな、日本でも「食用花」がちょっとしたブームになって、花びらをまぶしたサラダなんてものが供されたりしていました。私もちょっと食べたことがありますが、そこまで美味いとは思いませんでしたっけ。ただ、戦争中のオランダで飢餓のためにチューリップの球根まで食べた人がいることを思うと、文句を言ってはいけないのでしょうね。

 


ボランティア大国

2020-07-25 07:18:20 | Weblog

 日本でボランティア活動が広まったのは、阪神淡路大震災から、と聞いたことがあります。たしかに「ボランティア」という言葉はそのあたりからよく聞くようになりましたが、その前から、たとえば町内会の役員とかPTAとか、日本に「ボランティア」はたくさん活動をしていませんでしたっけ?
 そういえば少し前まで「ボランティアは無償であるべき」と変な主張をする人が多くいましたが、ボランティアの本来の意味は「義勇兵(志願兵)」ですから、無償有償は無関係です。「人を安く使いたい人」は「無償」を強く主張するかもしれませんが。

【ただいま読書中】『小笠原が救った鳥 ──アカガシラカラスバトと海を越えた777匹のネコ』有川美紀子 著、 緑風出版、2018年、2000円(税別)

 2000年頃に環境省は「小笠原のアカガシラカラスバトの推定生息数は40羽」としました。2001年8月8日の讀賣新聞では「30羽」となりました。国指定天然記念物が絶滅の危機ですが、ほとんどの小笠原の人たちは興味を示しませんでした。ほとんど見たことがない鳥のことですし 自分と何か関係があるとも思わなかったのです。
 小笠原は「海洋島」で、どこの大陸とも接触したことがありません。そのため、独自の生態系をもっています。陸鳥はかつては15の固有種・固有亜種がいましたが、その内6種はすでに絶滅しています。そして“次の絶滅候補”がアカガシラカラスバトでした。
 海洋島の生態系は脆弱です。種の数は限定されており、天敵は存在しません。そこに、人間が“外来種”を持ち込んだら、容易に生態系は破壊されてしまいます。
 2005年母島にあるカツオドリの営巣地が、ネコに襲われました。はじめ人々は信じません。ネコが自分より大きな鳥を襲って食べるだろうか、と。鳥は次々殺されます。NPO法人小笠原自然文化研究所(アイボ)は危機感を持ち、ネコがカツオドリを襲っている証拠写真を撮ります。人々は動きません。環境省は「許可を出すから捕獲しても良いですよ」。他の機関も動きません。中には「ネコじゃなくてイタチじゃないです?」と言うところも。
 動く人もいました。特に母島にある村の連絡事務所の職員たち。環境省もバックアップしてくれることになります。次は村民との話し合い。これが紛糾します。「信じられない」「一匹捕まえてもすぐ次がくるだろう」「島の問題だから外の人間に入って欲しくない」「時期尚早だ」……要するに「やりたくない」ですね。新しいことを拒絶したいとき、人はフルに知恵を働かせて言い訳をひねり出します。だけど、営巣地のカツオドリはすでに全滅状態。残っているのは一組のペアだけになっていたのです。ここでまるで映画のような逆転の展開で、野生状態となった猫を捕獲する作戦がスタートします。
 捕獲したネコをどうしましょう? 小笠原では鳥を守りたい。ではネコをどこかに送り込みますか? どこに? 送る場所がなかったら、殺処分? 「猫を殺すべきではない」と言う人はいます。だけどそういった人がノネコ(野生化したネコ)を引き取ってくれるでしょうか? 野生化してますから、ちっとも可愛くないです。それどころかとっても凶暴で、近寄るのも危険です。
 ここにも「引き受けよう」と覚悟を決めて言ってくれる人が登場。ここでのネコの運命がまた印象的です。これだけでたぶん一冊の本になるんじゃないかな。
 ただ、「蛇口をしめる」必要もあります。ノネコを捕獲するのも重要ですが、ノネコを作らないようにする、つまり、人が猫を捨てて野生化させてしまうことの予防です。
 アカガシラカラスバトの生態はほとんど知られていませんでした。そこでじっと観察。足音や鳴き声だけの存在が、時々目の前に現れるようになり、普段地面を走り回って「飛ばない鳥」と思われていたのが、実は海を越えて別の島に行くこともできる「飛ぶ鳥」であることがわかるようになります。
 やがて、アカガシラカラスバトとノネコの危険な関係が人々の目に見えてきます。見えたら放置はできません。島民や公務員は、ボランティアで猫の捕獲を始めます。無償どころか、時間と金の持ち出しですが。「ボランティア」では活動に限りがあります。もし継続的に行うなら「事業」にする必要があります。このとき重要なのは「住民の現状認識と意思決定」です。「見たことがないものを、守りたいと思うか」という禅問答のような設問に、住民に答えてもらわなければなりません。活動の中心となっていた人たちがここで参考にしたのが、対馬(ツシマヤマネコ)と沖縄本島(ヤンバルクイナ)の活動でした。そして、最初は不可能とも思われた島での国際ワークショップ。島外の人たちと島の住民たちが3日間熱心に話し合い、ここでアカガシラカラスバトの運命が決せられました。そして、おそらく島の運命もここで大きく変わったはずです。日本でもこういった政治色抜きのボトムアップの地域に関する決定ができるんだ、と私は感銘を受けます。感動した、と言っても良いです。
 ノネコ捕獲隊が山中に入り、ネコと知恵比べを始めます。捕獲されたネコは東京に送られますが、その送料は1万円。事務局は(また)頭を抱えます。そこに(また)助け船が。いや、文字通り、船会社から。
 アイボの人たちは「ノネコは『外来種』問題ではない」と言います。「外来種」を悪者にして排除したらすむ、という単純な問題ではない、と。「問題」があるとしたら、飼い猫をきちんと管理できない人間と猫の「関係」にあるのです。そういえば「外来種」として「悪者」となっているブラックバスも、彼らが独力で日本のため池や河川に侵入してきたわけではありません。ここでも「人」「ブラックバス」「環境」の「関係」が問題なのです。
 環境問題は、なかなか一筋縄では片付きません。何しろ「生態系(=システム)」ですから複雑なのです。その複雑さゆえ、アカガシラカラスバトの物語も、あちこちに「驚き」が散りばめられていました。この「驚き」を原動力に、小笠原(とそれを取り巻く“環境”)の人々は毎日励んでいるのかもしれません。そして、同じことは、私たちにもできるはずです。

 


うろつく大陸

2020-07-24 09:33:15 | Weblog

 私が初めて「大陸移動説」を習ったのは、1960年代末、高校でのことでした。教師は、当時最新の(たしかまだ教科書には載っていなかった)「プレート理論」を紹介して「真実はいつかは知られるようになる」としみじみと教えてくれましたっけ。あの頃「大陸移動説」を「ばかげた妄説だ」と強く否定していた人たちは、20世紀後半をどうやって生きていたのだろう、と思うことはあります。

【ただいま読書中】『大陸と海洋の起源』アルフレッド・ウェゲナー 著、 竹内均 訳、 講談社(ブルーバックスB-2134)、2020年、1500円(税別)

 本書は『大陸と海洋の起源』第4版(最終版)の翻訳です。『種の起源』と同様、この本も改訂のたびに“別物”になっているので「第何版の翻訳か」が重要だそうです。
 アフリカ西岸と南米東岸には、共通の生物相があります。その理由として「かつては『陸橋』があって生物は自由に大西洋を往来できていたが、いつしか陸橋は海に沈んでしまった」という「陸橋説」が人気がありました。
 たとえばベーリング海峡にはかつて陸橋がありました。しかし、大西洋の深海の“上”に橋が?
 著者はまず、地形に注目します。アフリカの凹部と南アメリカの凸部がみごとに一致する、と。これは「かつて一体だった大陸が分かれて移動した」ことの証拠ではないか? また、19世紀にグリーンランドが「移動している」という観測結果が得られていることにも注目します。これも大陸移動の傍証になるだろう、と。さらに、アメリカ大陸とユーラシア大陸の間が、年間60cmずつ開いている、という観測結果も紹介。
 地質学的な研究でも、山脈や地層が大西洋の両岸で“連続”しているという証拠があります。アフリカ西岸と南アメリカ東岸は、形が合うだけではなくて、その中身(地層)もまた合うのです。
 さらに、古生物学と生物学。特に浅い淡水に住む生物が両方にいる場合に、その存在を陸橋では説明できない、というのは説得力を感じます。
 さらにさらに、古気候学。
 ウェゲナーは、単純に白地図のピースを二つ持ってきて「ほら、ぴったりでしょ」といった単純な主張をしたわけではありません。当時(今から100年前)の“最新科学”をフル動員して、自分の考えの根拠を固めます。彼に足りなかったのは「プレート・テクトニクス理論」だけでした。そのため、ウェゲナーは「海底と大陸の岩石組成の違い」に注目し、「極の移動に伴って大陸移動の原動力が生じる」と推定しました。地球の回転がぶれたときそれによって海底の上の大陸がずれていく、というイメージかな。正直言って、あまり説得力はありません。
 ウェゲナーの主張は、世間には全否定をされました。その論拠は「大陸が動くわけがない」と「ウェゲナーは大陸が動くメカニズムについて説明をきちんとしていない」。ではそういった反対者たちが、本書で挙げられた様々な「大陸が分裂して移動したと言いたくなる不思議な現実」に対して説得力ある説明をしたかと言えば……
 目の前に「手がかり」はすべて並べられているわけですから、あとは「手がかりをすべて説明できる(大陸移動以外の)他の仮説」や「大陸が移動するのだとしたらそのメカニズム」に関して考察をすればよいのに、「手がかり」そのものを見なかったふりをする人たちは、科学者の名前には価しない、と私は感じます。目の前に死体が転がっているのに「死因について十分な説明があるまでは、ここに死体があるとは認めない」と頑張る“迷探偵”みたい。せめて「ここに死体があること」くらいは認知しなくっちゃ。

 


「障害」の位置

2020-07-23 09:13:02 | Weblog

 「障害者」と言いますが、本人にその「障害」の「責任」がある場合はあまりありません(自分で自分の肉体をわざと損傷した、という場合くらいかな?)。
 「障害者」と言いますが、その障害による不便さは、社会が本人に押しつけている場合がけっこうあります(駅がバリアフリーになっていないとか、道路に「障害物」が多いとか)。
 ということは「障害者」の「障害」は、一体誰のもの(誰が解決するべき責任を負っているもの)なんでしょう?

【ただいま読書中】『パラリンピックと日本 ──知られざる60年史』田中圭太郎 著、 集英社、2020年、1600円(税別)

 「2020年東京オリンピック・パラリンピック」の開催に合わせて「パラリンピックは、実は1964年の東京から始まった」という豆知識があちこちで披露されるようになりました。
 本書は、第二次世界大戦のイギリス、ストーク・マンデビル病院から始まりますが、このへんのエピソードは以前別の本(たとえば3月4日に読書記録を書いた『中村裕 東京パラリンピックをつくった男』(岡邦行))で読んだことがあるので、ここに書くのは省略。ただ、中心人物のグットマン博士が、1949年の第2回ストーク・マンデビル競技大会の閉会式で「このゲームがオリンピック規模になるようにしていきたい」とスピーチした、という証言には驚きます。参加者は48年が16人、この年が37人ですよ。先見の明とはこのことでしょう。52年には参加者130名の国際大会になっているのですから、有言実行、とも言えます。そして60年、ローマオリンピックの直後に同じローマで国際ストーク・マンデビル競技大会を開催。23箇国から400人が参加。この大会が、事後的に「パラリンピック」と認定されます。そして4年後の「東京」。この時から「オリンピック/パラリンピック」の“セット”が始まりました。ストーク・マンデビル競技大会の参加者は「脊髄損傷による下半身麻痺」に限定されていましたが、「東京」からは各種の障害者にも門戸が開かれました。ただ、グットマン博士はあくまで下半身麻痺に限定しようとしたため、「東京」は、第一部が「国際ストーク・マンデビル競技大会」、第二部が国内(+西ドイツ)の「脊髄損傷以外の身体障害者のスポーツ大会」という構成となり、それを「パラリンピック」と総称することになりました。「パラリンピック」が開催前から正式に用いられたのは「東京」が最初、ということになります。
 東京パラリンピックの“原動力”となったのは、大分県国立別府病院の医師中村裕でした。彼は、選手を海外派遣するのに自分の車を売ってまで金を作ったりしていましたが、さすがに「パラリンピック」を個人で開催するのは無理。しかし厚生省は冷ややかでした。冷ややか、というか、強く反対。今回のコロナ禍を見ていてもわかりますが、厚生省(厚労省)には大した働きは期待できない、ということなのでしょう。ただ、先進諸国での障害者の生活と比較して、日本の障害者のあまりに悲惨な生活が知られるようになり、「これはさすがにまずい」ということになって、行政を変革するきっかけとしてパラリンピック開催に厚生省はとり組むことになります。ところが次の問題。予算がないのです。東京オリンピックの予算は1兆円。聖火リレーだけで1億円。ところがパラリンピックの予算は、見積もりは9000万円、しかし厚生省が確保できたのは2000万円だけ。東京都が1000万円の予算を組みますが、6000万円足りません。それを埋めたのが募金でした。障害者に対して冷たい政府だな。
 グットマン博士は「貴賓席にはナカムラをすわらせなさい」と彼の功績を讃えましたが、実際に貴賓席に座ったのは「(官庁の)偉い人たち」だったそうです。新聞もパラリンピックについてけっこう大きく報じましたが、それはスポーツ面ではなくて社会面でした。特に「海外の選手は、地元では普通に仕事をしていて、パラリンピックでは試合がすんだら背広に着替えて渋谷に飲みに行く」姿が日本には衝撃でした。日本選手は、病院にいて、試合以外ではベッドに寝たきりが普通だったのですから。この「衝撃」が、日本の社会と医療を変えていくきっかけになります。
 日本の障害者スポーツと皇室の関係は浅からぬものがあります。もちろん皇室の“権威”をもってしても、日本社会の動きは鈍いものでした。だけど皇室が興味を持ってくれなかったら、もっとみすぼらしい姿に日本社会はなっていたことでしょう。
 現在障害者スポーツは、新聞では「社会面」ではなくて「スポーツ面」に記事が載ります。そう、そうあるべきなのです。

 


厚労省の真の望みは?

2020-07-22 07:30:46 | Weblog

 コロナ禍で厚労省の動きが異常に非常識なレベルで悪いことが気になっています。クルーズ船では船内感染を猖獗させるし、PCR検査ではとにかく数を絞って検査をさせないことに熱中しているし、まるで「流行をさせない」のではなくて、その逆の方向に努力をしているみたいに不自然です。
 20世紀末から厚生労働省(厚生省)は「高齢者が増えるのは困る」と言い続けていました。年金の原資は足りないし、病気がちの後期高齢者はやたらと医療費を使うし、と。だから「高齢者の医療制限(がんの治療や透析を無制限にするべきか?)」なんてことまで公然と言っていましたっけ。すると、今回のCovid-19では高齢者の死亡率が高いわけですから、パンデミックとなって高齢者がどっと死んでくれたら、厚労省としては大満足、ということになるわけです。
 だけどねえ、パンデミックは、高齢者だけ殺すわけじゃないです。下手したら社会を殺します。いくら「医療行政は算術」だとしても、厚労省はもうちょっと真面目に「厚生」のお仕事をした方が良いのではないかなあ。

【ただいま読書中】『強制収容所のバイオリニスト ──ビルケナウ女性音楽隊員の回想』ヘレナ・ドゥニチ - ニヴィンスカ 著、 田村和子 訳、 新日本出版社、2016年、2300円(税別)

 ヒトラー占領下での体験を、90歳を過ぎてやっと語ることができるようになった人の回想録です。重い年月です。日本でも同じようにそれくらいの年代になってやっと被爆体験を語り始めた被爆者もいますが、思い出したくもない辛い体験を言語化するためには、人によってはそれくらいの年月が必要なのかもしれません。
 著者は第一次世界大戦真っ只中の1915年に、一家がポーランドのルヴフ(現在はウクライナ領)からロシアとの戦いを避けて引っ越していたウィーンで生まれました。厳しい父と父に従うだけの母、というその時代の典型的な家族で育った著者は、バイオリンに天分を示します。大学を卒業し、教職に就こうとした1939年8月、戦争がポーランドに襲いかかってきました。まず西からナチスドイツ軍、そして東からソ連軍。ルヴフは最初ドイツ軍に占領され、それから“協定”に従ってソ連に譲り渡されます。41年6月独ソ戦が勃発、占領者はこんどはドイツになります。両方の占領を知る著者は、無慈悲さでは両者は同じだが、ポーランド人絶滅を目的としていることを隠さないドイツと比較したら、自分たちはポーランドの親友で解放者で兄弟だ、と偽善の限りを尽くしたソ連には厭わしさと底意と陰険さを感じるそうです。
 43年に母と著者は突然逮捕、刑務所に入れられます。「逮捕理由は?」との質問への返答は、顔面へのパンチ一発でした。
 それまでの生活は、占領下の緊張と地下抵抗運動との関係もあって「平穏」とは言えないものではありましたが、それでも「市民生活」でした。それが一転、刑務所での生活は、家畜以下の扱い。ひどいものです。しかしそれは地獄への序章に過ぎませんでした。43年戦況は(ドイツにとっては)悪くなり、東からの人の流れが大きくなります。その流れに乗せられるように、著者たちは家畜用貨車にぎっしり詰め込まれ西に運ばれます。三昼夜、飲食無し、トイレなし、座る余地無し、の「旅」でした(これはドイツ人が特に残酷だったわけでなくて、絶滅対象(人間以下)のポーランド人に対する“標準手順”だっただけです)。到着したのはアウシュヴィッツ駅、降ろされた待避線は「アルテ・ユーデンランペ(旧ユダヤ人降車場)」と今は呼ばれています。ユダヤ人も大量に降ろされましたが、大勢のユダヤ人以外もここで降ろされたのでした。1000人が渋滞を組み1km歩いて連れて行かれたのは「ビルケナウ」収容所でした(歩けなかった人は、当然“処理”をされます)。そこでの生活は、動物だったら「動物虐待だ」とたとえ20世紀半ばでも言われるようなものでした。
 著者は「女性音楽隊」に配属されます。生き残る確率が少しでも高くなるだろう、と著者はその“チャンス”にしがみつきます。たしかにビルケナウでは「屋根の下での労働隊」は生存確率が高く、音楽隊は特に恵まれていました。しかしそれがどれほど残酷な行為を著者に強いることになるか、その時彼女は知りませんでした。ドイツ人は「実利」を重視します。当然音楽隊にも「囚人管理」に関して実利一点張りの任務が与えられていたのです。
 親衛隊によって重視されていたのは、収容所外での労働に出発する収容者の隊列が、出発するときと帰還するときの演奏でした。集団が足並みを揃えて歩いてくれると、時間が短縮すると同時に隊列が保たれて人数の確認が楽だったのです。楽団の仕事に満足した親衛隊は、さらに「囚人のための日曜コンサート」を開催させます。
 楽団員の住居は他の収容者より恵まれていましたが、それは「楽器の保護」のためでした。高度成長期に大学や会社のコンピューター室にだけ冷房が入っていたことを思い出します。著者は高等音楽院の卒業生ですから演奏に問題はありませんが、楽団員の多くはアマチュアで、そのレベルを揃えるために指揮者は苦労していました。また、肉体的には楽な“作業”ですが、悪が蔓延する場所で行進曲を演奏することは、道徳的な苦しみを著者らに強います。生きた人の行列が終わると、こんどは死体を焼却炉に運ぶ行列が。それが終わってから、演奏も終わります。到着した列車からガス室にまっすぐ導かれる人々は、どこかで演奏される音楽を耳にして「出迎えの音楽があるとは、予想したよりはよい運命が待っているかもしれない」と期待しました。だから彼らは落ちついてガス室に向かいました。その演奏も音楽団の仕事でした。
 絶望と罪の意識が音楽団員を襲います。しかし、演奏を拒否したら、自分が殺されるだけ。音楽隊をやめて一般の収容所に戻りたいと希望したら、懲罰隊(重労働の中でもスペシャルな重労働を課せられる部隊)に配属でした。
 「優雅に演奏をしている人たち」に対する反感を持つ収容者も多くいました。優遇されている、ということでの反感ですが、これは「分断統治」がうまくいっていることも意味します。
 母が死に、著者はチフスになります。「病棟」に収容されますが、そこで行われた「医療行為」は検温だけ。高熱が続けば第25ブロック(ガス室送りになる前段階のバラック)に送られるか、直接ガス室送りです。そういえば今回の「コロナ禍」でも「体温」にだけ異様に注目する人が政府のどこかにいましたね。
 「組織化」という隠語があちこちに登場します。公的には認められなくても、地下ルートで収容所に物資は入ってきていました。もちろん見つかれば厳罰ですが、著者は「組織化」された注射を受け、リンゴを食べることができ、最終的にチフスに打ち勝つことができました。地下ルートがあるということは、強制収容所の中についてドイツ国内でも知っている(そしてそれに反対している)人がいた、ということです。
 音楽隊の内部にも「分断統治」は効いていました。非ユダヤ人にはたまに手紙や小包が届きましたが、ユダヤ人にはそういったものはありません。当然そこから反目が生まれます。言葉の壁もあります。各国(フランス、ドイツ、ベルギー、チェコ、ハンガリー、ギリシア、オランダ、ポーランド)のユダヤ人、著者のようなポーランド人、ソ連出身者、などが雑多に集められています。まさに「バベルの塔」です。小包が届かないユダヤ人は、収容所内の物資(収容者から取り上げたものや遺品)集積所で働くユダヤ人とのコネを活かして、比較的まともな衣類などを入手してそれを非ユダヤ人に見せびらかしたりしました。
 ぎすぎすしたものばかりではありません。温かい交流もあります。そこを読むと、ほっとします。そして、その温かい交流がどんな状況下で行われているかを思い、私は暗然とします。
 44年春〜秋、ユダヤ人殺害数はどんどん増え、死体焼却炉だけでは足りず、地面に掘った穴の中でも死体を焼くようになりました。ドイツ軍劣勢のニュースが収容所内にも伝わり、著者らは「もしかしたら」の期待を微かに持ちます。44年10月7日「反乱」が起きます。死体焼却炉で強制的に働かされているユダヤ人部隊「ゾンデルコマンド」が焼却炉を破壊、逃亡を試みたのです。反乱参加者は全員殺されましたが、そのニュースは収容所全体を揺るがせました。そして10月31日、「音楽隊は整列せよ」「ユダヤ人は列から出ろ」の命令が。ただし彼女らは、ガス室ではなくて一般収容者としてベルゲン=ベルゼン収容所に移送され、45年4月に英国軍に解放されています。ロシア人も姿を消し、音楽隊は解散。著者は資材運びで「労働は自由をもたらす」の有名な門を何度もくぐることになります。
 45年1月18日、「労働は自由をもたらす」の門を最後にくぐり、「死の行進」が始まります。3日間で約63km。そこから石炭用無蓋貨車に詰め込まれての移送です。途中著者は西の夜空が赤く焼けていることに気づきます。おそらくベルリンが燃えているのです。そのことに著者は満足感を覚えます。ラーヴェンスプリュック収容所は満杯で、最終的に落ちついたのは、ノイシュタット=グレーヴェ収容所。そして、解放、というか、監視兵の突然の不在。収容所内は大混乱となり、著者たちのグループはポーランドを目指します。
 「記憶」は曖昧になりがちだし、そもそも極限状態では「現状の認識」にも歪みが生じがちです。音楽隊の指揮者について「反ユダヤ主義者だった」と断言する楽団員もいますが、著者のように「ユダヤ人だけではなくて非ユダヤ人にも厳しかったが、それには納得のできる理由がある」と考える人もいます。このように「違い」があるからこそ、記憶が薄れる前にできるだけ多数の人の記憶を記録しておくことが、重要になるのでしょう。
 「アウシュヴィッツ」に収容者で結成された音楽隊があった、とは知りませんでした。そしてその働きぶりも。著者も何度も書いていますが、高い文化を誇るドイツ人が、あのような蛮行を平然と組織的に施行できたのは、本当に不思議です。たぶん彼らには彼らの“言い分”があるのでしょうが。