【ただいま読書中】

おかだ 外郎という乱読家です。mixiに書いている読書日記を、こちらにも出しています。

複利計算

2016-07-31 08:44:21 | Weblog

 「2年で2%」が2回続けば「4年で4.04%」になります。で、日本のインフレ率は、アベノミクスが始まってからどうなってましたっけ? なんか物価は下落、なんてニュースを最近聞いた覚えがあるのですが、これは私の記憶違いですよね?

【ただいま読書中】『地球温暖化論争 ──標的にされたホッケースティック曲線』マイケル・E・マン 著、 藤倉良・桂井太郎 訳、 化学同人、2014年、4500円(税別)

 1990年代はじめに物理学から古気象学の研究に移った著者は、自然要因と人為起源による気候変動を研究することになります。1990年代半ばに、科学者たちは様々な情報をつなぎ合わせて、人間が気候に影響を及ぼしていることを述べることができるようになりました。1958年からキーリングはハワイで二酸化炭素濃度の測定を続けてグラフを示しました。氷床の分析から古代の大気の分析ができました。18世紀には温室効果ガスの存在が知られていました。1980年代後半にハンセンが気候モデル(地球的なシミュレーション)を作りましたが、これに91年のピナツボ火山の噴火も変数として入れたところそれから数年間の寒冷化もきちんとモデルは示しました。それから15年間でモデルはさらに精緻化され、人為的要因(特に化石燃料の燃焼)が気候に影響を与えて温暖化をもたらすことを示しました。
 地球温暖化に関して、科学は「結論」を出しました。結論を出せないのは、経済(と政治)です。なにしろ化石燃料に頼り切っていますから。そこで化石燃料業界が金を出した団体が「地球温暖化は嘘だ」キャンペーンを大々的に繰り広げることになりました。温暖化を主張する科学者を攻撃し信用を失墜させたら「温暖化はなかった」になる、という目論見です。金はあるが節操はない人たちと、世間知らずの科学者(金はない)との“対決”では、勝負は最初からわかっています。
 否定論者の主張はこうなります。「二酸化炭素は実は増加していない」「たとえ増加しても気候に影響はない」「温暖化は自然現象だ」「自然現象ではなくても人為的要因は軽微だ」「たとえ環境が変化しても人間は変化に適応できる」「科学は不確実だから科学者の主張が正しいとは限らない」「温暖化を主張する科学者はニセ科学の信者だ」「論文に一箇所でも間違いがあれば、たとえそれがタイプミスであっても、その論文はすべて間違いである」「科学者の言うことが正しいとしても、科学が100%の証明をしてから対応のための行動をすればよい」……
 著者は「否定論者は『否定の梯子』を昇って逃げ続けている」と辛辣です。「○○は間違っている」と主張し、その「○○」が正しい、とわかったら次に「でも……」と否定を続けるわけですから。まあ、ネットでもそんな人はよく見かけるので驚きませんが。(すると、アベノミクス信者の人たちは「肯定の梯子」を昇り続けていることに?)
 実は温暖化を肯定する科学者もその多くは20世紀末には「懐疑派」でした。そこまで人為が大きいとは簡単には信じられなかったのです。実際私もその頃には懐疑派でした。自然変動の方が大きいのではないか、と思っていたのです。ただ「健全な懐疑派」はデータやモデルが充実したらそれが示すものを採用します。「不健全な懐疑派」はどんなにデータが集積しモデルが充実しても「自分の信念」を揺るがせません。
 著者は北大西洋で数十年レベルで気候が自然に変動することを発見しました。地球温暖化否定論者は早速それを自分たちの主張が正しいことの論拠に採用しました。ところが著者はそんなことは一切主張していない(それどころか論文ではその逆のことを主張していた)のです。
 博士論文を書き終えた著者は次のテーマを「様々なデータを統計的に処理して、地球の各地域の各年の気温を再現すること」とします。壮大な目論見です。その結果、西暦1400年からこちらの気候変動のパターンがグラフ化できました。そして、近年の温暖化が長期的視点から見たら異常だ、ということもわかりました。この研究発表はマスコミの注目を引き、気温グラフの右側がひょいと持ち上がっていることから「ホッケースティック曲線」というあだ名が付きました。否定論者には困った事態です。一般人にも極めてわかりやすい形で“証拠”が示されてしまったのですから。そこで「ホッケースティック曲線の信頼性」を否定するために……まあ、いろんな人がいろんな手を使います。面白いのは、著者がそれらを指摘するのにすべて「根拠」を示していることです。まるで論文ですが、否定派がどこで何を言ったのかがすべて「注(なんと100ページ)」でわかるようにしてあります。論文を書くときと同じ、公正で誠実な態度だと私は感じます。それに対して否定派の言動は、不公正で不誠実なのですが、「フェアプレイ」と「アンフェア」とが戦ったら、当然「アンフェア」の方が勝ちます。それが問題です。「データの改竄」「文脈無視の部分引用」「人格攻撃」も「アンフェア」の常套手段ですが(これまたネットではおなじみですね)、逆に言えば、人格攻撃をしている人の主張は信頼するに足りない、ということになるのかもしれません。挑発に耐えかねて強烈な逆襲に出た、という場合もあるから慎重に判断する必要はあります(この「慎重に判断」というのも「アンフェア」につけ込まれる隙になるので厄介なのです)が。さらに、メディアを使っての宣伝工作は金がある方が有利ですし、ネットでの情報拡散には時間がある方が有利です。問題は、最前線で必死に研究をしている科学者には、そのどちらもないことです。ところが「反対専業家」はそのために化石燃料業界から金をたっぷりもらって「反対」のためにすべての時間をつぎ込めます。さらに政治家を使って科学者を脅迫するに至っては開いた口がふさがりません(ネット時代でなかったら、これは極めて有効だったことでしょう。ネット時代には逆に政治家の方が困った立場に追い込まれることになりますが)。
 さらには「クライメートゲート事件」。気象学者たちのサーバーがクラッキングされて電子メールが大量に盗まれて公開された事件ですが、念の入ったことに、「公開されたメール」が微妙に改竄されていたのです。これって「公開」ではなくて「捏造」では? そもそも「盗んだ」上に「ゲート」と名付けて温暖化を主張する科学者たちの名誉を毀損することに熱心な人たちって、一体誰なんでしょうねえ。
 今にして思えば,私が「懐疑派」だったのは「地球の将来は大変なことになる」という予測に耐えられなかったからでしょう。耐えられなかったら「大変なことになる」という予測の方を何とかすれば良いし、予測が何ともならないのならその予測を言う人を抹殺すれば良い、というのが、否定論者のやり方のようですが、私はそれには反対です。科学的な議論だったら歓迎ですけど、そのためにはせめて相手の論文(原著)をまず読んでおく必要があります(本書の著者はご苦労さんなことに、ちゃんとそれをやってから反論をしています)。それと、相手をやっつけることに血道を上げるよりも、地球の未来のための行動(それも最悪の事態にそなえて「保険をかけておく」)をした方が、よほど気持ちは楽になりそうです。


片思い

2016-07-30 07:06:14 | Weblog

 恋って基本的に片思いで始まるものだと私は思っています。で、その中で奇跡的に両思いになるものもある。だったら告白して断られたらそれで恋が終わるか、と言えば、「片思いに戻る(戻る、というか、両思いになれなかった)」だけですよね。だったら「恋が終わる」かどうかは、自分で決めれば良いことでは? 片思いをやめるかどうかを決めるのは、自分自身なのですから。

【ただいま読書中】『脳内ポイズンベリー(2)』水城せとな 作、集英社クリエイティブ、2012年、419円(税別)
『脳内ポイズンベリー(3)』水城せとな 作、集英社クリエイティブ、2013年、419円(税別)
https://www.amazon.co.jp/gp/product/B00WG29448/ref=as_li_qf_sp_asin_tl?ie=UTF8&camp=247&creative=1211&creativeASIN=B00WG29448&linkCode=as2&tag=m0kada-22
 第1巻では早乙女くんに「このビッチ」と衝撃の決めつけをされたいちこさんですが、次の衝撃波が続きます。早乙女くんの元カノ(というか、彼女には別れた意識なし)が押しかけてきて、そこで修羅場が。「ビッチ」はどこかにすっ飛んで行ってしまいます。その衝撃のため精神的に疲労困憊したいちこさんは、仕事に生きることを決心。仕事だったらやりがいも生きがいも締め切りもある、恋愛とは違う、と頑張ります。脳内会議の面々もそれなりにハッピーとなります。しかし早乙女くんが予想外の行動を。おかげで二人は元の鞘に。またまた疲れる恋愛がだらだらと続くことになってしまいます。いや、早乙女くんは素敵なのです。彼からの平凡なメールでさえ、胸がきゅんとするのです。だけど、会話がうまくやり取りできず、すれ違いばかりで、疲れるのです。
 対して、仕事を一緒にしている越智さんは「大人」です。話をしていても順調で、疲れません。ときめきもありませんが。恋愛をするなら早乙女くん、結婚をするなら越智さん。二人の間で揺れるいちこさん、というか、呆然としているだけのいちこさん。
 取材で出かけた鎌倉で、なぜかお互いの「暗黒付箋の付いた記憶」を交換してしまった二人は、うっかりキスをしてしまい、いちこさんはそれを「なかったこと」にしようとしますが、越智さんは結婚を前提の交際を申し込んできます。
 脳内会議は紛糾します。安定を取るか、ときめきを取るか。さらに、男と一夜を共にして次の夜に別の男とキスをするのは「ビッチ」ではないか、という指摘でも会議は荒れます。脳内会議が紛糾すればするほど、いちこさんは表面的にはぼーっとしているだけに見えます。それでもついに脳内会議は「早乙女くんとは別れる。越智さんと付き合う』という結論を出します。無理矢理出してしまいます。
 本も出ます。アルバイト感覚で書いていたケータイ小説が出版されたのです。そしていちこさんはついに越智さんと正式に付き合うことになりますが……
 脳内会議のドタバタぶりといちこさんの表面のギャップの大きさが,実に笑えます。で、自分自身の脳内会議がどうなっているのか、も気になります。もちろん他の人たちのも。


お盆に帰る

2016-07-29 07:26:05 | Weblog

 お盆に御先祖様が帰ってきたら地獄も極楽も空っぽになるけれどどちらもそんなに簡単に“出る”ことができるのか?というのは以前@niftyで書いたことがありますが、現在お盆で“帰る”のは都会に住んでいる人たちです。ということは、現世での地獄や極楽に相当するものは大都会ということに?

【ただいま読書中】『灯籠』うえむらちか 著、 早川書房(ハヤカワ文庫JA)、2012年、620円(税別)
https://www.amazon.co.jp/gp/product/4150310696/ref=as_li_qf_sp_asin_tl?ie=UTF8&camp=247&creative=1211&creativeASIN=4150310696&linkCode=as2&tag=m0kada-22
 著者は広島出身だそうで、で、本書の舞台は広島で、だから自然な広島弁が満載です。タイトルの「灯籠」は広島(というか、安芸門徒(安芸の国の浄土真宗))に特徴的な「盆灯籠」のことです。でかくて派手な竹と紙でできたお盆にお墓に供える灯籠ですが、どんなものかは「広島 盆灯籠」で画像検索をしてみてください。とっても賑やかな墓地の光景やコンビニでも売っていることに衝撃を受ける人は多いことでしょう。
 両親を交通事故で失った8歳の灯(ともり)。お盆で山奥のお墓を訪問したときに出会った不思議な青年、正造。彼は「何かを探しているんだけど、何をなくしたのか覚えていない」と標準語で言います(灯は広島弁です)。そして、毎年お盆の4日間だけ、灯は正造と楽しい日を過ごすようになります。灯は毎年成長します。正造はその成長ぶりを、手作りの盆灯籠の高さを彼女の身長に揃えることで表現します。お墓の父母に「こんなに大きくなりました」と報告するために。そして灯は正造に惹かれていきます。
 灯は一年の内で4日間だけの幸せのために、あとの日々は孤独な抜け殻のように過ごします。まるで、何年も地中で過ごしてやっと地上に出た1週間だけ鳴き続けて死んでいく蝉のように。
 そして高校三年の夏、灯は意外な場所で写真の中に正造の姿を発見します。
 いや、薄々感じてはいましたよ。正造が着物姿であること。その立ち居振る舞いが古風であること。異様に白い肌。読者は気づいているのですが、灯は気づいていません。そして、時間をかけて“それ”に気づいていく過程が短い文章ながら丁寧に描かれているのを,読者はゆっくりと味わうことができます。そして、自分の心に残されているやわらかい部分を、優しく撫でられているような気分になれるのです。不思議で愛しいお盆の物語です。
 第二話「ララバイ」は、第一話ではほとんど端役扱いだった清水クンが主人公です。灯と正造の不思議な関係の背後で、清水クンが何を考えどう行動していたのか、の一端が明かされます。明かされるのは良いのですが、この不思議なエンディングを見ると、生死の境界がずいぶん曖昧になってしまって、一体誰が生きていて誰が死んでいるのか私は軽く混乱してしまいました。まあお盆の物語ですから、それで良いのでしょうが。


旨味を捨てたらもったいない

2016-07-28 06:45:08 | Weblog

 災害時の非常食用に買っていた食糧を我が家では定期的に食べて入れ替えています。で、今回は鯖の缶詰(味噌煮)でした。子供の頃には好きだったなあ、なんて思いながら口に入れたら、あら、ずいぶん上品な味になっています。これだけでご馳走だわ。
 で、缶に残った汁を眺めて、このまま流しに捨てると下水処理場に負荷をかけるなあ、ということで、熱湯を注いで薄めてみました。飲んでみたら、鯖の旨味がたっぷり溶けこんだ“味噌汁(のようなもの)”になりました。一人分しか量が取れないのが難点ですが、美味しかったですよ。

【ただいま読書中】『恐竜はホタルを見たか ──発光生物が照らす進化の謎』大場裕一 著、 岩波書店、2016年、1300円(税別)

 「発光生物」は「光っていることを人間が認識できる生物」と定義づけられています。単に「科学的に光っている」だけだと、すべての生物は「バイオフォトン」を発しているので「すべての生物は発光生物」ということになってしまいます。だから「発光生物」はきわめて“主観的”は定義なのです。
 著者が数えたところ、発光する「属(種の一つ上のカテゴリー)」は800くらいで、そのほとんどは海に生息しているそうです。さらに、発光する「属」ではそこに含まれる種はほとんどが発光するので、地球上では数万種の生物が光っています。
 海中で光るのは、生き延びるためです。中深層では届く太陽光線は弱くなりますが、捕食動物が下から上を見たらその光をバックにした魚影は目立ちます。そこで腹を弱く光らせると背景の太陽光線と紛れて下からは認識しづらくなるのです。
 チョウチンアンコウの発光器は「疑似餌」として機能している、が定説ですが、実はそれをきちんと確認した人はいません。太陽光が届かない海の深層には巨大な目玉を持った魚が多く生息していますが、彼らは何を見ているかといえば、おそらく発光生物です。では発光生物の方は発光することでどんな利益を得ているのでしょう? 謎です。ところがこの謎を科学的に解明しようとする人がとても少ない。発光クラゲから緑色蛍光タンパクを発見してノーベル化学賞を受賞した下村博士は、生物発光の生物学的な研究をしている人は世界で30〜50人くらい、化学的な研究者は10人以下だ、と言っているそうです。基礎研究で人気が無い、ということなのでしょうが、もったいない話に思えます。
 高校の生物の授業で「ホタルの発光は、ルシフェリンがルシフェラーゼという酵素で酸化されて起きる」と習いました。ところがこれだけが「発光のメカニズム」ではありません。発光生物ごとに異なったやり方で発光をしているのです。たとえばウミホタルの「ルシフェリン・ルシフェラーゼ」はホタルのものとは物質的に全く違っています。オワンクラゲは「イクオリン」というタンパク質にカルシウムイオンが結びついてイクオリンが消費されていくことで青色光を発します(つまり酵素を使いません)。
 発光様式は二種類。自力発光(自身が発光)と共生発光(発光バクテリアを体内に共生させる)です。共生発光は、魚類やイカで多く知られていますが、その他の種ではなぜか見つかっていません。なお、この二種類は、「一箇所に大きな発光器」は共生発光、「小さな発光器が体中に分布」は自力発光、と一瞥で区別できるそうです。
 さて、著者の研究テーマ「発光の進化」。様々な種で別々のやり方で発光をするのは、進化論的にはどのような意味があるのでしょう?
 ホタルのルシフェラーゼは、もともとは脂肪分解をする酵素(もちろん光りません)のほんの一部のアミノ酸が別のものに置き換わって出来上がった、と著者は考え、実際にショウジョウバエの酵素のアミノ酸を一つだけ置き換えると、かすかに光ることを発見しました。わずか一つのアミノ酸ですから、進化はそれほど難しくないはずです。ちょっとしたDNA転写エラーで起きてしまいます。ではもう一つのルシフェリンはどうでしょう。ホタルは“それ”をいつ手に入れたのでしょうか(これが本書のタイトルの意味です)。ホタル科の起源は、白亜紀だそうです。ではなぜホタルは光ったのでしょう? 著者は「自分が食べても不味いことをアピールするため」と考えています。当時の原始哺乳類は、虫を“主食”にしていたはず。だからホタルは食べ尽くされないために光っていた、のだそうです(なお、実際に食べた人の話では、ホタルは本当に不味いそうです)。
 著者はスティーブン・ジェイ・グールドが大好きらしく、本書にもあちこちに彼が顔を出します。彼のエッセー群を読み直したくなってしまいました。


「ない」は「無い」とは限りません

2016-07-27 07:04:01 | Weblog

 もしも「ない」の反対語が「ある」だけだったら、「いらない」「もったいない」「幼い」の反対語は「いらある」「もったいある」「おさある」に?

【ただいま読書中】『昭和天皇とスポーツ ──〈玉体〉の近代史』坂上康博 著、 吉川弘文館、2016年、1800円(税別)

 大正天皇が病弱だったためか、1901年(明治34年)に誕生した長男裕仁は生後70日で枢密顧問官川村純義伯爵の家に預けられ、「健康第一」の養育方針で育てられました。4年後に皇居に戻った裕仁は、皇居内に設けられた幼稚園で同世代の子供たちと過ごすことになります。面白いのは、「御学友」は裕仁を「殿下」と呼ぶが、その中の4人は「御相手」で裕仁を「迪宮(みちのみや)」と呼び喧嘩をしたり泣かせることも許されていたことです。人気の遊びは鬼ごっこ。
 小学校入学にあたっては、乃木希典が学習院院長に就任、雨天運動場と第二運動場を増設します。体操の授業も、国語と算術に次いで多くなりました。ただし乃木が奨励したのは、剣道・馬術・遊泳など、軍人として役に立つもので、学生に人気のテニスや野球は正面切って排除しようとしています。
 放課後の遊びとしては、相撲や鬼ごっこが人気でしたが、時代を反映して、学習院の校庭や赤坂離宮の庭では戦争ごっこもよく行われていました。「陛下」はもちろん「大将」役でした。
 1914年学習院初等科を卒業した裕仁は中等科には進まず、東宮御所内に作られた「御学問所」に通います。初等科のクラスメイト11名から5名が選ばれて「東宮出仕」として学友というか側近として東宮御所に泊まり込み御学問所に通いました。帝王学のカリキュラムではやはり体育が重視されていました。2年の二学期の時間割では、週27コマのうち「武課及体操」が5コマ・馬術が2コマもあります。
 「昭和天皇とスポーツ」といえば私はまず「ゴルフ」を思うのですが、これは西園寺ら側近が「ゴルフは紳士のスポーツであるし、欧米に行ったときに王族たちとの交際で困らないように」と1917年に勧めたようです。側近は「玉体の安全」も重視していました。だから側近が勧めるスポーツからは「サッカー」「ラグビー」「柔道」「スケート」などは慎重に排除されていました。
 15才で裕仁は立太子礼を迎えますが、その3箇月前から練習を始めたのが「正座」だったというのが意外です。幼少時期から椅子の生活だった裕仁は、立太子礼での長時間の正座に耐えるために練習をする必要があったのです。さらに18才の成年式を迎えるために始まったのが「姿勢」の訓練でした。儀式で正しい姿勢を保つために、授業を減らして姿勢の訓練の時間が増やされます。
 1920年大正天皇は公務から退き、裕仁が天皇の名代を務めることになります。21年にはヨーロッパ外遊。半年の日程の中、ゴルフを楽しんだりボート競技やフェンシングの観戦をし、「外交や文化におけるスポーツの価値」を再認識したようです。
 「ロシア革命の衝撃」は宮内庁にはけっこう大きかったようで、「国民に親しまれる皇室」を彼らは目指します。だから「姿勢」「健康状態」が重視されたのでしょう。さらにメディアにもこれまでにない接近を許し、そのために裕仁のスポーツ好きが全国に知られることとなります。これは、病弱の大正天皇と次代の天皇の違いを国民に強調する狙いがありました。一種の売り込み戦略ですね(実際には裕仁もけっこう病弱だったのですが)。
 22年に英国皇太子エドワードが来日。両皇太子の日英対決が駒沢ゴルフクラブで行われました。スポーツ大会に優勝カップを下賜するようになったのも、この年からです。エドワード皇太子が東京ゴルフクラブに銀製カップを寄贈したのを真似たのがその始まりかもしれません。
 摂政時代、裕仁のスポーツの三本柱は、乗馬・テニス・ゴルフでした。乗馬は軍務の延長ですが(障害飛越はオリンピック選手に指導を受けてけっこうな腕前だったそうです)、ゴルフは家族との楽しみだったようです。22年からの5年間で92回のプレイですから、相当お好きだったのではないでしょうか。結婚した良子(ながこ)も結婚後1箇月で一緒にコースに出ています。結婚4箇月後には赤坂離宮に新設されたテニスコートで裕仁夫妻はミックスダブルスの試合に出ました。
 ところがこういった報道が気に入らなくて宮内庁を攻撃する人びとがいました。国粋主義者です。皇太子が西洋の「すぽーつとやら」を愛好するとは何ごとか、「武道」に専念するべきだ、と。それに対して宮内庁が取ったのは、メディアの発信制限でした。皇太子がゴルフをしている、という報道がなければ良いのだろう、ということです。そもそも側近が裕仁を半ば無理矢理引っ張り出してスポーツをさせたのは、もともと虚弱だった体質を改善して「玉体」の健康維持をするためです。ですから実際のスポーツの回数は減りませんでした。侍従たちにとって大切なのは、国粋主義者の体面よりも、裕仁の体調なのです。大正天皇崩御の翌年、1927年に昭和天皇は乗馬を84回、ゴルフなどを178回行っています。侍従の決意は本物です。それにしても、皇太子に武道を、と要求する人って、竹刀で皇太子の頭を思いっきりはたいたり柔道で押さえ込んだり皇太子の関節を決めてしまいたい、という欲求でもあったのでしょうか? というか、皇太子のスポーツについて頭ごなしに言える人って,自分は皇太子より偉い、と思っていた?
 即位の大礼に合わせて、住まいも赤坂離宮から明治宮殿の御常御殿(おつねごてん)に移転。赤坂離宮には6ホールのゴルフコースがありましたが、引っ越しに合わせて吹上御苑に新しいゴルフ場が建設されました。葉山の御用邸のゴルフ場も全9ホールに拡張されます。吹上ゴルフ場は冬にはスキー場になりました。70〜90mのスロープですが、都内でスキーができたんですねえ。
 結局「こんなご時世」によって、天皇はゴルフをやめます。問題になるのは、ストレス対策と体調管理。そこで始められたのがデッキゴルフです。船の甲板で行われるゲームですが、外から見えないように宮内庁侍医寮の屋上に設備が作られました。「天皇のスポーツ」は、個人の嗜好ではなくて「国家プロジェクト」だったのです。
 スポーツ一点だけ見ても、天皇とはなんとも不自由な生活だと思います。ただ、「他人のスポーツに偉そうに口を挟む人間」が目立つか目立たないか、が「社会の健康度」のバロメーターとして使えることもわかりました。天皇はその「シンボル」です。なんともお気の毒な立場ですが。


ライブ読書

2016-07-26 07:19:54 | Weblog

 「本の読み聞かせ」というのは、音楽でいうなら「ライブ」ですよね。観客の反応を見ながらの“生の演奏”です。すると本は、音楽なら「楽譜」(演奏者(=語り手)が解釈するもの)に相当するのでしょうか。

【ただいま読書中】『石井桃子 ──児童文学の発展に貢献した文学者』筑摩書房編集部 著、 筑摩書房、2016年、1200円(税別)

 1933年のクリスマスイブ、石井桃子は仕事(翻訳など文藝春秋社でのアルバイト)がきっかけで家族ぐるみの付き合いとなった犬養毅家のパーティーに招待されます。そこで犬養家の子供たちにプレゼントされた原文の「くまのプーさん」に出会います。プーさんの物語は石井桃子の心を鷲づかみにし、周囲のすすめもあってその翻訳に取り組みます。最初の版が出版されたのは1940年のことでした。
 当時桃子は、山本有三が提唱した「日本少国民文庫」の仕事に取り組んでいました。時代に逆らうかのようにこの文庫からは『幸福の王子』『ジャン・クリストフ』『点子ちゃんとアントン』など優れた作品が子供向きに翻訳されて出版されました。しかし当時の「児童文学」について桃子は満足していませんでした。子供たちが読んで本当に面白いものとは思えなかったのです。そこで女友達2人と「白林少年館出版部」という会社を立ち上げ『たのしい川邊』『ドリトル先生アフリカ行き』を出版しました。42年には岩波書店から『プー横丁にたった家』が出版されます。……42年?
 終戦の日、桃子は開拓を始めます。農業で自給自足の生活を目指したのです。しかし農場は行き詰まり、借金返済と農場経営続行のために、50年に岩波書店に入社、岩波少年文庫の編集責任者を務めます。この世に存在する「美しくあたたかいもの」(優れた外国の小説)を優れた日本語で子供たちに紹介する、という石井桃子のポリシーがそのラインナップと出版されたものに現れています。そして、戦争中に書いた小説『ノンちゃん雲に乗る』がベストセラーとなってその印税で農場は一息つきました。
 54年から1年間アメリカに留学。47才で児童文学の勉強をやり直します。さらに、アメリカの児童図書館が、単に子供に本を貸す場所なのではなくて、創作活動と出版を支援し、できた本を購入して子供に良い本を届ける文化的な使命を果たしていることを知ります。帰国後、石井桃子は本の読み聞かせ運動など様々な活動を展開します。公共の図書館が充実するまでは、私的に活動しよう、というわけです。
 石井桃子が101才の人生を通して考え続けた「子供に良い本」とは、子供だましの本ではなく、大人にとって都合の良い本のことでもありません。その子供の人生を豊かにし、その子供だけではなくてその子供の周囲にもその豊かさを波及させる効果を持った本のことでしょう。私自身も「子供に良い本」をこの年になっても読むのが大好きです。


太陽面通過

2016-07-25 07:46:55 | Weblog

 「月の太陽面通過」は「日食」と呼ばれます。他の星もすべて太陽の影を引いていて、その影を地球が通ったら「食」が起きるわけです。あまり派手ではありませんが、「水星の太陽面通過」なんてものもあります。
 ということは、火星や木星からは「地球の太陽面通過」が観測できることがある、ということなのでしょうか。一度見て見たいなあ。

【ただいま読書中】『日本のものづくりはMRJでよみがえる』杉山勝彦 著、 SBクリエイティブ、2015年、800円(税別)


 「日本のものづくり」礼賛の風潮が最近ありますが、著者はそこに「無責任」を感じています。日本のものづくりには強みと弱みがあり、それをきちんと見て評価するべきではないか、と。
 この考え方に私は同感するので、「単純な礼賛本ではなさそうだ」と、本書を読んでみる気になりました。無責任な礼賛本を読むのは時間の無駄ですから。
 MRJ(三菱リージョナルジェット)のような100人未満のジェット旅客機を「リージョナルジェット」と呼びます。かつてジェット機は100人以上でないと採算が取れなくて100人未満はプロペラ機が担当していましたが、ハイテク装備で燃費もプロペラ機並みのリージョナルジェットなら既存の地方路線だけではなくて新しい路線の開拓も可能です。
 国産機と言えば私は「YS−11」を思いますが、これは産業から見たら完全な失敗作だそうです。期待そのものは非常に優れていたのですが、国策会社の官僚主義が開発の足を引っ張り、マーケティングは完全な失敗。しかも機を熟成させることよりも「次の計画」に浮ついている始末。本書では「開発が食い散らかし」と表現されています。名指しはされていませんが、一体誰が食い散らかしたんでしょうねえ。
 通産省は次々「官主導」での国産機開発計画を打ちあげ続けますが、その執念には感心するものの、成果はゼロ。おっと、ゼロ、と言うのは不適当ですね。少なくとも「こうしたら失敗する」ということは学べましたから。とても高い授業料でしたが、それを支払った上でこんどは「民間主導」での開発計画がスタートします。それがMRJです。
 機体には複合材が用いられます。エンジンはターボファンジェット。これは、吸入した空気のほとんどはそのまま圧縮して後ろに噴き出し、一部だけを燃料の燃焼に使う構造になっています。燃焼室に送らない空気が多ければ多いほど(バイパス比が高いほど)燃費は良くなります。MRJの現時点でのライバルは、ボンバルディア(カナダ)とエンブラエル(ブラジル)ですが、そのどちらにもMRJは燃費で20%優位に立っています。「1%の差」が問題になる世界で「20%」はインパクトがあります。ただ、これから出現する新型機はMRJと同じプラット・アンド・ホイットニー社製のものも採用するでしょうから、いつまでもこの優位が保てるわけではありません。だから必要なのは、だらだらした会議の時間や決済のハンコの数を競うのではなくて、少しでも早く世界にきちんと売り込んでシェアを確保し実績を示せるようになることです。
 著者は「これからは『薄利多売』ではなくて、付加価値を求めて言わば『厚利寡売』を日本は目指すべき」と主張します。発想の転換ですが、それができなければおそらくこれまでの「失敗の歴史」がこれからも積み重ねられるだけでしょう。
 日本には「職人技」が(まだ)あります。それを世界に“高く”売りつけることができたら、「日本のものづくり」が世界になくてはならないものになります。MRJは一つの“シンボル”ですが、これをただのシンボルにするか、それともその後から次々と新しいものが世界に打って出て“シンボル”の“厚み”を増すことができるかどうかで、21世紀に日本がきちんと生き残ることができるかどうかが決定されることでしょう。



収穫祭

2016-07-24 06:54:28 | Weblog

 蝉時雨が降る中、地面に蝉の骸が転がっていました。どうやって嗅ぎつけたのか、蟻が群がって饗宴、というか、巣に運ぶための“収穫祭”の真っ最中です。
 あの蝉、ちゃんと子孫を残して死ねたのかなあ。ちょっと気になります。

【ただいま読書中】『アメリカはなぜヒトラーを必要としたのか』菅原出 著、 草思社、2002年、1700円(税別)

 「なぜ必要としたのか」と問われたら私が用意できる回答は「防共」「第一次世界大戦の賠償金をドイツがきちんと支払い続けられるように(アメリカは戦争資金を英仏などにたくさん貸していたので、ドイツからの賠償金が滞って英仏が借金を踏み倒しては困る)」という、政治と経済からのものになります。
 1929年の世界恐慌は、ドイツに特に辛い思いをさせました。失業者が増えるにつれてナチスの支持率は増加します。それにつれてナチスとドイツ財界との結び付きが強くなっていきます。そして、ナチスが第一党、共産党が第二党という状態で33年にヒトラー内閣が誕生します。アメリカ財界も「安定したドイツ」を歓迎します。アメリカの対独投資は29年から40年にかけて1.5倍にもなりました(同期間に対英投資は2.6%増えただけです)。これだけの投資(と利益)を喪失させる対独戦争にアメリカ財界が賛成するわけがありません。しかし、ルーズベルト大統領は反ナチでした。融和派のチェンバレンとは違って反ナチのチャーチルもアメリカを戦争に引き込もうと、暗号名「イントレピッド」(44才の実業家、億万長者)という工作員をアメリカに送り込みます。イントレピッドはルーズベルトの協力も得て、上流階級の間にネットワークを作りますが、その中にはマスメディアの人間も多く含まれていました。「海の向こうのヨーロッパの戦争に巻き込まれたくない」というアメリカの世論を変えるための工作が始まります。「アメリカの世論」と言っても、親独・反独・孤立志向、と複雑なのですが、それを「参戦」に向かわせようというのです。
 それにしても「敵に対抗するために、その敵に敵対している独裁政権に肩入れをする」のはアメリカの“伝統”なんでしょうか。南ベトナムしかり(ベトナム戦争)、イラクしかり(イラン・イラク戦争で、アメリカを敵視するイランに対抗するためにイラクのサダム・フセイン独裁政権にアメリカは相当な肩入れをしました)。せめて21世紀には少し過去に学んだ方が良いと思うんですけどね。
 戦後にも「親独(反共)」グループはアメリカで活発に活動を続けます。こんどは「冷戦」を煽る方向に。“ポリシー”が一貫している、とは言えます。占領政策はドイツの財閥解体を目指していましたが、それで西ドイツが本当に“弱く”なるのは困るので、反共派はその政策の骨抜きに奔走し、成功します。そしてその同じ動きは日本でも行われました。財閥解体の骨抜きです。
 「反共の戦い」は南米でも盛んに行われましたが、そこでもアメリカのバックアップを受けたドイツ人(ナチス協力者またはナチスそのもの)が“活躍”をしていたそうです。そしてその流れは、流れ流れて(パパ)ブッシュの選挙にまで到達します。「戦後」はまだ終わっていない、というか、「戦前」がまだ政治的には継続している、といった感じです。
 アフガニスタンに侵攻したソ連をやっつけるために、アメリカはムジャヒディンに莫大な援助を行いイスラム急進主義を煽れるだけ煽りました。その“つけ”がぐるりと回って「アメリカに対する聖戦」になってしまいます。アメリカ人の「反共の戦い」はその主義者にとっては「聖戦」だったのでしょうが、異教徒の私にとっては「世界の大迷惑」と感じます。ただし「聖戦」ですからアメリカは今でも「ヒトラー」を必要としているのでしょう。なんだかイヤな予感しかしません。


言葉を守る

2016-07-22 22:37:57 | Weblog

 「二言はない」武士
 「契約は守る」商人
 「約束を守る」庶民
 「……………………」政治家

【ただいま読書中】『盛り場はヤミ市から生まれた』橋本健二・初田香成 編著、 青弓社、2016年、3000円(税別)

 物資不足と価格差の“圧力”は物資をヤミに流します。1943年はじめの調査では日本国民は2〜5割の物資をヤミで購入していました。ただし戦中はそれはそれこそ闇でこっそりと行われる取り引きでした。ところが戦後は、公然とヤミ市が立つようになります。空襲の焼け跡、建物疎開跡地、鉄道のガード下……場所はあります。同時にそれまで「闇」と否定的に表現されていたのが肯定的に「ヤミ」と書かれるようになりました。新聞の論調もこれまでの否定一方から生活のためには必要なものという認識を示すようになります。実際にヤミを使わず配給物資だけでは生きていけなかったのです。
 面白いのは、同じ「ヤミ市」でも「テキ屋を中心とした“プロ”集団(同業組合)」と「素人露天商」があったことです。「素人」には様々な人が混じっています。店を焼かれた商売人・失業者・復員軍人・傷痍軍人・遺族・海外からの引き揚げ者……人種も様々です。
 あまりにヤミ市が繁盛したため、政府は物資統制や区画整理でヤミ市を“整理”しようとします。整理される側は当然抵抗します。しかし東京オリンピックを契機に都市整備が進められ、たとえば新宿駅西口のマーケットは1960年に整理されて西口広場になりました(一部は「思い出横丁」として残りました)。有楽町駅では62年に「すし屋横丁」が消滅。新橋駅では61年に都市計画が決定され東口は66年西口は71年に新しいビルが完成しています。池袋や渋谷もどんどん整理されていきました。
 私が育った地方都市でも、戦後の焼け跡に作られた“市場”の一部は昭和の遅くまで残っていました。子供時代には木造バラックを見た覚えがありますが、いつの間にか雑居ビルになっていました。中身はほとんど「ヤミ市」由来のまま保存されていたようですが。
 ここまで書いて何ですが、「ヤミ市」というものは存在しません。「各地域のヤミ市」なら存在します。
 たとえば新橋。ヤミ市はニュー新橋ビルにほぼそのまま引っ越してサラリーマンの飲み屋街になってしまいました。
 新宿では、テキ屋の力が非常に強く、新宿駅はぐるりとヤミ市に取り囲まれてしまいました。尾津組は1945年8月20日に早くも「光は新宿より」と「新宿マーケット」(12軒の仮設店舗)をオープンさせています。警察もテキ屋の力を借りるために黙認・協力・利用・奨励をしていました。ただし世情が落ちつくにつれて公権力はヤミ市に冷たくなり、47年からは街の顔役が次々逮捕される事態になります。しかし当時の新宿駅の写真を見ると、今の西口駅前広場にずらりとバラックが並んでいるのです。迫力があります。
 渋谷は台湾マーケットが一つの特徴でした。農業・水産業と直接つなぐ鉄道路線がなかったため、品揃えは“それ以外”に特化することになります。
 吉祥寺(ハモニカ横丁)は中華マーケットです。PXからの横流し品も潤沢だったのが特徴です。
 本書に登場するのは、東京だけではありません。神戸や盛岡が扱われますし、巻末には全国各地の一覧表があります。“日本人の迫力”を感じます。こういったものがあったから「戦後の復興」があったのでしょう。そのおかげで私の親は生き抜くことができ、私が生まれることができたのだろう、と思うと、感慨深いものを感じます。


人口論

2016-07-21 20:32:08 | Weblog

 あの世でマルサスさんは「何を計算違いしたんだろうか」と不思議に思っているかもしれません。

【ただいま読書中】『食糧と人類 ──飢餓を克服した大増産の文明史』ルース・ドフリース 著、 小川敏子 訳、 日本経済新聞出版社、2016年、2400円(税別)

 ヒトは狩猟採集から農耕、そして都市生活へとその生活スタイルを転換させてきました。著者によると、2007年5月は、人類の過半数が都市生活者になった画期的なポイントなのだそうです。著者は人類の歴史を「文化と技術」ではなくて「食糧と創意工夫」という観点から眺めよう、と提唱しています。
 有名な「アイルランドのジャガイモ飢饉」は、「前進(ジャガイモによる食生活の改善)」「危機(ジャガイモの疫病と飢餓)」「方向転換(人口の流出と新しいタイプのジャガイモの採用)」と一般化することで、著者には「人類と食糧の関係の歴史的縮図」だそうです。この「前進」「危機」「方向転換」のサイクルを人類は歴史の黎明期から繰り返し続けていました。これからも続けるでしょう。ただここで問題になるのは「全地球的な都市化」という“前例のない状況”に私たちが生きていることです。
 著者はまず地球の歴史を見ます。そこには宇宙でも珍しいであろう「炭素の循環サイクル」がありました。農業はその循環の中に位置づけられます。次は人類の歴史。大きな脳と短い消化器官の組み合わせは、料理によってもたらされたのか、あるいは逆にそういった生物だから料理をしないと生存が不可能だったのか、一体どちらでしょう?
 野生の植物と動物で人間にとって都合の良いものには改良が加えられ、栽培種・家畜が誕生しました。それが最初に行われたのは、約1万2000年前〜4500年前の間、場所は、肥沃な三日月地帯・中国・南アジア・地中海沿岸・エチオピア・メソアメリカ・アンデス・北米東部・ニューギニアとアマゾン。人類20万年の歴史からは、ほんの一瞬で人類は大きな方向転換をしました。
 土壌中の窒素やリンは“有限の資源”です。原始的と言われることがある焼き畑農業は、その貴重な資源のリサイクルに有効な手段でした。エネルギーも重要ですが、人は動物を労働させることで太陽エネルギーを食糧に変えました。18世紀イングランドの「農業革命」(ジャガイモなどの導入、クローバーで窒素を固定、家畜の活用、家畜や人の屎尿を肥やしに)によって余剰農産物が生まれます。増大する都会の需要に応えようと農業はさらに増産を目指し、森林は伐採されます。燃料が枯渇し石炭に注目が集まりますが、それは同時に産業革命の準備をすることになりました。
 アメリカ中西部では「モノカルチャー(大規模農園での、ダイズ、トウモロコシ、小麦など単一品種の大量生産)」が行われています。これは人や産業にとってはありがたいことですが、同時にありがたくないお客(病原菌や害虫など)も呼びよせることになります。そこで登場したのが、合成殺虫剤(代表がDDT)。ところが外来の害虫を全滅させる、という目論見は成功せず、在来の昆虫ばかりが(あるいは鳥や動物が)大打撃を受けることが繰り返されました。そこで世間に衝撃を与えたのが『沈黙の春』(レイチェル・カーソン)ですが、これを「化学物質の毒性で死ぬか飢餓で死ぬか、だ」(『沈黙の春』批判者)と捉えるのは極端すぎるでしょう。というか、レイチェル・カーソンは「DDTはワルモノだ」なんて言ってませんし(少なくとも私はあの本をそう読解しましたし、本書の著者もまた同じ見解のようです)。
 マルサスの予言を覆そうと「緑の革命」が進みます。しかし潤沢な食糧の供給は人口の増加を招き、それがさらなる食糧の増産を要求します。また「緑の革命」は「奇跡の種子・化学肥料・灌漑設備・機械」の“パッケージ”一括購入形式のため、資金的な余裕がない人は利用できません。大量の水がくみ上げられて枯渇したりの負の側面も持っています。
 大都市の食料品店には、人類の「食の歴史」が凝縮されています。その品揃えを見ながら著者は考えます。人類は「危機」にあうたびに創意工夫でなんとかそれを乗り切ってきました。そして、現在の危機もまたそうやって乗り切っていくだろう。ただ、闇雲に人類のことだけを考えて危機に対処するのではなくて、地球規模で物事を考えていくべきではないだろうか、というのが著者のものの考え方です。持続可能な農業と人類文明であるために、私たちに何ができるのか、を考えるのは、私たちの仕事でしょう。