【ただいま読書中】

おかだ 外郎という乱読家です。mixiに書いている読書日記を、こちらにも出しています。

二の次

2020-10-30 08:09:15 | Weblog

 「自助共助公助」ということは、「公助」は「二の次」ということですね。「自助」「共助」の「次」ですから。

【ただいま読書中】『河童よ、きみは誰なのだ ──かっぱ村村長のフィールドノート』大野芳 著、 中央公論新社(中公新書1534)、2000年、660円(税別)

 「河童は本当にいるのか?」と“常識的”な判断をしていた著者は、『遠野物語』で衝撃を受け、実際に遠野に出かけてさらに衝撃を受けました。目撃者がいたのです。そこから著者の「河童探し」が始まりました。
 呼び名は地方ごとにまちまちですが、その分布図を見たら、北は北海道から南は沖縄まで日本全国に「河童」は伝承されています。古文書には、目撃談だけではなくて、河童と相撲を取ったとか、脚を掴まれて水に引き込まれそうになったという体験談もあります。「河童の頭蓋骨」「河童のミイラ」という「物証」もあちこちで保存されています。
 目撃談を読んでいると、「日本にまだ暗闇があった時代」の話だと気がつきました。暗闇の中での怪しい水音、変な臭い、怪しい気配……それを昔の日本人は「河童」と名付けたのかもしれません。ただ、私たちが知っている「河童」そのものではないにしても、そういった「水音」「臭い」「気配」にはそれを起こす実体を伴う“原因”があるはず。それは本当に「河童」だったのかもしれません。
 ちなみに本書では「河童」を追究するとそこから「日本人」が見えてきます。不思議ですね。

 


パンデミック

2020-10-30 08:09:15 | Weblog

 COVID-19によって「百年前のパンデミック(世界的流行)」が改めて注目されています。「スペイン風邪」の大流行です。この時人類は大損害を出しましたが、それと同時に「教訓」もたくさん得ていました。その教訓を今回生かせなかったら、「百年前の死者」は「犬死に」をしたということになってしまうのでしょうか。

【ただいま読書中】『インフルエンザ・ハンター ──ウィルスの秘密解明への100年』ロバート・ウェブスター 著、 田代眞人・河岡義裕 監訳、 岩波書店、2019年、2000円(税別)

 第一次世界大戦さなかの1918年4月、大西洋を渡ってヨーロッパに投入されたアメリカの大軍は、ヨーロッパに「新型インフルエンザ」も持ち込みました。はじめは「普通のインフルエンザ」でしたが、8〜9月にウイルスが「凶悪なタイプ」に変貌し、致死率がどんと上昇しました。塹壕戦の「三密状況」によって、インフルエンザは友軍だけではなくて敵国のドイツ軍にも流行を広げました。「自軍に病気が」は軍の機密とされましたが、中立国のスペインは「新しいタイプの病気が流行している」と発表、そのためこの病気は「スペイン風邪」と呼ばれるようになります(現在トランプ大統領はCOVID-19のウイルスを「中国ウイルス」と呼んでいますが、その伝に習えば「スペイン風邪」は本当は「アメリカ風邪」だということになります)。このときウイルスを突然変異させた原因として、戦場で広く使われていた毒ガスの関与を疑う人もいます。毒ガス使用のピークは1918年で、ホスゲンガスとマスタードガスは突然変異誘発物質としても知られている、がこの説の根拠です。
 フランス軍では戦場からインフルエンザで離脱する兵士が全体の46%、もちろんどの国も軍隊も似た状況となっています。だから「第一次世界大戦を終わらせたのは『スペイン風邪』」というのも、間違いではないでしょう。
 当時「インフルエンザの病因」は不明でした。二次的な細菌感染を受けた患者の肺から見つかった細菌が「これこそインフルエンザの原因」として「インフルエンザ菌」と呼ばれたりしました、もちろんそれは大間違い。ただ、「インフルエンザの原因はウイルス」ということがわからなくても、「マスクの有効性」「三密の危険性」「検疫は有効だが困難」といった、21世紀のCOVID-19にもそっくりそのまま通じる「疫学的な教訓」は多数そこから得ることができていました。21世紀にその教訓を活かさず、いろいろ見当外れなことをやったのは、為政者の「罪」と言えます。
 400万人以上を殺したスペイン風邪(H1N1)はやがて穏やかになっていき、季節性のインフルエンザとして世界に定着しました。しかし1957年にこれまでとは大きく異なるアジア風邪(H2N2)が出現、H1N1を駆逐して世界的な流行(パンデミック)を起こしました。このとき世界中で150万人が死亡しています。
 電子顕微鏡でウイルスを観察できるようになる前から、研究者はウイルスについて様々な知見を集めていました。「見えないもの」がどのようなものであるかをきちんと表現できる、というのはすごいことだと私は思います。
 そして1960年代、大学院生だった著者は仲間とともに、オーストラリア・グレートバリアリーフの無人島に「調査旅行」に出かけます。日中は海水浴やシュノーケリング、日が暮れると「研究」の開始です。なんか、遊びのついでに「研究」をしているようにも見えますが。しかしそこで著者らは「野生の水禽がインフルエンザウイルスを保有していること」を証明しました。この発見が「無害(低病原性)ウイルスが健康な渡り鳥によって大陸を越えて運ばれる一方、まったく同じウイルスが致死的なウイルスに変化しうる」という重大な発見につながります。さらに著者は「インフルエンザウイルスが鳥のどこに多く存在するのか」を調べ、全臓器に存在するが特に腸(と便)に大量に存在することを突き止めました。水鳥は湖や池や湿地にいます。するとそこの水はウイルスで汚染されていて他の鳥にも容易に感染が広がることになるのです。
 「人のインフルエンザウイルスは鳥由来」という“仮説”はしばらく懐疑的に見られていました。そもそも「健康な渡り鳥」が“保菌者”ということ自体を信じない学者も多くいたそうです。状況が大きく変わったのは1997年香港に「鳥インフルエンザ(H5N1)が出現したことによります。
 著者はインフルエンザウイルスを求めて世界中を旅しています。その中で私が強い印象を得たのは、1972年の中国(文化大革命のさなか)。鍼麻酔に感銘を受けた著者は自身でも体験をしています。ただ、鍼を打たれた後になってから「この鍼は滅菌してあるのか?」と思ってももう手遅れなのですが(ちなみにちゃんと無痛にはなったそうです)。
 人のインフルエンザに「豚」も関係していることを私が知ったのは、2009年の「新型インフルエンザ」の時でした。「豚が人間の病気に関係している」は昭和の時代に「日本脳炎はまず豚で流行しそこから吸血したコガタアカイエカが人間を刺して人間にも流行させる」と習っていたから、それほど驚きはしませんでしたが。なおこの時流行したウイルスの型(H1N1)は100年前に流行した「スペイン風邪(H1N1)」と実によく似た亜型でした。ウイルスの世界でも、歴史は繰り返す、のようです。


人気ブログランキングに参加中です。応援クリックをお願いします。

 


汚した水

2020-10-28 07:27:58 | Weblog

 トリチウムによる汚染水は薄めれば安全だ、と主張する人がいます。そんなに安全なら、その水でお風呂を仕立てて入浴してみてもらえません? ちなみに、本人だけではなくて家族もね。赤の他人はともかく、親しい家族だったら簡単にその安全性を説得できますよね?
 ところで、地中の凍結壁で汚染水はもう増えない、と言っていたのは、あれは結局「嘘」だったんですか? 「嘘」だったのだとしたら、そういった「嘘つき」が言うことは、あまり信用できません。だから「ことば」ではなくて「行動」を見たいと思います。

【ただいま読書中】『砂漠のキャデラック ──アメリカの水資源開発』マーク・ライスナー 著、 片岡夏美 訳、 築地書館、1999年、6000円(税別)

 アメリカ西部で組織的に灌漑によって砂漠を緑化した最初の実例はユタ州に移住してきたモルモン教徒でした。以後砂漠の灌漑は熱狂的に進められてきましたが、著者は「砂漠を灌漑で緑化して栄え、そして滅びていった古代文明(アッシリア、カルタゴ、メソポタミア、インカ、アステカ、ホホカムなど)」のことを思い出しています。
 「西部開拓」と言えば私が思うのは(『大草原の小さな家』のような)幌馬車や丸太小屋ですが、本書では違う側面が見えます。たとえば水利権では「ビジネス」やそれに対する許認可や汚職といった「行政」が重要な働きをしています。水路建設はダム建設に発展し、ロサンゼルス市を潤すために無理やり建造されたセントフランシス・ダムの決壊という悲劇まで生じました。しかし「水の需要」は厳然と存在していました。ダム建設は続きます。ショーや戦争が途中でやめられないのと同様、水供給の努力はやめられないものだったようです。しかし「アメリカ西部」はもともと降水量が少ない地域です。川の水はすぐに使い尽くされ、人びとは井戸を掘って地下水を利用するようになりました。都合の良いことに地下には長い時間をかけて貯蔵された帯水層があったのです。第一次世界大戦後に遠心ポンプが発明され、地下水を大量に汲み上げることが可能になると、人びとはそれをためらわず実行しました。環境に興味を持つ政治家が水需要の増加にブレーキをかけようとすると、強烈なしっぺ返しを受けることになりました(たとえばジミー・カーターもその一人で、西部の水需要を抑制しようとしたため大統領の再選に失敗したそうです)。6つの州にまたがって存在するオガララ帯水層は世界最大の規模ですが、急速に消滅しようとしています。もちろん地上の人がそれを黙って見ているわけではありません。ちゃんと「計画」があります。「これから何年で帯水層を使い切るか」の計画で、25〜50年が見込まれているそうです。
 「水開発」に関しても興味深い話が紹介されています。水開発に金を出す人たち(納税者)はそれでまったく利益を(というか、水そのものも)得ることができない、という巧妙な仕組みが作られているのです。「トリクルダウン」で“上”からしたたり落ちてくるものは皆無、ということですね。
 砂漠を灌漑して繁栄した古代文明は、水分不足で滅びたのではありません。水が蒸発した後に残ったミネラル分(塩分)が農地を殺したために滅亡しました。そして今、アメリカの農地では、塩分がどんどん増えているそうです。


人気ブログランキングに参加中です。応援クリックをお願いします。

 


重症者のまわり

2020-10-27 07:03:57 | Weblog

 現在のコロナ禍で「人工心肺」とか「ECMO」という言葉が普通にマスコミに登場するようになりました。ということは、その機械一台一台に、医師・看護師・介護士・薬剤師・栄養士などで構成されたチームが24時間張りついているわけです。そして、本日の本のテーマである臨床工学技士も。

【ただいま読書中】『臨床工学技士になるには』岩間靖典 著、 ぺりかん社、2019年、1500円(税別)

 最近の医療現場には、人工心肺・人工透析器・人工呼吸器などの複雑な「機械」がたくさん入っています。臨床工学技士はそういった「機械」を扱う専門職で、国家試験の合格が必要な国家資格です。心臓カテーテル検査の時には、3Dマッピング装置を操作して、カテーテルを操作している医師にカテーテルの位置を知らせたりもします。
 うっかりすると「機械オタク」に見えるかもしれませんが、自分が相手にしているのは「患者」という「人間」であることを忘れてはいけないし、こういった高度な医療行為はチームワークなので対人スキルも重要だそうです。
 何でもできる「ジェネラリスト」を目指す人もいますし、特定の分野での「スペシャリスト」を目指す人もいます。これは、たとえば医師でも「専門家」と「ジェネラリスト」の両方にそれぞれの有り難みがあるのと同じでしょうし、医療以外の分野でも同じですね。
 さらに、医療機器の世界は日進月歩で普段の勉強が欠かせないそうです。これまた医療以外の分野でも同じことが言えそうです。
 どこの世界でも「楽な商売」はなさそうです。でも、私に来世があるのだったら、そこで臨床工学技士になるのは面白そうだな、とは思えました。

 


たった一年前

2020-10-26 07:16:52 | Weblog

 ラグビーワールドカップで日本代表が日本中のファンやにわかファンを熱狂させたのは、昨年の今頃のことです。あのとき数箇月後に世界が今のようになるとは、誰も予想していませんでした。ということは、来年の今頃にも「一年前にはこうなるとは予想できなかった」と言っているのかな? その場合には現在より良い世界になっていることを切に希望します。

【ただいま読書中】『ラグビーの世界史 ──楕円球をめぐる二百年』トニー・コリンズ 著、 北代美和子 訳、 白水社、2019年、5800円(税別)

 エリス少年がサッカーボールを手に持って、のラグビー発祥物語は今から200年前の事です。しかし本書は1973年のある中学校の泥んこのグラウンドから始まります。この個人的な物語によって「ラグビー」がラグビーをする人にとっていかに身近な存在か、よくわかります。そしてそこから話は歴史の領域へ。
 「民俗フットボール」はイギリスでは昔から盛んに行われていました。ある特別な日(たいていは告解火曜日(謝肉祭の開幕日))に村と村の対抗で、どんな手段を用いても「ボール」を「ゴール」に持ち込むこと目的である「ゲーム」です。これを学者がなんと呼ぶかは別として、ブリテン島の人びとは単に「フットボール」と呼んでいました。一チーム数人(極端な場合は一人)〜数千人、ローカルルールもいろいろですが、この「フットボール」は全体的には「サッカー」よりは「ラグビー」に似ているように見えます。
 「ラグビー校」は1567年に設立、1818年にはイングランドで2番目に大きな学校(生徒数約400名)になっていました。19世紀のイングランドでは人びとは都市に集中し、民俗フットボールを楽しむ時間も空間もなくなっていたのです。ただ形を変えた「スポーツ」はパブリックスクールの中に生き残り、成長していました。ラグビー校の「フットボール」は、選手の数は無制限(ふつう一チーム50〜60人)、試合時間の制限は無し(最初に2ゴールを上げた側の勝ち)。延々と続くスクラムのあとキックが入ってまたスクラム。「トライ」を挙げるとそれは文字通り「(ゴールキックを試すための)トライ」で、キックが成功したら「トライ」が「キック」に「コンバート(変更)」されました。ちなみに1845年にルールが初めて成文化されましたが、そこでは試合時間は「5日で引き分け。ただしゴールが蹴られなかったら3日で引き分け」と定められています。ゴールキックもすんなり蹴れるわけではありません。トライを決めた選手が後方の決められたゾーンにいる選手にまずパントを蹴ってパスをします。それに対して守備側の選手はいっせいに襲いかかります。それを上手くかわしてボールをきちんとキャッチして踵で地面にマークができた場合にやっとプレースキックができるのです。ここは現在のアメリカンフットボールに一部が受け継がれていますね。
 しかし「野蛮」です。フォワードの仕事は、ボールを蹴ってドリブルをするか、ボールが近くになければ近くの敵の向こうずねを蹴る(ハックする)ことだったのですから。なるほど、「フットボール」です。ただ、お互いに同じことをする(そしてそれ以上はしない)からこそ「フェアプレイ」と言えるのでしょう。19世紀後半にラグビー校から「フットボール」は各地のパブリックスクールに広まり、それに伴って「共通のルール」が整備されていきます。そこで特に大きなものは「1チーム15人」と「ハッキングの禁止」でしょう。「血まみれの向こうずね」はあまり人気がなかったようです。ちょっと奇抜なルールは「ボールがゴールを越えるのを妨害するためにバーの上に立つこと、の禁止」でしょう。アメリカのバスケットボールでバックボードがなかった時代にシュートを失敗させるために観客がバスケットの上に手を出して妨害した、なんてことを私は連想します。
 パブリックスクールでは「ラグビーが絶対」でサッカーは顧みられませんでした。ただ、パブリックスクールの「外」ではサッカーの人気が高まっていました。1870年代にインランドとスコットランドの間でサッカーの「国際試合」が開催されています。それに刺激を受けてラグビーも「ナショナルチーム」の結成が模索されました。
 初期のボールの形は、ラグビーもサッカーも似ていました。スモモに似た歪んだ球体です。ラグビーの試合に楕円球が使用される、と公式に定められたのは1892年になってからです。
 そして五か国対抗の時代。私が最初にこのことばを知ったとき「イギリスはどこ?」と思いましたっけ。だって「各地方」ではなくて「各国」なのですから。さらに「大英帝国」によってラグビーは世界に広まります。ニュージーランド(オールブラックス)、南アフリカやオーストラリア、どこも強豪ですね。アメリカはなぜかラグビーからアメリカンフットボールになってしまいましたが。
 ラグビーのルールはどんどん変わっています。私が子供のころには、トライとコンバージョンで6点。それが今では7点でキックによるゴール二つでは並べなくなりました。ラックでは以前は脚でがんがんボールをかきだしていましたが今はそんな“野蛮”なことはしていません。反則による退場処分(シンビン)も以前はありませんでした。そしてこれからもルールは改正されていくでしょう。おそらくそこには「テレビ」の影響が強いはずです。私自身テレビでラグビーを観戦することが多いから画面に熱狂できるのは歓迎ですが、それがラグビーの本質を歪めることになるのだったらちょっと考えてしまいます。もっとも「ラグビーの本質って何?」ですが。

 


ジャイアン+スネ夫

2020-10-25 09:22:14 | Weblog

 知識人を嫌う存在として、たとえば「スターリン」「ナチスドイツ」「クメール・ルージュ」「中国共産党(特に文革の時)」などを私は思い出しますが、学術会議に対する態度を見ると現在の自民党の人たちも知識人を嫌っている様子です。だけど知識人ほどのインテリジェンスがないものだから、「ジャイアン+スネ夫」のやり口(強引な力の行使と底の浅い屁理屈)しかできていないのが残念です。

【ただいま読書中】『池の水ぜんぶ“は”抜くな ──外来種はみんなワルモノなのか』池田清彦 監修、月刊つり人編集部 編、つり人社、2019年、1000円(税別)

 テレビで池の水を全部抜いて「外来種」を退治する、という人気番組があります。本書ではそれに対して「外来種という言うだけで敵視して良いのか?」「外来種は本当にワルモノなのか?」「そもそも外来種の定義は?」という疑問から始まっています。
 たしかに外来種を「外来」ゆえに敵視するのは、移民排斥や民族差別につながるのではないかな、と私も思います。そもそも日本列島は地球の始まりから存在していたわけではないから、現在ここにあるもの(人間を含む)はすべて外来種のなれの果て、です。
 ただ、本書を読んでいて、どうにも「気持ち悪さ」を私は感じました。
 そもそもその「池」に「外来種」が存在するようになったのは、なぜでしょう? アメリカから空を飛んできて池に飛び込んだ?
 もちろんそんなことはなくて、人がその池に放流したから、です。で、放流の目的は「釣り」のため。つまり、ある個人が自分の趣味のために環境に人為的な影響を与えているわけ。それを無条件に許していいのかな? それが許されるのだったら、「自分の正義」のために破壊行為を行うテロリストも容認されちゃうことになりますが。これがたとえば「自分の私有地の池」に放流するのだったら、問題はないでしょう。問題になるのはその池が「その人のものではない」から。他人のものあるいは公共物に自分の「趣味」を押しつける権利って、どこから得たのでしょう? 本書ではそのことについては完全にスルーされています。そこが「気持ち悪い」のです。

 


日本人

2020-10-24 06:46:40 | Weblog

 「日本人は単一民族」説の人にとって、三浦按針の子孫は日本人なのでしょうか? ナチスの「先祖に一人でもユダヤ人がいたら、その人はユダヤ人」(ライヒ世襲農場法)と同じ発想かな?違うのかな?

【ただいま読書中】『三浦按針 ──その生涯と時代』森良和 著、 東京堂出版、2020年、2700円(税別)

 1564年は、ミケランジェロの没年であり、ガリレオ・ガリレイの誕生年でもあります。著者はこの時代を「ルネサンスから科学革命にうつっていく時代」と表現します。そして、この年に、ウィリアム・アダムスも生まれていました。
 大航海時代や宗教改革について、著者はゆるゆると解説をしていきます。ウィリアム・アダムズが育った時代に“(西洋人の)世界”がどのようなものだったか、を読者に知ってもらおう、というねらいでしょう。
 1564年の日本では、謙信と信玄の間で最後の川中島の合戦が戦われていました。桶狭間はその4年前のことです。当時日本にやって来ていたヨーロッパ人は、ポルトガル商人と宣教師でした。
 「三浦按針」は日本では普通に通用しますが、江戸時代の和書では「安仁」「安信」「安針」「案仁」などと表記されていて「按針」はありません。そこで著者は「アダムス」を用いています。さらに、アダムスが受洗したジリンガムのセント・メアリ・マグダレーン教会で「アダムズ」ではなくて「アダムス」であると確認もしているそうです。
 初等教育を受けた後、アダムスは12歳でロンドン近郊のライムハウスの造船所で12年間徒弟修行に入ります。そこでアダムスは、船大工よりも水先案内人(パイロット)に必要な天文学・航海術・幾何学などを学びます(このことは、後に日本でアダムスに会った宣教師が証言しています)。徒弟の年季が明けるとアダムスは小さな補給船の船長兼パイロットとして無敵艦隊との海戦に参加、ついでバーバリ会社(1585年に女王エリザベスの特許状で認可された40の貿易会社の一つ)に就職して10年くらいロンドン=モロッコ間の貿易に従事。その間に結婚をし、スペイン語やポルトガル語もある程度身に付けます。そこでオランダ「マゼラン海峡会社」の「東インド遠征隊」に参加します。この船団の目的は、マゼラン海峡を通過して太平洋に入り、フィリピン・日本に到達、帰りにはモルッカ諸島で香辛料を仕入れてまたマゼラン海峡に戻って帰国、という実に雄大なものでした。しかし航海は苦難の連続。大西洋にいる内から、壊血病・食糧不足・水不足・熱病・ポルトガル人との交戦などで犠牲者が続出。やっとマゼラン海峡に入ったときには、船団全体の1/5にあたる100名以上の死者が出ていました。そして、極寒のマゼラン海峡を抜けたときにはすでに230人近くが死亡。荒れる海で船団はばらばらになり、故国に帰れたのは一隻だけでした。
 太平洋に入ったリーフデ号は積み荷の毛織物が一番高く売れそうな日本を目的地とすることにします。メキシコ沖から真っ直ぐ西進、グアム島あたりで北に進路を変え、最終的に豊後に到着。ただしその時には、船はぼろぼろ、最初110人いたリーフデ号の乗組員で生き残っていたのは二十数名で、そのうち自力で立つことができたのは数人だけ、という悲惨な状況となっていました。イエズス会の宣教師たちはリーフデ号を「イギリスの海賊」と見なします。船を調べた役人は、交易の商品が少なく武器弾薬が大量にあったことから「良からぬ輩」と判断します。報告を聞いた家康は、船体を堺に回航することと、最も健康な船員を大坂に連行することを命じます。それはつまりアダムスのことで、彼は大坂で投獄されますが、やがて到着した他の船員とともに関東に移送されました。ちなみに、大坂で家康と謁見したアダムスは、ポルトガル人の通訳を介して会話をしています。
 家康は、リーフデ号の積み荷の武器を上杉景勝討伐に使いたかったようで、リーフデ号の関東移送を急ぎました。そのためには優秀なパイロットが必要、ということでアダムスは釈放されたようです。関ヶ原の戦いの頃にリーフデ号の生き残りは14人となり、仲間割れが生じて各人はばらばらになってしまいました。家康は皆に米や金を支給しましたが、アダムスは特に優遇しました。目的は西洋船の建造。船大工の経験を買ってのことでしょうが、まさに芸は身を助ける、ですね。船大工ではなくてパイロットだったアダムスは仲間(特にリーフデ号の船大工)と協力して、最初は80トン、次に120トン(あるいは170トン)の小舟を建造します。これに家康は大喜び。苦虫をかみ潰したのはポルトガル側やイエズス会。1609年に遭難して上総に漂着したスペイン船サン・フランシスコ号の乗船者と日本人商人など計100名以上は、アダムスが建造した第2船に乗ってメキシコに渡りましたが、この船はそこでスペインに買い上げられてメキシコ=フィリピンのガレオン貿易船として活躍しています。
 オランダがジャワ島やマレー半島に進出して商館を建設したことを知ったアダムスは、日蘭貿易の仲介もします。それを受けて家康はオランダの対日貿易を許可する朱印状を発行、数年後にオランダ船が平戸にやって来ます。オランダ人は皇帝(家康)に寵遇されているアダムスの重要性を意識していて、皇帝への橋渡しを依頼しています。v
 家康は浦賀で対スペイン貿易を開始、その対応のためにアダムスに三浦の領地を宛てがい旗本とします(逸見村の石高は220〜250石だったそうです)。やがてアダムスは平戸での対オランダ貿易の監督が忙しくなり、采地の返上を申し出ましたが、家康はそれを許さず、結局アダムスと日本人妻との間の息子ジョゼフが後を継ぐことになります(秀忠が安堵しました)。
 イギリスも対日貿易のために平戸に商館を建てますが、アダムスはなぜかそれを積極的に支援していません。イギリス人としては不思議な行動に見えます。また、イギリスへの帰国要請をアダムスは何回か行いそのたびに家康に拒絶されていますが、とうとう帰国許可が出たとき、アダムスはなぜか動きませんでした。これも不思議です。あ、動かなかった、というのは嘘で、イギリス東インド会社と契約を結んで臨時雇いの商館員となり、東南アジア貿易には何度か従事しています。だけどイギリスに帰国はしなかったのです。
 1620年にアダムズは死去。彼の最大の“遺産”は「鎖国下の日本とオランダの貿易」、そして「三浦按針という“名前”」でしょう。

 


政府による強姦

2020-10-23 07:44:04 | Weblog

 「誰が養ってやっていると思っているんだ」と言って妻に無理やり何かを強要する駄目亭主の行為と、「10億円も出しているんだぞ」と言って学術会議に何かを強要しようとする政府の役人たちの行為と、どこか本質的に違います? もしも駄目亭主が妻に対して望まないセックスを強要しているのだったら、政府も学術会議を強姦している、と言えそうです。

【ただいま読書中】『科学アカデミーと「有用な科学」 ──フォントネルの夢からコンドルセのユートピアへ』隠岐さや香 著、 名古屋大学出版会、2011年、7400円(税別)

 科学史の世界では、17世紀は科学革命、18世紀はアカデミーの世紀、だそうです。
 パリ王立アカデミーは「科学の有用性」を訴えることで、王と社会の支持を得ようとしていました。ただしこの「有用性」ということば、一筋縄ではいきません。たとえば「商業的な採算性」とか「軍事への貢献」といった実利的な貢献に科学アカデミーが関わることは実際にはとても少なかったのです。
 18世紀のフランス語で「有用性」とは、古代ギリシア・ローマの修辞的な伝統を背負っていて、たとえば「公共のために有用」の場合には「『公共善』を追求する、という高度に精神的な価値の次元を含んだ振る舞い」を意味していました。つまり「科学が公共のために『有用』か」は「高度に倫理的な『知とはいかにあるべきか』を述べるのに等しい意味合い」だったのです。科学がまだ社会の中での位置づけが曖昧だった時代に、科学アカデミーを結成し科学の「有用性」を問うことで、科学者は「科学」が社会で了解されるように活動していました。
 17世紀にホイヘンスを介して伝えられた科学アカデミー設立の提言では、数学・機械学・光学・天文学・地理学・自然学・医学・化学・解剖学・建築・彫刻・絵画・製図・冶金学・農業・航海術など、とにかく「学」のジャンルに属しそうなものは網羅的に挙げられています。まだ「科学」は“精製”されていなかったのです。
 17世紀にフランスでは様々な王立アカデミー(アカデミー・フランセーズ、絵画彫刻アカデミー、碑文メタルアカデミー、アカデミー・ド・フランス、オペラアカデミー、建築アカデミーなど)が設立されました。科学アカデミーの設立は1666年。「科学の研究」に対して、メンバーには年給が与えられ王室図書館で集会を開くことも認められました。しかし「金を出しているのだから」と政府による研究内容への干渉が目立ち、科学者の自由度は低下。しかも政権が変わるたびに方針が変えられます。1699年に規則が整備され、メンバーは「自然科学と技芸のみ」の研究に従事することが明記されます(文芸が排除されました)。このあたりから「科学」の「概念」が明確になっていきます。会員は「王権」に服することになりますが、これは逆に、他の貴族などからの干渉を排除できることも意味していました。
 王立科学アカデミーのメンバーの多くは平民出身でした。アカデミー・フランセーズがほとんど貴族で構成されているのと対照的です。平民の割合は時代とともに少しずつ低下しましたが、これは構成員が少しずつ貴族化していった、ということかもしれません。
 科学アカデミーが「科学は政治と宗教とは無関係」といういかに高邁な理想を掲げようと、有為の人材を国家が“活用”しないわけはありません。ただしそれは「個人」と「商務局」との契約の形を採りました。優れた科学者は科学アカデミー会員だから選ばれていたのではありますが、科学アカデミーが仲介しているわけではない、という形式を踏んでいたのです。もっとも「有為の人材」は職能同業組合にも存在していて、政府はそれをコントロールするために官僚機構を発達させていました。科学アカデミーの会員たちは「技術や物質面での貢献」と「思弁的で非実利的な知的活動」のバランスにこそ自分たちの存在意義がある、と自覚していて、そのバランスを取るためにいろいろと苦労をしていたようです。
 そして18世紀、科学アカデミーと国家の間に「有用性」をめぐって少しずつ「一致点」が生まれました。さらに18世紀は「大啓蒙時代」でもあります。科学アカデミーはそれまで「王」「貴族」「官僚」を見ていましたが、「公衆」も意識するようになったのです。
 1780年代、フランス革命が近づいてきます。この時代にアカデミー年誌に突然「エコノミー」という分類項目が出現します。そこには「公衆衛生」「財政問題」などが含まれていました。つまり(今の言葉で言う)「社会科学」が「科学のテーマ」として扱われるようになったのです。科学者は公共の福祉を意識するようになっていました。さらに「数学」が「科学の理想的な言語」として扱われるようになります。そしてフランス革命。科学者たちは「公共の使用のための科学の応用」を目指して動きます。おそらく科学(と科学者)の生き残りをかけての動きでしょう。
 科学アカデミーは「特定の政権」のためのものではありませんでした。もっと「大きなもの」のためのものを常に目指していたのです。


人気ブログランキングに参加中です。応援クリックをお願いします。

 


ベトナム戦争後

2020-10-22 07:17:13 | Weblog

 菅首相がベトナム訪問をしているニュースを見て、昔のベトナム戦争のことを思い出しました。ところで戦後、アメリカや韓国は「軍隊を派遣してベトナムの国土を破壊し人びとを殺したこと」をきちんと謝罪してましたっけ?

【ただいま読書中】『なぜ元公務員はいっぺんにおにぎり35個を万引きしたのか』北尾トロ 著、 プレジデント社、2019年、1300円(税別)

 「プレジデントオンライン」から「ビジネスマンが起こした事件の裁判の傍聴記を書いて欲しい」と依頼を受けた著者は、少し戸惑います。裁判冒頭の人定手続きでは「職業」は「現在のもの」なので、事件がきっかけで解雇されたビジネスマンは「無職」と答えることになります。だから「ビジネスマンの事件」かどうかは審理をきちんと聞き込むしかありません。しかしそうやってじっくりと裁判と向き合っていて、著者は、「犯罪者は自分とは無縁のもの」というのはただの思い込みで、自分たちだってふとしたことでいつ“あちら側”に行くかわからない、という思いを抱きます。また、裁判の手続きには「ビジネスにも通用しそうな手法」があることにも気づきます。ということで、本書は、ビジネスマンが犯した様々な犯罪と、それに至った「人間の物語」が集められています。
 「アルコール依存症」は病気であって犯罪ではありません。しかし酒を飲んで暴力を振るえば、それは事件です。すごいのは「刑務所に入ったら酒を断てる」とわざと犯罪を起こす人。ところがこの「犯罪」が居酒屋で無銭飲食、というのですから、アルコールをやめたいんだか飲みたいんだか。本人にとっては“最後の晩餐”ですから、多くの人は店の看板まで粘って飲めるだけ飲んでから「金はない。警察に突き出してくれ」と言うそうです。
 本書のタイトルの「元公務員がいっぺんにおにぎり35個を万引きした」事件。これは異様だったそうです。弁護士・検察官・裁判官が全員、被告をなんとか立ちなおらせようと熱いエールを送ったのです。さてその特殊な「事情」とは……本書をどうぞ。「心が優しい良い人」と「したたかさ」が両立しないのは普通のことですが、「良い人」が生きづらい社会って良いのか?という疑問も感じてしまいます。
 日本の刑事裁判では「被告は負けるもの」とほぼ“決まって”います。すると弁護人の役割は「いかに上手く負けるか」。これはビジネス場面でトラブルが生じたときに、板挟みになる中間管理職の仕事に似ています。ここでいかに上手く立ち回って「実刑」ではなくて「執行猶予つきの有罪判決」を勝ち取れるか、のヒントが、上手な弁護人の仕事ぶりから学べるのだそうです。ではその上にいる「管理職」が参考とするべきは何かと言えば、「(上手な)裁判長の説諭」。そして「良い会議」のためには、裁判員裁判が非常に参考になるそうです。
 著者は熱心に勧めてくれていますが、私も老後の自由時間が増えたら、法廷で傍聴、も選択肢になるかな、なんて思わされました。

 


高度成長期の社内結婚

2020-10-20 07:09:05 | Weblog

 高度成長期、日本の会社は「大きな家族」でした。すると社内結婚は、疑似近親相姦ということに? あ、だから寿退職が当然のこととされていたのでしょう。疑似とは言え近親相姦は社会的には隠さなければなりませんから。

【ただいま読書中】『犯人IAのインテリジェンス・アンプリファー』早坂吝 著、 新潮社(新潮文庫)、2018年、630円(税別)

 『探偵AIのリアル・ディープラーニング』で目立った言葉遊びが、続編の本書では目次から全開です。いやもう、遊ぶ遊ぶ。
 しかし、「AIのような人間」「人間のようなAI」だけではなくて別のタイプの人間やAIも次々登場、その中身について考えていると、頭が痛くなりそうです。
 「密室殺人事件」については、もちろんスジは通っていますが、ちょっと無理やりです。まあ「無理のない密室」を期待する方が推理小説の読者としては無理がある態度なのでしょうが。


人気ブログランキングに参加中です。応援クリックをお願いします。